2018年10月29日
於:サントリーホール大ホール(1階16列右ブロック)
2018・内田光子来日ピアノリサイタル・シューベルト・ソナタプログラム
シューベルト
ピアノソナタ7番(D568)
14番(D784)
20番(D959)
以前にも書いたが、シューベルトのピアノ曲に最初に触れたのは、私が還暦になる数年前の事だと思う。シューベルトのソナタや即興曲などが9枚のCDに納められたボックスがえらく安かったので、どの曲も初めて聴く曲だったが聴いてみた。それが内田光子の演奏だった。彼女の20年以上前の録音である。それはハンス・イッセルシュミットのご子息のエリック・スミスが録音を手掛けたもの。場所もこだわりがあってウイーン・ゾフィエンザール。
それから10年以上もこのCDを聴き続けている。その間バレンボイムの新盤やポリーニのものを聴いてきたが、結局シューベルトと云うと内田のCDを取り出してしまう。今日の3演目のうち20番は過去来日した時に聴いているが、今回は7,14,20と4,15,21の2つのプログラムを引っ提げての来日だ。最近よく聴く14番と、死の年に書かれた3曲のちょうど中間の曲、20番が聴きたくて29日の公演を選んだ。
日本ではCDのタイトルにソナタの番号が入るが、輸入盤だとD番号しか入らないのはいかなる理由なのだろう。習慣で通し番号で覚えているのだが、時折きどって日本の評論家もD番号しか表記しないときがあるが、そういう時はこちらの頭がついて行かなくて、あのD番号は通しで何番だっけと、翻訳しなくてはいけない。まあこちらも気取ってD何番とスラスラ言えればよい話なのだが!まあこれは余談。
さて、今日の公演サントリーホールの大ホールは満員である。女性の聴衆が圧倒的に多いのは毎回の事だろう。
今日の3曲、演奏時間は、私が聴いてきたCDとそう大きく変わらない。14番と20番がCDよりわずかに遅いくらいだ。しかし聴いた印象はその時間差以上に随分と長い演奏だなということだった。特に20番はそういう印象が強い。全体を通して言えば、これは彼女の演奏の起伏がCDよりも大きいことに起因しているように思った。つまり静と動,強と弱、緩と急の振幅が大きいのである。それは一つの楽章の中でもそうだし、楽章間でもそうである。例えば14番の1楽章の2つの主題の対比はすさまじく大きい。第2主題は全くの沈黙から消えなんばかりの小さな音で立ち上がってくる。あまりに繊細なのでこれは私の耳のせいなのかと思ったくらいである。しかしこの2主題が次第に明確になってきたときのなんとさわやかなことだろう。対比の意味が分かった。
20番では1楽章と2楽章の対比が大きい。1楽章は巨大な第1主題が印象的だ。ここでの圧倒感がこの曲を支配するかと思ってしまうが、2楽章になると音楽はずっと沈み込み、遅く、沈鬱で、不安だ。ムードが全然変わってしまうのだ。そして中間の嵐が1楽章の1主題の雰囲気を出すが、しかしここでは悲壮感が漂い一層不安になる。1楽章の2番目の主題が明るく、楽天的に奏されるだけに、1楽章と2楽章との対比はとても大きく感じる。今夜の演奏はこういう対比が至る所にある。もちろんこれはシューベルトマジックによるところが大きいだろうが、内田はそれを今まで以上に強調してはいなかっただろうか?
