ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2018年08月



2018年8月31日


ワーグナー「ローエングリン」、2018年7月25日バイロイト公演、ライブ映像(NHK)

今年のバイロイト、オープニングの出し物は新演出の「ローエングリン」だ。たしかアラーニャが歌うことになっていたと思うがキャンセルしたらしい。かわりにピョートル・ペチャワが歌う。

 今年のローエングリンは新演出への期待もさることながら、歌い手の豪華さ、ティーレマンの指揮など、音楽面での期待が非常に大きい。過去の演奏を全部聞いているわけでもなく、発売されたCDも全部きいたわけでもないが、私が聴いた中では1962年のバイロイトライブ、サヴァリッシュ指揮のものと甲乙つけがたいキャストだ。(サヴァリッシュ盤は長年の愛聴盤である。)

 さて、今回のキャストは以下のとおりである。右側にかっこ表示したものが62年のキャストである。

 指揮:クリスティアン・ティーレマン
 演出:ユーヴァル・シャロン

 ローエングリン:ピョートル・ペチャワ(ジェス・トーマス)
 エルザ:アニヤ・ハルテロス     (アニヤ・シーリア)
 テルラムント:トマシュ・コニエチュニー(ラモン・ヴィナイ)
 オルトルート:ワルトラウト・マイヤー(アストリッド・ヴァルナイ)
 ハインリヒ王:ゲオルグ・ツェッペンフェルト(フランツ・クラス)
 軍令使:エギリス・シリンス(トム・クラウゼ)

いまでは、ローエングリン歌いと云えば、日本ではフォークトばかり聴かされているので、洗脳されたような気分になるが、ドイツ人でないペチャワのローエングリンだって決して悪くはない。むしろ生一本の若々しさは大変好感をもって聴いた。アラーニャじゃなあと思っていたが、代打が活躍した思いだ。
 ハルテロスは62年のシーリアに比べるとだいぶ貫禄があるが、堂々とした歌唱は、声がスムーズに変化する安定感とあいまって舞台を引き締めている。
 コニエチュニーのテルラムントははまりすぎて気持ち悪いが、この人が「こういう役をやったら」という良さが出ている。マイヤーのオルトルートはもう定番の演目だが、おばさんになったというのは否めないが、しかし声が出始めると、これもしっかり舞台を引き締める歌唱である。先年バイエルンと来日した際にもこの役だったが、映像なので比較にならないが、今回のほうがずっと引き締まって素晴らしいと思った。 ツェッペンフェルトのハインリヒ王もはまり役だ。この人を欠いたバイロイトは考えられないくらいの安定感。その他軍令使にシリンスを使うぜいたくさ。
 印象に残った歌唱は1幕のローエングリンとエルザの禁問の場面、若々しいローエングリンの情熱に対して、なぜか少し醒めたような、不安なエルザが声に出ていた場面。
 2幕ではオルトルートとテルラムントの2重唱、そして2場になってエルザ、ローエングリン、テルラムント、オルトルートの言い争いの激烈さ、王位を否定されたハインリヒの屈辱感などがないまぜになった見事な場面。
 3幕ではやはりローエングリンが素性を明かす場面の細身ながら輝かしい、ペチャワの歌唱。そして全幕、力強い合唱団も忘れてはいけない。

 ティーレマンの指揮は好き嫌いが分かれるかもしれないが、私は堪能した。少しけれんみのある演奏は、サヴァリッシュの一直線の指揮とはだいぶ異なる。しかしこの演出のようなおとぎ話風の舞台にはむしろこういうやりすぎくらいの面白さがあってもよいと思う。サヴァリッシュの時の演出はウイーラントによる、象徴的な舞台だったらしいので、サヴァリッシュのような指揮が合ったのだろうとも感じた。いずれにしろ今回の「ローエングリン」は私には音楽的に隙のない演奏に思えた。こういう演奏ならバイロイトで聴いてみたいものである。

