ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2018年05月

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2018年5月31日

「マリーンワン」、ジェームズ・W・ヒューストン著、小学館文庫

とても面白い、リーガルサスペンスだ。それは著者の経歴によるものが大だろう。もと海軍のトップガンで弁護士なのだから、そのリアリティはゆるぎない。

 マリーンワンとは大統領専用ヘリコプターである。ある嵐の夜、大統領はホワイトハウスからキャンプ・デイヴィッドまでヘリで向かうよう指示する。周囲はこの嵐の中、車で行くべきだと進言するが、パイロットのコリンズ大佐は大統領の命ならと、ヘリを飛ばす。コリンズは最高のパイロットとして、このマリーンワンの操縦を任された男である。自動車でキャンプデイヴィッドへ行くのとヘリで行くのとわずか1時間しか違わない。しかし不幸にもヘリは嵐に翻弄され墜落して、乗客乗員全員が死亡してしまう。
 このヘリコプターは実はフランスのワールドコプター社製である。部品はフランスで作り、組み立てのみアメリカで行う、ノックダウン方式で受注に成功。しかし大統領専用機に外国製という批判が巻き起こり、司法省や遺族(大統領夫人ら)の民事訴訟に同社は追いまくられることになり、マスコミからの批判も殺到する。

 主人公は元海兵隊ヘリのパイロットで弁護士のマイク・ノーラン、アナポリスで二人のパートナーと小さな弁護士事務所を開いている。主なクライアントは航空機保険会社のALLである。ワールドヘリコプター社はALLと契約していたことから、今回の民事訴訟を図らずも担当することになる。原告側の弁護士は大物のトム・ハケット。多く謎をはらんでいたにもかかわらず、事故の調査委員会は開始後まもなく、原因はヘリのブレイド(羽根)の脱落によるものでワールドヘリコプター社の責任であるという速報を出してしまう。ノーランは周囲の反対を押し切りワールドヘリコプター社の弁護を引き受けてしまう。果たして裁判はどうなるのか?
 ノーランはヘリが墜落した真の原因を探るとうことを今回の弁護の柱に置き、調査活動を進める、しかし、そこにはヘリの構造的にも、そして国際・外交的にも信じられない陰謀が隠されていたのである。
 法廷の緊迫したやりとりが最大の読みどころであるが、ノーランがヘリの構造をチームとともに技術的に解析してゆくプロセスも迫真性があり魅力である。少し粗削りではあるが、魅力的な弁護士のノーランの存在感が傑出している。

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2018年5月30日

「ノクターナル・アニマルズ」、エイミー・アダムス、ジェイク・ギルレンホール主演

とても凝った作りの、これはおそらく一種の復讐劇に違いあるまい。
 オースティン・ライトの小説の映画化、小説の原題は「トニーアンドスーザン」である。スーザン(アダムス)は世界的に名の知れたアーティスト、テキサスの大豪邸に住んでいる。夫ハットンは画商だが、経営破綻寸前である。二人の関係も破綻寸座、夫は不倫をしている。

 ある夜、小さな小包が着く。そこにはエドワード・シェフィールド(ギルレンホール)なる人物の書いた「ノクターナル・アニマルズ」という小説がはいっていた。エドワードはスーザンの最初の夫である。14年前スーザンがコロンビア大の大学院で美術史を勉強中に、故郷テキサスの高校のクラスメイトだったエドワードと再会、二人は恋に落ちる。スーザンはブルジョワの娘で、エドワードは釣り合わないと、親は反対するが、二人は強引に結婚する。エドワードは売れない作家だった。二人はすぐに破局を迎える。そういう過去があった。

 スーザンは送られた小説を読んだ。それは過去のエドワードの私小説的な作風と一線を画した、一種のヴァイオレンスものだった。ここから映画は2重構造になる。一つはスーザンの生活の描写である。アーティストとして成功しているが、精神的には満たされない毎日を過ごしている。
 もう一つは送られてきた小説が描かれる。そこではトニー・ヘイスティングス(ギルレンホール)、と妻のローラ(アダムズ)、そして娘のインディアが週末旅行に出発するところから始まる。国道で彼らは2台の車の嫌がらせを受ける。ジェイクの車はパンクし停止せざるを得なくなる。そして!

 この小説を読み終えたスーザンはエドワードに会いたいと思い連絡を取る。そして!