正直言って、アンコールにモーツアルト(ソナタ10番の第2楽章)を弾いてくれて、ほっとした。シューベルトを3曲聴いてぐったりしているところだったからだ。こういうシューベルトも良いが肩ひじ張らないシューベルトも聴いてみたいなという思いも無きにしも非ず。
想像だが、この大ホールでの演奏が曲者ではないかと思う。ピアノは紀尾井ホールとか浜離宮ホールとかで聴きたいというのが本音。20番の2楽章の繊細な音のグラデーションはそういうホールでは一層感じられることだろう。
演奏後ブラボーと拍手の嵐、照明がついて、全員スタンディングオベイション。
参考までに演奏時間を下記する。
7番:31分
14番:26分弱
20番:43分弱
〆
於:サントリーホール大ホール(1階16列右ブロック)
2018・内田光子来日ピアノリサイタル・シューベルト・ソナタプログラム
シューベルト
ピアノソナタ7番(D568)
14番(D784)
20番(D959)
以前にも書いたが、シューベルトのピアノ曲に最初に触れたのは、私が還暦になる数年前の事だと思う。シューベルトのソナタや即興曲などが9枚のCDに納められたボックスがえらく安かったので、どの曲も初めて聴く曲だったが聴いてみた。それが内田光子の演奏だった。彼女の20年以上前の録音である。それはハンス・イッセルシュミットのご子息のエリック・スミスが録音を手掛けたもの。場所もこだわりがあってウイーン・ゾフィエンザール。
それから10年以上もこのCDを聴き続けている。その間バレンボイムの新盤やポリーニのものを聴いてきたが、結局シューベルトと云うと内田のCDを取り出してしまう。今日の3演目のうち20番は過去来日した時に聴いているが、今回は7,14,20と4,15,21の2つのプログラムを引っ提げての来日だ。最近よく聴く14番と、死の年に書かれた3曲のちょうど中間の曲、20番が聴きたくて29日の公演を選んだ。
日本ではCDのタイトルにソナタの番号が入るが、輸入盤だとD番号しか入らないのはいかなる理由なのだろう。習慣で通し番号で覚えているのだが、時折きどって日本の評論家もD番号しか表記しないときがあるが、そういう時はこちらの頭がついて行かなくて、あのD番号は通しで何番だっけと、翻訳しなくてはいけない。まあこちらも気取ってD何番とスラスラ言えればよい話なのだが!まあこれは余談。
さて、今日の公演サントリーホールの大ホールは満員である。女性の聴衆が圧倒的に多いのは毎回の事だろう。
今日の3曲、演奏時間は、私が聴いてきたCDとそう大きく変わらない。14番と20番がCDよりわずかに遅いくらいだ。しかし聴いた印象はその時間差以上に随分と長い演奏だなということだった。特に20番はそういう印象が強い。全体を通して言えば、これは彼女の演奏の起伏がCDよりも大きいことに起因しているように思った。つまり静と動,強と弱、緩と急の振幅が大きいのである。それは一つの楽章の中でもそうだし、楽章間でもそうである。例えば14番の1楽章の2つの主題の対比はすさまじく大きい。第2主題は全くの沈黙から消えなんばかりの小さな音で立ち上がってくる。あまりに繊細なのでこれは私の耳のせいなのかと思ったくらいである。しかしこの2主題が次第に明確になってきたときのなんとさわやかなことだろう。対比の意味が分かった。
20番では1楽章と2楽章の対比が大きい。1楽章は巨大な第1主題が印象的だ。ここでの圧倒感がこの曲を支配するかと思ってしまうが、2楽章になると音楽はずっと沈み込み、遅く、沈鬱で、不安だ。ムードが全然変わってしまうのだ。そして中間の嵐が1楽章の1主題の雰囲気を出すが、しかしここでは悲壮感が漂い一層不安になる。1楽章の2番目の主題が明るく、楽天的に奏されるだけに、1楽章と2楽章との対比はとても大きく感じる。今夜の演奏はこういう対比が至る所にある。もちろんこれはシューベルトマジックによるところが大きいだろうが、内田はそれを今まで以上に強調してはいなかっただろうか?
正直言って、アンコールにモーツアルト(ソナタ10番の第2楽章)を弾いてくれて、ほっとした。シューベルトを3曲聴いてぐったりしているところだったからだ。こういうシューベルトも良いが肩ひじ張らないシューベルトも聴いてみたいなという思いも無きにしも非ず。
想像だが、この大ホールでの演奏が曲者ではないかと思う。ピアノは紀尾井ホールとか浜離宮ホールとかで聴きたいというのが本音。20番の2楽章の繊細な音のグラデーションはそういうホールでは一層感じられることだろう。
演奏後ブラボーと拍手の嵐、照明がついて、全員スタンディングオベイション。
参考までに演奏時間を下記する。
7番:31分
14番:26分弱
20番:43分弱
〆