ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2018年09月

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2018年9月20日
於:東京文化会館(1階13列中央ブロック)


ローマ歌劇場来日2018公演
 プッチーニ「マノン・レスコー」

指揮:ドナート・レンツェッティ
演出:キアラ・ムーティ

マノン・レスコー:クリスティーネ・オポライス
デ・グリュー:グレゴリー・クンデ
レスコー:アレサンドロ・ルオンゴ
ジェロンテ:マウリツィオ・ムラーロ
エドモント:アレッサンドロ・リベラトーレ
音楽家:ガイア・ペトローネ
点灯夫:ジャンルーカ・フローリス
船長:ロレンツォ・グランテ

ローマ歌劇場管弦楽団、合唱団


先日聴いた「椿姫」に勝るとも劣らない公演。オポライスとクンデのコンビは期待以上に強力で、イタリアオペラの醍醐味を十分感じさせてくれた。それは歌による、人間の心や情熱や苦しみやなんやら人間が本来持つもの,すなわち情念というべきか、その放出を感じさせる。今日の主役のふたりの歌はまさに、人間の持つ心のすさまじいばかりの放出である。
 オポライスのマノンは2016年のMETライブで見ているが、その時の印象と変わらない。その時も思ったが、4幕の彼女の歌唱は彼女の作ったマノン像の集大成だろう。享楽に生きつつもデグリューへの愛も欲しいと、欲張りな彼女に最後残ったのは荒涼とした何もない砂漠だ。彼女の死にたくないという悲痛な叫び、そしてすべては終わったという、絶望感。しかし唯一残ったのは「無」ではなく、デグリューへの愛だと気づく。マノンの4幕の幕切れの「ただ一人残って~でも、私の愛は決して死なない」までのオポライスの歌唱はその心の動きを歌に託し、実に感動的だ。その他1幕の初々しさ、2幕のデグリューとの情熱的な2重唱、3幕の牢獄での別れなどすべて素晴らしいが、4幕の凄さにはかなわないだろう。

 クンデはほとんど印象のない歌い手だが、今日聴いて素晴らしいと思った。のびのびした声が、ストレスがなく、ぽんぽん飛び出してきて、しかも、声に芯があって、実に気持ちが良い。オポライスのどちらかというと研ぎ済まされた声に対比した幾分しなやかな声は2人の役柄とも合って相乗効果が出ていたのではないだろうか?オポライスがMETで歌ったときのデグリューのアラーニャと甲乙つけられない。3幕の船長へ乗船を乞う情熱、2幕の性悪マノンと知りながら、一途な気持ちを失わないデグリュー。男として聴いていて同情してしまうほど一途な歌いっぷりだった。
 来年はオテロを日本で歌うそうだが期待したい。

 その他脇もしっかりとしている。レスコーのルオンゴはいかにも遊び人風の将校を感じさせる粋な歌いっぷり、ジェロンテも2幕最後でマノンが見せる、露骨な嫌悪感を聴き手にも感じさせる歌唱で存在感があった。その他音楽家や点灯夫も出番は少ないが立派なもの。

 レンツェッティの指揮するオーケストラも実に豊かで輝かしい。いつもよりオーケストラピットが低いようで、それが音響にも影響したかもしれない。3幕への間奏曲のしっとりとした雰囲気、2幕の幕切れのたたきつけるようなオーケストラの勢い、硬軟見事な描き分けだった。演奏時間は117分。3幕と4幕は5分の場面転換があるが、続けて演奏された。

 合唱も椿姫同様それぞれの団員が存在の意味をわかって歌っているようで、棒立ちの機械的な合唱とは一線を画していた。日本人が何人か加わっていたのが椿姫とは違うところ。例えば3幕のアメリカに島流しされる娼婦たちはみな日本人が演じていた。

