ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2018年01月

2017年1月29日

「アフターマス」、アーノルド・シュワルツネッガー、スクート・マクネア主演

シュワルツネッガー主演の映画の割には派手なアクションもなく、静的な映画である。
 航空機事故が背景にあるが、その影響を受けた人々が次第に狂気に追い込まれ、そしてそれから脱出する話である。原題のAFTERMATHとは事故とか事件の余波や結果を云う。

 コロンバス空港に向かっていた飛行機2機が高度8000フィートで衝突して乗員、乗客が全員死亡という悲惨な事故が起きる。主人公のローマン・メルニック(シュワルツネッガー)は優秀な建設工事現場監督だ。妻と娘が帰省先のキエフから帰国するのを迎えに行く。しかし彼が待ち受けていたのは家族の死亡事故。衝突した飛行機に乗っていたのだ。茫然自失のローマン。
 もう一人の主人公は事故当時の空港管制官のジェイコブ(マクネア)。相棒が休憩の間にいろいろな事象が輻輳して、指示が伝わらず事故が起きてしまう。ジェイコブは自責の念にとらわれ、精神が不安定になり、家族とも別居。ローマンは飛行機会社の責任を追及し謝罪を求めるが、飛行機会社はわずかな金額で示談に持ち込もうとする。ローマンも次第に精神がおかしくなってしまう。
 飛行機事故の結果、被害者の家族も、事故の責任を感じる管制官も大きなダメージを受け次第に狂気の世界に追いつめられるという話だが、問題は演じる役者だ。ごく普通の市民が次第に心がむしばまれてゆく様を演じなければならないが、シュワルツネッガーは最初からターミネーター顔だからこの変化が見て取れない。ミスキャストだろう。

2018年1月27日
於:東京文化会館(1階10列中央ブロック)

マスネ「ナヴァラの娘」&レオンカヴァッロ「道化師」
                     藤原歌劇団公演

指揮:柴田真郁
演出:マルコ・ガンディーニ

ナヴァラの娘
 アニタ:小林厚子
 アラキル:小山陽一郎
 レミージョ:坂本伸司
 ガリード:田中大揮
 ラモン:松岡幸夫
 ブスタメンテ:安藤玄人
 兵士:三浦大喜

道化師
 カニオ:笛田博昭
 ネッダ:砂川涼子
 トニオ:牧野正人
 ペッペ:所谷直生
 シルヴィオ:森口賢二

合唱:藤原歌劇団合唱部、児童合唱:多摩ファミリーシンガーズ
管弦楽:東京フィルハーモニー管弦楽団
アクロバット:油布直輝

藤原歌劇団による意欲的な公演である。通常一幕物の道化師に組み合わせるのはカヴァレリア・ルスティカーナというのが定番である。それをなんと日本初演のマスネの「ナヴァラの娘」を持ってきたのだ。カヴァレリアが聴けるという面ではがっかりしたが、マスネのヴェリズモオペラとはどうなのかという面では大いに期待をした。
 しかしいくつかの理由で少し期待外れだったといわざるを得ない。それは一つの原因は私の勉強不足のためだということを断っておかなくてはならない。特にナヴァラの娘についてそれが主要因である。やはり初演物はなめてかかってはいけない。後から調べたらCDも発売されていたのがわかったので余計残念である。

