ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2018年06月

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2018年6月28日

「否定と肯定」、レイチェル・ワイズ主演

レイチェル・ワイズはこいう役を演じたら天下一品である。「ナイロビの蜂」も薬品会社への運動を描いたものでまるで彼女のための映画だが、ル・カレの原作や相方のレイフ・ファインは影が薄かったくらいだった。

 さて、本作では、彼女(デヴォラ・ィップシュタット)はエモリー大学教授でホロコースト関連の研究の第一人者である、アメリカ生まれのユダヤ人である。彼女がペンギン出版から発行した作品がイギリスのデヴィッド・アービング(ティモシー・スパイル)という歴史学者)を侮辱しているということから名誉棄損で訴えられる。要するにはアービングはホロコーストというのは存在しないという立場なのである。原題の「DENIAL」はここからきている。アービングは親ナチ、親ヒトラー、の差別主義者である。
 アメリカの仲間たちからはほっておけという意見もあったが、デヴォラは受けることにした。しかし問題があった。英国法では被告が自分の無罪を証明しなければならないということである。例えば日本もそうだが、アメリカ法では原告が被告の罪を証明しなければならないのとはまるで反対の訴訟対策が必要だったのだ。

 訴訟が起きたのは1996年、裁判が開始したのは2000年1月だった。デヴォラ側は豊富な資金であのダイアナ妃の離婚訴訟に尽力したジュリアス弁護士(アンドリュースコット)や法曹界の重鎮、リチャード・ランプトン弁護士(トム・ウイルキンソン)など重厚な布陣で臨む。たいしてアービング側はすべて自分が訴訟活動を行った。
 裁判はデヴォラ側に有利に進むかと思われたが、ここで訴訟方針で弁護団とデヴォラとが激突する。まず今回の訴訟の発端の自分が証言をすることを禁止されたこと。次にホロコーストの生き残りたちの証言を封じたことだ。これはいじわるなアービングの質問に証言者がさらされることを弁護団は嫌ったからである。したがって裁判は公表されている、または公表された文書や映像などをもとにして展開した。デヴォラは弁護団に対して不信感を持ち続けるが、ある局面から、チームとしての信頼感を持つようになる。あとは裁判長の腹一つ。結果いかがだったろうか?

 この映画は実話に基づいている。しかしホロコーストがあったかなかったかを裁判で決めるという感覚はどうしても理解ができない。ホロコーストは歴史であり、歴史を司法が捻じ曲げることができようか?
しかもローマ時代の事件ならいざしらず、つい50年ほど前に起きた事件なのだ。こういう裁判を受ける裁判所も裁判所だと思う、個人も国も無駄なお金を使っているなあというのが率直な印象である。それが西洋文明、民主主義の源流と云われれば返す言葉もないが!
 ただ映画としては脇も締まっており、とても面白かった。悪者役のアービングはほとんど公判では道化だが、ティモシー・スペイルの怪演が恐ろしい。この映画はホロコーストが風化することを恐れた映画人としての矜持を示したものであるといえよう。若い人々にはみてもらいたいな!

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2018年6月28日
於:サントリーホール(1階17列左ブロック)

読売日本交響楽団、第613回名曲シリーズ
指揮:コルネリウス・マイスター

マーラー:交響曲第二番・復活
  ソプラノ:ニコル・カベル
  メゾ・ソプラノ:アン・ハレンベリ
  合唱:新国立劇場合唱団

復活という曲は大変失礼な言い方で申し訳ないが、どの演奏を聴いても最後の楽章を聴くといつも感動してしまう。今夜もそうだった。しかしこの演奏は大変立派なもので、一つはマイスターという指揮者のコントラストをつけた各楽章の描き方、そしてもう一つはソロのふたりの声にえらく感心をしてしまった。