 今回はムーティの娘のキアラ・ムーティの演出と云うのも話題になっていた。椿姫の演出と同様、読み替えはない。
 1幕の幕が開くともう舞台は砂漠になっている。あれ、もう4幕かいと云いたくなるが、そこはアミアンの街だ。人々が繰り出してきて(実際は女性は砂漠に横たわり音楽が始まると起き上がる)、エドモントなどとにぎやかに歌う。しかし背景が砂漠なので今一つ殺風景。しかしこれはこのオペラの全体のモチーフのようなものだということは次第にわかってくる。
 砂漠のような光景に、左手から宿屋のセットが登場する。螺旋階段があり上り下りできる。右手にはいすやテーブルが置かれ、酒を飲んだり、ばくちをしたりしている。衣装は19世紀だろうか?1幕の終わりは背景が真っ赤になる。4幕の暗示だろうか?

 2幕はジェロンテの屋敷。しかし一見華やかに見えるが、何か荒廃としている。それは1幕の砂漠の上に、屋敷のセットが置かれているためだろう。正面は大きな何枚かの窓があって,一部がドアになっている。窓の外は砂漠である。ということでこの荒廃さはこの時代の退廃やマノンの享楽的なすさんだ精神を暗示しているのだろうか?しかし見ていてあまり美しくなく、薄汚いのが難点。足場も悪そうで、歌い手の出入りはやりにくそう。マノンの踊りの場面。ホフマン物語のオランピアのように機械仕掛けを思わせる。マノンの立っている部分が回転しているので、そのように感じるのだろうか?なお、この部分舞台右手にバンダが登場して演奏する。

 3幕は左手に牢獄があるだけで何もない。しかし舞台は1幕と同じに砂漠の上だから、落ち着かない舞台であることは云える。4幕は文字通りの砂漠である。1幕では少し色ついていた土もここでは無限に続く灰色の大地である。ムーティ女史の演出の肝は冒頭述べたように、この砂漠=荒廃とした心なのだろう。これが指導動機のように舞台を支配している。
 ただ気になるのは装置が少し雑に思える。例えば2幕のジェロンテ邸の奥の扉が開くたびに吊り下げられたと思われる装置がゆらゆらするのはいかがなものだろうか?引っ越し公演のためだからだろうか?
 そういう細かいところは別にして、今回のマノンレスコーは見事な公演というべきだろう。




 

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2018年9月15日

「シークレットマン」、リーアム・ニーソン、ダイアン・レイン他

原題は「マーク・フェルト」・THE MAN WHO BROKE DOWN THE WHITE HOUSEという副題がついている。邦題の間抜けさは映画を見ていれば一目瞭然だ。いっそのこと「DEEP THROAT]とすればよい。ねたばれもくそも話はみての通りだから!


 マーク・フェルトは実在の人の名前で、この時はFBIの副長官である。フーバー長官の側近で30年務めてきたミスターFBIである、(リーアム・ニーソン)。敵役が元FBIで今はニクソンの側近のサリヴァン、それとフーバーの急逝のあとホワイトハウスが送り込んできたFBI長官代理、元司法省のグレイである。
 この映画は「ペンタゴンペーパーズ」のような役人やマスコミの良心を強調するようには作られていない。事件の主題は「ウォーターゲイト事件」ではあるが映画の主題は他にあるのだ。

 つまり、フーバーとフェルトが築き上げてきたFBIという組織の独立性をいかに防衛するか、それに対してホワイトハウス側がいかにFBIを取り込むかという政争劇として仕立て上げられている。したがって見た後の爽快感は同じニクソン政権、アメリカ政府の恥部を描いた「ペンタゴンペーパーズ」に比べるとおおいに落ちる。しかしこれがディープ・スロートの誕生の秘話ということなら実に現実的な解ではあるまいか?フェルトはたんなる正義感にかられて内部告発をしたのではなかったがゆえに、みずからがディープスロートと告白したのは亡くなる3年前の2005年ということはよくわかるのだ。ペンタゴンペーパーズとセットで見るべき映画だろうと思う。ついでに「大統領の陰謀」もみておけば完ぺきだろう。なお、フェルト自身が共著した原作に基づいた映画化ということだ。

