ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2018年03月

2018年3月31日

「ブレード・ランナー・2049」、ライアン・ゴズリング、ハリソン・フォード他主演
1982年のSFの傑作「ブレード・ランナー」のその後を描いたもの。
 「ブレード・ランナー」は21世紀の初頭の世界(2019年)を描いている。タイレル社のレプリカントネクサス6型の反乱をハリソン・フォード扮するブレード・ランナー(警官だがロボット専門)が追跡するという話。その後反乱が続きタイレル社は倒産してしまう。
 今回のストーリーは2049年が舞台。タイレル社の倒産後地球は生態系が破壊される。しかしそれをウオレスという企業家が合成農業という手段で救い、生産中止になっていたロボットを再生産開始する。そのころまだタイレル社のロボットの生き残りネクサス8型(寿命がない)がまだ存在し、それを解任(始末)するブレードランナーも存在していた。それが主人公のKであり、彼は新型レプリカントである。

 彼はサッパーというネクサス8型を解任するが、その家の庭から30年前の白骨死体が発見される。それは難産の上子供を産んだ女性の死体だった。しかし調べてゆくとそれはレプリカントだった。ロボットが生殖をするという奇想天外な物語。ロボットの生産が生殖によって手に入ることに狂喜する企業家(ウオレス)、そしてそれは秩序破壊につながることを危惧する為政者(マダムという警察組織の長・Kの上司)などがかかわってくる。
 映画ではレプリカントたちの記憶の生成、人間にあまりにも近く作られたレプリカントらの苦悩、孤独などが描かれる。その主人公はKであることは言うまでもない。前作で出てきたデッカード(ハリソン・フォード)とKとの接点も興味深い。いずれにしろ単なる2番煎じには終わっていないところは評価すべきだろう。本作では前作のロイ(ルトガー・ハウアー)以上にレプリカントたちが人間に近い感情をもつというところがミソだろう。観客はレプリカントたちに同情するが、しかし今日生きる私たち人類の生きざまだってレプリカントみたいじゃないかといっているようだ。主演級の俳優はみなとてもよく、特に女性陣が個性的だった。

 本作の欠点は前作のようなスピード感が乏しいことだ。長々と続く講釈めいたセリフや説明などが少し冗長ではないか?まるで芝居を見ているようで、映画本来の魅力が薄いように感じた。内容の割には上映時間が163分と異様に長いことがそれを物語っている。2049年の舞台も基本的には2019年と大きな変化はなく、雨がしとしと降る猥雑なロサンジェルスや放射能に汚染されたラスヴェガスらしき町などが映像で見ることができる。ガルウイングの自動車などギミックも大差ない。わずかにKの孤独をいやす女性のホログラフの存在が妖しいリアルさを持つところがユニークか?

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2018年3月26日
於:サントリーホール(1階17列中央ブロック)

東京都交響楽団、第850回定期演奏会Bシリーズ
指揮:エリアフ・インバル
ピアノ:アレクサンドル・タロー

ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第二番

ベルリオーズ:幻想交響曲

インバルはもう80歳を超えているはずなのに、元気いっぱい。速足で登壇する姿は少々わざとらしいが、ほほえましい。終演後の聴衆の歓声を聴くとますます日本で指揮を続けたくなるだろう。彼のマーラーは実に素晴らしいもので、これは何度でも聴きたいものだ。チクルスをもうひとサイクル回してほしい。

 さて、今日の幻想交響曲、インバルの事だから、もう少し標題に合わせて煩わしいほど音楽を動かすかと思いきや、案外とストレートなので肩透かし気味である。先日東フィル/ミュンフンの演奏のほうが標題的には面白い演奏だった。しかしインバルの音楽は云い方は悪いが、オリジナルより高級な音楽に聴こえる良さがある。このベルリオーズの失恋話をまともに演奏すれば相当えぐい曲に聴こえるだろうが、インバルの手にかかるとそうはならないところが独自性だろう。レコーディングのためでもなかろうかと思う。
 音楽の演奏スタイルはミュンフンと一緒である。1-2楽章はセットで演奏、4-5楽章もセット、そして、少し前後にインタバルを置いて3楽章を独立させている。
 1-2楽章は幾分さらっとした演奏だ。マーラーなどでの大きなテンポ変動などが比較的少ないので、恋人同士の愛の燃え上がりは、ホットには伝わらない。ベルリオーズの片思い?と思わせる印象だ。
 3楽章は冒頭から陰鬱である。もう始めから別れ話で、これは別れの辛さを綴った音楽に聴こえる。今日の演奏では最も共感できた部分だ。木管など都響の演奏も印象に残る。
 4-5楽章の迫力はさすがなものだ。5楽章の打楽器群や4楽章の金管群は特に精彩をはなっているが、全体に少し醒めた印象は、この恋愛ドラマを客観視していたためだろうか?私のような聴き手がこの音響の渦に感情移入とともにはちょっと入りにくかった。演奏時間は48分