 今回の二つの公演は片や舞台はスペイン、片やイタリアの農村だが、演出として連関させているところがみそだろう。ナヴァラの娘でスペインの内戦化の激しい恋を描いたもので、舞台の設定もそういうと書きに合わせて戦場のなかの砦のような中での進行になっている。一方道化師では国は違うにしても戦争が終わった後の平和な村を描く、それは男性の衣装が復員兵のようなものを着ていることでわかる。道化師の冒頭のパリアッチ劇団を歓迎する場面での村人の喜びは戦争後の平和を表しているのであろう。
 そういうこともあってか2つの公演の舞台装置はほとんど変わらない。基本形は舞台は左右後方とも大きな柵のようなもので覆われている。ただ舞台正面奥は開いておりナヴァラの娘では巨大なオブジェがある。それは道化師の劇中劇で村人のすわる椅子を積みあげたようになっている。舞台右手には傾斜がある。ナヴァラの娘でその傾斜に3頭の馬の模型、そして大きな円盤(模様は不明)が3台、右、中央、左手に設置されている。それの意味は不明。
 道化師のほうが舞台はシンプル。舞台全体が砦のように覆われているのはナヴァラと同じ。この大きな壁はアニタとネッダの閉塞感を表しているような印象。劇中劇の場面では舞台左手と奥にトロイの木馬のような巨大な馬の模型が設置。劇中劇の舞台はステージ中央。劇の小道具、テーブルやいすなどは天井から吊り下げられる。
要するに衣装、装置含めて2つの芝居を関連付けているということで、そういう意味ではなかなか考えられた演出だと思う。
 今回で気になったのは歌い手たちの所作である。外国の芝居をやるときの不自然さがこの2つの舞台では久しぶりに感じられた。これは私だけかもしれないが、全体の動きにぎこちなさが感じられたのである。ナヴァラではアニタとアラキルの動きがそうだし、レミージョの動きもそうだ。道化師ではトニオ、カニオ、ペッペなどの動きがそうだ。最近の舞台ではたとえば、12/9のルチア、10/9の蝶々夫人、7/1のノルマなど邦人だけの公演でも、こういう動きの不自然さはほとんど感じられず、最近の若い人の芝居はうまいなあと感心していたのだが、今日はどうしたことだろう。イタリア人の演出家のせいだろうか?それとも私の虫の居所が悪かったのだろうか?面妖なことである。
 その他全体に動きがこなれていないのは練習不足か?例えば最後ネッダが刺され、シルヴィオが刺される場面のもたもた感ははらはらしてしまう。

 柴田の指揮にも不満がある。彼はオペラ指揮者として定評のある方であると認識しているが、どうもヴェリズモには合わないような気がする。全体に心の襞を浮き彫りにするというよりも、外面的な甘い美しさを優先させているような気がした。まず、前奏やトニオの前口上ではこの陰惨なオペラの先行きを予知をさせてくれるような音楽になっていない。レオンカヴァッロが生身の人間を描こうとしているのが聴きとれない。わずかにネッダとシルヴィオの甘い2重唱は聴かせるが、これは彼のパターンにあっているからだろう。そして肝心のカニオの「衣装を着けろ」はカニオの苦悩をほとんど感じさせないさっぱりしたもの。この部分だけいやに速いのである。
 ただ劇中劇につけた音楽は素晴らしい。カニオの激高するさまが音楽で描かれている。前半では丁寧といえば丁寧なのだろうが、なぜ甘い音楽に終始したのだろう。ナヴァラは初めてだから何とも言えないがこれも激しさが欠けているように感じた。カーテンコールではブーイングも出たが私と同じ印象だったのだろうか?演奏時間の76分はカラヤン並みだ。

 さて、最後に歌手だ。今回の目玉は何といっても笛田のカニオだろう。正直私はもう少し我慢すべきかと思うが、チャレンジには称賛を惜しまない。しかし彼の?直近のポリオーネなどに比べると、いささか輝かしさが不足をしてはいまいか?冒頭のカニオの口上を聴いて、あまりにおとなしいのでびっくりしてしまった。ネッダへの愛情を歌った「そんな冗談はやめてくれ~」もイタリア男の情熱は聴きとれない。「衣装を着けろ~」は上記通り、涙を誘うようなカニオの心情は聴けない。しかし劇中劇での声はもとの笛田に戻ったようだ。砂川との掛け合いも見事なもの。前半とはずいぶんと印象が違ってこれもびっくり。安全運転だったとは思いたくないが?
 砂川のネッダはのびやかな声が魅力だが、カニオに縛り付けられた閉塞感はあまり感じられない。シルヴィオとの2重唱はよかった。
 トニオの前口上は柴田の音楽もあって、少し抑揚が不足していて平板な印象。なお演出だが前口上はフロックコートを着て客席最前列左手からでてきて、客席で歌う。また2幕への間奏曲の間トニオが閉じた幕の前でパントマイムのようなことをするが、これではこのドラマの主人公はトニオではないかと思う人もいるのではないか?少々疑問。ここは静かに間奏曲を聴かせてほしいものだ。なお、「喜劇が終わりました」のセリフは初演通りトニオが行っていた。モナコのCDで育ったものとしては、これはやはりカニオのほうが悲劇性が高いのではないかと思う。

 ナヴァラはアニタとアラキルをはじめ、アリアや2重唱の歌の締めくくりがのびやかに聴こえず、極端に言えば尻切れトンボのような印象に終始したのは、曲のせいだろうか?もう少し勉強してから聴けばよかった。

 しかしこの意欲的な公演がたった2回でしかもダブルキャストというのはいかがなものだろうか?