この2重構造は実に巧妙に作られていて、果たしてどこでつながるか、最後まで分からないところがみそ。
ちょっと、主題の割には手が込みすぎているように感じた。
 エイミー・アダムズが大学院生からアラフォーまで演じる。それが全く違和感がないのだから、役者というのは恐るべきものだ。

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2018年5月27日
於:新国立劇場(1階14列中央ブロック)

ベートーヴェン「フィデリオ」、新国立劇場公演

指揮:飯森泰次郎
演出:カタリーナ・ワーグナー

レオノーレ:リカルダ・メルベート
フロレスタン:ステファン・グールド
ドン・ピツァロ:ミヒャエル・クプファー=ラデツキー
ロッコ:妻屋秀和
マルツェリーネ:石橋栄実
ヤッキーノ:鈴木 准
ドン・フェルナンド:黒田 博
囚人1:片寄純也
囚人2:大村 徹

合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:東京交響楽団

幕が下りた後、一瞬会場からほっというため息が聞こえたような気がした。実際声が聞こえたわけではなく、そういう一瞬の空虚を感じたのである。勿論その後拍手はあったがそれはおずおずとしたもので、決して万雷の拍手とは言えなかった。カタリーナ・ワーグナーの演出への戸惑いがそれに表れていたように思った。私の周りは誰も拍手をしていなかった。歌い手や指揮に不満があったわけではないのだ、事実、歌い手たちが登場した後、まさに万雷の拍手とブラボーの嵐。しかし演出には、新国立には珍しく、ブーイングが数多く飛んでいた。

 演出のカタリーナ・ワーグナーはウォルフガング・ワーグナーの娘だから、リヒャルト・ワーグナーのひ孫になる。彼女の演出を初めて見たのは2007年のバイロイト音楽祭の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」である。映像で見たのだが、あの奇妙奇天烈の演出は全くついてゆけなかった。そしてその後見たのは2015年のバイロイトである。「トリスタンとイゾルデ」で今日、フロレスタンを歌ったステファン・グールドがトリスタンを歌い、ティーレマンが指揮をしていた。これも映像で見たのだが、この演出はと書きから大きく逸脱してはいるが、私にはついていける範囲だった。


 そして、今年の新国立での「フィデリオ」の演出をすると聞いたとき、果たしてどういう演出をするのか、興味津々というか、不安と期待でいっぱいだった。
 一幕はそれほど奇異な感じはしない。むしろまともといって良いのではないか?ここで目を引き付けたのは巨大な装置である。舞台には三層に分かれた建造物がある。1層が地上階である。2層目はフロレスタンの収容されている秘密の牢である。そして最下層はその他の政治犯など囚人たちが収容されている牢獄である。
 1層目は3分割されていて、舞台左手がフィデリオ(レオノーレ)の部屋。女性の服から男性の服に着かえるシーンがある。奥にはフロレスタンの肖像画。中央のブロックは比較的広い空間でと書きでいう刑務所の庭に当たる。舞台右手のブロックはロッコの作業場。ヤッキーノを使って金を数えたり、囚人の着ていた服をあさっている。ロッコの部屋の上がピツァロの部屋ではっきりとしないが女性の肖像画がある。ここでの場面の分割は登場人物たちの「思い」の食い違いを表している。そのわかりやすい例が第3曲の4重唱である。レオノーレは左手のブロック、中央はヤッキーノとマルツェリーネ、右手にはロッコが分かれてそれぞれ歌っている。皆思いが違うのである。
 囚人の合唱までは、舞台は2層までしか見えない。囚人の合唱になると装置がせりあがり、3層目の囚人たちの牢屋が見えてくる。実に雄大な装置である。
 2層目にはフロレスタンが収容されているが、1幕からもうステファン・グールドは舞台に出ている。2層目の構造は左手にテーブルがあって、そこはフロレスタンが収容されている部屋である。中央は1階に通じる階段で、鉄格子で遮断されている。右手は空間になっている。フロレスタンは蝋石で部屋のいたるところにレオノーレの姿を描きまくっている。

