ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2018年11月

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2018年11月30日

「オンリー・ザ・ブレイブ」、ジョシュ・ブローリン、ジェフ・ブリッジス、ジェニファー・コネリー主演

2013年のアリゾナ州、ヤーネル森林火災を題材にした、実話に基づく作品。
 主人公はエリック・マーシュ(ブローリン)、アリゾナ州のプレスコット市の森林消防隊の隊長、熱血漢である。アメリカの制度で、消防隊にもランクがあって、トップクラスが政府認定のホットショット隊という。マーシュの隊はタイプ2というワンランク下で、消化の前線には出られない。マーシュの夢はホットショット隊に認定されることだ。彼の妻がアマンダ(ジェニファー・コネリー)で負傷した馬のケアを仕事?にしている。マーシュの隊には彼を含めて20人いるが、その中でも副主人公なのがブレンダン、麻薬常習者で前科一犯、まあ立ち直り劇を添え物にしている。またプレスコット市の防災部長デュワイン(ブリッジス)はマーシュの支援者。彼の助力によって、マーシュの隊はホットショットに認定される。グラニット・マウンテン・ホット・ショット隊と呼ばれる。

 2013年、プレスコット市から50キロ離れた、ヤーネルで森林火災が起き、彼らは出動する。そして運命の事件が起きる。
 カリフォルニアでつい先日大惨事があっただけに、大変臨場感のある映画だった。ただこれを見ていると時系列が不明なため、年がら年中山火事が起きているように見えるのだが、実際もそうなのだろうか?
 マーシュ夫妻の関係が緊急出動の多い消防隊の献身的な活動を浮き彫りにしている。それにしてもアメリカの夫婦と云うのは面倒くさいもので、年がら年中「愛しています」といわなくてはいけないようだ。ちょっとしつこいようだが、本当はどうなのだろう?〆

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2018年11月28日

「アルカディア」、アーロン・ムーアヘッド、ジャスティン・ベンソン

アメリカのおそらく辺境地帯を舞台にしたカルト集団もの。このような仕立ての映画は最近では「トライアングル」がそうだ。あれは場所がモンタナ州のラグアロクに住むカルト集団の話。そこへカメラマンが密着取材するという話。やがてその集団には異常現象が起こる。

 本作も似たようなもので、二番煎じとは言わないが、このようなものをアメリカ人が好きなのだろう。それだけ現実逃避したいということか?アメリカ社会の現状を投影したものといえようか?
 二人の主役が監督とシナリオを書いている。そして二人はファーストネイムが実名で登場する。アーロン(ムーアヘッド・弟役)、ジャスティン(ベンソン・兄役)兄弟である。二人は10年前死のカルト集団というところから脱走して、今は友達もなく貧困の中かろうじて生きているというありさま。兄は脱走当時新聞に書き立てられ、カルト集団についてあることないことをしゃべっている。弟はまだ10代での脱出だったので、集団での生活にあこがれている。今の、食べる者にも事欠く生活から逃げ出したくて、兄にカルト集団に戻ろうという。兄は弟の不安定な心をおもんぱかり、一泊だけだと云い集団に戻る。

 裏切り者にもかかわらずジャスティン兄弟は受け入れられる。しかし不思議なことに10年もたっているにもかかわらず、リーダーのハル、その友人のアナ、唯一の収入源のビールを作っているティムらは全く年を取っていないのだ。この集団は自殺集団ともいわれているとジャスティンは告白しているが、それを確かめるべく密かに探索するが、そこには恐るべき秘密があった。原題は「エンドレス」、ネタバレにはなるが永遠のこのような生を人間は求めているのだろうか?奇妙な映画だった。

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2018年11月27日

「大統領の陰謀」、ボブ・ウッドワード&カール・バーンスタイン著、ハヤカワノンフィクション文庫

「大統領の陰謀」は云わずと知れた、ウォーターゲイト事件に端を発したニクソン大統領の弾劾事件を描いたものである。原題は「ALL THE PRESIDENT’S MAN」である。実は私はこの作品を読むのは、この早川書房からの新装版が初めてである。ロバート・レッドフォードとダスティン・ホフマンが主演した映画のほうをずっと見ていて、ノンフィクションでこれを読むのはしんどいなあと思って避けていたのである。しかし今回本書を読んで、この二人のワシントン・ポストの新米記者(特にウッドワード)のインタビュー、調査のプロセスの緻密さに驚かされる。推論と確認の連続である。最近でこそ、わが国でもこのような丹念な調査の積み重ねのノンフィクションものが枚挙のいとまがないほど、出ているが、この当時は実に新鮮だった。
あの当時日本では唯一匹敵するのは立花隆氏の「田中角栄の金脈研究」のみだろうと思っている。