 

2018年1月26日

「静寂の森に消えた姉妹」、アイスランド映画と思われる

原題はGRIMMD、意味は分からないがグリム童話をもじっているのか?
アイスランド映画といえば昨年見た「湿地」という映画も面白い警察映画だ。本作も猟奇殺人事件に取り組む警察官とその家族が主人公だから、警察映画といえなくはない。
 ヘルズモルクと云う森でミグルンとハットラ姉妹が遺体で発見される。妹のハットラには虐待の跡があった。いずれも他殺死体である。母子家庭で母親はファンネイいうが、娘の日記の一部を隠すように挙動が怪しい。
 担当刑事ははエッダ、彼女は少女期の父親からの虐待を引きずっている。肉親におそらく幼児絡みの犯罪の前科者の弟アンドリーがいる。エッダはロフトルという性犯罪者を執念深く追っている、また知能指数の低い、これも幼児性愛者のマグニに更生の道を歩ませている。アンドリーは機械工場に職を見つけまともに働く。そのほか母親が死んでいるのにまだ生きているかのように生活しているラグナルやヨンという怪しげな男たちなどが捜査線上にでてくる。容疑者がいずれも何らかの問題を抱え、刑事も過去の絆を引きずり被害者も暗い影を背負っているなかで物語は陰鬱に進む。そいういう人物の一人一人に光を当てながら、終末に向かってゆく。途中あまりに進みが緩いのでいらいらするが、これはたんなる警察小説ではなくアイスランドの社会の一部を切り取ったような構造の映画だから仕方がないことだろう。空っとし気分にはなれないが、結末におどろきが!

2018年1月24日
於:東京オペラシティ(1階6列中央ブロック)

東京フィルハーモニー交響楽団、東京オペラシティ定期シリーズ
指揮:チョン・ミュン・フン

モーツアルト:交響曲第41番「ジュピター」

ベルリオーズ:幻想交響曲


いやあ、今日は実に寒い。そのせいか入場時間になっても入り口はスカスカ。会場も後方では空席が目立っていたようだ。この天候の影響だろうか?

 さて、今夜の演奏、そういう寒さを吹き飛ばす名曲と名演だった。
まず、ジュピター、特に4楽章の熱演が素晴らしい。これはもう18世紀のギャラントなモーツアルトではなく、19世紀に足を突き入れた、疾風怒濤のモーツアルトである。ミュンフンの指揮ぶりもそういう大交響曲的に演奏しており、昨今の軽快できりりとした古楽風のかけらもしめさない。この徹底ぶりは今日あまり聴けないだけに実に懐かしい。考えてみたら昔はモーツアルトのシンフォニーといえばこういうスタイル(モダンオーケストラ)でティンパニもどすんどすんと叩いたものだった。ただ反復は丁寧に繰り返しているのでそういう意味では今日的である。演奏時間もプログラム表記より長く37分程度になったようだ。
 昔シカゴ/ショルティが来日した時にそれこそ最前列に近い席でこのジュピターを聴いたがこんな至近の席で聴いても虫眼鏡で見たように精緻に音楽が展開された様を聴いて、たまげた記憶がある。今日の東フィルはそういう精緻さはないが、例えば4楽章の複雑なフーガを、熱気をもって弾き切るというやりかたで大いに感動を与えてくれた。そういう意味でミュンフンとの相性はよいのだろう。外は寒いが実に身も心も熱くなる久しぶりのジュピター体験だった。

 幻想交響曲は久しぶりに聴く曲だ。この名曲を聴く機会が意外に少ない。どうも在京オーケストラが変わった、掘り出し物的な音楽ばかり選定して、いわゆる古今東西の名曲を避けているのは、指揮者やオーケストラの不安の表れだろうか?と思いたくなる。そりゃそうだろう、古今の名曲といえばほとんどCD化や映像化されて、大指揮者の演奏を、それもなんども繰り返し聴けるのである。そういう演奏になれた聴き手がコンサート会場で名曲を聴いたときなんだ全然違うじゃないかと思うのではという不安は演奏者にはないのだろうか?しかしそういうなかでこそ自分のスタイルを確立してチャレンジをしていただきたいものである。

