ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2018年04月

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2018年4月29日

「最前線の映画を読む」、町山智浩著、インターナショナル新書

ここ数年で上映された映画、最近の映画といえよう、の読み解き本である。映画の解釈は人それぞれである。例えば西部劇の名画「シェーン」はワイオミング戦争、つまり開拓農民と牧場主の戦いの後日談という解釈をしているブログを読んだことがある。ワイオミングの景色だけでそういう解釈は実に深い読みで面白かった。つまりシェーン(アラン・ラッド)は牧場主に雇われたガンマン,決闘するウイルソン(ジャック・パランス)も同じ穴のムジナというわけだ。ヴァン・ヘフリンは開拓農民の生き残りである。

 まあ、余談です。しかし町山氏のような大家の読みはさすがに深く説得力がある。わかりやすい例でいうと「ララランド」は決してラブロマンスというわけではなく、2人の男女がそれぞれの芸術の道を歩むという作品だという。あの終わり方はなるほどと思わせるものがある。

 しかし、私が感心したのはそういう深い解釈のみではない。それよりも各映画を作るにあたって、いかに監督が多くの過去の映画や文学が影響を受けている点だ。オマージュだったり引用だったりいろいろあるが、一つの作品が全く孤高のように独立して存在しているケースは少ないということである。例えばスコセッシの「沈黙」は当然のことながら遠藤周作の原作に大いに触発されていることは当然であるが、そのほかエリア・カザン監督自身およびその作品の「波止場」や「エデンの東」などにも触発されているという。映画好きは一度は読んでも損はしない一作である。

 なお私はこの20作のうち、「ブレード・ランナー2049」、「エイリアン・コヴェナント」
「沈黙・サイレンス」、「サウルの息子」、「ララランド」、「ダンケルク」、「アイ・インザ・スカイ」
「メッセージ」の8作品を見ている。このなかで「メッセージ」本当につまらない作品だったが、町山氏の解釈を読むと、ああそうかと、驚かされる。ただ、あの映画を何の先入観もなく初めて見たときに、町山氏のような理解をできる人が何人いるのだろうかと思ってしまったのも事実である。まあ、映画は面白いですね。

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2018年4月29日

「スターウォーズ・エピソード8、最後のジェダイ」デイジー・リドリー、オスカー・アイザック他

エピソード7から始まるシリーズは、過去の遺産もあってそれなりに面白いが、1~6までのシリーズに比べると、映像も俳優も私には物足りない。
 このエピソード8は2億ドルかかっているそうだが、エピソード1の1.15億ドルとくらべて、倍もかかっているとは思えないのだ。

 役者は随分と小粒になっている。エピソード1ではリーアムニーソンなど脇役が実に充実していてそれだけでも見ごたえがあるが、この「8」ではベニチオ・デルトロがファズマの役で顔を出している程度で、わきが締まらないので、B級映画を見ている気分になる。
 アダムドライバー(レン=ベン・ソロ)はスコセッシの「沈黙」のフランシスのような役は良いが、このダークサイドに落ちたレンはどうだろう?
 オスカー・アイザック(ダメロン)はどうみても悪役顔で、反乱軍ならいいかというわけにはいかないのでは?
 「サークル」に出ていたボイエガも黒人というだけで、フィンの役柄にあっているのかどうか?
 
 マーク・ハミル(ルーク)とレイア(フィッシャー)はずっと出ているだけに、存在感がある。やはりハン・ソロを殺してしまったのが、キャスティングの物足りなさに通じているのではないだろうか?

 わずかにレイの演技に、ルークの跡継ぎらしい気品と気迫を感じさせる。将来を期待させる女優のような気がする。

 その他映像も例えばファスト・オーダーのスヌークとレイ、レンがみつどもえで戦う場面はいかにもちゃちいセットで興ざめだ。テレビスタジオで撮影しているようにしか思えない。最後の表面が塩で覆われている惑星での戦いの場面、ファスト・オーダーの地上軍の貧弱さは過去の作品と比べると歴然。その他映画前半のフォースだの、最後のジェダイだのと、能書きが多すぎて,飽きが来る。ルークのうじうじ感もいらつく。150分の長尺にする理由がどこにあるのかよくわからない。わずかに塩の惑星の地底での空中戦が前作の砂漠の空中戦並みの迫力で見ごたえがあった。

