ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2019年06月

2019年6月29日
於:日生劇場(1階K列左ブロック)
愛の妙薬

ドニゼッティ「愛の妙薬」、藤原歌劇団・ニッセイオペラ2019公演
指揮:山下一史
演出:粟國 淳

アディーナ:伊藤 晴
ネモリーノ:中井亮一
ドゥルカマーラ:久保田真澄
ベルコーレ:須藤慎吾
ジャンネッタ:石岡幸恵

藤原歌劇団合唱部、東京フィルハーモニー交響楽団
フォルテ・ピアノ:浅野菜生子

云ってはいけないのだろうが、日本人のみの公演らしい、演出、音楽、歌唱のすべてにわたって実にきっちりと作り上げた公演と云う印象である。2回の公演をダブルキャストで演じるというのはどうかとも思うが、会場費の都合でやむを得ないのかもしれない。そして、これも印象だが、例えば合唱団の動きや歌唱を見たり聞いたりしていると、これはなみなみならぬ訓練の成果だと強く思える。全曲聴き終わってもっと丁寧に聴けばよかったという思いが強いのだ。そういう意味では多くの人にそして「日本人のオペラなんて∼」と云う人には是非接してもらいたい公演だ。たったの2回の公演と云うのは正直もったいない。

 さて、とはいえ先日聴いたボローニャの印象があまりに強かったのでつい比べてしまうのは致し方あるまい。あのイタリア人たちの集中した時のあの声の魅力は相当なもので、さすがに今日の公演ではそのレベルには届いていないと思う。
 しかし、2幕の第8曲のジャンネッタを中心とした少女たちの合唱あたりから音楽の印象はガラッと変わった印象。それまでは破綻なく、そつなく、音楽は進んでいて、歌唱と歌詞と演技が一体とは感じられなかった。つまり悪く言えばドニゼッティの美しい音楽のメドレーを聴いているようで、粟國のいうトスカナ地方の農村に住む農民たちのドラマは描かれているとは思えなかった。ところが8曲あたりからソロの動きがギアチェンジされたようで9曲のネモリーノ、10曲のアディーナ、そして有名なネモリーノの「人知れぬ涙」、アディーナの12曲「お取りなさい、これであなたは自由~」~「厳しくしたのは忘れてね」などの歌唱はそれぞれ役柄の心情を吐露した見事な歌唱で、いずれもこころを動かされた。この部分だけで今日の元は取れた印象だ。要するにこの2幕の後半は1流の演奏と云っても間違いあるまい。

 さて、もう少し詳しく歌唱を見てみよう。伊藤のアディーナはキラキラと輝く声が魅力、2幕後半はそれに感情表現が加わり見事な歌唱だった。さらに高みをと云うならば全域での力強さだろう。
 中井のネモリーノはやさしい青年という「型」を歌唱で再現していて1幕などはそれなりに成功している。しかしそれを突き抜けたのは2幕の後半からだろう。ほとばしる熱情はま反対の表現だけに印象的で効果的。「人知れぬ涙」はしっとりとして、ほろりとさせられる。
 ベルコーレの須藤の歌唱も演技も見事なものだ。この自尊心の強い、威張り屋の軍人、演出にもよるのだろうが、大体オーバー演技の歌唱が多い中、今日は不快感を与えない程度にうまくバランスをとった歌唱はとても印象的だった。
 問題は久保田のドゥルカマーラではなかったろうか?1幕のカヴァティーナ「村の衆お聞きなさい~」あたりはよいが、2幕のアディーナとの2重唱「私は金持ち、お前はべっぴん~」のような少々ブッファ的な場面は妙に音楽を崩して、この公演のきちんとしたスタイルを崩しているように感じた。ブッファ的に歌うということは、歌唱まで崩してよいということではないと思うのだが?最後のドゥルカマーラの〆の部分も声に精彩がなくまったく盛り上がらないのは実に残念。
 ジャンネッタの石岡は特筆すべき。第8曲、9曲の歌唱は印象に残った。

 粟國のこの演出は彼の初めての演出だったそうだ。1997年の事だ。その後、再演を重ね、前回は2016年である。粟國は他の演出もそうだが、オーソドックスな演出だ。つまり理解不能な読み替えなどない。本公演もバスク地方と云う設定をトスカナ地方に移しているだけで後は基本的にト書きに近いのだ。装置も実物感があり、単なる張りぼてではない。本公演では2つの舞台が各幕一回づつ登場する(その都度の場面転換は煩わしいが)。いずれもトスカナの農家や商店を模したもので違和感はない。とにかく音楽に寄り添った演出と云うことで今日本人で最も安心してオペラを見ることができる演出家だろう。
 指揮の山下のオペラは初めてだ。全体に安全運転でもう少し切れが欲しい。特に1幕ではそう感じた。演奏時間は129分(拍手含む、場面転換含まず)
 藤原の合唱部の素晴らしさは特筆すべきものだ。隅々まで訓練、鍛錬されたという印象が強い。