 マイスターという指揮者はドイツ生まれでまだ37歳という若さである。今年シュトゥットガルト歌劇場の音楽監督に就任するとのことだ。ドイツの指揮者と云うとすぐにでてくるのはティーレマンくらいしかいないが、将来を嘱望された指揮者のようだ。24歳でハイデルベルグ歌劇場の音楽監督に就任したキャリアーはオペラ指揮者として大いに経験を積んだようだ。

 まあこんな経歴はどうでも良いのだが、おそらく今夜の演奏はそういうオペラのキャリアが生きているのだと思う。コントラストをつけたという意味だが、特に緩急の山谷の描き方が実に巧みなのである。まるでドラマティックなオペラを聴いているような印象なのだ。たとえば1楽章でいうと第1主題は猛烈なアタックで始まり、テンポも急である。それが第2主題になるとぴたっと音楽が静止したかのように緩やかになる。これが全くわざとらしくないのが、要するにオペラでこういう音楽の作り方を経験しているからだろうと拝察する。
 聴きどころの第5楽章はこれはもうひとひねりあって、前半の長大な荒れ狂う音楽はまさにそういう音楽であって、それがサントリーホールを埋め尽くす、しかしバックステージからのトランペット、ホルン、ティンパニの音が聴こえてくると、それが合図のように、音楽の表情はとたんに緩み、穏やかになる。この部分は地獄から呼ぶ声だと思っていたが、今夜の演奏ではまるで夜明けの音楽のように聴こえる。そして最後の「蘇るだろう~」を聴くと、私たちは心を洗い流されたかのように再生するのだ。私にはそういう音楽に聴こえた。

 今夜のソロは二人とも実に素晴らしい。特にメゾが歌う「原光」は感動的。彼女の声は柔らかく、深みがある、そして声はホールの隅々まで浸透する。「小さな赤いバラよ」と歌いだし、そしてその後に続く厚みのある金管の部分、いつ聴いても感動的であるが、今夜は一層そうである。
 ソプラノのカベルは新国立のドンジョバンニでドンナ・エルヴィーラを歌った人だと思う(2012年)。今夜の彼女の声もメゾと軌を一にして、透明感のあふれる、柔らかい声が実に魅力的だった。彼女たちの存在が今夜の演奏のレベルを一段も二段も上げたことは間違いないだろう。
 合唱は100人程度だが、オーケストラとのバランスが良く、新国立の水準の高さを改めて感じた次第。
 読響は久しぶりに聴くが、幾分、金っけのある音は輝かしさにつながり、マーラーの二番のような曲にはマッチしていた。演奏時間はおよそ80分。

 演奏が終わったとたんにものすごいわめき声が聞こえた。おそらくブラボーと云っているのだろうが、私にはわめき声としか聴こえなかった。盛大な拍手はその声に削がれたように、一瞬収まってしまう。なんともしらける雰囲気だ。こうなるとなかなか立ち直れない。実に不快な終わり方だった。

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2018年6月27日

「スリービルボード」、フランシス・マクドーマンド、ウッディ・ハレルソン、サム・ロックウエル主演

原題は「Three billboard,outside Ebbing,Missouri」である。ミズーリ州エビングという田舎町で、アンジェラ・ヘイズという少女が、暴行され焼き殺されたという悲惨な事件が起きた。それから7か月後犯人はいまだ捕まらず、業を煮やした母親ミルドレッド(マクドーマンド)、娘がころされた道路沿いに設置してある3つの立て看板に生ぬるい捜査の警察に対する意見広告を行う。エビング警察のウィロビー署長(ハレルソン)への実名非難も含まれていた。しかしウィロビーは末期がんだった。ミルドレッドはそれを知ったうえで広告を出したために市民や警察からの避難にさらされる。特に警察の差別主義者でマザコンのディクソン(サム・ロックウエル)はしつこく、ミルドレッドの友人、デニーズまで被害が及ぶまでになった。