 要するにこのスターウォーズ話は、経年劣化・金属疲労しているのであろう。そういうこともあって、このエピソード8のテーマは世代交代だと私には思えるのである。
 ダークサイドの帝王、スヌークはレンが継ぎ、ルーク・スカイウォーカー(ジェダイ)はレイが継ぐ、レイア姫は傷つき後を継いだホルドも老齢化して、若い戦士を抑えられない、跡を継ぐのはフィンかダメロンか?
 このことは、正直スヌークとレイとの戦いで初めて、ああそうかと気付いた。もう少し色濃く出してもよかったのではないかとも思われるが、話の経年劣化、金属疲労を防ぐには良いアイディアだと思った。文句ばかりだが、シリーズの過去の作品の面白さから期待も大きかったゆえである。

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2018年4月28日

「英龍伝」、佐々木 譲著、毎日新聞出版

幕末・維新史にかかせない、幕臣の一人江川太郎左衛門英龍の伝記である。著者は先に榎本武楊を描いた「武楊伝」を書いているが、これも面白い。しかし本作もそれと甲乙つけがたい面白さである。幕末史に必ず出てくる江川太郎左衛門は名前は知っているが、その生涯については断片的にしか知らなかったので私にとっては興味深い作品である。そういう面でいえば「武楊伝」と軌を一にしているといえよう。

 江川家は元をたどれば平安時代末期までたどれる。英龍は37代目の太郎左衛門(兄が早逝)であるから相当な名家である。北条家に仕えていて後に秀吉に仕えたときに江川の名前をもらい、韮山の代官としてその後、幕末まで続くのである。英龍の父英毅はなかなかの文化人で、江戸末期の芸術家など多くの人物との交流があった人で、英龍にもその影響が出ているようだ。事実英龍の画才や物を作ることへの関心は並外れていたそうだ。しかし英毅のころの韮山家は英龍の祖父の放漫な経営のため財政破綻寸前となっていた。英毅は殖産興業に励むが時が追い付かなく、借金に追われる苦しい日々が続いた。そのため家臣の自害を招いたほどである。そういう頃の1801年本著の主人公の英龍が生まれる。1855年没であるから明治維新には遭遇していない。

 彼の功績は何だろうか、反射炉を作り、高島秋汎らに支援を受け、大砲や元込め銃を製作することがよく知られている。しかし彼の抜きんでていることは250年の江戸幕府を守ることに汲々としていた幕臣の中で海外の文物、経済、政治、軍事を耳学問にしろ学び、いち早く開国を主張して、江戸に近い港のある、伊豆半島の防衛策などを建白したことだろう。幕臣にも川路聖莫など江川に共感するものはいたし、その他大名のなかにも家臣に渡辺崋山など開明的な人物がいたが、いずれも少数であり、またそういう意見に対しての弾圧も厳しかったのである。

 本作ではそういうアンチ開国、アンチ江川、守旧派のシンボルとして、鳥居耀蔵という人物を配して、英龍の位置づけを明確にしているのでわかりやすい。鳥居は幕府の教育の柱である儒家の林家の重鎮林述斎の子供で鳥居家に養子に出ている。幕臣として勘定奉行など要職に就き天保の改革などに参画、蘭学嫌い、民には厳しく、江戸市民には嫌われていたらしい。実際はそれほどひどい人物ではなかったようだが、本著では相当嫌な男に描かれている。江川英龍は55歳で没したが,耀蔵は長命で明治維新後も生き、78歳で没したという。この耀蔵と英龍とを対比させることによって、幕末の海外からの圧迫で揺れ動く、幕府や大名、一般の市民たちの不安や考えを浮き彫りにしているといえよう。

 本作ではいろいろ魅力的な人物が登場して花を添えている。例えば神道無念流の剣士で英龍の先輩の斎藤弥九郎、上記の川路、高島、渡辺さらには若き桂小五郎がちょこっと顔を出しているのも興味深い。いろいろな切り口で読める力作である。

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2018年4月26日

「アウトレイジ・最終章」、ビートタケシ、西田敏行、大杉連、ピエール瀧、大森南朋ほか多数

この映画を見ていると何かが欠けているといつも思ってしまうが、今回最終章を見るとわかったような気がする。今頃遅いのだろうが?
 それは人間の感情の喜怒哀楽のうち、タイトル通りだろうが「怒」しか表現されていないように思える。
例えば笑顔はわずかに大友の弟分の市川の笑顔が屈託ない。あとは大友の冷笑のような、ふふふっというような笑みぐらいだ。あとは仮面をかぶっているかのような顔ばかり。