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2018年9月12日
於:東京文化会館(1階8列中央ブロック)

ローマ歌劇場、2018、来日公演

 ヴェルディ「椿姫」

指揮:ヤデル・ビニャニーニ
演出:ソフィア・コッポラ
衣装:ヴァレンティノ・ガラヴァーニ

ヴィオレッタ:フランチェスカ・ドット
フローラ:エリカ・ベレッティ
アルフレード:アントニオ・ポーリ
ジェルモン:アンブロージョ・マエストリ
アンニーナ:キアラ・ピエレッティ
ドゥフォール:ロベルト・アックルーソ
ドビニー:アンドレア・ポルタ
グランヴィル:グラツィアーノ・ダッラヴァッレ
ガストーネ:ピエトロ・ピコーネ
ローマ歌劇場管弦楽団、合唱団、バレエ団

たしか、前回のローマ歌劇場の来日は2014年のはずだが、その時はムーティが「ナブッコ」と「シモンボッカネグラ」を振った立派な公演だった。
 今回はムーティは来ず、今日の「椿姫」などは失礼ながら歌い手よりも演出のソフィア・コッポラや衣装のヴァレンティノが話題になる異例の前宣伝だったが、ふたを開けてみると、美しい舞台もさることながら、さすが本場の団体だけのことはあって、音楽的に大変聴きごたえのあるものであった。

 ブログを初めて約10年たつ、その間ヴェルディのオペラの記事は50本を超えるが、その中で「椿姫」は7本。これがヴェルディの作品の中で、多いのか少ないのかはわからないが、その他の作曲家の作品に比べれば多いといえるのではなかろうか?しかも古今の名曲でもあり、各団体も力を入れ、それぞれ聞きごたえがある公演になっている。キイはヴィオレッタが誰が歌っているかだろう。
 私が気に入っているヴィオレッタは2011年の新国立の公演のパトリツィア・チョーフィである。それと昨年のパレルモ・マッシモ劇場の来日公演のデジレ・ランカトーレ。
 そして、今日聴いたドットはこの二人の牙城を脅かす名唱を聴かせてくれた。彼女の歌を聴くとこれは本当にヴィオレッタになり切っているのではと思わせる箇所が随所にある。特にヴィオレッタが女性として、人間として、大きく成長を遂げる、2幕1場のジェルモンやアルフレートとの2重唱や2幕2場、アルフレートに侮辱されデスデモーナのように地を這いながらアルフレートへの尽きぬ思いを独白で歌う場面などがそうだし、さらに、3幕、死を迎え、心は明鏡止水の心境になったと思いきや、来し方の悔恨や、死への絶望を感じさせ、自らをラ・トラヴィアータと歌う。これらの歌唱はことごとく深く胸を打つ。声はチョーフィにように細身だが、起伏の大きさが感情と正比例して聴き手に高ぶりをもたらす。この歌を聴いていると、素晴らしかったランカトーレの歌唱が少々技巧的にすら感じられるのだ。舞台映えするドットの姿も印象的。オペラはやはり見た目も大事だろう。

 アルフレートのポーリはいつものポーリだ。しかし2幕3場の賭博場の場での歌唱は、弱弱しいお坊ちゃんからの脱皮が歌唱で強く感じられる。彼の心に渦巻く、嫉妬、悔恨、そして狂おしいヴィオレッタへの思いが歌唱になって、聴き手の胸を打つ。ポーリの真価に初めて触れた感じだ。これに比べると1幕や2幕の歌唱はこえがすかすかで歌に「実」がないように聴こえる。