 さて、映画ではホールドマンの記事のミスの後はタイプライターで事件の顛末を描いて終わりだが、本作は大統領の弾劾まで書かれていて、気分的にすっきりする。ノンフィクション作品の最高峰として実に読みごたえのある本である。
 なお、余談だがディープ・スロートはFBIの副長官だったということが最近分かりすでにリーアム・ニーソン主演の映画(シークレットマン)まで作られて公開されている。この映画もなかなか面白かった。

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2018年11月25日
於:新国立劇場(1階6列中央ブロック)

新国立劇場公演
 ビゼー「カルメン」

指揮:ジャン=リュック・タンゴー
演出:鵜山 仁

カルメン:ジンジャー・コスタ=ジャクソン
ドン・ホセ:オレグ・ドルゴフ
エスカミーリョ:ティモシー・レナー
ミカエラ:砂川涼子
スニガ:伊藤貞之
モラレス:吉川健一
ダンカイロ:成田 真
レメンダート:今尾 滋
フラスキータ:日比野 幸
メルセデス:中島郁子

合唱:新国立劇場合唱団、TOKYO FM少年少女合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー管弦楽団

つい最近、奇妙な「カルメン」を見た。それは2017年のエクサン・プロヴァンスの公演であった。クラシカ・ジャパンで放映されたものだ。それは現代への読み替えの演出だった。しかしことはそう単純ではなく、なんと演劇セラピーの手段としてカルメンが使われているのだ。初めて聞いたが、演劇セラピーと云うものがあるらしい。要は心の病を、芝居をを演じることによって癒すものであるらしい。この演出では、精神科を訪れた中年の夫婦、亭主が心の病で、何の気力もなくなっている。医師は「カルメン」を勧める。その亭主にドン・ホセを演じさせると云うのだ。奥方はミカエラだ。最初は気乗りしなかった、ドンホセ亭主は、次第にその役にのめりこんでゆく。そして生きて行く気力を取り戻すという話だ。オペラコミック形式だが、かなり台詞の部分の改ざんがはなはだしい。日本でもフィリピンに舞台を移した「カルメン」が芸劇オペラとして上演されたのは記憶に新しい。その他名曲だけに手を変え品を変え、「カルメン」をいじる。

 さて、今日の鵜山の演出を初めて見たのは2010年である。今回が4回目だ。新国立ではこの十年で今回を含め8回の公演が上演されている。鵜山の演出はそのうち5回である。彼の演出は過去のブログにも書いたように。全く奇をてらわない。ごくごくまっとうな演出である。今回5回目だが、まったく飽きがこない演出といえよう。しかし、私には見るたびに何か新しい発見がある。今回改めてみて、この演出は人の動きや、表情など随分とリアルだなあと感じた。たとえば、1幕でいうとカルメンと女工との乱闘シーンである。多くの女工が入り乱れて争うが、その動きが真に迫っている。カルメンが脱走する幕切れもそうだ。2幕のリリャス・パスチャの酒場のけだるい雰囲気も実にリアルだし、エスカミーリョの登場シーンの劇的な盛り上がりも迫真ものである。2幕の幕切れも群衆とカルメン、ドン・ホセ、そして山賊たちの動きが的確であり,きたるべき悲劇を予言した、実に劇的なものである。いずれも実に多くの人々が舞台に乗るが、それらの人々の誰一人無駄な動きがない。すべてこの劇的な悲劇に貢献した動きになっているところに、リアリティを感じるのだ。

 改めて、装置を見ると実にシンプルだが、幕ごとに全く異なる情景を見せてくれる、創意と工夫が感じられる。基本形はステージに向かって広がったコの字型の巨大な壁である。左右の壁にはそれぞれいくつかの窓というか、穴というか空間がある。それだけである。それに装飾をしたり、舞台上に小道具を置いたりして、ある時はリリャス・パスチャの酒場になり、ある時は山賊の巣窟になるというわけだ。