 さて、2幕目になると、次第にカタリーナの本領が発揮される。問題は第14番の4重唱からである。ロッコとレオノーレが穴を掘っている(舞台では奇妙なことにフロレスタンが床板をはがし、土を取り除いている。ロッコとレオノーレは鉄格子を外している)時にピツァロがナイフをもって現れ、フロレスタンを刺そうとする、レオノーレは男装をかなぐり捨てフィデリオからレオノーレになり、ピツァロを妨害してナイフを取り上げる。しかしピツァロが反撃に出て、ナイフを奪い返し、フロレスタンを刺してしまう。ドン・フェルナンドが到着しているはずなのになかなか助けに来ない。フロレスタンとレオノーレは第15番の2重唱を歌う。その間ピツァロは姿を消す。そして傷を負ったフロレスタンを助けながら、レオノーレは中央の階段から1階に逃れようとする。しかしピツァロと2人の部下はそれを階段で阻止する。ピツァロはレオノーレの首になにやら(ストッキングのように見えるがよくわからない)巻き付ける
やがてピツァロはナイフでレオノーレを刺してしまう。フロレスタンとレオノーレが倒れている間にピツァロは階段を大きなブロックで塞いで二人が逃れられないようにしてしまう。まるでアイーダの最終幕の地下牢のごとく、フロレスタンとレオノーレは閉じ込めれてしまった。これらは15番の2重唱の後、序曲「レオノーレ第三番」が演奏される間にパントマイムのように演じられる。

 さて、まるで、と書きと違う事件が起きてしまうのだが、これからがさらに驚くべき事態になる。第16番フィナーレ、「良きこの日をたたえよう~」と解放された囚人たちが歌う。驚くべきことにそこにはフロレスタンに扮装したピツァロとレオノーレの服装をした女が現れ、なんとロッコまで騙され、レオノーレの徳をたたえる。フェルナンドはピツァロの手鎖を解くようにレオノーレに扮した女に云う。「神よこの感動の時~」が歌われる間に、牢獄の奥が解放され、囚人たちは外に出る、ピツァロもそれに紛れて逃げるが、不思議なことにまた戻ってきて解放された囚人たちを牢屋に戻し閉じ込めてしまう。フロレスタンとレオノーレは第2層の牢獄に閉じ込められたまま歌い、最後にピツァロはフェルナンドの前に正体を現して幕となる。


 「フィデリオ」でこういう結末が想像できるだろうか?ドラマトゥルクのダニエル・ウエーバーがプログラムの中で種明かしらしいことを書いているが、正直よくわからない。ここでは、フロレスタンがトリスタン的人間だと位置付けられている。死へのあこがれが、フロレスタンが刺されて死ぬという話の伏線なのだろうが、それではレオノーレが刺されて死ぬのはイゾルデだからなのだろうか?
 もうひとつ、このオペラの第16番の少々脳天気な盛り上がりは、このオペラを聴いていつも違和感があったのは事実だが、それがこの結末を導いているのだろうか?
 さらにもう一つ、フロレスタンは政治犯、つまりピツァロを訴えた正義の男だが、ピツァロは実は政治犯ということ以前に、レオノーレに横恋慕していたから、邪魔なフロレスタンを幽閉してしまったのではないか?そのことの全体への影響はありや、なきや?
 とにかく第14曲以降の大逆転のドラマは面白いことは面白いが、演出家の遊びのようにも感じられ、大逆転のための安易な読み替えのように思った。

 新国立の「フィデリオ」はこの演出の前にもうひとつあったはずだが、それはたった2回でお蔵入りのようだ。まあ、そのマレッリの演出も忘れ難い演出はとは云わないが、それにしても2回だけというのは、ちょっとひどくはないだろうか?
 そしてこのカタリーナの演出をこれから何度も見せられるのだろうか?それとも2回で終わってしまうのだろうか?この演出、悪く言えば、お笑いの一発芸みたいで一度目は良いが、果たして2度3度と見せられたらどうなのだろう?


