ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2018年02月

2018年2月28日

「遺訓」佐藤賢一著、新潮社

いつも思うのだが、時代小説家の目の付け所の卓抜さには全く驚かされる。もう明治維新の話なんて尽きたたのではないか、それよりなにより、司馬遼太郎がほとんど書き尽くしたのではないかと思うのであるが、本著や先日読んだ「西郷の首」などを読むと面白く、驚きとともに、読み進んでしまうのである。

 本著「遺訓」とは西郷隆盛の残した言葉であり、ああまた西郷もので、NHKの大河ドラマの便乗かと思ってしまうが、上記の通りこれはそう単純な話ではない。主人公は新選組の沖田総司の甥沖田芳次郎である。実在の人物である。沖田芳次郎は新徴組隊士で戊辰戦争に庄内藩士として参加する。本著は戊辰戦争後の庄内県鶴岡から話は始まる。芳次郎は叔父と同様の剣の使い手として知られていた。

 庄内藩は戊辰戦争では幕軍に加わるが、結局降伏するも、戦闘では政府軍に負けなかったという。その時のリーダーが家老の酒井玄蕃である。政府軍から鬼玄蕃とも呼ばれまた藩士からは慕われた名将の誉れ高い武人だった。庄内藩は賊軍にもかかわらず、西郷隆盛の仲介もあり、会津のように転封にもならず、そのまま安堵された。そしてそのことが西郷と庄内藩とのつながりを生むことになる。
 沖田はその酒井の護衛として江戸や清の北京、上海に赴く。また庄内藩と西郷とのつながりから鹿児島の私学校に藩士の子弟を留学させるが、その世話役として鹿児島へ行くが、そこでもその剣を頼られ西郷の身辺で護衛をすることになる。

 本著はこの沖田の成長の記でもあり、それは読み物として面白いが、さらに面白いのは西郷対大久保の政争である。これも語りつくされてはいるが、西郷と庄内藩とを結びつけて描くことにより、大久保利通の政権維持への焦りを深く描いているところが興味深いのである。つまり大久保が恐れていたのは、西郷が立った時に同時に庄内藩をリーダーに会津など東北の旧藩が立ち上がり、戊辰戦争の二の舞になり、東京が西と東の挟み撃ちになるということであった。私たちは知っているが、そうはならなかった。
 そして、この政争のさらなる背景は「サムライ」たちの行き場である。そのことについても、薩摩、庄内の藩士たち、西郷、大久保、木戸などの政治家たちを描きながら本著は「武士」とは何かを語るのである。

 本著の面白さは人物の描き方の面白さでもある、特に主人公の沖田、そして鬼玄蕃、大久保利通の描き方は特筆すべき。さらには江藤新平をはじめとする政治家たち、鹿児島に潜入した中原巡査たちの一人一人の人物の描き方が印象に残る。面白く読んだ。

 

2018年2月25日

「ゴールド」、マシュー・マコノヒー主演

マコノヒーの「ダラスバイヤーズクラブ」で見たような怪演が見ものの映画だ。体の体形や髪なども変えて相変わらず凝った演技である。
 1981年、探鉱会社のネヴァダ州にあるワショー社は2代目の社長だが、息子のケニー・ウエルネス(マコノヒー)に会社の経営を任せる決意をする。それから7年、残念ながらケニーの経営は失敗し倒産寸前になる。彼は起死回生を図って、かつてインドネシアで銅の鉱山の発見で成功した、地質学者のマイク・アコスタに会うためにジャカルタに飛ぶ。しかしアコスタの理論はもう古臭いものになり、アコスタは乗り気ではなかったが、説得して契約を結ぶ。アコスタが狙っているのは「金」であった。そして、苦難の末、インドネシアの奥地に金鉱山を発見する。一躍ケニーは成功者になるが、果たして彼を待っているのは?

