ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2018年09月

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2018年9月29日
於:サントリーホール(2階4列中央ブロック)


サイモン・ラトル/ロンドン交響楽団2018、来日公演
指揮:サイモン・ラトル
ヴァイオリン:ジャニーヌ・ヤンセン

ラヴェル:マ・メール・ロワ
シマノフスキー:ヴァイオリン協奏曲

シベリウス:交響曲第五番


 今回の来日公演ではいくつかのセットを用意してくれているが、共通点は20世紀の音楽。私は今夜のプログラムを選んだ。マーラーの選択もあったが、九番はしんどいのでやめた。

 マ・メール・ロワはほとんど聴いたことがない曲で、今回全く予習をしてゆかなかったこともあり、印象としては薄い。少々退屈で最後の少し盛り上がったところで、耳が目を覚ました。

 シマノフスキーはヤンセンのヴァイオリンが素晴らしい。彼女を初めて聴いたのはライブでN響の定期だった。ブラームスのヴァイオリン協奏曲で、これは実に熱気をはらんだ情熱的な演奏で素晴らしかった。この協奏曲は美しく、なおかつ雄大さもあり非の打ち所がないヴァイオリン協奏曲だが、このごろ私の耳が老化したせいか、途中で飽きてしまう場合がある。しかしこの日の火を噴くような演奏はそのような印象を打ち消した。CDを買ったくらいだから!
 シマノフスキーのこの曲は1922年の初演で、現代音楽の部類に入るが、しちめんどくさい12音技法などの混ざらない、後期ロマン風の聴きやすい音楽だ。聴いた印象はコルンゴルトと云うと、作曲家は怒るだろうが、まあそういうことだ。しかもこの作曲の前に中近東などアジアを訪れており、直接的ではないが、雰囲気として東洋的な部分も聴きとれる。3楽章形式だが、続けて演奏される。
 最初に出てくる主題が印象的で、オーケストラやヴァイオリンでなんども出てくる。この主題がすぐヴァイオリンで奏される部分を聴くと、もうそこはヤンセンの世界。熱く燃え上がるようなヴァイオリンである。2楽章に当たる静かな部分は沈潜することなく、静かに燃えるかのように、ホールに浸透する。3楽章の躍動する部分はどうだろう、手に汗握るほどだ。ラトルの指揮はクールだが、ヤンセンを邪魔するわけではなく、良いコンビだった。メインのシベリウスよりこの協奏曲のほうが聴いた印象は強い。
 アンコールはラトルのピアノ伴奏でラヴェルの「ハバネラ形式の小品」。

 シベリウスの五番もよかったが、ラトルの個性がかなりでたもので、好き嫌いがこの演奏の評価につながるのではないだろうか?
 私の印象は全体にサウンドがスリムであるということだ。これは2階席(でも前から3番目)ということや、ロンドンの音色ということや、ラトルの解釈ということが考えられるが、例えば1楽章後半の部分の終結、オーケストラを煽り立て、興奮を呼ぶものだが、今夜の演奏は、そういう煽り立て感はなく、どちらかというと、整然と音楽が行進すると言う印象だ。ホールが鳴動し、オーケストラの渦に呑み込まれるという音楽体験とは程遠い。
 もう一つ上げると、3楽章の素早いパッセージの後、ホルンで主題を吹く。ここも何か弱弱しい。北欧の大自然のような雄大さが聴けない。そしてこれがトロンボーンが加わり、最後にはトランペットが食わる最高潮でも、決して聴き手を威圧するようなサウンドとならないのだ。オーケストラの重量が感じられず、金管の鋭い音ばかり耳に残る。そして最後の打ち込みの連発も、一音一音パシッと決まらなくて、おとがずれてにじむような印象。こういう終わり方は初めてで面食らう。レコードでもこういう演奏か聴いていないのでよくわからないがどうなのだろう。
 その反面音楽の透明感はすこぶる素晴らしいもの。しかし、だからといってカラヤンのCDで聴けるような極北のひんやりした空気感は聴かせてくれはしない。あくまでも音楽は音楽のままでクールなのである2楽章はそういう面でいえばぴったりな演奏のはずだが、音楽の目まぐるしい変化が、いささか、煩わしさを感じさせる。
 ロンドン交響楽団と云えば世界でも10本の指に入る団体と聴いているが、ずいぶんおとなしいサウンドで期待外れだった。このサウンドでマーラーの九番をどう演奏するのだろう。まああまり聴きたくないな!こちらのプログラムを選んで正解だった。演奏時間は31分。アンコールはお得意のドヴォルザークのスラヴ舞曲OP72-7、これもロンドンの演奏はパンチがなく物足りない。
 この曲の私のベストはライブでは2015/12/4の読響の定期、オスも・ヴァンスカ指揮、CDではカラヤン/ベルリンのもの。最近はバルビローリ演奏がSACD化されたのでそれをよく聴く。