2019年6月28日
女王陛下

「女王陛下のお気に入り」、オリヴィア・コールマン、レイチェル・ワイズ、エマ・ストーン主演
各種賞を受賞した話題の作品である。どろどろの宮廷劇でだんだん見ているのが辛くなるほどだ。スコットランド、イングランドの女王として君臨したアン女王だが、実態はアンの友人でモールバラ卿の夫人である、レディサラが政治の実権を握っていた。アンは病弱で(映画では痛風もち)、実際は肥満がはなはだしく車椅子が欠かせなかったようだ。フランスとの戦時下、サラは軍人の夫をもつということからか、戦争継続の積極論者であり増税も辞さない姿勢、たいして野党のハーリー卿(ニコラス・ホルト)は講和主義者。間に入ったアン女王は板挟みになる。
 そういった背景の中、サラの従妹である、アビゲイル・ヒル(エマ・ストーン)はサラを頼って宮廷に職を求める。アビゲイルはもともと貴族だったが、父親がホイストと云うトランプゲームにはまり財産を失い、自殺、アビゲイルは借金のかたに15歳で売られてしまうという悲惨な境遇を得てのサラへの接近だった。
 やがて、アビゲイルはアン女王の寵愛を受けるようになるが、そこからサラとの三角関係、ドロドロ関係となる。
 エマ・ストーンのアビゲイルが印象的だ。落ちるとこまで落ちた女のしたたかさと強さがにじみ出る。レイチェル・ワイズは押され気味。オリヴィア・コールマンは演技派を見せびらかせすぎの感あり。こういうドロドロ映画は好きでないので途中からは退屈だった。

2019年6月28日
fuuma

「風魔と早雲」、東郷 隆著、H&I
時代は応仁の乱後五年目の1483年(文明15年)から明応大地震のあった1498年(明応7年)までを描く。話の骨格は北条早雲の国盗り物語であるがそれに風魔の小太郎と云う幻術者・催眠術者が絡むところが本書のミソだろう。風魔の小太郎と云うのはどうも実在の人物らしいが、本書で描く術は創作だろう。小太郎と不思議な縁をもつ女幻術者’野分’の使う諸術の描写を読むと、これは歴史小説と云うより怪奇幻想小説ともいうべき独特の印象を与える作品だ。さらに面白いのは随所にちりばめるトリヴィアな解説である。人物や場所、建物など話の合間に出てくると司馬遼太郎のようにそれについての解説のような一節が必ず出てくるのだ。そして小説全体をさらに生き生きさせるのが当時の武士や庶民が歌い踊る、その歌についての引用である。
 主人公が北条早雲と風魔の小太郎と分割されるきらいがないとは言えない。また後半小太郎が早雲から離れた後は急に小太郎の影が薄くなるのも物足りないが、独創的な歴史小説として注目すべき作品であることは間違いあるまい。

2019年6月25日
都響
東京都交響楽団、第880回定期演奏会B
於:サントリーホール(1階17列中央ブロック)

指揮:クシシュトク・ペンデレツキ(1曲目のみマチェイ・トヴォレク指揮)
ヴァイオリン:庄司紗矢香

ペンデレツキ:平和のための前奏曲
ペンデレツキ:ヴァイオリン協奏曲第二番・メタモルフォーゼン

ベートーヴェン:交響曲第七番

前半はペンデレツキの作品から2曲。作曲家自身が指揮するという触れ込みであったが、体力的な理由でカヴァー指揮者のトヴォレク氏が振ることになったようである。
 1曲目の「平和のための前奏曲」は管楽器と打楽器のみで演奏される華やかなものだ。2009年初演されたもの。華やかで輝かしい音楽で、平和のためというより勝利の凱歌のような音楽であるが、非常に聴きやすい音楽ですぐ耳に入ってくる良さはあった。
 2曲目は大曲である。演奏時間40分以上を要し、しかも切れ目がない、1楽章形式なのである。どこから始まってどう流れて行くのか、初めて聴いて楽しむには少々難解な音楽だった。正直言って難行苦行だった。
 この大曲を演奏したした後、さらにアンコールを演奏する、庄司も大したものだ。バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ第三番からラルゴ。