 マコノヒーの演技と同時に興味深いのは、まだ金を掘ってもいないのに、莫大の金が動く金融界の実態がいかにも金融大国のアメリカらしい。なかなか面白い映画だった。



2018年2月24日
於:東京文化会館(1階13列中央ブロック)

ワーグナー「ローエングリン」、二期会公演

指揮:準・メルクル
演出:深作健太

ローエングリン:福井 敬
エルザ:林 正子
ハインリヒ:小鉄和弘
テルラムント:大沼 徹
オルトルート:中村真紀
王の伝令:友清 崇

合唱:二期会合唱団
管弦楽:東京都交響楽団

二期会による久しぶりのワーグナーである。過去2012年(9/17)パルジファルと2016年(9/19)のトリスタンとイゾルデの見事な公演が、いまもって深く私のワーグナー上演史には刻み込まれている。この2つの演奏はおそらく海外の公演と匹敵するものと今でも思っている。
 さて、日本でもローエングリンといえば、ワーグナーの中でもポピュラーな演目であり、人気があるそうだ。今日の公演はどうだったろうか?残念ながら、いくつかの理由で、私には過去の2公演の足元にも及ばないワーグナーといわざるをえない。

 まず、歌である。福井はベテラン中のベテラン、過去イタリアオペラなどの名唱を聴いてきたが、さすがにローエングリンともなるとしんどいのではないか?声は絞り出すようで、聞きにくく、そして強声になると悲鳴に近い絶叫になる。弱声でも3幕の「mein lieber schwan~」などはかすれてほとんど裏声になってしまう。日本ではすでにフォークトという、いまローエングリンを歌わせたら、この人以外考えられない歌手の歌唱を、2度も聴いている(2012/5/29&2012/6/10)。あのすっと伸びた自然な声と比較するのは酷ではあるが、彼我の差は大きいと思う。
 エルザの林も似たようなもので、彼女の声もすっと出てくれない。絞り出すように出てくる声は清純な乙女の声とは思えない,強声となると悲鳴になるのは、福井と同じ。聴いていてストレスがたまる。
 よかったのは、テルラムントである。大沼はワーグナー歌いとして、二期会では欠かせない。あのパルジファルでもアンフォルタスの名唱が忘れられない。今日のテルラムントは決して武勲に優れた戦士というには優しい歌唱であるが、それは医師テルラムントという演出によるものであろう。2幕のオルトルートの2重唱など、魔性の女に操られている男を歌で聴かせてくれた。実にストレスのない歌唱だ。
 オルトルートの中村は、魔性の女というには少し可憐な歌いっぷりだが、看護婦になったり、異教の女になったりと、クンドリー並みの二面性を演出では要求していたのだが、それに応えた歌唱だ。強声でわずかに声が細くなるのが残念。これが力強く伸びるようになれは、さらに上を狙えるだろう。
 ハインリヒはプロイセンのビスマルクを模しているという演出だそうだが、貫禄がなく、どことなくおどおどした歌いっぷりはちょっと疑問である。
 二期会の合唱は相変わらず充実している。1幕の幕切れ、3幕3場の冒頭など聴きどころ満載。

 メルクル/都響の演奏は、今日の公演のハイライトだろう。きびきびした、ゆるみのないワーグナーはいかにも現代的で気持ちの良いものだ。都響も充実した響きを聴かせてくれたが、3幕の3場のパノラマ的な音響空間の場面ではバンダとピットと今少し音が溶け合わないため、少し物足りないが、そのほかは満足行くレベルだった。演奏時間は187分弱。

 演出は映画出身の深作氏である。二期会公演のダナエの恋は良い演出だったが、古今の奇妙奇天烈な演出があふれかえっている、ローエングリンでこの深作の演出が成功したかどうか、私には疑問である。
一言でいうといろいろなキイワードを寄せ集め、食い散らかしたようなものだからだ。
 広瀬氏のプログラムでの演出家の考えをまとめたノートを読むと、次のような読み替えになっている。
時代は19世紀、ワーグナーの生きた時代である。
ローエングリン→バイエルン国王ルトヴィヒ二世
テルラムント→グッデン、バイエルン王室の医師で国王とともに入水
ドイツ国王の伝令:ルッツ、バイエルン王国首相
エルザ:オーストリア皇妃