 

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2018年9月25日

「祈りの幕が下りるとき」、阿部寛、松嶋菜々子主演

東野圭吾の加賀刑事(阿部)主人公のシリーズものである。今回は加賀刑事の生い立ちと事件が絡む筋立てとなっている。現在(2017年)事件は荒川沿いのアパートの中で押谷道子という女性が亡くなっているのが発見される。その家は越川睦夫名義の部屋である。押谷という女性は彦根にある清掃会社の営業を担当して東京との接点、ましてやこの部屋の皆川なる人物との接点はない。同じころ荒川沿いで男性の絞殺死体が発見される。それは焼き殺されており身元不明である。警視庁の松宮刑事がこの二つの事件の関連を主張する。
 こうやって書いてゆくと、筋を全部かかなくてはならないのでここらあたりでやめておこう。やがてこの事件と加賀刑事、そしてこのドラマのヒロインの演出家浅井博美(松嶋)などが複雑に絡んでゆくことだけは云っておこう。
 この悲劇の骨格は「砂の器」である。親子の情愛がモチーフであるが、この後半に描かれるモチーフが少しお涙頂戴過多で惜しまれる。前半の謎解きの部分は、人間関係が相当ややこしいが、非常に丁寧に描かれており後半への伏線ともなっているし、推理ドラマとしてもよくできている。

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2018年9月24日

「我が名は秀秋」、矢野隆著、講談社文庫

小早川秀秋の伝記小説である。小早川秀秋はねねの兄の四男であり、秀吉は義理の叔父にあたる。秀秋は秀吉の養子になり、やがて小早川隆景の養子になる。この人物の歴史的評価は関ヶ原の決戦での裏切りがすべてのようなもので、そのほかについては、凡夫だとか、愚鈍だとか云われていて、要するに政権を取った徳川の書いた歴史を正とせざるを得ない。要は本当はどうだったのかはあまり知られていないのではないか?

 本書では秀秋は能力はあるがその能力が自覚されていないという描き方をしている。その能力を引き出したのは、養父の隆景であり、叔父である毛利秀包であったという。前半のクライマックスは蔚山城の清正救出作戦である。ここで秀秋は日本軍の総大将として指揮を執るが、若干17歳にして、とてつもない作戦を立てるという筋立てになっている。このあたりは史書では秀吉に呼び戻されているとか、戦場にはいなかったとかということになっているが、著者は秀秋を蔚山の英雄としている。
 第二の山場は当然ながら、関ヶ原の合戦で、秀秋が松宮山から大谷刑部陣へ突入をするまでの心の葛藤を描いている。というよりも最も効果的なタイミングを狙っていたというべきか?。家康が鉄砲を打ち込む逸話は採用しているのは物足りないところだ。ここまで書いたのなら史実であいまいな鉄砲打ち込みはカットすべきではなかったかと思った。
 いずれにしろ、ここでは若き戦国武将秀秋の武将としての覚醒から死までを簡明な文章で表現しており、新たな秀秋像を確立できた作品として評価したい。

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2018年9月22日
於:サントリーホール(1階11列右ブロック)