 ショスタコヴィチのピアノ協奏曲は1957年初演だそうだ。約20分の短い曲だで、実に聴きやすい音楽だ。特に2楽章の美しさはショスタコヴィチには珍しい?ラフマニノフばりの甘い調べだ。特にこの最初の主題を聴いて美しいと思わぬ人はいないだろう。それはしかし聴き手の心の状態によっていくらでも感じ方が変わってくるという、器の大きな音楽なのだと思う。息子のマキシムのために書いた曲らしいが、自らが何度も演奏したというから、気に入っていたのかもしれないし、時代もこういう音楽を受け入れていたのであろうか?
 アンコールには本楽章をリピートしたのもよくわかる音楽だ。1楽章はショスタコーヴィチらしい諧謔的なもの、そして3楽章はピアノの名技性を誇示したもので聴きごたえがある。
 タローというピアニストは初めて。登場した時には針金みたいに痩せていて、インバルの半分もないような薄さだが、出てきた音は明快で力強いタッチで驚いた。

2018年3月26日

「龍の右目・伊達成美伝」、角川春樹事務所
伊達政宗の右目ともいわれ、その兜のの前立てが毛虫だったことから、毛虫の藤五郎とその武勇を謳われた、伊達成美の生涯を描いた力作。
 政宗は少年のころ病気で右目を失う。1歳年下の藤五郎成美はその嘆きがあまりにも大きい政宗に対し俺がお前の右目になるから梵天(政宗の幼名)はお前の夢の天下取りに向かって進めと励ます。そして片倉小十郎景綱とともに伊達家の幾多の苦難を乗り切る。しかし時すでに遅く、天下取りの夢は破れ、政宗は秀吉の傘下になり、やがて家康の傘下になって、太平の世を迎える。

 成美は武勇の人で勇名をはせたが、太平の世での処世に苦しむ、やがて政宗と些細なことで懸隔が起こる。一方、景綱は武勇よりも、経略で政宗を補佐してゆくため、成美はもう俺は政宗の右目にはなりえないと嘆く。
 戦国と太平の世の狭間の大名、武将たちがいかに苦悩し滅びてゆくかはたまた生き残ってゆくか、本書はそれを見事にえぐるように描く。成美は果たしてどう生きるのか?彼の前半生(関ヶ原まで、33歳)と後半生(79歳)の人生の落差に驚かされるが、秀吉も一目置いた武勇の毛虫様はそれを見事に生き抜く。そのことをみても成美の人物としての器の大きさを感じるし、政宗も頼りにしたのだろう。実に興味のある人物を引っ張り出してきたものだ。大変面白く読んだ。なお伊達の会津征服にかなりの紙面が割かれているが、会津側を描いた「会津執権の栄誉」(佐藤厳太郎著)を合わせて読むと面白いだろう。

2018年3月23日

「三度目の殺人」、役所広司、福山雅治、広瀬すず他主演

思わせぶりなセリフや、映像が指し示すメッセージが色濃い作品である。その分エンタテインメントとしては食い足りない。
 人間が生まれてくることや死ぬことは何者にも自由にならない。選べないのである。しかし裁判では人を裁いて死刑にしたり、閉じ込めたりする。しかもその裁判ではだれもが真実を語ると限らない。そういう不条理性を鋭く問う作品だろう。

 三隅(役所)は30年前に殺人を犯し、30年刑務所に入り今は食品会社に勤めている。彼はその食品会社の社長を殺し財布を盗む。二度目の殺人であり死刑が必至のケースである。弁護士の重盛(福山)は同期の摂津弁護士(吉田鋼太郎)に頼まれ三隅の弁護を引き受ける。助手は同じく弁護士の川島(満島真之介)である。重盛や摂津は弁護はすべて被告を軽い罪にするための戦術と考えているクールな男。川島はまだそこまでは擦れていないという設定である。三隅は強盗殺人を自白するが、やがて被害者の妻(斉藤由貴)に殺人を依頼されたと供述を翻す。ころころと供述を変える三隅に弁護側は翻弄される。
 重盛や摂津の弁護士像や対比する川島の存在、被害者とその娘(広瀬すず)の関係、犯人と被害者の娘の関係、検事(市川実日子)や判事の法廷戦術、そしてシリアルキラーか多重人格を思わせる三隅。彼らの行動は、冒頭のこの作品の主題に合わせて作られて動いているようで、そのせいか、人物の実在感に乏しいのが難点だろう。それは娯楽性(エンターテインメント)という映画の側面を軽く見ているせいかもしれない。つまり何がどうなり、だれがどう動くかが予測できるのである。役者も当てはめられた演技に終始している。役所広司も「真実の行方」のエドワード・ノートン風の演技に見せているが、そのレベルに達していないので物足りない。

