ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2018年07月

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2018年7月25日

「ブリムストーン」

異色の西部劇である。ただしこれは西部を舞台にしているだけで、「聖書」との関連で人間の愛憎を描いたものに違いない。西部劇とはいえアメリカ資本だけで作られているわけではない。欧州の多くの資本が入っているようだ。

 話は端折っていってしまえば変態聖職者の父親とその娘の愛憎である。娘からしたら「憎」しかないだろうけれど?変態聖職者と云えばボストンポストの「スクープ」が印象的で、西部劇でなければこういった映画になったかもしれない。西部劇という隠れ蓑を取った理由はよくわからないが、まだ南北戦争前、移民たちも地に足がついていない、強いものが勝つ、法はあるが解釈自由、そういう混とんとした時代背景が欲しかったのではないか?

 主人公はダコタファニング扮するリズ、場所はわからないが西部の片田舎、イライ(ウイリアムヒューストン)と結婚。後妻である。イーライには男の子が連れ子でいる。そして女の子も生まれ夫婦は愛し合っている。リザは耳は聴こえるが話ができない。助産婦のまねごとをしているがある事件を契機にイーライ家は災いに巻き込まれる。ガイ・ピアースはこの地域担当の司祭で顔と首に切り傷のある、異様な牧師である。リズと牧師の間に何があったのか?それがこの映画のキイである。
 このイーライとリズの一家と牧師を描くのが第1章「revelation:黙示」である。この映画は全部で4章からなっている。全体で140分の長尺ものである。

 第2章はリズがいかに声を失ったかを描く。(exodus:出エジプト記)
 第3章はリズの生い立ちを描く。オランダ移民の子である。(genesisi:創世記)この2章は詳しく書く     わけにはいかない。
 第4章はいよいよリズと牧師の対決。そして予想外の結末。(revelation:報復)

聖書に不案内のものにはガイピアース扮する牧師の正統性がよくわからない。これだけの暴論をはく聖職者が存在したのは異常なことなのか、それとも荒廃した西部の田舎都市では違和感がないのか?4つの章の聖書からとったタイトルはとってつけたようで、宗教心のあつい欧州人にはピンとくるだろうが、私のようにキリスト教の知識の源泉が映画というものにとっては今一つ形だけのような気がする。まあ立派な賞を取ったらしいから名画なのだろう。ミステリー仕立てのところのみ面白い映画だ。そっちを主にすればよかったのに!
 なお、原題のBRIMSTONEは町の名前かと思ったがそうではなく、辞書を引く「がみがみ女」といった意味である。口が利けない女が主人公だからその反対語でがみがみ女なのだろうか?

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2018年7月24日

「ネイビー・シールズ/ナチスの金塊を奪還せよ」

2012年の「ネイビー・シールズ」のリメイクと思いきや全く違う作品。現題が「Renegades」というのは意味が分からないが、辞書を引くと「裏切り者」のようである。この映画を見ていてはたして誰が裏切り者なのか?

 仏独合作映画で、リュック・ベッソン原案、プロデュースが売りのようだが、内容は全くお粗末で、アクション映画で見ながら眠くなってしまったのは、あまり経験がない。

 サリバン・ステイプルトン演ずるシールズの5人組の隊長マットは優れたリーダーで冒頭の挿話でセルヴィアのミリッチ将軍を誘拐するがなかなか小気味の良いチームワークだ。ただ期待できるのはここまで。
部下のスタントン(チャーリー・ビューリー)のボスニア・ヘルツェゴヴィア人の恋人ララ(シルビア・フックス)の祖父の話で、昔祖父が住んでいた村がダムの崩壊で水没、その水中に3億ドルもの金塊が眠っているという話を持ってくる。5人とララはへルツェゴヴィナ復興に半分残りは山分けということで話をつける。この金塊は実はナチスがパリ銀行から1944年の8月に強奪、それをその当時のユーゴに隠そうとしたというもの。
 たまたまシールズの駐屯していた近くの湖に沈んでいるなどというご都合主義には付き合えないが、全編そういう話の連続、映画はもともとご都合主義の塊のようなものだが、それにしてもこれはあまりにもひどいものだ。主人公の性格に陰影を作ろうと悲しい話を盛るというのも姑息であるし、もう少し真面目に作ってほしい。アメリカ人の嘘くさい行動を見ているとみているほうが気恥ずかしくなる。〆