1幕の前奏曲の途中で幕が開くが、舞台左手にルートヴィヒの肖像画があり、その前で老人?がうろうろしている。後のローエングリン=福井である。手には楽譜か本か?右手前には城の模型、そして背景には築城中のお城の工事現場、ビニールで壁などは覆われている。
 舞台にはと書きの登場人物以外に、若い?甲冑姿のローエングリン、行方不明のゴットフリート、そしてルートヴィヒ国王が肖像画の衣装を着て、舞台をうろうろするから、雑然とした装置とあいまって、煩わしく、まるで音楽の邪魔をしているようなものだ。
 1幕のローエングリンとテルラムントの決闘シーンはちょっと笑える。テルラムントは医者の設定だから手にメスを持っている。これは上階の人にはなんだかわからないのではないかと思う。私はペンだとおもったが、で、最初はこれで戦おうとするが、兵士に剣を渡されると、重くてよろける(笑い)。ローエングリンは剣を持つことを拒否し素手で戦う。そして空手チョップで倒す。この決闘部分の中世の様式的な部分は無視される。前後するがローエングリン=ルートヴィヒ=福井はずっと舞台にいるので、白鳥の引く船の場面などはない。

 2幕の冒頭のオルトルートとテルラムントとの激しい二重唱。テルラムントは医者、オルトルートは片眼に眼帯した看護婦で、舞台は野戦病院のようだ。これは二期会パルジファルで見たような景色だ。オルトルートはエリザベートに疑念を吹き込むがその小道具はリンゴ。2幕でもゴットフリートや若きローエングリンやルートヴィヒがうろうろしている。

 3幕で笑えるのは冒頭でのローエングリンの登場シーン。正面には天井から吊り下げられた、カーテンに囲われた玉座のようなものがある。カーテンが上がるとそこには、ローエングリン。衣装は太陽王ルイ14世を模した、金色、そしてソフトクリームのような巨大な鬘、従者たちに抱えられて玉座から降りる姿は、「ロード・オブ・ザ・リング」の登場人物のようだ。
 3幕の2場、3場も創意と工夫(?)が満載。エルザが禁門の掟を破ると同時にテルラムントが入ってくる、しかしエルザは剣を渡すシーンはなく、ローエングリンは呪文のようなものでテルラムントをかわす。そして奇妙なことに従者とテルラムント(死んでいない)はローエングリンを引き立てて退場。ゴットフリートは右手の城壁からそれを見ている。
 そして、軍を招集したローエングリンが再登場するが、なんと拘禁服を着せられ、口にはさるぐつわ。要はテルラムントは医者で精神を患ったローエングリンを拘禁しているようだ。精神病みのローエングリンはバレンボイム/スカラ/カウフマンで見たことがあるので新鮮でも何でもない。しかし驚くことに、「聖杯の物語」ではテルラムント先生から拘禁を解かれる、入院前の戯言を歌うかのよう。またゴットフリートへ渡すはずの指輪や角笛などの小道具は無視。歌い終わるとローエングリンはテルラムントらに引き立てられ奥に消える、入水するのだろうか?それがそうではないのだ。先導は甲冑姿の若きローエングリン。
 オルトルートが登場するがこれが右手に槍を持ち、左手にリンゴ、そして片眼には眼帯、あれー、これはまるで女ウオータンだろう。
 ローエングリンはゴットフリートの登場場面でブラバントの指揮官だと歌うが、それは舞台左手上方の病院の窓のようなところから歌うのである。ご丁寧に指揮官の字幕にヒューラーと仮名を振っているもわざとらしい。演出について気が付いた一部分について書いてみたがおそらくもっといろいろやっているだろう。
 プログラムにはローエングリンの奇妙な演出の歴史を整理した記述があるが、今日のような演出はそれらに比べれば、浅知恵としか思えない。同じ土俵で戦っても二番煎じといわれるだけではないか?いまローエングリンの上演のなかで全く行われていないのが、と書きベースの演出舞台である。いっそだれもやらないその部分で存在感を出したらよかったのではないかと愚考する。まあ若い人にはチャレンジする気持ちのほうが強いでしょうから無理でしょうね!
 私には二期会の公演の中では、マクベス以来の悲しい公演だった。