 この映画は今のアメリカの一つの縮図である。ミズーリの小さな田舎町。おそらく町の人の大半は一生この町で過ごす。世界はせいぜいミズーリと同義なのだ。たとえばディクソンが独自で殺人犯を調べる過程で容疑者が海外にいたというアリバイにぶちあたる。海外のどこかということは機密で教えられないと署長に云われる。ヒントは{sand)だといわれるが、ディクソンは全くピントこないのだ。
 その他LGBTや人種、などの差別も露骨に行われる。そういう町で病気の署長を責めるミルドレッドがいかに孤独な戦いを強いられるか想像がつくだろう。マクドーマンドはこのような役をやらせたら右に出るものはない。「ファーゴ「」は田舎町の署長役ででていてこれも名演技。あれからだいぶたち少し年を取ったが立派なもの。

 敵役の署長は末期がんの患者であり、ミルドレッドに責められる役どころを見る者に共感をもたらす演技だった、ハレルソンを少し見直した。もう一人の敵役のディクソンは母親の言いなりだ、一見マッチョのカウボーイ風、人種差別主義で、すぐ切れてしまうが、根はまっとうな男を好演。ミルドレッドとのやりとりはちょっと笑ってしまうくらい軽妙である。深刻な映画の割には印象がさわやかに残るのはこの二人のせいだろう。特に結末が実によい。

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2018年6月26日
於:サントリーホール(2階4列中央ブロック)

バンベルグ交響楽団/ヤコブ・フルシャ指揮、来日公演

ブラームス:ピアノ協奏曲第一番(ピアノ:ユリアンナ・アヴデーエワ)

ドヴォルザーク:交響曲第九番・新世界より

今回の来日で4セットのプログラムを用意してきたが、いろいろ迷って、今夜の公演を選んだ。カジモトのワールドオーケストラシリーズではマーラーの三番の入ったチクルスも選べたが、なぜかマーラーは申し込みの時点では聴く気にならなかった。三番もよい演奏なのかもしれない。

 名曲&大曲、2曲にアンコール付きという豪華な公演で終演は21時半、くたびれた。

 ブラームスは先日、東響でアムランのピアノを聴いたばかり。こういう名曲はたまに聴くのが良いのでこのように続けて聴くのはもったいないような気がする。今夜のピアニストは2010年、ショパンコンクール優勝者である。先日の東響の公演では1楽章が物足りなかったが、今夜は1楽章が充実していた。冒頭のフルシャの作る響きはとても聴きごたえのあるもの。ドイツの伝統をを感じさせる。バンベルグは決して重厚な音を作るわけではないが、少し明るいきりりとしたサウンドはこれはこれでとても気持ち良いものだ。前回の来日時はブロムシュテットが「運命」を指揮したが、あれはブロムシュテットのスタイルとバンベルグのサウンドがマッチしたような演奏だった。
 ピアノのアヴデーエワはバリバリと弾くタイプではないように思った。むしろブラームスの抒情的な面に光を当てた演奏のように感じた。1楽章の場合でいうと2主題がまるで音楽を歌いながら深く沈んでゆくような神秘的な印象。もちろん終結部の迫力はそれなりにあったことはいうまでもないが!フルシャはそれに対して少し音楽を巨匠風に作ろうとしているような気がして、2人の間はそれほどしっくりいっているようには感じなかったが、まずは立派な1楽章だった。
 2楽章はピアノとバンベルグの木管群との掛け合いが聴きもの。そしてここでのピアノの美しさは印象に残る。3楽章はいまひとつしっくりこなかったのはいかなることだろうか?聴いていてあまり落ち着かない印象。ピアノ交響曲という意味では、しっくりこないということだろうか?演奏時間は50分。
 アンコールはバッハのイギリス組曲第2番からブーレ。

