ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2019年06月

2019年6月22日
五輪

「悪の五輪」、月村了衛著、講談社
先日東京オリンピック2020のチケットの抽選があったばかりで、オリンピックネタには事欠かないが、本作は2020年ではなく前回の1964年のオリンピックを題材にした作品である。

 主人公は白壁組というやくざの一員、人見稀郎。戦争で学徒動員の兄を失い、両親も失った彼は戦災孤児で、たまたま映画館で出会った白壁組の親分に拾われてやくざになった男。映画好きで変人やくざと呼ばれている。組織の中でもちょっと浮いた存在であった。
 そんな彼に、オリンピック1964の記録映画の監督にある男を支援してもらえないかと、4代目の白壁組の親分から依頼があった。その男は錦田といって、知名度から云って2流の監督だった。そのころオリンピック映画の監督の本命は黒澤明だったが、本人が辞退して宙に浮いていたのだった。しかも天下の黒澤が辞退したのにそれを拾う馬鹿はいないとばかりに、一流どころの監督は皆しり込みしていたのであった。
 そんな中人見は錦田を担いで動き出す。本作の80%ほどは人見の孤軍奮闘ぶりを描く。ある時は政治家を担ぎ出す、部落活動家を担ぎ出す、やくざを味方につける、挙句の果ては児玉誉士夫まで登場。人見のその活動は挫折と成功の連続。実際は市川崑が撮影したわけだけれど果たして本作はどういう結末を迎えたのだろうか?

 オリンピックネタは時節柄注目を浴びるところだが、本作はそういう今日的な関心以上に面白くできた作品である。映画好きのやくざと云う設定が面白いし、その映画の監督の選抜の権謀術数がまた面白い。本作のユニークなところはかなりの人物が実名で出てくるところだろう。児玉誉士夫しかり、映画人では永田雅一や若松孝二なども登場、政治家では面白いところでは若き野中広務まで登場する。公明党の設立なども背景に据え、実話とフィクションが混在して錯覚に陥ってしまうような面白みがある。映画好きとしても興味深い作品だった。


ボローニャ2

2019年6月22日
於:オーチャードホール(1階12列左ブロック:実質は5列目)

ヴェルディ「リゴレット」、ボローニャ歌劇場来日公演
指揮:マッテオ・ベルトラーミ
演出:アレッシオ・ピッツェック

リゴレット:アルベルト・ガザーレ
マントヴァ侯爵:セルソ・アルベロ
ジルダ:デジレ・ランカトーレ
スパラフチーレ:アブラーモ・ロザレン
マッダレーナ:アナスタシア・ボルドィレバ
ジョヴァンナ:ラウラ・ケリーチ
モンテローネ:トンマーゾ・カーラミーア

ボローニャ歌劇場管弦楽団・合唱団

イタリアのオペラハウスの頂点はミラノ・スカラ座だろう。最初にスカラ座が来日した時の公演は今でも忘れられないイベントだ。しかしスカラ座に続くオペラハウスはどこだろうか?毎年日本にそういう団体が来る。もちろん良い公演もあるのだけれど、あのスカラ座で体験したような興奮のるつぼというような体験はしたことがない。その原因の一つは歌手だ。大体目玉に有名な歌手を入れている。例えば昨年のバーリ歌劇場にはメーリと云った具合だ。ところがこの目玉が機能しない公演が案外多いのであるメーリのマンリーコが良い例だし、もっと古い例はアラーニャがマンリーコを歌ったときだ。正直手抜きとしか言いようがない歌唱だった。

 さて、今夜のボローニャ歌劇の公演の良いところはそういう歌い手の手抜きが全く感じられないことだろう。ガザーレにしろランカトーレにしろ必死に歌っているのが通じる。今夜は前から5列目だけに表情や生々しい声がそのまま伝わってくるのだ。この歌手たちのひたむきさがとても気に入った公演だった。
 ガザーレはもう日本でもおなじみだが、リゴレットを聴くのは初めてだ。1幕は舞台全体が雑然として、合唱もやたら騒々しいせいかリゴレットもあまり印象に残らない。しかし2幕の「同じ穴の狢~」あたりから、幾分明るい、豊かな声が朗々と響き実に聴きごたえがあった。3幕の「悪魔め、鬼め~」急がせないテンポも良く、歌がきめ細かい。そして幕切れのジルダとの2重唱は圧巻、ランカトーレも負けじとばかり頑張るから、相乗でいかにもイタリアのオペラを聴いているという盛り上がりを感じた。この2重唱は繰り返されたから、会場は大いに受けた。
 ランカトーレももう日本ではおなじみな歌手だ。生ではないが(パリオペラ座の映像)ホフマン物語のオランピアを聴いたときは本当にたまげた。あれからもう10年以上たっているが、いまだに活躍している。今夜聴いてやはり幾分苦しげなところはないとはいえない。しかしここぞという時のパワーというか集中力はさすがとしかいいようがない。2幕の「グァルティエーレ・マルデ~」や3幕のリゴレットとの2重唱などは脱帽だ。
 アルベロという人は初めてだ。見た目は熊みたいで、マントヴァのイメージからは程遠いが声はまろやかで気持ちよい。1幕の「あれかこれか~」は少々輝かしさに欠けてつまらないが、2幕のジルダとの2重唱、3幕の「ほほに流れる涙~」、「力強い愛が俺を呼んでいる~」などは輝かしさもまし、力強く聴き堪えがあった。特に後者は最後を盛大に伸ばして大うけ。4幕の「女心の歌」も同様、ムーティだったら怒るだろうと思われるくらい伸ばしていた。有り余る声量は頼もしい。
 その他の脇は邦人でも太刀打ちできそうだが、このメインの3役についてはなかなか難敵だろう。
このリゴレットは次から次へと有名な曲が連なり、舞台に目を向けるのが勿体くらいだ。しかし今日のこの演出は正直言って目をつむって音楽に傾注していたくらいの代物。結局はそれはコストダウンのせいだろうかと思うのだが、いかがだろうか?