 マエストリはヌッチの代演。正直言ってヌッチで聴きたかった。マエストリの立派な声は素晴らしいと思う。しかしジェルモン氏があたかもジョン・ファルスタッフのように吠えるというのはいかがなものか?2幕1場のジェルモンとヴィオレッタの2重唱は、とにかくヴィオレッタの気持ちはそっちのけで、自らの家名を汚されなければそれでよいという、高圧的な歌唱。ヴィオレッタを抱きしめるシーンも形だけ。その後の息子のアルフレードとの2重唱や有名な「プロヴァンス~」もパワハラおやじの高圧的な歌唱としか取れなかった。がしかしこれは考えてみれば自然な芝居かもしれない。3幕でのマエストリはずっとおとなしく、パワハラ的な雰囲気はなく、約束を守ったヴィオレッタへの、恥ずかしさや後悔が歌ににじみ出て、ここで帳尻があった感じだ。これは私だけの印象かもしれないが、こういうジェルモンだって決しておかしくないと思った。

 その他、フローラやアンニーナなどなどの脇は歌は別として、皆舞台映えして、引っ越し公演っていいなあと思わせる舞台だった。

 指揮のビニャミーニはこのプロダクションの初演時(2016)の指揮者である。自家薬籠中の舞台である。きびきびした音楽の運びはなよなよしたメロドラマに堕さずに好印象。ローマ気劇場の演奏も芯が通った音が魅力的で、歌と音楽が渾然と、ヴェルディの輝かしい音楽を聴かせてくれた。演奏時間はおよそ2時間。2幕の1場と2場の間に休憩を入れたために、休憩が3回ある細切れ公演ゆえ、演奏者も集中が大変だったろう。

 演出は映画監督ですでに名を成しているソフィア・コッポラである。彼女の映画は「アントワネット」しか見ていない。実にかわいいらしいマリー・アントワネットで新しいアントワネット像を築いていたという印象だった。
 「椿姫」の演出は「愛する人のために、究極の犠牲を払った女の極上の悲劇的ラブストーリー」というのが基本コンセプトのようだ(プログラム34ページ)。これは奇をてらったものではなく、伝統的な部類に入るだろう。本当かどうかはわからないが、衣装のヴァレンティノの意向が働いていたようだ。つまらん読み替えはするなということだろう。したがって各場面とも音楽やせりふとの齟齬もなく実に自然に舞台に入っていけるのが良い。カタリナのような演出だったらどうしようかと思ったが,杞憂に終わったようだ。

 1幕は豪華なヴィオレッタの屋敷。部屋の右上から中央に白い、軽くらせん状になった階段。前奏曲の間にヴィオレッタが静かに降りてきて、降りると舞踏会が始まる。舞台奥は大きなガラスのドアや窓。天井にはシャンデリア。ヴィオレッタは黒いドレス、裾がグリーン。ここで感心したのは舞台上の大勢の来客たちが一人一人歌いながら表情が豊かなことだ。ただ棒立ちで歌っているのではなく、皆演技をしており、それゆえ舞台がリアルなのだ。アルフレードに会ったヴィオレッタは今の恋人ドゥフォールがそばに来ると嫌悪感を露骨に出すなど、ヴィオレッタへの表情付けもきめ細かい。

 2幕1場はパリ郊外の新居。ステージ奥手は庭、大きなガラス窓で仕切られている。小道具はソファや椅子のみのシンプルなもの。ヴィオレッタの衣装は輝くばかりの白。レースでできているように思えるがよくわからない。ほとんどすべての動きはと書きに準拠している。

 2幕の2場は舞踏場であり博打場である。ヴィオレッタは真紅のドレス。舞台奥は屋外庭園に続き、野外では花火も。
 3幕はヴィオレッタのアパートメント。薄暗くいかにも病人の居る部屋。中央に大きなベッド。ヴィオレッタは薄いピンク色のナイトガウンを着て寝ている。舞台奥には大きな窓。アンニーナに明かりを入れるように言っても、部屋は陰気なまま。アルフレードに再会したヴィオレッタが化粧をし始めるのがと書きにない部分だろうか?