 さて、音楽に入ろう。2017年の1月の新国立劇場の公演でマクシモワ/ジョルダーノのカップルで聴いたカルメンが私の「カルメン」体験で、忘れられないものだが、今回のキャストもそれに勝るとも劣らないパフォーマンスになっている。
 まず、カルメンのコスタ=ジャクソン、イタリア生まれのようだが見た目がもうジプシーのよう、すらっとして、小悪魔と云うより、野性味あふれる美女と云うべきか?歌唱もそれにフィットした魅力あるもの。特に1幕のハバネラとセギディリアは特筆ものの素晴らしさ。極限のエロスといって良かろう。声は下から上までのびやかで、高音にもストレスがない。余裕のある歌いっぷり。マクシモワとは対極のような「カルメン」だと思うが、これは日本ではそうざらに聴けるカルメンではあるまい。演技もうまい。例えば両手を縛られて椅子に座ってセギディリアを歌うが、片足をテーブルに乗せながら、スカートを口で咥えて、少しまくるのだが、その仕草がセクシーなのである。彼女の工夫ではないかと推測するが、ホセがころっとしてしまうのは、当然だろうと思わせる。

 ホセは1幕では田舎者のおぼこい青年だ。いかにも純情そうにミカエラとの2重唱を歌う。鵜山の演出だろうが、毎回3幕以降、ホセが変身するのだ。ホセが恋に狂った、無分別な男になるのだ。ドルゴフは見ためもそういう役柄にふさわしく、歌唱もジョルダーノに負けていない。特に「花の歌」は最後まで浸透力のある声で歌い切って立派。ミカエラとの2重唱では最後のファルセットがうまくいかなかったが、3幕、4幕の幕切れの悲劇性はうまく歌っていた。

 エスカミーリョはこれも演出通り、かっこいいスターといった役回り。特に登場シーンは歌も演技もかっこいい。ミカエラは1幕の2重唱が素晴らしい。声も演技も、いかにも純情そうな村娘といった風情。3幕では少し強い女を意識しすぎのようで、その純情さが薄れて聴こえたのが今一つ物足りない。

 その他邦人では、山賊団のモラレスとダンカイロが素晴らしい。海外勢と比べても全く引けを取らない見事な歌唱だ。それとモラレスの軽い歌いっぷりが印象に残った。合唱は子供たちを含め、舞台を盛り上げていた。

 タンゴーの指揮は序曲から無暗に音楽をあおらない、派手さはなく、まっとうなもの。幾分速いテンポで駆け抜けるのが、かえって悲劇性を感じる。レチタティーボ付きのギロー版、演奏時間は153分。ただし3~4幕の場面転換も含む。

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2018年11月24日
於:日生劇場(1階K列中央ブロック)

ニッセイオペラ2018、モーツァルトシリーズ

「後宮からの逃走」

指揮:下野竜也
演出:ギー・ヨーステン

コンスタンツェ:松永知史
ブロンデ:冨平安希子
ベルモンテ:金山京介
ペドリッロ:升島唯博
オスミン:加藤宏隆
セリム:大和田伸也
合唱:二期会合唱団
管弦楽:東京交響楽団

モーツアルトのオペラ中での、演奏される頻度の少ない曲だ。2016年のニッセイオペラ/二期会以来のライブである。私の体験ではそれ以前と云うと1974年のザルツブルグまでさかのぼらねばならない。
 2016年の再演かと思いきや、今回は全く違う演出、舞台だ。先回のニッセイオペラの「コジファントゥッテ」でも思ったがのだが、このニッセイオペラというのは再演と云うのを考えていないのだろうか?1回しかやらないんだから、一発芸だからという思いは主催者側、つまり二期会にはあったのか、なかったのか?
 今回は正規のジングシュピールの形をとって、せりふは大和田伸也のセリムの一部分をのぞいてドイツ語である。2016年はせりふの部分はすべて日本語だった。あの時はセリムは宍戸開だった。どちらがよいかはそれぞれ意見があろうかと思うが、歌ならともかく、せりふを日本人同士がドイツ語でしゃべりあうのはどうも聴いていて照れくさい。かといって日本語のセリフが歌の場面になると急にドイツ語になる唐突感も気になる。難しいところだ。

 さて、今日の演奏は、非常にきちんとしたモーツァルトという印象だ。正装して聴かなくてはいけないのではないかと思わされるほどだ。しかしこれはこれで一つのスタイルだろうが、はたしてこのオペラにこういうスタイルがあっているのかという面では疑問である。モーツァルトがザルツブルグ大司教や父親からの軛から解放されて、単身ウイーンに乗り込んで書いた最初のオペラ,しかもドイツ語のオペラだ。コンスタンツェとの結婚も控えている。要するに彼の人生の絶好調の時の音楽なのだ。それにしては下野の指揮は覇気がなさすぎやしないだろうか?タイトルにあるようにトルコの太守に誘拐された恋人を、貴族の身分をなげうって単身救いに来る、ベルモンテの物語。さらわれた3人も、救いに来るベルモンテも何か追われているという焦燥感と云うものがあるはずだ。それが今日の音楽には全く感じられない。のんびり、まったりとギャラントなモーツアルトの音楽が流れている。もうひとつ、この音楽はトルコ風と云うのが一つの特徴で、シンバルやピッコロ、太鼓や、シンバルなどがにぎやかに奏されるが、それがすべて大人しい。これはもっと派手にパンパンやるべきだと思うのだが、指揮者には考えるところがあったのだろう。演奏時間は121分。