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2018年7月19日
於:東京文化会館(1階7列中央ブロック)

カール・マリア・フォン・ウェーバー「魔弾の射手」、二期会公演(ハンブルグ歌劇場との共同制作)

指揮:アレホ・ペレス
演出:ペーター・コンヴィチュニー

オットカル侯爵:薮内俊弥
クーノー:伊藤純
アガーテ:北村さおり
エンヒェン:熊田アルベルト彩乃
カスパル:加藤宏隆
マックス:小貫岩夫
隠者:小鉄和弘
キリアン:杉浦隆大
ザミエル:大和悠河(ザミエル3幕のみヴィオラ:ナオミ・ザイラー)

合唱:二期会合唱団
管弦楽:読売日本交響楽団

魔弾の射手は久しぶりの公演だ。新国立では2007-8のシーズンきりだし、国内ではあまり公演情報を聴いたことがない。やはりジングシュピール公演の難しさだろうか?しかし「魔笛」などは年中どこかでやっているのだからそう単純な理由ではあるまい。今日もセカンドキャストのせいか、平日のマチネーのせいか、後方席ではかなり空席が目立った。序曲や、狩人の合唱などは学校の音楽の時間に必ず聴くのだけれど、ウェーバーという人は音楽史のみの人なのだろうか?
 かくいう私もこの曲のライブは2回しか経験がない。前回は2012/12/2のワルシャワ室内歌劇の来日公演で、これはいまもって行かなきゃよかった公演のベストワンである。そういうこともあって実は今回もあまり期待してはいなかった。それはコンヴィチュニーの演出ということがもう一つの要因として挙げられる。二期会、コンヴィチュニーと云うと、まず思い出されるのは2013/5/2のヴェルディの「マクベス」である。これはもうオペラではなく、音楽付きの芝居であるとブログに書いた。二期会では珍しく盛大なブーイングであった。そういう体験もあったのであまり期待していなかったのだ。結論的に云うと相当疲れる公演だが、案外と面白かったのである。

 まず音楽から行こう。ペレスという指揮者は随分若いが、オペラハウスの経験を随分と積んでいる、オペラの人のようだ。序曲は随分と物々しいが、ドイツの深い森を思わせる、深い奥行きを感じさせる。終結の前の休止の長さには驚くが、若さと取りたい。歌に入ると、オーケストラはある時は雄弁になり、ある時はひっそりと歌い手に寄り添い、実に気持ちの良い伴奏である。伴奏であるがここぞという時の迫力あるサウンドは聴きごたえがある。読響のサウンドも音楽の性格にあっていて、さわやかさとドイツ音楽の持つ独特の重量を感じさせる。

 歌い手は大きくがっかりした歌い手はないがかといって、これは忘れられないという歌い手もいない、しかし、上記のワルシャワの歌唱に比べれば2ランクも3ランクも上回っていることは間違いあるまい。日本のオペラ界の層の厚さを感じさせる。
 中でもアガーテを歌った北村さおりの細身ではあるが、すうっと伸びる自然な歌唱には耳を引き付けられた。2幕2場の8番のアリア、3幕の2場12番カヴァティーナは特に印象に残った。若手なのかよくわからないが、タンホイザーのエリザベートなど聴いてみたい歌手だ。
 マックスはリリック・テノールとしての美しさは十分持つが、もう少し「リキ」が欲しいところだ。
エンヒェンは主人公でもないのに出番が多い役どころで重要な歌い手だ。声は高音が少し苦しいように思えた。コミカルな雰囲気を出そうとはしていたが、中途半端に思えた。カスパルはもう少し低く重い声が好みだ。この役にしては声が軽すぎやしないだろうか?それをのぞけば好演。その他花嫁の介添えの女声やクーノー、伯爵など脇も不安がなく、このオペラを音楽として楽しむのに過不足は感じられなかった。