 かくのごとき公演が日本で聴くことができるの誠にありがたいことだ。

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2018年9月10日

「ペンタゴンペーパーズ」、スピルバーグ監督、メリル・ストリープ、トム・ハンクス他

1971年のエルズバーグ事件を扱ったもの。私もそうだが、弱いものが強いものに逆らって勝つという構図のドラマは、すっきりしてとてもよいが、本作もそういう健全なもの。アメリカにおけるマスコミや司法の健全性を誇示したものともいえる。自由の国アメリカの面目躍如たるものがある映画だろう。トランプは映画が好きなのかどうかはわからないが、こういう映画はどう見るだろう。

 1971年ランド研究所が政府(本映画ではマクナマラ国防長官)からベトナム戦争の分析をトルーマン時代からさかのぼって研究するよう依頼される。それは4000ページにのぼる膨大なもので、しかも中身は現政府の欺瞞が充溢するものだった。その文書をペンタゴンペーパーと呼ぶが、これがニューヨークタイムズに流出、すっぱ抜かれるが、やがてワシントン・ポストにも流出、ポスト紙はタイムズに追随すべきか重大な決断を迫られる。おりからポストは社長が急死し、その夫人のケイ・グラハムが経営を継ぎ、しかも上場直後だったのだ。政府/裁判所からタイムズに差し止め命令が出ているさなかである。ケイは女性経営者として自主性のないロボットのような存在とみられていたが、報道するかしないか最後の決断はその彼女にゆだねられたのだった。


 報道の自由、司法と政治の関係、これは、今のアメリカにも日本にも、そして多くの国々にも示唆を与える内容だろう。そして本作の事件のあと、すぐ暴露される、ウォーターゲイト事件の前夜の事件でもあるのだ。このあと、ポストはバーンスタイン&ウッドワード記者による大スクープを上げる。その時の編集長が今回はトム・ハンクス演じるブラッドリー、そして社主は今回メリル・ストリープが演じている。
 ストリープの未熟な経営者が脱皮してゆく演技は、わざとらしく見えても、つい引き込まれる。さすがの演技力だ。トム・ハンクスは鬘が今一つ似合わず、最後まで気になった。役柄でジェイソン・ロバーツを相当意識したように感じた。ジェイソン・ロバーツは「大統領の陰謀」でブラッドリーを演じた。
 健全性で多くの人を満足させる映画だろう。面白かった。



 

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2018年9月7日
於:新国立劇場(1階17列中央ブロック)

プッチーニ「三部作(外套/修道女アンジェリカ/ジャンニ・スキッキ)」、二期会公演

久しぶりの、新国立劇場でのオペラ、短い空白の期間にもかかわらず、足を踏み入れるときの緊張感。
今日の公演は、新国立の定期公演ではなく二期会の公演である。おそらく東京文化会館では装置がうまく作動しないのであろう。広いこの劇場の機能が生かされた公演であった。

さて、少々長いが、今日のキャストを一覧する。

指揮:ベルトランド・ビリー
演出:ダミアーノ・ミキエレット


「外套」
 ミケーレ:今井俊輔
 ルイージ:芹沢佳通
 ティンカ:新津耕平
 タルパ:北川辰彦
 ジョルジェッタ:文屋小百合
 フルーグラ:小林紗季子
 流しの歌うたい:西岡慎介

「修道女アンジェリカ」
 アンジェリカ:文屋小百合
 侯爵夫人:与田朝子
 修道院長:小林紗季子
 修道女長:石井 藍
 修道女長:郷家暁子
 ジェノヴィエッファ:船橋千尋
 その他修道女
  高品綾乃、高橋希絵、福間章子、鈴木麻里子、小出理恵、中川香織
 合唱:二期会合唱団、新国立劇場合唱団、藤原歌劇団合唱部、NHK東京児童合唱団

「ジャンニ・スキッキ」
 ジャンニ・スキッキ:今井俊輔
 ラウレッタ:船橋千尋
 ツィータ:与田朝子
 リヌッチョ:前川健生
 ゲラルド:新津耕平
 ネッラ:鈴木麻里子
 ゲラルディーノ:村上和輝
 ベット:原田 圭
 シモーネ:北川辰彦
 マルコ:小林啓倫
 チェスカ:小林紗季子
 スピロネッチョ:後藤春馬
 公証人:岩田健志
 ピネッリーノ:高田智士
 グッチョ:岸本大
 ブオーゾ(黙役)関谷裕太
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