2018年2月22日

「屍人荘の殺人」、今村昌弘著、東京創元社

第27回鮎川哲也賞、受賞作で、週刊文春ミステリーベスト10の2017年国内部門一位など、新人ながらベストセラーになった話題作である。この作品は本格ミステリーというらしいが、それでは普通のミステリー、推理小説、探偵小説とはどう違うのかといわれるとよくわからないのが本音である。とはいえ日ごろ、広義でいうミステリーは大好きでよく読んでいる。

 この「屍人荘の殺人」という本は昨年から気になっていた本で、丸善にゆきたびに手に取ってみるがその都度買うのを止めてしまうということを繰り返して、先日とうとう買ってしまい、昨夜読了した次第。
なぜ、買うのを躊躇したか?それはぱらぱらとめくると密室殺人とあり、登場人物というと学生たちであるというこの2点が原因である。
 密室殺人ものというのは手品みたいに何かしかけがあって(トリック)があって、それを探偵や本書のような探偵もどきが解決するというイメージが強い、つまりトリック先行で、人物は後回し、早い話、人物はCGみたいなもので、トリックの添え物的な印象なのである。小説に出てくる人間にはリアリティが欲しいというのが、ミステリでも私には必須の事なのだ。人は生活し、社会の中で、組織の中で、生きて行くそういう姿が見たい。そのうえでの殺人や犯罪なのではなかろうか?そして学生が主人公の場合、さらに生活感、社会感が薄くなるケースが多い。だから読むのに躊躇したのである。

 読み始めて、すぐ後悔した。謎解きという面では面白い。事実この本,2晩で読んでしまったのである。文章も易しいこともあるが、この非現実的な話をどうまとめるのかを知りたくてページをめくる手が次第に早くなるのである。しかし出てくる人物はみな作り物のようで、生身の人間のリアルさが感じられない。例えば、これだけ陰惨なことが起きているし、想像もつかないような密室状態にもかかわらず、結構皆、落ち着いているというのがなんとも不思議なのである。というか、会話の端々には、楽しんでいるようにも感じられるのだ。
 冒頭謀略物を思わせる書き出しがあって、おおっ、面白そうだと思ったが、あくまでも背景であり、密室殺人事件の解決が本線である。続編を期待させるような終わり方だったが、謀略物の話の決着をつけて欲しいものだ。

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2018年2月18日
於:新国立劇場(1階10列中央ブロック)

細川俊夫「松風」新国立劇場公演

指揮:デヴィッド・ロバート・コールマン
演出・振付:サシャ・シュヴァルツ

松風:イルゼ・エーレンス
村雨:シャルロッテ・ヘッレカント
旅の僧:グレゴリー・シュカルパ
須磨の浦人:萩原 潤

管弦楽:東京交響楽団
ダンス:サシャ・シュヴァルツ&ゲスツ
ヴォーカル・アンサンブル:新国立劇場合唱団

細川俊夫の「松風」の日本初演である。もともとはベルギーモネ劇場らの委嘱で作曲されたもので初演は2011年である。その後世界各国で上演され、遅ればせながら日本初演の運びになったようだ。能の人気作品の松風を題材にしている。オペラというより演出・振り付けのシュヴァルツのいうコレオグラフィック・オペラという全く新しいジャンルである。要するにダンスと歌と芝居の融合である。

