ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2019年05月

2019年5月30日
於:サントリーホール(1階12列左ブロック)

ライプチッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団2019年来日コンサート
 指揮:アンドリス・ネルソンズ

「ブルックナー・交響曲第五番」

ブルックナーの中でも巨大・堅固なこの第五番の交響曲はその割には構造的には実に論理的にできており、主題さえ追えれば、実にわかりやすいということに気づいてそれほどの時間はたっていない。

 ブログを開始して国内オーケストラでは7回、海外オーケストラでは2回聴いている。またCDでは昔からよく聴くのは、カラヤン盤、ヴァント盤、ティーレマン盤、ヨッフム盤、ハイティンク盤でこのうち一番落ち着くのはヴァント盤だが、ブルックナーを聴いたなあと云う気にさせるのは、ティーレマン盤でその間にカラヤン盤があるといった塩梅。いずれにしろ(ライブにしろCDにしろ)ほとんど凡演などあるはずもなくそれぞれ満足させてくれた演奏だった。

 さて、今夜のネルソンズ率いるライプチッヒの演奏、そういう古今の名演たちに勝るとも劣らぬ出来栄えで大いに楽しませていただいた演奏だった。というよりも感動した。それはけれんみのほとんど感じられない一聴さっぱりした味わいだが、ブルックナーのもつ巨大・強固な音楽建造物はすっくと屹立するという、相矛盾するような演奏と云う意味で、まったく新しいブルックナーを聴けたという思いがいっぱいである。これはまさに現代に生きるブルックナーの一つの典型と云える演奏だろう。

 1楽章の序奏部分は重々しい。印象としてはカラヤン風である。しかし第一主題の立ち上がりはその重々しさを引きずらない。一気に大伽藍を形成する。これからは随所にこういう場面が登場する。つまり重々しく、ゆったりした音楽が、緩急を突如変化させるというのではなく、ききてがその変化に気が付かないうちに変化して、異なる世界に到達しているということなのである。この不思議な音の流れはおそらくネルソンズの持つ演奏技術だろうが、私のような聴き手にはマジックとしか思えない、不思議な体験だ。要するに音の変化を「をけれんみ」を感じさせなくて行えるのである。
 第2主題だって遅いかと思っていたらいつのまに耳に気持ちの良い速度になっているのだ。わずかにコーダへの道で少し歩を早めるが、これもほとんど意識の外である、音楽はその通りに自然な流れなのだと納得させられる。だからこの最後の音が形成する大伽藍は異様に肥大することなく、ホールに屹立して、深い感動を聴き手にもたらす。

 2楽章は最も心にしみる演奏である。この演奏を聴いて胸打ち震えない方は今夜の会場にはおられないだろう。2つの主題は夫婦のように聴こえる。母が子を慈しむように音楽が聴き手を包み込む第1主題、そして、力強い父親に抱かれたような気持になるような第2主題。このように2つの主題は対比させられて演奏が進んでいるように聴こえた。特に第2主題のオーケストラの沈み込むような低弦は心を大きく揺さぶる。ところどころ聴こえる弦のピチカートはどこかで聴いた懐かしい音楽。それは「ばらの騎士」第一幕の元帥夫人のモノローグの場面の有限の時を恐れるような時計のチクタク云う音。しかしさらに聴いているとそれは、有限ではなく、悠久に続く大地に流れる、悠久の時間を提示しているようにも感じる。そして私のような老境に達した聴き手に対して、過ぎ去った過去を懐かしむ思いももたらす、そういう演奏のように聴こえた。誠に素晴らしい音楽であり演奏だった。

 3楽章は野趣のほとんど感じられないスマートなもの。展開部の舞曲風の音楽も田舎臭くないし、トリオもテンポが速くきりっとしている。2楽章の気分を打ち払い、壮大な4楽章へ向かう露払いのような音楽に聴こえた。

 4楽章は全くけれんみがない。コラール主題から展開部の二重フーガなど指揮者としては腕の見せ所だが、ネルソンズは音楽を自然な流れに載せて、妙な「いじり」を入れない。わずかに強烈なティンパニ(まず国内では聞けない、強烈!)が音楽の隈取をくっきりとさせる程度だ。そして2重フーガから再現部、そしてコーダへの道にも全く無理な動きがない。しかしだからといって無味乾燥な演奏だと云っているわけではないのだ。云いたいのは指揮者のプロセスをみせずに音楽を聴かせるということだ。コーダのスケールも素晴らしい。これより大きな音の演奏は他にもあるだろうが、これほど自然に築き上げられた大伽藍と云うのはあまり聴いたことがないということだ。演奏時間は77分くらい。ヴァントに近い演奏時間。ヴァントから武骨さを取り除き、都会的にしたようなといったらおこられるかな?