 ベートーヴェンが始まると何となくほっとした気持ちだ。ペンデレツキ氏の自作の後ベートーヴェンと云うのは組み合わせとしてはどうかと思うが、作曲家が好きな曲らしい。
 これは重量級のどっしりした演奏である。悠揚迫らずとはこのことだろう。いささかもせかせかした部分はなく、音楽は雄大に、滔々と流れる。スタイルとしては伝統的な部類になるだろう。ピリオド奏法の導入から、ベートーヴェンの演奏は随分と変化したが、久しぶりにこういうスタイルで聴くとこれはこれでまたとても素晴らしいベートーヴェンだなあと、ベートーヴェン演奏の底の深さを改めて感じてしまう。ただ伝統的とは言ってもフルトヴェングラーにまでさかのぼることはない。あのように音楽を大きく振幅させることはないのだ。1~3楽章はゆったりとさせ、4楽章は少しギアを上げるというスタイルである。特に七番の交響曲はこういうスタイルのほうが興奮する。体力的に不安と云う当日の発表だったが、そういうことを感じさせない指揮ぶりだった。演奏時間36分。反復なしだからそうとう遅い演奏といえよう。
 都響の充実ぶりは特筆すべきもの。このようなテンポでも音楽はもたれないのはオーケストラの力もあったのだろうと推察する。先日の沼尻の「田園」とならんで久しぶりにベートーヴェンを堪能した。


2019年6月24日
於:オーチャードホール(1階13列左ブロック)

ボローニャ

ロッシーニ「セビリアの理髪師」、ボローニャ歌劇場来日公演2019
指揮:フェデリコ・サンティ
演出:フェデリコ・グラツィーニ

アルマヴィーヴァ伯爵:アントニーノ・シラグーザ
フィガロ:ロベルト・デ・カンディア
ロジーナ:セレーナ・マルフィ
ドン・バルトロ:マルコ・フィリッポ・ロマーノ
ドン・バジリオ:アンドレア・コンフェッティ
ベルタ:ラウラ・ケリーチ
フィオレッロ:トンマーゾ・カーラミーア
アンブロージョ:マッシミリアーノ・マストロエニ
士官:サンドロ・プッチ
ボローニャ歌劇場管弦楽団、合唱団

のっけから余談である。海外からのオーケストラやオペラの団体の公演のプログラムはできの悪いものが多い。ひどいものだと音楽はそっちのけで観光案内のようなものもあった。それなのに数千円もする。NBSのように会員になっていて全公演を聴いているとプログラムをくれるので良いが、今回のボローニャのように2公演聴いてもプログラムなどはなにもくれなくて配役表ぽっきり。
 参考までに国内はどうなっているかと云うと、ニッセイオペラは前売りを買うと大体プログラムはついている。藤原や二期会は原則有料だが、会員で、先行予約するとプログラムはついている。国内のオペラ公演のプログラムの内容はかなり優れていて、勉強になる記事が多い。

 まあ、そんなことはどうでも良いが、結局リゴレットの公演日にはボローニャのプログラムは買わず(2000円)しまい。そして今日、セビリアを聴いたわけだが、1幕聴いた後、指揮者とロジーナの経歴が知りたくてとうとう幕間で買ってしまった。しかしこれは非常によくできた内容で正直驚いた。オペラの解説はたった2ページだが簡にして要を得ているし、最も面白いのは指揮者や出演者のインタビュー記事である。それもおざなりではなく、実に音楽を聴くうえで参考になるのだ。これならもっと早く買っていればリゴレットをもっと注意深く聴けたろう。後の祭りである。それでも帰宅後、丁寧に読み直す。歌手たちが実に興味深いコメントをしているので面白く、珍しく2度読みをしてしまった。
 例えばフィガロ役のカンディアはオペラの役で容姿か歌唱力かどちらを選ぶのかと問いかけている。どうも歌唱力は二の次だというケースもあるということを云いたいらしい。
 これはどちらともいえない。役柄にあった容姿と歌唱力を、聴衆は求めるのは当たり前だが、両立する人は少ないのだろうか?たとえばカンディアは新国立で演じたファルスタッフはフィットしていたが、ちょっとまるまるしたフィガロではどうか?私は若きレオ・ヌッチが頭に浮かんでしまう。ただカンディアもロジーナは鯨みたいなおばさんでは困るといっているのだから、どうも本気なのか冗談なのかはよくわからない。でも最近はライブの映像化が多いので過去の音だけのレコードから比べると容姿がより求められるのは間違いあるまい。何が言いたいかと云うとこのプログラムを呼んでいるとそういうことまで考えさせられてしまうほど面白いのだ。会場には、たくさん余っていたので興味ある方はご一読を勧める。