東京交響楽団、第663回定期演奏会
指揮:ユベール・ズダーン
ヴァイオリン:堀米ゆず子

ハイドン:交響曲第100番「軍隊」
モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第四番

ベートーヴェン:交響曲第六番「田園」

クラシックの王道を行く3人の作曲家から、1曲づつの選曲。定期公演でこういう名曲コンサート風のプログラムは珍しい。大体定期となると1曲くらいかっこつけて、現代音楽や、だれも聴いたことのないような音楽を引っ張り出して、聴き手の「蒙」を「啓」いてくれるわけだ。しかしズダーンが考えたのかは不明だが、今夜のようなプログラムを衒いもなく設定する「勇気?」に拍手したい。まあたまには肩の力を抜いて音楽を楽しみたいではないか?

 しかし、今日のズダーンの演奏は相当見事なものである。彼が常任の時に最も素晴らしいと思ったのはシューベルト交響曲全曲演奏会である。特に前半の6曲は今まで聴いたことのないサウンドと音楽造形で若きシューベルトのこの交響曲群が単なる習作ではなく、それぞれ十分存在感のある曲だと教えてもらったのである。それ以来注目している指揮者である。彼のスタイルはピリオド奏法ではないが、かといって伝統的な演奏スタイルともいささか違う。弦はノンビブラートのようにきりっとして透明だし、各パートはどんなに大きな音を出しても混濁しない。金管も遠慮会釈なくバロック風に吹き鳴らすし、ティンパニは思い切り乾いた音で、常に存在感を表す。そういうスタイルは今日の演奏でも感じられれた。

 今日の「田園」を聴いていて、常任のころの彼のそういう音楽つくりのいくつかを思い出した。「田園」では2楽章が実に素晴らしい。それは淡いトーンで、絵でいえばまるで水彩画か印象派を思わせる雰囲気である。全体に淡いベースのサウンドの中で、弦はピンと張りつめているが、うるさくないから、アクセントとして効いている。しかもそういう淡いなかで、弦とともに存在感を発揮したのは木管群、オーボエとフルートの掛け合い、クラリネットとファゴットとの掛け合いが、淡いトーンの中から高弦のきりりとした音とともに浮かび上がってくる。なんとも素敵な音楽だ。
 そして、3楽章~4楽章はそういうムードはかな切り捨てて、荒々しい音楽になるが、ここでも田舎の人々の踊りでの木管の掛け合いも見事なもので一服の清涼剤になっている。
 演奏時間は45分、反復も行っているのでかなり早い演奏だが、カラヤンのようなスポーツカーでアウトバーンを駆け抜けるような、速さとは質の違う、肌触りだった。これは多くの人に聴いてもらいたい「田園」だ。

 「軍隊」は遊び心満杯の、おおらかな演奏である。特に2楽章と4楽章のおもちゃ箱をひっくり返したような打楽器の騒々しい音は楽しい。ティンパニは電電太鼓のようにぱんぱん云っているし、大太鼓は左手にもったスティックを大太鼓のフレームにかんからかんから打ち付けるのである。演奏時間は24分

 堀米ゆず子をソロに持ってきたモーツァルトはまた一味違う。これは宮廷音楽風の実に「雅」な音楽に聴ける。オーケストラの数もベートーヴェンの半分以下に絞り、室内オーケストラ風になっている。堀米のヴァイオリンは豊かなヴォリューム感と繊細さを兼ね備えたもの。個人的にはカルミニョーラのきりっとしたヴァイオリンのほうが好きだが、これはスタイルの違いだから仕方がない。この極上の響きに浸っていればよいという音楽もたまには良いのではないかと思わせる演奏だった。演奏時間は22分。

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2018年9月21日
於:NHKホール(1階18列中央ブロック)