 オーケストラの音の素晴らしさは言葉にするのが難しい。ティーレマン/ドレスデンの時にも感じられたような音の響きが国内のオーケストラと微妙に違うところだろう。
 例えば今日の演奏でいえば1楽章の第2主題や2楽章の2つの主題、の提示から展開などである。今夜の座席は前から12番目で私としては比較的前のほうだが、オーケストラのサウンドはしなやかで、やわらかで、さわやかである。こういう音を毎日聴ける人は幸せだと思う。

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2015年5月29日

「吉田秀和」、文藝別冊・河出書房新社

副題が孤高不滅の音楽評論家である。先日丸善でレコード芸術を購入した時に、横に本書が置いてあったのでついで買いをしてしまった。

 本書は吉田とゆかりの人々のエッセイ、対談集であるが、同時に吉田の書いたエッセイも何篇か掲載されており、追悼本のような趣だが、初版発行は2019年5月である。

 エッセイや対談は面白いものもあれば、何言ってるのかわからないものもあり、かなり飛ばし読みをしてしまった。最も面白かったのは吉田自身の「イタリア通信」というエッセイだ。イタリアについての感想(感動かもしれない)を共感をもって読んだ。
 彼がこれを書いたのが1956年だそうで、実は私はもうすこし後の1974年にイタリア一周しておりその時に吉田がこのエッセイで書いたと同じような印象を私も持った。あの年はザルツブルグ~ルツェルンで3週間ほど過ごし、あと10日ほど日程に余裕があったので旅行社に相談したらミラノからスタートしてミラノにもどる12日間のバスツアーがあるからどうだといわれたのだった。料金は120ドルだったので
何とかなりそうだった。

 ミラノスタートでトスカナ中心のツアーだが、感動したのはアッシジやシェーナといった小さな都市の教会だった。さりげなくジョットの絵などがあり、またミサなどものぞけたこともあり、西洋のというより、ローマ時代からの悠久のイタリア半島の文化の一端に触れた思いでひどく感動したことを覚えている。フィレンツェの美術館やローマの名所旧跡も良かったが、私はいまなおイタリアと云えばトスカナのシェーナやアッシジの街を思い出す。吉田のエッセイを読んでいていまから40年も前のあの頃を思い出してしまった。

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2019年5月29日

「教養としての政治学入門」、成蹊大学法学部編

成蹊大学法学部、50周年記念の論文集として政治学の入門書を教授たちが手分けして、あたかも顔見世ののように、1冊の本にまとめようという試みである。

 政治学と云うと与党と野党との政争とか、派閥争いとかそういうちょっと言っては悪いが次元の低いテーマしか思い浮かばない、私にとっては実に広範囲をカバーする学問だと、まさに蒙を啓かれた思いである。

 12章に分かれていて、各章を一人の教授が書いている。それ故と云っては申し訳ないが、かなり各章ごとの読みやすさが異なる。それは文章の練度、要は政治学にもともとあまり関心のないものがすっとはいいっていってわかるように書かれているか、またテーマの選定がわかりやすいかによっての差異だと思われる。

 面白かったのは4章の国際政治、7章の政治外交史、10章のアメリカ政治、11章のヨーロッパ政治、そして12章のアジア政治だった。これは自分が歴史が好きだからだと思う。つまらなかったのは、行政学や、地方自治、比較福祉政治などだ。好みで興味有る章だけ読んでも、十分元が取れるはずだ。

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2019年5月28日

「菊とギロチン」、東出昌大、木竜麻生、筧 一郎主演

なんとも不思議なタイトルの映画。ロクヨンの瀬々敬久監督の作品である。ストーリーはオリジナルのようであるが、実在の人物も登場し、その時代感は色濃い。

 タイトルの菊とはヒロインの女相撲とりのしこ名「花菊」(木竜)からとられている。おそらく菊とは大日本帝国も表しているのだろう。舞台は関東大震災の直後、大正12年(1923年)である。そのころはまだ女相撲があって、東北地方を中心に数十もの団体があったそうだ。1960年ごろまでは興行を行っていたそうだ。花菊の所属するのは玉岩一座で、数十人の女相撲とりらの集団だった。
 花菊は姉の嫁ぎ先に姉の死去に伴って後妻に入るが、その相手がとんでもないDV男で、逃げ出して相撲一座に潜り込む。強くなりたい一心でけいこに励む。強くなってDV男から自由になるのが夢だ。そのほかこの一座には花菊のように夫から逃げ出してきた女や震災の時の朝鮮人の虐殺から逃れて来た女、琉球の女など皆何かを背負った女ばかりだ。