 さて、演出である。この前のローエングリンの演出ではネズミの国の物語であったが、今回は昆虫の物語のようだ。主役の皆さんは背中に透明な羽をつけている。これは象徴的なのだが、つまりハインリヒやエルザのような人々には羽が生えているが、異郷の地から来たローエングリンには羽が生えていない。しかし1幕でローエングリンがエルザと婚約した場面では羽を背負うのである。さらに、3幕のエルザが禁問の誓いを破った場面では、ローエングリンは泣く泣く羽を脱ぐのである。
 オルトルートは異教の女であり、1幕では偽装で羽をつけているが、2幕の1場では本性を現し羽をつけていないのである。テルラムントは当然羽をつけているが、3幕でローエングリンに倒されると、羽をもぎ取られ、舞台の大木に標本のようにピン止めされる。生死や差別を比較的わかりやすく象徴化したものであろうが、ここまで手の込んだことをしなくてもと思う。バイロイトでは今の演出の前のパルジファルでも羽を使っていた。どうもドイツ人は羽が好きなようだ。

 この演出でもう一つ象徴的なのは「電力」である。舞台には1幕では変電用の碍子が転がっていたり、3幕ではローエングリンとエルザの新居が輝かしいオレンジ色で塗られ、中央にある碍子の柱は黄色で光っている。発電所のようだ。テルラムントらが近づくと、電線がピカピカと輝く。
 ローエングリンはステルス戦闘機のような乗り物で到着するが、衣装は作業着のようなものだ。パイロットか、技師か、わからない。それが2幕では甲冑をつけ、3幕ではおしゃれな上着をつけ、そして去るときはもとの作業着で去る。
 1幕から舞台の中央奥には四角い建物があり、これは発電所を表しているようだ。しかしこの電力がらみのセットが最後どうなるかと云うと全くどうにもならない。爆発でもして、自然破壊をおこし、ローエングリンは失意の中去ると云うならわかるが、舞台は何の変化も起きないのである。ただテルラムントは感電して死ぬなど云うこひねりはある。
 最後の場面はゴットフリートは群衆のなかから現れるが、これが全身緑の装束、帽子もひげもコートも、長靴も、そして手には植物の苗を持つ。まあ自然を表しているのだろうか?しかしおかしいのは、バイエルンの集団自殺とは違うが、似たようなことが起こる。つまり失意のローエングリンが去ると、兵士や群衆はその場で倒れ、なんとエルザはゴットフリートと手をつなぎ舞台中央に立つ。オルトルートは不思議な顔をしながら、倒れた人々を見ている、幕。この3幕が一番拍手が少なかったのはこの演出のせいだろう。
 以上二つの象徴物は不明な点がないとは言わないまでも、ネズミに比べればかなりわかりやすく、歌の邪魔にはそれほどなっていないような気がした。
 そのほか1幕での神明裁判でのテルラムントとローエングリンの空中での決闘(ちょっとしょぼいが)など見せ場数々あり、そういう意味では飽きさせない舞台である。
 衣装はレンブラントの「夜警」から抜け出たような男性、そして女性はブリューゲルの絵から抜け出たような農婦の衣装が印象的。

 印象としては音楽も舞台も近年のバイロイトの好調ぶりを象徴している出来栄えだ。これなら見る価値ありと思う。

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2018年8月28日

「戦国日本と大航海時代」、平川 新著、中公新書

これは実に面白い本だ。最近読んだ小説で「大地に燦たり」や「聖夜航行」の2冊がちょうど本作で取り上げられた時代であり、2つの小説の時代背景が実によくわかる。もしこの2冊の作品をこれからお読みになる方は、この新書本を先に読むと一層面白いだろう。

 さて、本作は戦国時代から徳川秀忠が鎖国をするまでのおよそ100年の日本の外交史を描いている。

まず、日本の外交といっても、この戦国時代は、国として統一したものがあったわけではなく、特にポルトガル人らが日本にくるようになってからは、九州の大名たちがそれぞれ独自に海外と通交を行っているという。これが統一した外交となるのはもう家康の最晩年であるという。伊達政宗が支倉常長をメキシコやスペインに派遣したのが個別外交の最後である。
 しかしながら、国家の統一の過程で登場した3人の英雄、つまり信長、秀吉、そして家康には共通の外交ポリシーがあった。ざっくり云うとそれは第一にはその当時世界を二分した大国ポルトガルとスペインに対する姿勢である。三者三様ではあるが、日本の英雄たちはこの両大国とは対等の国として対応したということである。その思考の中で秀吉の朝鮮~大明国への侵略があり、さらには秀吉はルソンへの侵略すら考えていたという。その思考の背景には戦国時代を通じて培われた強大な軍事力がある。その当時の世界で秀吉が征明に一度に動員した30万人もの兵を用意する国などなかったからである。そしてこれが他の国がスペインやポルトガルの植民地になったのに、日本がそれをはねのけることができた要因としている。