 歌い手はデビューの歌手もいて、初々しい。そういう面では若い人たちが主人公のオペラなので、ふさわしいキャスティングだと思う。ただし見た目ではそうだが、歌とくると見た目通りにはならない。
 コンスタンツェの松永は二期会デビューだ。ころころと鈴を転がすような声は魅力である。しかしどうしても力がない。例えばこのオペラで最も聴かせどころの2幕のアリア11番「ありとあらゆる拷問が~」は高音から低音までエレベーターのように昇ったり下ったり、駆け抜ける、超難曲だ。しかしここでの歌唱はコンスタンツェの強い気持ちを歌い切るパワーがない。低音はか細く、途中息が切れ、高音は絶叫に化す。ムゼッタとかパミーナ、スザンナなどを持ち歌にしているようだが、少しこの役はきついのではなかったろうか?
 その他の歌手ではオスミンがなかなか良い。今日聴いていて出番がずいぶんおいいんだなあと改めて感じた。バスというより少し明るいがいじられ役としてはふさわしい声ではなかろうか?
 ペドリッロも軽妙さもあって好演、ブロンデは声の質が柔らかくてとても魅力的だが、高音になると少し苦しくなるのが難点。
 ベルモンテの評価が難しい。声質としては、気品のある貴族という役柄にあっているだろうが、このモーツアルトのオペラにつけられた音楽の軽やかさについて行けたかどうか、部分的には不満が残った。1番のアリアを聴いてまずそれを感じてしまったので、そういう耳になったかもしれない。
 幕切れのヴォードヴィルの場面も、喜びに満ち溢れた歌唱には聴こえなかったのは不思議なことだ。

 しかし、このあまり演奏される機会のないオペラを聴けたということは非常にありがたいことだ。歌い手の熱演ぶりについては素直に認めたい。
 なお、セリムの大和田はすこし気取りすぎてはいないか?妙な間がまだるこしい。それと日本語とドイツ語がちゃんぽんなのもいかがなものか?どちらかに統一すべきだろう。

 演出はベルギーの方らしい。「コジファントッテ」と同様読み替えである。読み替えの弊害はもう何度も訴えているので今日は書かない。
 舞台は現代である。1幕コンテナのようなものが置いてある。それが開いたり閉じたりして人が出入りする。オスミンとその家来はガードマンである。セリムの登場はこのコンテナが開くとそこにはひな壇があって、そこにセリムやら、後宮の女たちやら、ガードマンがいるという仕掛け。ここでの合唱と管弦楽は元気がなく、お葬式のようだ。セリムは背広を着て、まるでマフィアかやくざの親分のようだ。
 2幕、後宮の浴室の場面、この場面だけがトルコの後宮風の作りになっている。まあ一貫性がない舞台だ。次の場面ではこの浴室がセリムの部屋になってセリムがコンスタンツェをくどく。応接セットがあってセリムがコンスタンツェにプレゼント攻撃をする。その後この部屋でオスミンがペドリッロにすすめられて禁断の酒に手を出し酔っぱらうシーンがコミカルの演じられる。四人の再会の4重唱もこの場で歌われる。全体に場面転換はこのコンテナが開いたり閉じたりするだけだからスムースである。

 3幕は初めて宮殿風になる、舞台全体は金色で覆われ、正面は手前から奥まで階段が昇っている。四人が脱走するがこの階段で捕まってしまう。初めて見た人は脱走なんだか、旅立ちなんだかよくわからないだろう。捕らわれた四人は、コンスタンツェとペドリッロ、ベルモンテとブロンデがそれぞれ手錠をかけられる。カップルが入れ替わるのはどういう理由か、終わってもよくわからない。「コジファントゥッテ」のパクリか?。余計なことをするものだ。セリムが四人を解放した後金色の30センチ四方の箱をお土産?として渡すが、いかなる理由かこの箱をみんながパスしあう。これも最後まで意味不明。まだまだへんてこりんな演出はあるがもう面倒だからやめた。普通にトルコのハーレムを舞台にしてくれればそれでいいのに、無駄な労力をかけたものだ。

 

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