 ストーリーは相変わらずの内部抗争劇。発端は大友(ビートタケシ)がやくざ亡命していた済州島だ。ここは韓国のフィクサー張会長のシマである。つまり大友は張に庇護されている。市川(大森)の経営する店の手伝いをしている。それをしらずに花菱組の花田が市川の店の女に暴力を振るい、その挙句張の部下の高を殺してしまう。
 花田は後から張の事を知るが後の祭り。若頭補佐の中田(塩見三省)とともに金をもって東京の張に謝りに行くが片が付かない。そこで若頭の西野(西田)が登場する。西田はこのトラブルを利用し花菱組の会長の地位を狙う。一種のクーデタである。つまり張と花菱組との抗争のどさくさで会長を消してしまおうという陰謀である。その中で張が襲われる。それを知った大友は市川とともに済州島から脱出。その大友に付きまとう刑事は繁田(松重)は前作の小日向のような凄味がなく、外されてしまう。さて、この抗争の結末は如何に?

 こういう内部抗争はどこの世界にもある。このアウトレイジはその中の一つの例示のようなもので、その他政界、企業、などおよそ組織と名がつけば必ず発生するものであり、本作はそのパロディともいえるだろう。
面白い映画だが、乱暴な言葉が100分も続くと少し飽きが来るのが難点。花菱組の2代目野村会長(大杉連)は証券会社あがりらしいので、経済やくざらしくしゃべらせたら違ったアクセントになったと思うが、そうすると、この映画の様式感が崩れるのでしなかったのかもしれない。終結までの骨太なストーリーの流れは見るに値する。

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2018年4月23日

「呉漢」、宮城谷昌光著、中央公論新社

呉漢は王莽の新国から後漢のころの人物である。後漢の光武帝(劉秀)に仕えた武将である。本書はその呉漢の少年時代から、後漢による中国再統一までの物語である。

 呉漢はほとんど奴隷に近い農民である。毎日真っ黒になって働き、菽(まめ)をもらって生計をを立てている。兄弟と母親がいて、長兄が母の面倒を見ている。現在の河南省、南陽市、その当時宛と呼ばれた当たりの大地主、彭宏の所有する土地で働いている。彭宏は中国東北部の魚陽郡の太守である。

 真っ黒に働く呉漢はやがて彭宏の息子、彭寵の目に留まる。呉漢は何か人を惹きつけるものがあるのだ。
こうして、上下二巻にわたる、呉漢の物語が始まる。呉漢は一言でいうと忠義仁の人である。一種の侠客的においを持っているせいか、いろいろな人がそのにおいをかいで集まってくる。呉漢自身は教育もなく、武術ができるわけでもない。しかし彼は宛という県の今でいう警察著長にになってしまう。しかし彼は決して欲得づくで生きているのではないのである。

 前漢の末期王莽はじめいろいろな王朝が生まれるが、最後は漢の血統を受けた劉秀が中国を統一する。呉漢はいち早く劉秀の正統性を認め、兵を率い参軍する。やがて劉秀の信を得て筆頭将軍、大司馬にまでなるのだ。呉漢の原点は、大地を耕していた、最下層の農民である。自らは何も持たないが、人の言に耳を傾け、人を信じ、人を裏切らない、そういう人となりを育てたのは、その原点なのである。

 下巻はほとんど、劉秀の下で呉漢が難敵とどう戦ってきたかを描いているので、少し飽きが来るが、上巻の彼の青年期から壮年期までの生きざまは実に面白い。またいろいろな武将が登場するが、その処世は今日にも通じるものがある。また呉漢の武将としての強さは、ほかの武将たちと違っているところが彼の独自性なのだろう。後漢建国も面白いが、本書の魅力はそれに関わる人間を生身で描いていることではあるまいか?面白く読んだ一冊だ。
 なお、地図が載っているが、これは少々粗っぽく、中国の地理に疎いものにとっては、もう少し細部が欲しいし、欠落している地名が多く、どこに今いるのかがわからなくなるのは困る。戦場の配置図などもあると面白いのだが、おそらく著者はそういうことより呉漢の人物を描くことに注力していて、そういう類は枝葉としているのだろう。

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