よくこれだけのメンバーをそろえたのではないだろうか?書き写すだけでも疲れてしまう。よく見ると二期会だけでなく、新国立や、藤原歌劇の合唱団も含まれているので、現在の日本の歌い手の全体層が充実してきているように感じる。「修道女アンジェリカ」などは女声だけであれだけのメンバーをそろえられることが立派だと思う。しかも今回もダブルキャストを踏襲している。ただそういうこともあって、歌い手に不満がないわけではない。しかし相対的に言えば今日ライブでオール邦人でこれだけの音楽と舞台に接するこができたことを素直に喜びたい。なお、二期会では1995年以来の公演だそうだ。
 新国立では三部作としては聴いたことがない。今シーズン「ジャンニ・スキッキ」をツェムリンスキーの「フィレンツェの悲劇」と抱き合わせで公演するが、二期会でできたものが、なぜ国立劇場ではいわゆるプッチーニ三部作として公演されないのか、実に面妖なことではないか?フィレンツェという語呂合わせしか意味のない抱き合わせとはがっかりだ。


 
プッチーニの三部作は正直言っていままで避けてきた作品だった。もうプッチーニは「マノン・レスコー」「ボエーム」、「トスカ」、「蝶々夫人」、そして「トゥーランドット」があれば後はどうでもいいやという位置づけであった。したがってCDやDVDなどももっていなかった。
 しかし困ったことに世の中には対訳本すらないのである。事前に少しさらっておこうと思ったがさらう手ずる乏しいのだ。
 タワーレコードのサイトでも、店頭でもあるのはDVDで2011年のコベントガーデンライブ公演(パッパーノ指揮、リチャード・ジョーンズ演出)、それとCDでは同じくパッパーノ指揮のセッション録音(1997年)くらいしかなく、しかもDVDには日本語字幕はなく、CDには対訳はない。唯一の頼りは2008年のスカラ座ライブをTV放映したものを録画しておいたDVDである。これはシャイー指揮、ルーカ・ロンコーニ演出である。これはNHKのおかげで字幕付きだ。スカラ座とコベントガーデンの公演の演出は比較的素直なので勉強には最適だった。

プッチーニがこの三部作を構想したのは20世紀初頭だそうで、ダンテの神曲にヒントを得たようだ。そしてお定まりの台本探しで時間を費やし、初演は何と1918年、ニューヨーク、メトロポリタンだった。その後欧州でもこの三部作の公演が行われたが、「アンジェリカ」は欧州ではプロテスタントの多いことや最後のマリア救済の大げさな場面が嫌われて最も不人気だったそうで、劇場側も女声だけ集めるというキャスティングに嫌気がさし、はずす劇場もあったそうだ。


さて、音楽についてだ。まず歌手だ。多くの歌い手が登場したのですべての歌手に言及はできない。印象に残った歌唱のみとしたい。

 まず、「外套」のジョルジェッタと「修道女アンジェリカ」を歌った文屋である。彼女の素晴らしさは、その声によどみがないことである。音の出し入れに無理がなく、繊細な声、力強い声と、交互に歌っても全く違和感がなく順応してしまう。大体ヴェリズモの「外套」と正反対のような静的な音楽が充満する「修道女アンジェリカ」を一人の歌い手がライブで歌うことは驚異的なことと云わねばなるまい。彼女はそれを達成している。
 同じことが今井にも言える。ヴェリズモの「外套」のミケーレとプッチーニのファルスタッフとも称せられる「ジャンニ・スキッキ」を歌い分ける歌手が日本にもおられるということがうれしいではないか?
コベントガーデンのライブ盤ではガッロが同じことに挑戦しているが、今回の今井はガッロに勝るとも劣らない歌唱だと思う。私にはミケーレは軽すぎて、スキッキは重すぎると思えるが、これはないものねだりというべきで、むしろ性格描写の優れた今井の役つくりの結果だと思いたい。私は彼の演じたスカルピアが忘れられない。あんな不気味なスカルピアなぞ聴いたことがなかった。まあこれは余談。
 軽妙なスキッキと云えばシャイー盤のレオ・ヌッチが素晴らしいと思う。是も余談。