 公演はジングシュピールだからせりふが当然ある、今回の公演ではその台詞の部分は日本語で、歌唱は原語だった。日本語の字幕は左右に、舞台上には英語訳が掲載されていた。

 さて、演出はコンヴィチュニーだけにいろいろやっているが、がっかりしたマクベスに比べるとずいぶんとわかりやすい(不可解な部分がないとは言えないが)。本公演は1999年にハンブルグ州立歌劇場で初演されたものの演出の再演である。20年近い前の古新聞であるが、初めて見る者にとっては(私)案外と新鮮だった。少なくとも新国立のゲッツ・フリードリヒの「リング」よりは!

 印象としては2つあって、ひとつは相変わらず細かく意味付けをしているなあということである。これほどいろいろなことをしていると聴き手は一つの事を考えているともう次の場面が来てしまうので、何かせかされているようで落ち着けないのが難点だろう。けれども場面場面の面白さを楽しむということであれば、何の問題もないだろう。
 2つ目は舞台設定は衣装などから17世紀かとも思うが、2幕ではテレビ受像機まで出てくるし、装置でエレベーターも設置されているので、現代への読み替えかとも思わせる。おそらく、衣装や受像機はあくまでも小道具であり、時代設定にはあまりこだわっていないのではないだろうか?
 ドイツ風の怪奇幻想小説的な雰囲気は十分出ていて、それがこの演出の面白さにつながっているように感じた。また30年戦争の後遺症とも感じられるセリフなども、30年戦争とは切り離しても、普遍的な戦争の後の、荒廃を示しているようでもあり演出家の眼は広角である。

 細かいところを見てゆこう。やはり注目は元宝塚俳優の「大和悠河」演じるザミエルの取り扱いだろう。ザミエルを女性が演ずることの是非であるが、それほど違和感はない。ここで、ザミエルは「マクベス」での3人の魔女と同様舞台回しを演じている。何度衣装替えをしただろうか?インタビューでは14‐5着ということだから、逆にいうとそれだけ出番が多いということで、これはこの演出の特徴になっている。1幕のマックスが農民からいじられる場面からもうザミエルが登場する。ザミエルはスキンヘッドで黒のドレス、クラリネットやらホルンやらの自分の子分の楽団を引き連れて登場。戦場帰りの負傷した兵士のように皆足を引きずっている。彼らはなんと舞台左手の手前にある真っ赤なエレベーターから登場する。エレベーターは地階から7階までの表示がある。地階が狼谷である。エレベーターの階の表示に「狼」と書いてある。どうも地上は4階のようである。
 その他のザミエルの登場シーン。1幕の4場のマックスのアリアの間も地底から体を半分だしてマックスに付きまとう。その後のカスパールとの酒場の場面、酒場の女は妊娠したザミエルである。2幕のクーノー家のご先祖様の絵が落下するところにもザミエルはいる、上下黒の下着にコートを着た蓮っ葉なザミエルだ。2幕の後半狼谷の場面ではカスパールとの対話の場面で登場、白いパンツスーツのザミエル。カスパールとの契約はテレビのモニター上で行う。ここではカスパールはモニターの中で歌う。
 7つの魔弾が出来上がった時、マックスは気絶する。ザミエルは白のミニで登場。
 3幕では2場でザミエルが登場、エンヒェンの歌に合わせてヴィオラが舞台で演奏される。登場した女性のヴィオラ奏者(これは大和ではない)も頭に角が生えていて、悪魔風の衣装だ。
ただ3幕の狩人の合唱の前に幕は一度降り、ザミエルが正装で登場して、男として狩りの喜びのモノローグを長々と演じたのは蛇足だろう。繰り返しまでやったのだから!
 まあ書いてゆくときりがないからやめるが、ザミエルがいかに舞台上重要な役回りかわかるだろう。