 演出のポイントはいくつかある。まず時代設定は現代だ。着ているものは男性はタキシード、モンテローネだけが白い正装。そして場所は、マントヴァ侯爵の宮廷ではなくまるでマフィアの巣窟。つまり婦女子を拉致・誘拐し性奴隷化させる犯罪集団の思わせる舞台だ。1幕ではモンテローネの娘が凌辱されている場面にモンテローネが登場するなんて場面がある。3幕の冒頭にも性奴隷化された女性たち、モンテローネの娘がコーラスの合間にパントマイムで表現する。
 リゴレットはせむしではなく、右手が不自由な男として描かれている。ときどきガザーレが興奮して開くはずのない右手が開いてしまうのが興ざめだ、と書き通りのほうがより屈折したリゴレットを表現できると思うが、これも時代なのだろう。
 ジルダはもともと箱入り娘だが、ここではさらに人形とままごと遊びをするような精神的に幼い人物像として最初は描いている。それが突如2幕後半で、マントヴァとキスするというのも唐突だがまあ設定はよくわかる。その他ではジョヴァンナが金の亡者のようでおかしい。ジルダを最初はマントヴァにそして2幕幕切れでは犯罪集団たち(ト書きでは貴族)に売り渡してしまう。マッダレーナは歌よりも容姿に目を奪われてしまう(申し訳ありません)。これだけ魅力的なマッダレーナは初めてだ。
 装置は簡潔でコストダウンに徹している。面白かったのは4幕のスパラフチーレの家だ。これはなんとミンチョ川に浮かぶ船(大型の古ぼけたボート)なのだ。まるでプッチーニの3部作の「外套」の舞台のようだ。おそらくそこからのヒントだろうと推察する。ジルダがどうその船に入るか心配になってしまうが、ちゃんと舞台後ろに入り口があるようでそこから入り、船室で刺されるというようになっていた。2幕のジルダの部屋には舞台左手に大きな扉付きの棚があり(それしかない)、そこに数十個のいわゆるフランス人形がある。ジルダが誘拐される場面は、この戸棚の中にいるジルダを外側から引きずり出すという乱暴な演出。リゴレットはその横ではしごをもって立っているという間抜けな設定。まあ初めてこのオペラを見た人には何が何だかわからないだろう。事実私の横の2人のご婦人は演奏中あれはなんだとかごそごそやっていたが、この演出では仕方がないだろう。最後に衣装で一言。3幕でマントヴァに凌辱されたジルダは下着姿のまま4幕に移行してしまう。そして男装で現れるべきジルダは下着姿で殺されてしまうと云うのはいくらコストダウンとはいえ、ちょっとひどいのではないだろうか?

 指揮のベルトラーミもはじめての人。イタリア人で劇場の経験が豊富のようだ。歌手に寄り添う指揮ぶりは堂に入っていた。ただ1幕は舞台の演出もあって音楽全体が騒々しくてあまり楽しめなかった。
有名な曲の部分のオーケストラの乗りと云うのはなかなかのものでおらが国さの音楽を楽しましてもらった。
演奏時間は127分(3幕幕切れの2重唱の繰り返し、拍手含む)


2019年6月20日
ボーダーライン

「ボーダーライン・ソルジャーズデイ」、ベニチオ・デルトロ、ジョシュ・ブローリン主演
原題は「SICARIO THE DAY OF SOLDATO」、前作のボーダーラインはメキシコのカルテルとの麻薬戦争を描いた力作だった。本作もなかなかの出来栄えだが、トランプを背景にしたアメリカの傲慢さが映像になった印象で、見た目は不快感を誘う。まあ娯楽作とみればよいが、あまりにも生々しいのでそう簡単には割り切ることを許してくれない作品だ。

