ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2018年08月

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2018年8月20日

「かちがらす・幕末を読み切った男」、植松三十里著、小学館

17歳(1830年)で鍋島藩主となり維新後、亡くなるまでの「鍋島直正・(閑叟)」の伝記小説である。
 鍋島藩と云えば維新後、薩長土肥といわれるほどの新政府の柱だったわけだが、結局薩長に牛耳られてしまうのは、この直正の幕末での中立主義のせいだろうか?そういうイメージをもって読み始めたが、この人の魅力は、要するに、人の心の機微をとてもよく理解し行動した人で、そういう意味でこの人もぶれない人なのである。藩主と云えば専制というイメージがあるが、そのころの佐賀藩は貧窮の極みで、直正が江戸から佐賀へ藩主として旅立つ日には、掛け売りの商人たちが借金を踏み倒されることを恐れ、江戸藩邸に押しかけて、直正の出立が遅れたという逸話が残っているくらいで、勢い通常の頭脳の藩主としては、人の機微を読みながら生きて行かざるを得なかったのだろう。しかしこういう人生はさぞや疲れることだろう。

 直正の開明主義的な行動は、同じく開明主義で有名な、島津斉彬と甲乙つけがたい。むしろ先鞭をつけたところが、彼の真骨頂だ。それもおそらく長崎防衛を一翼を担った責任感によるものだったのだろう。
 反射炉の製造、鋼鉄の大砲の製造、小型ながら西洋艦の製造、種痘の啓蒙など、それぞれの逸話はどれも面白く、またそのそれぞれの製造にまつわる人々の直正に対する尊敬と熱意も興味深い。おそらく佐賀藩は幕末でも最強の軍隊をもっていたはずで、新政権のリーダーシップが取れたはずだが、内戦を嫌った直正のぶれない姿勢が実際の新政権の有り様になったのだ。慶喜も結局直正に説得され、内戦を避けることに徹したという描き方をされており、海外の介入を避けた賢明さが強調されている。

 直正のぶれない人生が立派すぎるように思えるのは、直正が本作の中心だから已むをえまい。幕末の志士や、江川太郎左衛門、鳥井耀蔵、高島秋帆、井伊大老なども登場するが、焦点としてはぼけているのもしかたなかろう。むしろそうだから直正の生き方が浮き彫りになるのだ。
 なお「かちがらす」とは佐賀のほうにいる鳥でかささぎの事のようだ。名前から縁起が良い鳥とされている。
 これは実に面白い本で、久しぶりに一気に読んでしまった。組織の長の在り方としても、今の人々にも大いに得るところがあるだろう。

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2018年8月18日

「巨悪」、伊兼源太郎著、講談社
重厚かつ複雑なプロットを持った力作である。特捜部の検事たちを描く群像的な構造もあるが、そのなかでも検事歴12年で特捜部検事に抜擢された中沢源吾が主人公である。冒頭に友美という女性が惨殺するシーンが出てくるが彼が検事になる動機ともなり、この事件の終結とも関与するので、最初からは読み飛ばせない。
 さて、事件の発端はワシダ運輸に対する脱税容疑、特捜検事の中澤が偶然も重なって、キャリアが浅いにもかかわらず主任検事になってしまう。しかし彼の検事方針は上司とはぶつかり、結局この案件はお蔵入りになってしまう。一方時の与党民自党の西崎議員の選挙規正法違反の案件があり、友軍となった中澤が応援に加わる。そこでの主任検事の高品、事務官の臼井や吉見、高校時代の野球部のコンビの城島捜査事務官らとの調査活動によりこの事件が底なしの深さを持っており、お蔵入りのワシダ事件とも関連があることが次第に解明されてくる。
 その間に表面的になる,検事間の政争や、政界のうごめき、巨悪のタイトルのもとになった2兆円もの東日本大震災の復興資金に群がる政財界、などが描かれる。また中澤と城島とのぎこちない友情の復活、検事と事務官との交流などの挿話もなかなか生きていて、読みごたえがある。

 惜しいのはクロージング(最終章:覚悟)が美しく、いささかつくりめいたものに感じられることだろう。大きく広げた風呂敷を閉じるのはなかなか難しいということだろう。もっともこれは次の作品に続くということを示しているのかもしれない。いずれにしろ、検事の厳しい生活を垣間見るという意味でも、読んで損はない作品だろう。