 隠者の取り扱いも変わっている。1階1列目の12番席にタキシードの男が座っている。この男が2幕の1場でアガーテとエンヒェンの2重唱が終わると、急に立ち上がりブラヴォーと叫ぶ、そして白いバラの花束を舞台上に投げる。観客は何が起こったかよくわからない。さくらなのだろうか、それとも演出なのだろうか?しかし舞台が進むにつれこの男がアガーテの一挙手一投足について心配していることがしぐさでわかるようになり、かれが隠者なのだということがわかる。3幕では最初は客席で歌う。要するに隠者は村人とは隔離されて別世界の男という取り扱いのようだ。

 演出で不明快なのが幕切れだ。アガーテが撃たれたと思いきや、カスパールが死んでしまうというのはと書き通りだが、この流れがとても下手で何が何だかわからない。また領主が隠者に云われてマックスに特赦を与えてもマックスはへらへらとして他の女とイチャイチャしている。アガーテはそれを知ってか知らないのかエンヒェンとなにやら楽しげだ。やがて領主は金色の紙を娘たちに渡す。皆喜びのうちに幕。
領主がアガーテにべたべたしていたので、もしかしたらもしかしたらこの紙は領主の特権の免除にかかわることなのだろうか?この幕切れは少々理解ができない。

 装置について少々。1幕は天井にいびつな形状をした広い屋根があり、それは半ば切り取られて浮いている。それだけである。酒場の場面もザミエルがカウンターや酒を運んできておくだけ。2幕のクーノー家、アガーテの部屋は、左手に二階に上がる階段(クーノー家の絵があるが会場からは見えない)、中央に大きなテーブル。右手に大きな時計がある。狼谷ではこのアガーテの部屋の小道具はいろいろな角度に設置されなおされて、異様な雰囲気をだす。中央には旧型のテレビが置かれ、テレビの上には巨大なフクロウが座っている。このモニターはカスパールとザミエルの交信に使われ、また魔弾を作る際の炎を映し出す。マックスの登場はきちんとエレベーターにのって地階の狼谷で降りる。魔弾を作る場面は舞台は大きく揺れ動き、天井はぐるりと回転し、フクロウは落下して、怪奇な雰囲気を出す。幕が下りてもチクタクという時計の音が場内に響く。これは休憩時間中響き続ける。
 3幕のアガーテとエンヒェン、そして村の4人の少女の場面は、中央には大きな直方体の台があり4人はその台の上で歌う。ちょっと脱線するが彼女らは一様にぽっちゃりしており、二の腕は露出していかにも健康な少女ということを示しているが、さてその理由がよくわからない。3幕のフィナーレは天井から電球が一個吊り下げられているだけ。

 1幕と2幕は連続して演奏されたので100分近くかかったが、舞台上が常に動いているので全く長いとは感じなかった。通して演奏時間は152分である。

 コンヴィチュニーのきめ細かい演出はよくわかるが、いってはなんだけれど、たかがオペラでこれほど微に入り細に入り、オペラの台本と音楽を穿つように再生させる必要はあるのだろうかと思ってしまう。芸術だということはわかるが、もう少しお気楽に楽しみたいものだ。



 