 映画タイトルの片割れのギロチンとはアナーキー集団のギロチン社を言う。実在の団体である。リーダーの中浜 鉄(東出)や古田大次郎(筧)らも実在の人物である。テロにより社会の転覆を狙って、自由平等の社会を目指すが、やってることと云えばブルジョワにたかって小金を略取すること。大杉栄のかたき討ちだと、威勢はいいが、失敗してどうも云うこととやることが違う口先集団。

 映画はこの2つの集団が邂逅する。この部分はフィクションだろう。アナーキストの中浜と古田、そして女相撲の花菊と朝鮮人の十勝川らが混ざり、これら若者の生きざまを描く。青春群像ドラマである。この映画の面白いのは先にも述べたが、大正12~3年という時代感が色濃く出ているところだろう。私はむしろそちらに惹かれた。
 第一次大戦の好況も終焉を告げ、世の中は不景気へ、そこへ追い打ちをかけるような関東大震災、そして干ばつによる不作、もう大恐慌は目の前であり、在郷軍人会による訓練も始まり、日本は軍国主義国家を目指し、次の大戦がもう目の前というそういう時代。しかしまだ戦時中の閉塞感まで至っておらず、若者たちには自由をめざすかすかな希望が持てた、最後の時代、映画はそういう舞台を私たちに見せてくれる。

 180分を超える長尺ものだが飽きさせない。万人向きとは言えないが面白く見た。

2019年5月26日
於:サントリーホール(1階11列右ブロック)

東京交響楽団、第670回定期演奏会、サントリーホール

指揮:ジョナサン・ノット
ヴァイオリン:ダニエル・ホープ

ブリテン:ヴァイオリン協奏曲

ショスタコーヴィチ:交響曲第五番

現代作曲家二人によるプログラム。サントリーシリーズの新シーズンのオープニングである。

 ショスタコーヴィチへのノットの気迫は並々ならぬものでそれは聴き手に強く迫ってくる演奏だと思った。ただそれが時には少々空回りしそうになる(しているとは云えない)ところがあり、油断してこの演奏に身を任すわけにはいかないところがある。この作品の持つ謎めいたところ、やけに通俗的なところ、民族的なところ、そしていろいろな引用などをどう表現するかが腕の見せ所というわけだろうが、あまりそれを露骨にした演奏は決して楽しい演奏とは言えないだろう。例えばきょうもひどく身構えた1楽章の最初の主題に対して、カルメンのハバネラの引用L'amour~の第2主題の少しねっとりした様はあまり気持ちよいものではないだろう。また1楽章の展開部で急激に音楽が大げさになるのもいかがなものだろうか?

 最も良かったのは3楽章だろうか?ここでの悲歌は聴く者の胸を打つのは作品の本来持つものだろうが、ノットはそれを十分再現している。しかしこの悲しみは果たして誰に対してかと云うとそう単純ではなく、世界大戦での犠牲者に対するものとショスタコーヴィチの芸術に対する深い悲しみがないまぜになったものに違いないが、ノットの演奏はあまりそういうことは関係なく、純音楽的に聴こえ、それはそれで十分満足である。ただ物足りなくもある。

 騒々しい4楽章も弦が非常に統制が取れており、それゆえ音楽が不気味なくらいで、特にコーダの部分は印象的である。マーラー風と云われている3楽章のせわしなさはどこからきているのだろうか?

 全体にこの演奏は構造的にメリハリが効きすぎている、つまり緩急の変化がとても大きい演奏のように感じられ、そういう意味ではとてもドラマティックな印象だが、それが今一つ胸を打つというレベルまできていないところは、作品の本質なのか、ノットの再現法のせいなのかはわからない。もっとも風邪気味で私の集中力はかなり低かったからかもしれない。東響は熱演だと思うが1楽章などホルンの切れが悪く少々印象が悪い。演奏時間は47分強。

 この曲はいろいろな能書き(政治的、引用など)を知る前は純音楽的に脳天気に楽しんでいたのに、いろいろな情報が入って聴いている昨今は今一つ感情移入ができないのは悲しいことだ。

 最近ショルティが1993年にウイーンフィルとライブ録音したものを聴いたが、これは昔何も考えず聴いていたあの時代をおもい出させてくれた、実に高貴な輝かしい演奏だった。これを耳に残しながら今日のノットの演奏を聞いたが、正直私には随分印象が違って聴こえ、あえていえば別の曲を聴いているようだった。

 ブリテンはほとんど聴かない曲だから何とも言えない。ブリテンで好きなのは「ピーター・グライムス
」と「戦争レクイエム」くらいだ。1楽章はブリテンの美しい旋律を味わえるが、そのほかはあまり印象に残らなかった。正直申しますと眠ってしまいました。家でCD(ツィンマーマン)を聴いていた時は案外良い曲だなあと思ったのだが、申し訳ないことをしました。アンコールはブリテンの同時代の作曲家(らしい)シュルホフのヴァイオリンのためのソナタからアンダンテ・カンタービレ。

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