ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2019年07月

2019年7月31日
fa-sutomann

「ファースト・マン」、ライアン・ゴズリング、クレア・フォイ主演
月に最初に到達したニール・アームストロングの物語。テスト・パイロットのニール(ゴズリング)は1962年NASAが公募しているジェミニ計画のパイロットに応募する。無事合格し妻のジャネット(フォイ)と家族を伴ってヒューストンへ。映画は激しい訓練や仲間との友情、家族との交流などをサイドストーリーとして描く。
 見どころはゴズリングの演技だろう。ニールはジェミニ8号の船長としてトラブルに見舞われるが、冷静な行動で機体ともども地球に変える。どんなときにも冷静さを失わない、不屈の男の役柄を見事に演じている。反面、家族(子供)との関係の不器用さなども演じ分けている。
 これは感動のドラマであるが、一方では宇宙競争はアメリカが世界のリーダーであった時代の産物でもあることも示している。今日のトランプ率いるアメリカは自国の事しか考えないエゴの国になり果ててしまったが、この映画を見るとケネディが導いた世界一の大国、アメリカの栄光が感じられる。これはおそらくトランプ批判を内に秘めているのに違いあるまい。妻役のクレア・フォイはじめ、わき役も渋い俳優で固め、面白く仕上がった映画だ。

2019年7月30日
人魚

「人魚の眠る家」東野圭吾原作、篠原涼子、西島秀俊主演

サスペンスと思いきや、内容はヒューマンドラマだ。
播磨家の長女瑞穂は長男の生人と従妹の若葉とプールに行く。付き添いは祖母(松坂慶子)であるが少し目を離しているすきに行方不明になり、やがて水底でおぼれているのが発見される。そして必死の救難活動で心臓は動いている。しかしほぼ脳死と診断される。播磨家の夫婦薫子(篠原)と和昌(西島)は医者から脳死判定を受けて臓器移植を暗に勧められる。しかし妻の薫子は一縷の望みを抱き長期脳死療養を選ぶ。播磨和昌は介助機能を司るロボットを開発製造する会社の2代目社長である。浮気がばれ薫子とは離婚の協議中という複雑な設定の中の事故だった。
 和昌は薫子を不憫に思い結婚を続ける。そして社内でANCという技術を一人開発する星野(坂口健太郎)に依頼して瑞穂の体が少しでも動くようにしてもらおうとする。ANCとは脳死している脳の代わりに人為的な信号を健常な筋肉に伝達して動くようにする技術である。期待にたがわず瑞穂の手足はその技術によって少しづつ動くようになる。しかし薫子はそれが疑似的でなく、本当に瑞穂の回復につながると思い込み異常な行動に走る。
 このあとにいわゆるサスペンス的な部分があるが、感動的なドラマに押し切られてしまうので、あまり面白くない。脳死は死なのか、脳死の人間を殺した時は殺人犯になるのかというのっぴきならぬ課題を私たちに突き付ける作品のはずが、そこが薄まってしまい、単なるお涙頂戴のメロドラマ風に仕上がってしまったのは残念。原作はどうだったのだろう?
 

2019年7月27日
サリエル

「サリエルの命題」、楡 周平著、講談社
サリエルとは12天使の一人で癒すものとして認知されているが、一方では死をつかさどる天使ともされている。現代人の体を守る医療やその制度はもろ刃の剣だということを言っておられるのだろうかと思われるが、大げさなタイトルの割には面白い本ではない。
 それはサスペンス性がほとんどないかあっても底が浅い。本書の80%は健康保険制度の問題、少子化の問題、移民の問題、希少な医薬品の配分の問題など政治的な課題などについての政治家同士の対話がほとんどである。まるでどこぞの政党のマニフェスト作りに参加しているような気分である。まさか参議院選挙に合わせて発売した意図がそこにあるとは思えないが!
 サスペンス性の乏しさはパンデミックのプロセスが限定的であり、全体にのんびり議論を繰り返しているだけだから、緊迫感が伝わらないというところにあるのではないか?小説と云うのは本書のようなメッセージを込めるということも重要だが、やはりエンターテインメント性がないと物足りない。期待外れの1作だった。なお、登場人物との対話が中心ならそのプロフィールを巻頭に載せておいてもらえればより親切だろう。

2019年7月26日

於:浜離宮朝日ホール(1階11列右ブロック)
HP加工済② 田部京子(C)

田部京子ピアノリサイタル/シューベルト+ 第5集
シューベルトを軸にその前後の時代の作曲家を並べたこのシリーズも5回目を迎えた。今回の軸になるのは当然シューベルトの13番だが、とても考えられた構成で楽しむことができた。

ベートーヴェン:ピアノソナタ第八番「悲愴」
シューベルト:ピアノソナタ第13番

シューマン:幻想曲

今夜のプログラムは全部通して演奏すると70分程度でまあ随分と省エネのリサイタルだ。入場口にも本日終了時間は20:45とも書いてあった。大体、田部のコンサートはアンコールも含めて21時ははるかに超すのが通例なので珍しい。台風のせいかとうがった見方をしてしまったが、全曲聴き終わって聴き手は(私は)もう無理と云うくらい音楽をたっぷり吸収したのだ。おそらく田部もシューマンを弾いた後は精魂尽き果てたのではあるまいか?これ以上何を聴きたいの?何が弾けるのと云わんとしているようだ。
 アンコールはあったがこれはごあいさつ代わり、グリーグの抒情小曲集からノクターン、シューマンのトロイメライの2曲だった。