 第二にキリスト教と通商の考えである。これもざっくり云ってしまえば、信長、秀吉、家康は決してその教義に共感し、クリスチャンにならなかったわけで、彼らには海外との通商が魅力だったというわけである。それに対して、ポルトガルやスペインは、布教と通商はあくまでもセットとというスタンスだった。しかもスペインらの手法は布教を通じて当該国に浸透し植民地にしてしまうということで、それはイギリスやオランダの告げ口以前に日本の3人の英雄たちは先刻認識していたことなのである。しかし通商による莫大な利益は魅力であり、新鮮である。キリシタン禁令は何度も出るが、結局秀忠の時代までは通商と布教の間で、日本の為政者の心も揺れ動いて、なかなか徹底されなかったのはそういう背景であるという。


 その他本書では興味深い記述が満載であり、この時代に関心の高い方には大いに参考になるのではないかと思う。新書ではもったいないくらいの内容であった。

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2018年8月26日

「聖なる鹿殺し」

原題も「The Killing of Sacred Deer」である。なんとも奇妙なタイトルだが最後の部分で明らかになるだろう。
 スティーヴン(コリン・ファレル)は大病院の心臓外科医である、妻アン(ニコール・キッドマン)は眼科医、そして長女キム、長男ボブのしあわせな家庭。
 スティーヴンは半年前からマーティンという少年と接触している。マーティンは彼の父親がスティーヴンの心臓手術で亡くなっているという過去を持っている。これは次第にわかっていることなのだが!
 スティーヴンはおそらく後ろめたさもあってそれほど裕福ではないマーティンに金銭や時計などをプレゼントしている。またスティーヴンはマーティンを自分の家族に紹介、家にも招待する。物語は、そういう布石の中、マーティンは次第に奇妙な行動をとるようになる。スティーヴンをはじめ、家族へのストーカーまがいの行為がそれだ。そしてやがて長男のボブが奇妙な病にかかってしまう。マーティンがかかわっているのは推定できるが、病気の原因は全く不明である。
 次第にマーティンがスティーヴン家に侵食するさまが、長々と続くが、それが不気味である。家族を選ぶということを強制されるスティーヴン、なんとも戦慄の結末だ。
 心理ホラーというだけあって、画面や音楽がもってまわったしつこさがあり、それが好き嫌いの分かれ目だろう。異色のホラーだ。〆

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2018年8月24日

「神の子」、薬丸 岳著、光文社文庫

「友罪」などの少年犯罪を描いた作品を書いている著者の少し毛色の変わった作品だ。主人公は町田という青年である。子供のころシングルマザーが彼を学校にもやらず、しかも戸籍すらいれられていない、育て方をする。しかし町田は驚異的な知能指数の持ち主だったのだ。彼に目を付けた同じく天才の犯罪者室井は、彼をオレオレ詐欺のプランナーにする。町田はある事件で殺人事件を起こし少年院に入る。
 しかし室井は町田に執着し触手を伸ばし続ける。町田は少年院を出た後、少年院の担当であった内藤のつてで町工場に勤めながら、大学院に通う。町田の人生は次第にまともになってゆくが、しかしことはそう簡単に済むはずはなかった。

 薬丸氏の作品は、非情なリアリズムが真骨頂ではなかったかと思うが、本作品はそういう意味では、緩い小説だ。現代のおとぎ話みたいな読みごたえであり、話に本当らしさが感じられないところが、いままでの薬丸作品と大きく印象が違うところではあるまいか?

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2018年8月23日

「孤高のスナイパー」

デンマーク映画。スナイパーものか?と思って見始めたが、政治謀略物だった。

 主人公はミア・モースゴー、ジャーナリストである。現政権が地球環境ほどを売り物に、グリーンランド周辺の大規模油田の開発を凍結を公約にして勝利を得た。しかし政権を取って間もなく、なんとアメリカとグリーンランド、企業との密約が明るみに出る。膨大な埋蔵量を背景に開発を開始するというものである。
 ミアはテレビ対談で外務大臣に対して公約違反を厳しく追及、世論の反発も大きいと訴える。ミアの扇動ともとられるインタビューが思わぬテロ事件を誘発するのだ。この映画の面白いところはスナイーパーがプロではないところだろう。むしろスナイパーは環境問題のプロであり、ミアとスナイパーは共感を抱きあうというところがみそ。

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