 さて、本題に入ろう。おっと、その前に、プログラムを読んでいてもう一つ気が付いたのは、今回のボローニャの2公演の出演者、指揮者、演出家がほとんどイタリア人であるということだ。わずかにリゴレットのマントヴァ役アルベロ(スペイン人だがイタリアで活躍している)とマッダレーナのボルドィレバ(ロシア)の2人が外国人。特にロシア・スラブ系が一人しかいないというのは、最近のオペラ興行では珍しい。日本の新国立などはイタリアオペラなのにイタリア人が一人もいないという公演も散見されるくらいだ。特にセビリアはすべてイタリア人なので、純血種のイタリアオペラを大いに楽しませてもらった。

 今日の公演はシラクーザがアルマヴィーヴァを歌うことで性格が決まってしまったといっても過言ではない。2011年の藤原歌劇団の公演で初めてシラクーザのアルマヴィーヴァを聴いたのだが。まあその歌唱にたまげてしまった。普段録音ではあまり聴けない(アバド盤、パターネ盤ではいずれもカット)2幕の大アリア「抵抗するな~」(通常第17番)はまさに声の曲芸と云っては失礼だが、声がここまでの表現ができるのだという驚きだった。しかもこの部分をアンコールで歌ってしまうのだった。今日も同じだ。前もって知っていただけに気持ちとしてはまた始まったというわけだが、聴いていて結局シラクーザのマジックに捕らえられてしまった。もちろん月日の変化や私の記憶の薄れな度もあって、今回のほうが少し伸びを欠いているかなと云う印象だが、些細なことだろう。ただアンコールで手拍子を強要するのはいかがなものだろう。歌に神経を集中させたいものだ。1幕のリンドーロがギターでセレナーデを歌う場面もいつもと一緒でシラクーザの弾き語りで、途中からフラメンコ調になるのも一緒。わかっていてもつい笑ってしまう。もうこの役を340回もやっているのに毎回新鮮さを失なわないと云うのは驚異的なことだろう。ということで予想通りシラクーザ中心のアルマヴィーヴァ伯爵主演の公演だった。

 ロジーナのセレーナ・マルフィは初めて聴くが実に素晴らしいロジーナである。バルトリの高音をもう少し輝かしくしたと云ったらほめすぎだろうか?単なる箱入り娘ではなくその当時でいえば少々跳ね返りの令嬢と云った役を気持ちよく歌っていた。カンディアの云うようなクジラのおばさんではなく、容姿も美しい。
 カンディアのフィガロは少々重々しいかなあと云うイメージで聴き始めたが、途中から杞憂に終わった「町の何でも屋~」あたりから軽快感も出て体は少々重めだが動きも敏捷(渡辺直美のようだ)で歌も芝居も楽しかった。
 ドン・バルトロは歌は達者で楽しめたが唯一の敵役としてはもう少しあくがあっても良いかなとも思ったが、過ぎたるは及ばざるがごとしと云った公演もあるのでこのくらいでよいのだろう。その他バジリオ、フィオレッロ、ベルタなど脇もみなイタリア人で固め、すきのない歌唱で久しぶりに聴いたセビリア、とても楽しかった。

 指揮者のサンティは若い指揮者だ。そういえばリゴレットの指揮者も若かった。バッティストーニ以外にも若いイタリア人指揮者が台頭しているのだろう。
 今日のセビリアの序曲、えらく感心をしてしまった。まずそのテンポ。実にゆったりと味合わせてくれる。もちろんロッシーニクレッシェンドになればそれなりに加速はされるが、それも節度が保たれている。ようするに緩急をめたらやったらつけてはいないということだ。もう一つその響きだ。当然リゴレットの編成より大幅に小さくなっているので、響きは薄くなっているはずだ。事実、編成の少なさを感じ取れるさわやかな音の魅力を感じる。これはもしかしたら私の今日の劣悪な席のなせる業かもしれないが、音の微粒子が粒だっていて、非常に細かくさらさらして聴こえるのだ。これは実に気持ちの良いロッシーニサウンドだった。演奏時間は154分(第17番とその繰り返し、拍手などを含む)

 演出は先のリゴレットのような読み替えはないのでわかりやすい。ト書きと比べても大きな違和感は全くない。装置はどちらと云うとメルヘンチック、特に色使いがそうだ。例えば1幕の最初の場面。正面にはバルトロの家、2階建てである、色は薄いブルーとクリーム色の混ざったもの。家の手前中庭があって生垣に覆われている、正面には腰までの小さな白い門。
 1幕の後半から最終幕まではすべてバルトロの居室、これは緑を基調にした板を組み合わせて作った部屋。はりぼてながら居室とわかる。小道具はソファ、書見台、チェンバロ、バルトロの肖像、など簡潔で無駄のない装置だった。衣装は現代読み替えではなくおそらくロッシーニ時代のように思えた。
 平日のマチネーで後方席には空席も目立ったのは致し方がないことだ。通常より長い演奏時間なので夜の公演は無理だろう。

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