 演出で息切れしてしまったが、音楽について一言。
飯守の指揮だ、第一幕では、彼に似合わず、切れの良いテンポで音楽が進む。まるでこの幕のブッファ的な要素や民衆劇風の要素を意図的排除しようとしているようだ。後半の大逆転ドラマを考えるとこれは音楽つくりとしては一貫しているように思った。二幕は逆にテンポを落として、十分重々しいいつもの飯守のようだ。レオノーレ第三番もゆったりとしたテンポ、いささかの性急感もなく、雄大だ。全体に二幕は神から見捨てられた2人の悲劇の音楽なのかとも思えた。

 メルべートとグールドはもう新国立の座付きの歌い手のようだ。その安定感のある歌いっぷりは、安心して聴ける良さがある。今日の演出の中で16番の部分をどう歌うのかは、なかなか難しいだろうが、私には違和感がなく聴けた。メルベートは9番のアリア「希望を来ておくれ~」が予想通り感動的。反対にグールドは11番のアリア「人生の盛りの間に~」では少し一本調子に聴こえ、さらに最後は少々息切れの様子。この役はヘルデン・テノールが歌うケースが多いが、もう少し繊細感のある歌い手のほうが良いのではないかとも感じた。

 ピツァロは見せ場の一幕の7番「そうだ、絶好のチャンス~」が聴きごたえがあった。邦人ではヤッキーノの鈴木が好唱。軽やかな歌唱の中にも悲しさが!マルツェリーネは美しいが最高音で上ずるように感じるところがあり今一つ。妻屋は無理してブッファぶるように歌っているようで、演出方針とは違うように感じた。ここはもう少しシリアスにやったほうが妻屋の良さが出たように思った。合唱は相変わらず素晴らしい。「囚人の合唱」もよかったが、16番のフィナーレが最高の出来。聴きごたえがあった。
なお、演奏時間は約127分。せりふの部分は必要最小限に切り詰めていた。

2018年5月26日
於:サントリーホール(1階11列右ブロック)

東京交響楽団、第660回定期演奏会
指揮:飯森範親
ソプラノ:角田裕子(白いバラ)
バリトン:クリスティアン・ミードル

ハンス・ヴェルナー・ヘンツエ:交響的侵略・マラソンの墓の上で

ウド・ツィンマーマン:歌劇「白いバラ」

ヘンツェとツィンマーマンの組み合わせ。パスしようかという考えもよぎるが、まあ行ってみようという気持ちが勝ち、劇場に赴くこの2曲では定期の会員以外ではよほど現代音楽に関心のある方や歌劇「白いバラ」初演に立ち会いたい方くらいしか単券を買うことはないだろう。それでも開演ころには8分ほどの入りにはなったと思う。

さて。ヘンツェのこの曲はもともとは1975年の演劇「ダンスマラソン」のための音楽を書いたが、それを作り変えたのだ(2001年)。昼夜踊り続けなければならない過酷なダンス大会を描いたものである。
それをほうふつとさせるように、短い曲の中に激しい止ることのない音楽が続く。緩やかな部分もないとは言えないが、そことて落ち着かせてくれはしない。全編ティンパニを中心とした打楽器も活発。短い曲だが次第に飽きてきたのも事実。演奏するほうも大変だろう。

 白いバラはオペラであるが、今日は演奏会形式である初めて聴くということ(日本初演)ということもあって冒頭指揮者が舞台で解説をしてくれた。大体つまらないものが多いのだが、今日は指揮者がいくつかの主題を弾いてくれて、わかりやすい説明だった。

 この曲は2名の独唱者と15の器楽アンサンブルのためのという、指示がある。ただ指揮者の要望で弦楽5重奏を弦楽合奏に変えて、ヴォリューム感を出している。オペラというのは歌詞があって、曲があるのだろうが、私の場合外国語のせいか、言葉で感動することはあまりない。大体ヴェルディやプッチーニなどのイタリアオペラなどそれほど難しい歌詞を歌っているわけではない
 しかし、ドイツの例えばR・シュトラウスのいくつかのオペラは主従がはっきりしない曲がある。それを議論しているオペラもあるくらいだから、ドイツ人というのはなかなかしつこい。
 さて、この白いバラはどうしても歌詞優先のオペラといわざるをえまい。一つはこれはシュル兄妹、プロープストらの組織白いバラによる反ナチス運動をテーマにしているからである、しかも事件は1943年に起きており、だナチの勢力が欧州を支配しているときでは、彼らはろくすっぽ裁判はうけられず、なんと古臭いギロチン刑になってしまう。民間人のためである。この経緯は映画になっていて日本人でも案外ご存知の方が多いのではないかと思う。このオペラの歌詞は16曲ありシュル兄妹がすでに獄に別々に入れられ、処刑を待っている間の2人の心の交流を歌に託したもので、内容には相当メッセージ性は強いののである。それが歌詞優先の理由である。
 もう一つツインマーマンはその二人の心情を音に託しているが、決して耳に優しくない。指揮者が本番前にちょこっと説明してくれただけではなかなか理解できない。それゆえ耳より字幕に目が行ってしまうのは致し方がないだろう。