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2018年8月15日

「アクシデントマン」、イギリス映画、イギリス訛りのセリフが、ハリウッド映画とはまた一味違った英語映画でアクセントが面白かった。

 アクシデントマンとは主人公のマイク・ファロン(スコット・アドキンス)の職業の一部を表している。彼は暗殺集団に属し、事故死に見せて殺すプロだったのである。ビッグ・レイ(マイクのお師匠さん)をリーダーのもと、結束の固い集団であった。ミルトンが依頼主から依頼をもらいそれを、レイに伝達、さらに具体的な指示を個々に下すという仕組みになっている。
 ある企業の会計士の暗殺をうまく行い事故死に見せかけたが、ミルトンから報酬は直接依頼人からもらってくれとの連絡を受ける。しかしそれは罠でマイクは何者かに襲われる。九死に一生を得るが、この事件には裏があるとみて、調べ始める。
 一方別れた妻、ベス(レスビアンで環境保護主義者)は自宅で暴漢に襲われ惨殺されてしまう。ベスの活動、それと自分が殺した会計士とのつながりなどをたぐるとバックには大きな組織が動いていた。
まあ、こういうお話はよくあるにしても、殺し屋絡みというのはなかなかのプロットだと思ったが?
問題は、シナリオの恥ずかしいレベル、演技もばらつきがあり、要するにこの映画はマーシャル・アートの品評会のようなものだとということを覚悟してみなくてはならない。長々と続くもたもたとした格闘は、早く次に行ってと云いたいぐらい、稚拙。話は悪くないのにもったいない映画だった。はまる人はいるかもしれない。〆

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2018年8月14日

「天地に燦たり」、川越宗ニ著、文芸春秋

今年の松本清張賞を受賞した作品だ。文禄・慶長の戦役を舞台にしている。なお、朝鮮では壬辰の倭乱と呼ぶ。
 主人公は日本、朝鮮、琉球から一人づつ出ている。日本からは島津の重臣、大野七郎久高(のち樺山姓)、朝鮮からは釜山の被差別民「白丁」の出身の明鐘、琉球からは役人だが各国に働くスパイの真下である。
 この3人が戦場で、戦後、そして島津の琉球侵略戦で遭遇する。その接点が物語の柱だが、ここで描いているのは「礼」である。要するに敬があり、礼があれば、人々は相和し平和に暮らせるというものである。これをまた「王」と「覇」の違いとは何かといった違う切り口でしつこく語る。
 結局、著者は「礼を説く大明国を目指し、礼を尊ぶ朝鮮国を攻め、礼を守る琉球国を獲る、禽獣の国日本」と云いたいらしい。まあ読んでいてあまり気分の良いものではない。特に琉球を「守礼之邦」だということを何度も何度も云うのは、少ししつこくはないか?
 時代の一部を切り取り、日本の戦国時代の、殺伐とした、武士たちの精神を疎ましく思うのはよくわかるつもりだが、どうもそのことを現代の日本に投影させようとしているような気がするのは、読み手のへそが曲がっているということだろうか?

 論語や中庸、孟子などの引用が多く、抹香臭く、説教じみた文章が鬱陶しい。

 飯島和一氏の著書「聖夜航行」とほぼ同じ時代の、明、朝鮮、琉球、日本を舞台に描いているが、読後感はそうとう違う。関心のある方は読み比べて欲しい。大体ほぼ同じ時代を描いたこの2作品が、ほぼ同じ時期に出版されたというのは偶然ということだろうか?

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2018年8月14日

「ゴッホ・最後の手紙」

イギリス・ポーランド合作映画。ゴッホの亡くなった翌年の1894年からの物語だが、ゴッホの人生を描いてもいる。
 主人公はアルマン。父親が郵便局長でしかも多筆のゴッホとの付き合いで、ゴッホとは友人関係になる。父親の依頼でアルマンはゴッホがテオ(ゴッホの弟)への最後の手紙をテオに届どけるよう依頼される。
テオの行方を求めて、画材商のタンギー、オーベルニュ時代の宿屋の娘、ゴッホの病を診た、ガシェ医師、その娘や家政婦、貸しボート屋のおやじらと会う。結局テオはゴッホの死去の後、半年で亡くなってしまうということを知る。
 アルマンはゴッホにかかわる人々と会うにつれ、ゴッホの死の原因が銃による自殺なのか疑問に思うようになる。ここからは少しミステリー仕立てになってゆく。

 この映画の面白いのは、全編アニメだということである。それも背景などはおよそ100人の画家たちがかいているのだそうだ。しかもその絵はすべてゴッホの筆致に似せているのである。オーベルニュの教会、星月夜、飛び交う烏、など。登場人物はもちろんゴッホやテオをはじめ、実在した人物であるが、その顔が声優をしている俳優たちに似せているのも面白い。
 アルマンのゴッホの心の旅路はゴッホの心の本当の姿を描いているようで感動的だった。アニメだが至極凝った、良い作品だ。

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