 今回は麻薬ではなく密入国ビジネスである。これがカルテルの資金源となっているのだ。つまり密輸は失敗してもリピーターとなるので、いくらでもお金が入ってくるという寸法。映画はこのメキシコからの密入国とISISのテロリストと絡めている。つまりISISはカルテルと組んで自爆テロリストをアメリカに密入国させていると云うのである。それを拷問によって聞き出したCIAのマット(ブローリン)は前作でもSICARIO(暗殺者)のアレハンドロ(デルトロ)らと組んでカルテルの混乱を企画する。
 冒頭のスケールは実に大きく面白いが、話が次第にしぼんでくる印象なのは寂しい。それはISISのテロ集団が後半ではかき消えてしまって、単なるメキシコギャングとアメリカ兵との戦いに終始してしまったことだろう。そうはいってもデルトロの存在感は大きく、娯楽作としてはよくできている。デルトロらとカルテルの下っ端の少年とのめぐりあわせも挿話と合わせてみると現在の世相の活写といえよう。最も残念なのは前作でも存在感を発揮したエミリー・ブラントが登場していないことだろう。


2019年6月18日
れっら

「緋い空の下で」、マーク・サリヴァン著、扶桑社

イタリアを舞台にした、第二次世界大戦末期の、青年(少年)ピノ(ジュゼッペ)レッラのレジスタンス活動を描いたもの。ほぼ実話に基づいているようだ。著者がピノに出会い彼との面談に史実を加えて書いた作品だそうだ。

 ピノは17歳、ミラノに住んでいる。父と母、弟ミモ、妹チッチの4人家族で父親はカバン店を営んでいる。ピノは登山とジャズが好きな若者、身長が185センチもあるがまだひょろひょろ。彼がしらずしらずにレジスタンス運動に加わったのは、レ神父と云うアルプスのふもとにある村の、青少年対象の学校を経営している人物との出会いがもとだ。さらに言えばミラノの司教猊下シュスター神父によるものだ。そこではユダヤ難民を数人の単位でまとめてアルプス越えをして、スイスに送り込む運動をしているのだ。ピノはその登山とスキーの能力を買われて、リーダーとなってゆく。また近隣の村に住むレーサー志望の青年からドライブ技術を教わり、運転でも非凡な能力を発揮する。

 ピノそこで心身ともに鍛えられわずか一年で見違えるくらいたくましい青年に成長してゆく。しかしイタリアの徴兵制は18歳からなのでそれに彼は引っ掛かる。その当時もうイタリアはムッソリーニは傀儡となり、ナチが実質支配をしていて、イタリアの徴兵兵はロシア戦線に送り込まれることになっていた。ピノは不本意ながら志願兵となってミラノに残ることを選択する。そこで彼の運転技術や自動車整備能力を買われてナチのイタリア支配の総帥ライヤース少将の運転手となる。そこからたどるピノの数奇な運命が本書の肝である。
 ナチのイタリア支配の様が赤裸々に描かれ、歴史小説としても面白いし、ピノの成長物語として読むのも良いだろう、さらにはスパイ戦を描いたミステリーとして読むのも良いだろう。なかにはほんとうかいなとおもうことも描かれているが、事実は小説より奇なりだろう。睡眠不足必死の読み物だ。

2019年6月17日
千里



「千里の向こう」、箕輪 諒著、文芸春秋


幕末の志士、中岡慎太郎の生涯を描いたもの。坂本龍馬とともに、近江屋で暗殺されたが、歴史上は坂本龍馬のほうが名を残し、小説などでも絶大な人気を博している。それに反して中岡は少々影が薄い。著者はそういう中岡にライトを当てている。歴史小説が好きでよく読むが、題材は尽きないようだ。
 
 中岡はもともとは武士ではなく、百姓である。とはいっても大名主の跡取りで名字帯刀を許されている。武市半平太を信奉し武士ではないながら、勤王の志士として土佐藩の勤王党で活躍をする。勤王党が粛清された時に脱藩し、長州に近づき、諸隊を率いる。つまり各藩を脱藩してきた勤王の志士らで隊を編成したのである。それ以来長州の幹部、例えば高杉晋作、久坂玄瑞、桂小五郎らと近しくなる。
 性格は土佐のいごっそうを絵にかいたような人物として描かれている。何事も理詰めで信念を曲げない。我慢強い男として描かれ、そういう面が他の志士たちから一目置かれるようになる。
 一方坂本龍馬は武士だがいわゆる下士であり、祖先はもともとの長曾我部の武士である。ただ縁戚に商人がおり、農民的な着実な中岡に比べると、発想が商人的であり、また楽観的に描かれている。この二人あまりにも氏育ちが違いすぎて、最初は反駁しあうがやがてお互いの優れているところに共鳴し深く結びつき、薩長同盟の立役者になる。一般に坂本が薩長同盟をリードしたことになっているが、本書もそうだが、中岡の功績が大きいと証言する人々も多い。
 本書はこの二人を軸に、多くの幕末の志士たちを描くが、それぞれの人物描写にすぐれており興味深い。異色の英雄に的を絞った本書、なかなか面白かった。

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