NHK交響楽団、第1892回定期公演(Cシリーズ)
指揮:パーヴォ・ヤルヴィ

 ソプラノ:ヨハンナ・ルサネン(クレルヴォ)
 バリトン:ヴィッレ・ルサネン(クレルヴォ)
 合唱:エストニア国立男性合唱団

シベリウス
   :レミンケイネンの歌
   :サンデルス
   :交響詩「フィンランディア」

シベリウス
   :クレルヴォ交響曲

オールシベリウスプログラム。しかも全曲とも声楽付きという意欲的なプログラムである。声楽部は海外から招聘している。合唱のエストニアはパルヴィの故郷の合唱団。1997年にストックホルムフィルとクレルヴォ交響曲を録音した時(ヤルヴィはまだ25歳、ジャケットを見るとまだ髪の毛はたくさんある)も合唱はこの団体だからお気に入りなのだろう。

 前半の3曲はフィンランドの民族的な題材の音楽でいずれも血沸き肉躍る演奏。フィンランディアは交響詩の中間に男声合唱のフィンランディア讃歌が挿入される。後半の盛り上がりもあって、久しぶりに熱くなるフィンランディアを聴いた。

 クレルヴォはもともと交響詩として初演されたらしいが、初演時(1892年、シベリウス27歳)大成功だったらしい。しかし不思議なことにシベリウスはこの曲をお蔵入りしてしまう。完成度が低いものとして、本人が気に入らなかったためのようだ。改訂癖のあるシベリウスにしてはその後手を加えてはいないようだ。再び日の目を見るのはシベリウスの亡くなった翌年1958年、娘婿の指揮による。
 クレルヴォはフィンランドの民族叙事詩のカレワラからとられている、一種の英雄譚だが、内容はまるでニーベルンクの指輪のワルキューレのようだ。クレルヴォはジークムントだし、彼に犯される妹はジークリンデ、父親のカレルヴォはウオータンだし、ウオータンを倒したウンタモはフンディングだろう。北欧神話はどこかでつながっているのだろうか?

 若きシベリウスのこの作品を聴いていると、ところどころすごく懐かしい、東洋風の楽想が聴こえてくるような気がする。2楽章や4楽章などがそうだ。
 最近ヤルヴィがパリ管とシベリウス交響曲全曲を録音したそうだ。パリ管とヤルヴィのシベリウスはピンとこないが、実演でもせっせと演奏しているらしい。シベリウス嫌いのフランス人に聴かせたいのだそうだ。ドイツでもシベリウスは人気がないらしい。しかしベートーベンもベルリオーズも生めなかったイギリス人はシベリウスが大好きだそうだ。そんなイギリス人の気持ちがわかるような気がする。今よく聴くシベリウスの演奏はジョン・バルビローリの指揮したもので、そのほかではカラヤンやオスモヴァンスカの演奏が好きだが、リマスターされたバルビローリ演奏は少々、大げさな身振りもあるがとても気に入っている。来週ラトル/ロンドンの来日公演でシベリウスの五番を聴くが楽しみである。以上雑談。

 さて、クレルヴォは3楽章(ソロと合唱)、5楽章に(合唱)がカンタータ、その他はオーケストラのみの5楽章形式の長大な音楽である。演奏時間はおよそ76分(ヤルヴィの97年の録音とほぼ同じ)。
各楽章にはタイトルがついている。
1楽章:導入
2楽章:クレルヴォの青春
3楽章:クレルヴォとその妹
4楽章:戦闘に赴くクレルヴォ
5楽章:クレルヴォの死

25分近い演奏時間の3楽章が聴きごたえがあった。ソロもフィンランドからスペシャリストを招聘して特にヨハンナはイゾルデも歌っているだけあって立派な声、ヴィッレはエンジ掛が遅く、3楽章の妹が死んだ後のあたりから声も豊かになってきた。
 合唱はもう少し迫力があるかと思ったが、声は遠くから聞こえたのはホールのせいだろうか?
 ヤルヴィの演奏はいずれも自家薬籠中のグラム、最後まで熱演。フィンランディアは最後で大見得を切ったり、クレルヴォの緩徐楽章などの歌心はさすがと思わせた。N響も熱演。
 終演後のブラヴォーのフライングはいけなかった。やるならもっときちんとしてほしい。中途半端なブラヴォーならやめよう。〆
 

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