 「外套」のルイージは強くのびやかな声には魅力があるが、幾分声にむらがあるのが残念。柔らかい声が猫なで声で気持ちが悪い。タルパとフルーゴラ夫婦は老夫婦というイメージではないか、声が若く、歌詞とかみあわないように感じた。

 アンジェリカは上記の通り。その他ではジェノヴィエッファの船橋が声も演技もかわいらしく、よかった。船橋は「ジャンニ・スキッキ」のラウレッタも歌ったが、「私のお父さん」もねっとりと歌わず、さらっとこなすところが、このスキッキのスタイルを壊さなくて好印象。大体ここで音楽が停滞するのだがそれがないのだ。
 2人の修道女長も好演。与田の侯爵夫人は演出のせいか、歌も余裕がなくあわただしいのが不思議だった。


 「ジャンニ・スキッキ」は人気の作品だけあって、会場の雰囲気もにわかに明るくなり、聴き手は下手な芝居に笑ったり、おしゃべりしたり、芝居小屋の雰囲気。まあこのオペラはそういう雰囲気が合うのかもしれない。このオペラはブッファであるが、これは途中の歌い手の下手なオーバーアクションの演技で安易に笑わせばよいというものではないと思う。大体オペラ歌手にお笑いの演技をさせたってできるはずがない。ヴェルディの「ファルスタッフ」もブッファだがそういう馬鹿な演出はあまり見たことがない。プッチーニの一筆書きのように駆け抜ける、スピード感たっぷりの音楽と、最後のひねりで笑わす、そういうオペラだと思うのだが?スカラ座でもコベントガーデンでもおちゃらけた演技が目立った。まあこれは余談。

 スキッキとラウレッタ以外の歌手では、前川のリヌッチョが柔らかく、清潔感たっぷりな歌いっぷりで好印象だった。

 ベルトラン・ド・ビリー/東フィルの音楽つくりも今回の公演の成功の原動力だ。全体にきびきびしたテンポで音楽を構成している。特に「外套」と「ジャンニ・スキッキ」がそうだ。後者では全体のスピード感、音楽の持つ機敏性、精妙さをを実にうまく聴かせてくれた。おそらく「私のお父さん」をあれだけさらっと歌わせたのはビリーの指示であったのだろう。あそこで音楽が中断されるのを嫌ったに違いあるまい。
「アンジェリカ」はその中で、ひときわ清新な雰囲気を音楽で醸しだしていて、演出・舞台の少し荒れた雰囲気を締めていた。

 さて、最後はミキエレットの演出である。珍しく演出家自身が4ページにわたって演出の考え方を述べている。プログラムはたくさん余っていたのでこのオペラたちに関心のある方は一度お読みいただくとよいだろう。だからここで私が四の五のいって述べることは失礼になると思うが、私の勉強の過程で興味のあった場面をいくつかご披露したい。

 今回の公演は現代への読み替えになっている。例えば「ジャンニ・スキッキ」は2018年9月1日の一日を描いている。
 「外套」の舞台はスカラやコベントガーデンでは船の上という設定だが、今回の舞台はコンテナ船の上か波止場かはわからないが、要はコンテナが積まれた資材置き場が舞台になっている。このオペラでのキイは当然外套だが、いろいろな演出があって面白い。もっともヴェリズモ的なのはスカラ座の公演である。ミケーレはルイージを絞め殺し、自分の外套の中に跪かせる、そこにジョルジェッタを呼び込み二人を外套で覆う、驚愕のジョルジェッタ、彼女はルイージと抱き合う形で叫び続ける。本公演はそれに比べると少しまとも。ルイージはミケーレに刺され、横たわる。そこに外套をかける。ジョルジェッタはミケーレに促され外套をめくると中には、ルイージだった。