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2018年7月19日

「マーシャル/法廷を変えた男」

1967年、アフリカ系としては初めてアメリカ最高裁判事になったサーグッド・マーシャル(チャドウイック・ボーズマン)の若き弁護士としての活躍時代を描いた映画。彼は全米黒人地位向上委員会の唯一の弁護士として東奔西走、会の目的は人種差別による冤罪事件の弁護である。
 1941年欧州ではナチが席巻している時代、コネチカット州ブリッジポートでは黒人、ジョゼフ・スペルが白人女性、ストルービング夫人をレイプした事件が起こり、地元では黒人の使用人が次から次へと解雇され社会問題になっていた。新聞でも大きく書きたてられた。
 弁護を担当したのは当然マーシャルであるが、彼の弁護士資格はメリーランド州のものであり、地元の弁護士の支援が必要だった。協会の地元の責任者のつてで依頼されたのはサム・フリードマン(ジョシュ・ガッド)だった。彼は子供のころミンスクから移民してきたユダヤ人だった。奇しくも、当時アメリカ社会では異質なものとして差別されていた者同士が組むことになった。フリードマンは保険専門の民事弁護士で、当初は躊躇していたが、次第にこの事件にのめりこんでゆく。マスコミ、社会が注目する中、公判が始まる。判事はメリーランド州の弁護資格をもつマーシャルの法廷絵の発言を禁じるという事態が起き、二人は窮地に追いつめられる。果たして裁判の結果はいかに?

 「デトロイト」にしろ、本作にしろアメリカ社会の差別問題は永遠の課題だということがかくのごとき作品が続々つくられる背景なのだろう。本作はそれに輪をかけてユダヤ人の扱いも加わった、2重構造になっているのだ。
 ボーズマンのきどったマーシャルの演技は鼻につく、一方フリードマン役のガッドの自然な演技には感心させられた。

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2018年7月18日

「シェイプ・オブ・ウォーター」

今年のアカデミー賞、作品賞、監督賞など4部門を受賞した作品。ファンタジーのような映画である。舞台は米ソ冷戦時代1962年ごろで、映像もそういう雰囲気が出ているが、ただその時代をリアルに映したのではなく、幻想的な雰囲気を出しているところが独自性。音楽もその時代の音楽を使うのではなく、ディズニーのおとぎ話にでも使えるようなソフトタッチだ。映画の中の例えば虐待の場面や殺人の場面、米ソスパイ戦の場面、とはギャップがあるが、しかしそのギャップのおかげでこの映画が大人のファンタジーとなっているのだと思う。
 主人公はイライザ(サリー・ホーキンズ)、施設で育ち、幼いころから声を失っている。映画館の屋根裏のような部屋で一人暮らし、ボルチモアの航空宇宙研究センターの掃除係。友人は同じ掃除係のゼルダと隣室の画家ジャイルズ(リチャード・ジェンキンズ)だけ。
 その研究センターに南米の河で発見された、現地人から神と呼ばれていた、「両生類の男」(ダグ・ジョーンズ)が連れてこられる。その警備主任、ストリックランド(マイケル・シャノン)は上昇志向の強い男。この両生類の男を使って出世をもくろむ。時は冷戦下でこの両生男を研究材料として解剖をすべきと上司に進言する。服従しない両性男を虐待をする冷酷な男だ。
 一方イライザはこの両性男が収容されている部屋の掃除をしていて、お互い口が利けない者同士、イライザと両性男は心が通じ合うようになる。しかし解剖されると聞き、ジャイルズらの助けを得てこの両性男を脱出させる。果たして、二人はどうなるのだろうか?

 どうみても奇怪な両生男とごく普通の女性とが愛で結ばれるということは、想像もつかないことだが、要は異質なものを差別したり、排除することに対する、反対語なのだろう。パイの店での、若い主人の同性愛的な行為への蔑視や黒人の入店への嫌悪などの挿入もそういうことだろう。しかしそれをファンタジーとしてオブラートに包む、その包み方が卓越している。演じ手は皆素晴らしいが、イライザ役のホーキンスは決して美人ではないが、どこか底知れぬ魅力のある女性として好演、マイケル・シャノンの怪演ぶりも特筆ものだ。
 シェイプオブウオーターの意味は「チャプター24」の最後でジャイルズが愛についての詩を語るその内容がヒントだろう。

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