 「松風」はもともとは「汐汲」という能を観阿弥が「松風村雨」という曲に改作したものを、世阿弥がさらに手を入れたものである。数百年前、在原行平が須磨に流された時に、その浜の海女、松風と村雨が寵愛を受けた。やがて行平は許されて都に帰り、そこで没する。しかし行平の思い立ち切れず、松風と村雨は、彼女らの死後も亡霊となって、行平との恋を思うのである。

 細川・松風は、能の松風とほぼ同じストーリーである。1幕ものでおよそ90分の作品である。
全体は次のような構成となっている。

海:幕が開くとそこは須磨の海岸である。波の音が擬音で挿入される。旅の僧が松風と村雨という名前の松の由来を浦人から聞く。僧と浦人との会話は歌である。舞台はほとんど装置はなく照明のみで、全体にぼかしのような、淡い雰囲気である。ダンサーたちが静かに踊る。

潮:舞台の左手前面に汐を汲んだ桶を松風と村雨が運ぶ。汐水のぴちゃぴちゃ云う音が擬音であらわされる。舞台の正面は巨大なネットが張られそこに松風と村雨がぶら下がりながら歌い踊る。あたかも空を舞うようである。

夜:僧は松風らに宿を乞う。松風と村雨は行平を思いを歌う。僧は舞台ではなくオーケストラピットの左手に降りて、松風らと歌う。

舞:天井から家のような枠組が下りてきて、そのなかで、松風らが踊り狂う。能では行平の残した衣装で踊るが、ここでは踊り手の持つ、シルクハットが行平の象徴となる。狂乱の中、やがて上方から松の針葉のようなものが、踊り手たちの上に降ってきて、次第に舞台は鎮まる。

曙:僧はいつのまにか眠りこけていたが、やがて眼をさますと、もう松風と村雨はいない。白い服を着たシャーマンのような女性が舞台中央から右手にすり足で静かに移動し、オーケストラピットの右手に位置したヴォーカルグループの歌や擬音を背景に幕。

かなりはしょってはいるが大体こんなストーリーである。ダンスでは空中遊泳のような「潮」の場面が印象的である。夢幻的な美しさ。そして「舞」の部分での狂乱の場面。二人の行平を思う気持ちが狂おしく表現される。最後は、ダンスチームによる美しい組体操のような姿が、まるで一体になった一つの造形のようで、これは見事だった。
 しかし、オペラといいながら、全体の印象はこういったダンスシーンの印象が強く、シュヴァルツとダンスチームによる存在感が際立った公演といえるだろう。そういうこともあって、音楽があまり耳に残らない。音楽はいわゆる現代音楽であり、耳に残る旋律よりも、「音」による感情表現といったものが中心となっている。その中でも擬音や楽器による自然の表現が印象的。特に風鈴の音は効果的であった。
 なお、松風と村雨はを演じた二人はモネ劇場での初演でも演じており、その他シュヴァルツとの公演では定番のメンバーとなっている。これはダンスと芝居と歌が一体になっているためだろう。

 初めてこの舞台に接したわけだが、初めて聴いて/見て、ああよかったというわけにはいかない。何度か見れば良さもわかるだろうが、会場でブラボーと叫んでいる人々が正直うらやましい、というか妬ましい気持である。しかし、思うのである、新国立のシーズン公演に織り込む意味はどこにあるのだろうかと?。こういう、言っては悪いが、実験的な舞台は、シーズンプロとはべつのところで、スペシャルとして企画してもらいたいものだ。新国立ではもっともっと、古今の名曲を名演出で見せてもらいたいのだが、老人の戯言だろうか?そういう意味では東フィル/バッティストーニのほうがプログラムビルディングとしてはずっと意欲的である。たとえば来シーズン、演奏会形式だが、ボイートの「メフィストーフェレ」を上演する。たしか新国立ではいまだ上演されていないように記憶する。スカラ座が1987-88年シーズンにムーティを擁して上演した舞台(1995年にレコーディング)など死ぬまでに一度是非見てみたいのだが、夢だろうか?

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