 今夜のプログラムを聴くと独墺系の古典派からロマン派までの音楽の流れが良く理解できる。この3人の偉大な作曲家はそれほど時代が離れて生まれたわけではないが、出てくる音楽は相当違い、ピアノ音楽の変化が手に取るとるようによくわかる。
 最初の悲愴は序奏がいかにもベートーヴェンらしい壮大なものだ。田部の演奏もその流れを生かして重量感がある。主部に入ると軽快だがそれでももうハイドンの世界とは離れたベートーヴェンの世界を感じるのである。ベートーヴェン20代後半の曲である。そして次のシューベルトも遅い説をとればほぼ「悲愴」が書かれた年齢に作曲されている。そしてこれはまた随分とベートーヴェンとは違う音楽だ。特に2楽章。ベートーヴェンの高貴な2楽章とはことなり、どこを見ているのかわからない茫洋とした視線を感じさせる不思議な世界。後年の巨大なソナタや即興曲の世界が垣間見える。そして田部の演奏はこの最もシューベルトらしいこの2楽章が実に素晴らしい。音楽は沈潜するが、じじむさくないのだ。年を取れば幽玄な世界ともいえようか?しかし聴こえてくる田部の音楽は若者の夢の世界。「天井桟敷の人々」のバチストの夢を音にするとこうなるかもしれない。とにかくこの2楽章は短い音楽だがいろいろな想念がくるくると頭の中を駆け巡る。

 最後のシューマンも前期2作同様、作曲家20代の作品だ。これはまた、まるで違う世界の音楽。特に1楽章はここまで心情・情熱を音楽で吐露できるのかと思われる曲で、そのむせ返る情熱に演奏によっては辟易させられる。田部の演奏は感情過多にはならなく、比較的客観視した姿勢が感じられる。私のような聴き手はそれでほっとするのだ。私を含めた聴き手の平均年齢はかなり高いのでこの演奏を聞いてすんなりと受け入れられたのではあるまいか?熱演は3楽章で、じわじわと熱気を帯びる曲想は聴き手の胸をわしずかみにするだ。「幻想」を弾き終えた後、田部は精魂尽き果てたような姿勢を見せたが理解できる。
この曲はシューベルトに通じるものを感じるが、シューベルトはこれほどあからさまには心情を音化していないように思う。シューベルトにも「ファンタジア・幻想」というピアノとヴァイオリンの曲があるが同じファンタジアでこうも違うのかと驚かされる。
 さて、今夜聴いていて最も感銘を受けたのはシューベルトだ、特に2楽章は圧巻だった。

2019年7月24日
於:サントリーホール(1階16列中央ブロック)

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東京都交響楽団・第883回定期演奏会Bシリーズ
指揮:アラン・ギルバート(首席客演指揮)

モーツァルト:交響曲第38番「プラハ」

ブルックナー:交響曲第四番・ロマンティック

ギルバートの音楽性を強く感じる、素晴らしい公演だった。特にモーツァルトは大いに感動したし、楽しんだ。

 比較的編成が大きいモーツァルトだが、まったく肥大感がなく、颯爽と駆け抜ける爽快感たっぷりの演奏だ。この演奏を聞いて耳も心も洗われない人はちょっと気の毒だ。
 1楽章に特に特徴が出ている。序奏は構えが大きい。そして細かく表情をつけ、陰影が濃く、それまでのハフナーやリンツとは違う音楽だということをわからせてくれる。もうベートーヴェンの世界が近いのだ。
 すると、主部に入る。そこの世界はまるでフィガロやパパゲーノの世界、軽快感と爽快感が混ざり、音楽的快感が非常に大きい。特に展開部はどうだろう。久しぶりにモーツァルトの哄笑を聞いたように思った。3楽章も同様だが、ここは私にはもうベートーヴェンの二番の4楽章のように聴こえた。反復も丁寧に行い、充実した演奏だった。演奏時間は30分強。

 ブルックナーはモーツァルトとはまた違った趣だ。ニューヨークフィル時代を思い出したのだろうか?全体に明るく輝かしい。1楽章などは壮麗と云っても良いだろう。コラール主題は力こぶは入っていないが音楽がもりもりと盛り上がり、聴きごたえがある。コーダの管楽部の音の交差は音楽的快感といって良いだろう。ほかの楽章もそうだけれど、全体に緩急の差をつけているのがわかる。遅い部分はさらに遅く、速い部分はさらに速いのである。主題でいうと第2主題は遅くゆったりしているが、残りの2つの主題はスピードを上げて駆け抜けるのだ。こういうスタイルは久しぶりだが出てくる音楽は、そう外連味を感じるわけではなく、同系のバレンボイムより感情移入しやすかった。

 2楽章はヴェールをかぶったような弦楽部のサウンドが全体を支配し、1楽章の世界とは異なり、渋さを出していた。しかしクライマックスになると壮麗さがもやもやのなかから屹立する.素晴らしい効果だった。
 3楽章は中間のトリオは落ち着くが、スケルッォは一気に駆け抜けるスポーティーなばかりの爽快感。いい汗をかいたという印象だ。
 4楽章はさらに緩急がきつい、序奏と1主題の提示やコーダはもたれる寸前だが、都響も踏ん張って、伽藍を形成する。演奏時間は緩急の差やノーヴァク版によるためかハース版のカラヤンの演奏よりかなり遅い70分近い演奏だった。
 都響の演奏も評価できるがやはり金管とくにホルンの部分がいささか不安定であったことはちょっと残念。部分的には良いところもあるのだが、ムラがある。弦楽部はモーツァルトと比べるとそれほど増量していないが、充実していた。特に2楽章の響きはライブでしか味わえないだろう。

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