 今回の公演で最も驚いたのは、「外套」と「修道女アンジェリカ」を切れ目なく演じたことだろう。当然この二つのオペラを連関させるテクニックが駆使される。つながりはこのようになっている。ジョルジェッタは驚愕の中、泣き崩れる。場面は暗くなり、場面転換、そこにはジョルジェッタが一人。積み上げられたコンテナの1段目の扉が開くと正面左にはアンジェリカの部屋、マリアの肖像画べったり。むかって右には洗濯場があって、一度に10人位洗濯が出来る。修道女アンジェリカでは修道院が舞台のはずだが、なぜかすさんだ雰囲気。やがて他の修道女がジョルジェッタの服を着替えさせ、長い髪もバッサリ切ってしまう。ジョルジェッタがアンジェリカに変身してしまうのだ。この修道院はミキエレットは刑務所風と云っているが、私には精神病院のように感じる。なぜなら登場する修道女の立ち居振る舞いが異様なのである。例えばジェノヴィエッファが私は昔羊飼いでしたと歌う場面では、「外套」で小道具としてフルーゴラが持っていた猫の伍長のぬいぐるみを持っていて奇妙なしぐさで歌うのである。さて、小道具だが「外套」ではミケーレとジョルジェッタの間に生まれた子供(今は亡くなっている)のおもちゃや小さな靴が登場するが、同じく子供を失ったアンジェリカもその靴を持っている。こうして2つのオペラをつないでいる。しかしこの小道具少し小さすぎてオペラグラスでも最初はなんだかわからない。大劇場での公演には一工夫がいるのではないかと思った。

 さて、アンジェリカでは最後の場面が関心事だろう。修道女が自殺したにもかかわらず、天国に行って死んだ自分の子供と会えるのか?そういう救済が受けられたのかということだ。
 スカラ座では実にまっとうでアンジェリカは天国で息子を抱いている事を彷彿とさせる演出。コベントガーデンではアンジェリカの自殺は葬り去られるかのように、白い布で覆い隠される。ただ小児病棟の患者の少年が、アンジェリカに抱き寄せあっれる場面があるので、アンジェリカ自身は救われたと思って死ぬ。
 本公演ではまずアンジェリカの死に方が違う。と書きでは薬剤に詳しいアンジェリカは毒草で死ぬが、ここではリストカットによる死だ。しかも設定は2年前に死んだ息子は生きていて、侯爵夫人がアンジェリカの死の間際にその子を、手をひいて連れてくるが、すぐ引き離す。アンジェリカは彼を天国の息子と認知したのだろうか?コベントガーデンと同じくアンジェリカは白い布で覆われ隠されるので、救済劇のムードはなく音楽のみが救済を暗示する。私は、生きている息子を一目見たアンジェリカは自らが救済されて、天国に召されたと思って死んだと思いたい。

 アンジェリカが終わると、30分の休憩で、ここでしばらく現実の世界に戻る。

 「ジャンニスキッキ」の舞台はブオーゾの部屋でスカラやコベントガーデンの設定とは変わらない。1階には死体のブオーゾが寝ているベッド。中2階、3階と美術品や家具が所狭しとおいてあり、裕福なブオーゾの屋敷の一端がわかるようになっている。ここでの「みそ」は最後の場面だろう。ジャンニスキッキはみなをひっかけて財産を奪うわけだが、最後にダンテ先生に情状酌量を願う。そこではスキッキは「外套」でのミケーレの外套を着る。そしてブオーゾの家財は何と機械仕掛けの装置ですべてコンテナに納められ、「外套」の冒頭の場面に戻る。この装置の動きは見事である。ラウレッタとリヌッチョはすでに子供を授かり。「外套」での小道具であり、「アンジェリカ」での小道具でもある、子供の靴を眺めながら幕。要するにこの3つのオペラは一つにつながったわけだ。なかなか考えられた演出。面白かった。歌も良し、指揮もよし、演出も良しの満足のゆく公演だった。良い勉強をしました。

 

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