 新世界は久しぶりに聴いて、やはり名曲だなあと改めて感じた。構造はがっしりとしたドイツ風でもメロディはチェコやアメリカから取り入れているという、ハイブリッドな交響曲。そして今夜の演奏もとてもよかった。
 一言でいうと、これは実にさわやかな演奏である。1楽章の主題の提示からして、決して威圧的にならない。音楽がどんなに盛り上がっても、オーケストラのバランスは綺麗にピラミッド型となっていて、どこにもとんがったところがない。高弦は少し細身だが、それがまた一層音楽にきらびやかではなく、さわやかさをもたらしている。オーケストラはミスも散見され、また入りもそろわなかったりするが、そのようなことは重箱の隅に置いとけとばかりの演奏だった。これはおそらくフルシャの今でなければ演奏できない音楽だろう。これを聴いていて、若きイシュトヴァン・ケルテスがウイーンフィルを振った名盤を思い出した。新世界は希望に満ち満ちた、若い音楽なのだと改めて感じた。演奏時間は45分、提示の反復は実行されている。
 アンコールはブラームスのハンガリー舞曲、17番と21番、いずれもドヴォルザーク編曲のものである。
 参考までにレコード芸術誌のアンケート(2015)ではフルシャは未来の巨匠の第14位に選ばれている。トップはドゥダメルである。また2017年の世界のオーケストラランキングではバンベルクは第23位に選ばれている。一位はベルリンフィルである。
 まあこういった評価の割にはというべきか、それともこういった評価故というべきか、今夜の入りはあまりよくない。2階席後方、1階席前方左右など空席が目立った。
 フルシャがバンベルクとどういう音楽を作るのか、今後が楽しみの指揮者である。

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2018年6月26日

「失われた手稿譜・ヴィヴァルディをめぐる物語」、フェデリーコ・マリア・サルデッリ著

著者は著名な音楽家で、古楽のオーケストラを編成して指揮もしている。ヴィヴァルディについて第一人者と云えるだろう。ヴィヴァルディの伝記本というのは多くあるらしいが、本著はヴィヴァルディは出てこない。彼の死の前年から話がスタートするからである。ヴィヴァルディの晩年はナポリ派に押され、もう彼の音楽は旧式になり、急速にすたれてゆく。ヴィヴァルディは起死回生の勝負をかけて、ウイーンに旅立つ。それが1941年、そして翌年ウイーンにて客死する。

 ヴィヴァルディは多額の借財を残して亡くなったため、家財などは差し押さえを食うてしまうが、理容師の弟、フランチェスコが兄の膨大な手稿譜を運び出し、それをある貴族に引き取ってもらうべく交渉をする。このノンフィクションというか小説というか、物語はそれから始まるのである。この手稿譜は数奇の運命をたどる。本著ではその流れを実際の記録を丹念に当たり、それに基づいた記述になっている。ただ著者も言っているが、記録が欠落している部分は、著者の推論が加わっているという。登場人物もそういうことだからほとんど実在である。ただしその性格描写は著者の独断と偏見(失礼)が含まれているようだ。約200年の旅の結果、手稿譜はすべてそろってトリノの国立博物館に収納される。それには何人かのユダヤ人が絡むが、時はムッソリーニ政権の時代、悲劇が待ち受けるのだ。

 読み始めたときは、まあよくこんな作り話をと思って、ただそのまま読み進めたが、読み終わって後書きを見ると、これはほとんど史実であるとの記述を見てびっくり。これこそ事実は小説より奇なりだ。ただ時代が過去(1741年~)と現代(1920~38年)とを行ったり来たりして、なおかつその都度登場人物が新たに加わったりするので、読みながらページが行ったり来たりになってしまった。そういう意味ではなかなか読みにくい。時系列の記述でも問題ないと思うのだが?
 また、上記のこの手稿譜発掘にかかわったユダヤ人たちがその後どうなって、どのように評価されたのかの記述がないのは少し物足りない。わざとそうしたのだろうか?

 今日ヴィヴァルディはバロックでは欠かせない音楽家であるが、まったく無視されていた時代もあったのだし、それを現代に呼び戻した人々の血のにじむ努力もあったのだということがよくわかった。バロック好きの方は必読の書。

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