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2018年3月21日
於:サントリーホール(1階12列中央ブロック)

トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団来日公演
指揮:トゥガン・ソヒエフ
ヴァイオリン:諏訪内晶子

グリンカ:ルスランとリュドミラ序曲
プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第一番

ドビュッシー:交響詩「海」
ストラヴィンスキー:バレエ「火の鳥組曲1919年版」

トゥールーズが今回来日して5回目、そして最後の公演である。ただしこの21日の公演はサントリーホールのためだけに1回だけ演奏されたものである。グリンカはその他の公演と同じだが、それ以外の曲は全く違ったものである。
 最初のグリンカを聴くと3/15日の印象と大きく違わない。きびきびした運びは同じだ。ただ何回も演奏しているせいだろうか、それとも今日が最後という解放感のせいだろうか、のびのびしているのが違いともいえよう。悪く言うと少々粗っぽい印象だ。

 プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲では現代の作品の中では比較的馴染みなものである。今日の演奏はわずか20分強のこの曲が実に多くのものを包含していることをきかせてくれた。構成が通常と異なり緩ー急ー緩ということで、最初は静かに始まる。ここでの夢見るような旋律は、すこぶる優しく聴こえる。これがプロコフィエフの音楽なのだろうかと思えるほど優しい。美しいのは当然だがこの夢見る優しさは聴いたことのない音である。途中中間では音楽は激しく動くが、最後にまた冒頭のムードになる、しかしここでは優しい美しさというより、ずっとクールに聴こえる。そしてスケルツオにはいるがこの部分の激しさは、あたかも弦がうなるように聴こえるくらい、素晴らしい動きだ。
 そして最後はまた緩やかな楽章だ。ここではもう若者の夢を見るようなムードではなく、ぐっと成熟した豊かな音楽が鳴り響く。そしてサントリーホールの大空間に吸い込まれるように消えてゆく。この曲を今まで何回か聴いてきた中でも最も感動的な演奏だった。
 アンコールはバッハの無伴奏ソナタからラルゴ。

 ドビュッシーの海はフランスのオーケストラにしては少々居心地の悪い演奏だ。全体がもっさりしており、音楽に切れがない。同じ海でも暗く重いのである。3楽章などは巨大な波に呑み込まれそうだ。波の戯れも、波の波頭のきめ細かい動きが感じられないから、戯れているようには感じない。1楽章の夜明けの部分の夢幻的な雰囲気は悪くはないが、その後、海の景色が変化するその色彩感が乏しい。そう全体に色があまり感じられないのである。印象派の音楽としてはまずいのではなかろうか?ソヒエフの持ち味が出た演奏なのだろうか?チャーミングなトゥールーズのサウンドを殺しているように思った。演奏時間は25分。

 最後のストラヴィンスキーは素晴らしい。ここでの音楽は決して超ド級の威圧的な演奏ではない。だからカッチェイ王の登場も決しておどろおどろしくない。でもおとぎ話なのだから、そうむきに演奏する必要などないのだ。終曲も音は充実して、各パートの色分けも美しいが全体に小作りで、良く言えば品が良い。チャーミングのほうがあっているかも!こういう火の鳥だってありだろう。子守歌の木管は美しく印象に残る。
 そういえば、アンコールの1曲目のカルメンの第3幕への間奏曲の木管の美しさも特筆すべきだろう。というよりこの演奏全体が実にオリジナリティがあって、オペラコミック的な魅力をたたえたサウンドなのである。これは舞台を何度も経験したオーケストラだから出せるのだろう。バスク地方に近いトゥールーズにとってはカルメンはおらが国さの音楽なのだろうか?
 アンコールの2曲目は15日にも演奏したカルメン前奏曲である。15日同様、軽快なカルメンだ。のびのびとしていて実に気持ちの良いアンコールだった。

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