 16曲を十分認識できたわけではないので、なんとも言えないが、両親や神が出てくる場面や、
16曲でギロチンを前に彼らの活動の主張を歌い上げる場面など感動的である。指揮者の解説では最後にヘンデルの歌劇「リナルド」から有名な「泣かせてください」という歌のパロディが挿入されているがこれは云われているからこそわかる。その効果は大きいといわざるとない。
二人の歌手はそれぞれ自家薬籠中の曲らしく、私たちが初めて聴くというを意識してかという、感情移入しやすいように歌っていただけたと感じた。小編成のオーケストラもすすり泣いたり、慟哭を表したり、飯森氏の棒に反応が良かったように思う。小編成の妙味だろう。

 飯森は他のオーケストラで革新的なハイドンなど演奏したり、レコーディングしているが、なかなか東響でそういう出番はないのが残念だ。へっぽこな外人よりよほどましだと思うのだが?
なおツィンマーマンはおよそ60分、ヘンツェはおよそ15分の演奏だった。


 こういう息の詰まる非日常の音楽を聴いた後、ホールの外に出るとそこには多民族の子供隊たちが遊んでいて、ああ日常の世界なのだと通感する。
 例えは悪いが、先日見た「孤老の血」という映画を見た後のほっとした気持ちと重なるものがあった。良い作品というのはそれだけ私たちを作品に引きずり込み、私たちが今生活しているところと違う世界を味合わせてくれるのだろう。外は初夏のさわやかな空気がいっぱいで気持ちが良かった。

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2918年5月24日

「素顔の西郷隆盛」、磯田道史著、新潮書房

NHKの大河ドラマを見ている。豪華キャストはさすがだと思うが、あそこで描かれている西郷は実像なのか、まったくの虚構なのか?とにかくよく叫び、わめき、泣く西郷でこんなのでよいのかともおもいつつ、維新に近づけばまた雰囲気も変わるのではないかと待っているところである。

 さて、西郷の関連の小説は自分なりに読んできたつもりだ。しかしどうも西郷のイメージがなかなかつかめないのだ。そのようなところ、書店で本書を見つけた次第。テレビ便乗とはいえ、人気歴史学者なら少しはかみ砕いて、西郷像を描いてくれるではないかと期待して読み始めた。
 新書版、300ページにも満たない本という限界があるにしろ、いろいろな資料による西郷の行動の挿話をちりばめていてずいぶんと読みやすい本である。ここでわかったのは、改めて言うのもなんだけれど、西郷の人物の巨大さというか、むしろ「奇怪さ」である。友から慕われ、下男とも分け隔てなく接し、民百姓にやさしく慈悲深いサムライという映像と、幕末の汚いばかりの虚々実々のたくらみを図る策士という映像、など同一人物の行動とは到底思えないのだ。赤子のような性格で、人からは好かれるとはいえ、職場の上司らに直言したり、とりつくろわないところは、扱いにくいやつだとにらまれても致し方ないだろう。「すごいらしいが、ややこしいやつ」と思われていたのだ。
 しかし彼は大久保ほど鋭利でもなく、勉強をしているわけでもないのに、革命思想というべき、幕府を倒し、更地に天皇を中心にした、新たな国を作るという発想をどこから得たのであろうか?これは彼の斉彬への師事、2度の流刑、多くの識者との交流から培ったもののであろうか?

 薩摩の有名な学者が西郷と大久保を評して「西郷は黄金の玉に瑕があるような感じ、大久保は銀の玉に全く瑕がない感じだ」、うまく表現していると思った。

 私がもっとも疑問に思っていたのは西南戦争である。あれは西郷が意図したものなのか、それとも私学校が暴発した時「ちょっ、しもた!」といったのが本音で偶発的なものなのか?西郷のような人物であるなら、巨大な薩摩軍団の解体などは、徳川幕府を倒し、維新政府を作り上げた男にとってみればそれほど難しいことではないのではないかと思うのである。西郷は意図して私学校や桐野や篠原らと接しなかったのは、やはり士族階層の連続する暴発の最終回を意図したと思われても仕方がないことではあるまいか?

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