 たとえば、2016年6月24日に聴いたロト/読響の幻想は今までに聴いたことのない類の幻想だった。もちろん標題を十分意識はしているだろうが、それ以上に楽器の音の生の迫力で会場を圧倒した。それはモダンオーケストラによるものだが、ロトの意図は十分理解できた。今年ピリオド楽器の主兵を率いて「海」や「春の祭典」をこのホールで聴けそうだが楽しみにしている。

 少々脱線したが東フィルでは山田が2012年に幻想を振って以来だ(私が聴くのは)。山田の演奏は1~2楽章の2人の愛の情熱に辟易したのを覚えている。
 さて、ミュンフンの幻想はどうだったか?得意中の得意の曲を正攻法にさばいてくれた思いである。音楽を3つパートにの分けて演奏したように感じた。二人の恋人の愛と情熱(1~2)楽章と恋人を殺した後の狂気を描いた(4~5)楽章は切れ目なく演奏される。そして真ん中のアダージョは揺れ動く恋人たちの心の音化をはかる。まあそういう演奏スタイルである。
 1楽章は序奏のきめ細かさが耳を引き付ける、主部に入るとそこは華やかな舞台である。音楽も輝かしい。2楽章の舞踏会は最初は優美だが次第に恋人の不安が焦燥に変じてくるかの如く音楽が加速度的に速くなる。ただロトのようなすさまじくはなく節度がある。
 3楽章は実に美しいが演奏者側の問題なのだろうか、聴き手の問題なのだろうか、少々退屈に聴こえた。4楽章の打楽器、金管群の迫力はベルリオーズの天才だろう。ここはオーディオ的に云ってもまず普通の装置ではこのようには聴こえない。破壊的な音楽である。5楽章も同様、音楽の荒れ狂うさまはジュピターと同様だが、こちらは音響的さらにすさまじく、聴き手を感情移入させるに十分の効果を与える。手に汗握るスリリングな音楽の連続だった。東フィルの熱演も感じられた。演奏時間はおよそ52分。

 東フィルの来シーズンのプログラムの発表があった。おそらく在京では屈指のプログラムだろう。それはオーケストラの定期としては異例だと思うが、演奏会形式のオペラが2曲定期に組み込まれているのである。ただしおそらく会場のせいだろうと思うがオペラシティでは1曲だけになる。
 ミュンフン/フィデリオとバッティストーニ/メフィストーフェレである。この2曲だけでも聴きたくなるではないか?その他チョン兄弟によるブラームスヴァイオリン協奏曲や、ミュンフンのマーラーの九番、バッティストーニのショスタコ五番やシェラザード、さらにはオペラシティではバッティストーニのシューベルトのグレイトが聴ける。まあなんどもいうがこれほど強力な定期プログラムは他にはない。
要するに臆せず(失礼)、奇をてらわず、古今の名曲にチャレンジする東フィルにブラヴォーを送りたい。
それにしてもオペラシティのお客は忙しい人が多い。知っている曲になると、首だけでなく体全体でしっているよと踊りだす。ほとんど全曲すやすや寝息を立てていた人。スタンディングオベイションはよいが目の前に二人立たれると全く前が見えなくなる後席の人をどう思っているのだろう。それだからではないが、来シーズンはサントリーホールにした。


 

2017年1月24日

「特別捜査・ある死刑囚の慟哭」、韓国映画

冤罪事件ものではあるが、背景に韓国特有の財閥がいるという設定だ。
 仁川で法曹ブローカーをしている、チェ・ビルジュ。元刑事である暴力刑事というレッテルが張られ懲戒免職になる。しかし彼は父親が前科者、祖父が警察官というなかで苦労して刑事になる。そして一時は前科者の子供でも立派な刑事になれるという美談の主人公だった。
 退職してからチェは法曹ブローカーになる。法曹ブローカーとは犯罪者と弁護士をつなぐ役割で、犯罪者側にいるとみられ適法すれすれの仕事をしている。相棒も元検事で今は弁護士のキムである。
 そんなチェにクオン・クンテという死刑囚から冤罪から救ってほしいという手紙ををもらう。それは仁川の最大の財閥デヘ製鉄の嫁殺人事件である。クンテは前科者だが今は真面目なタクシー運転手で一人娘と暮らしている。チェはこの捜査が自分を陥れた悪徳刑事によってねつ造されたものと見破り、悪徳刑事への復讐のために捜査を続ける。
 見始めてからすぐこの映画の筋は大体読めてくるが、それでも案外面白いのは、韓国ならこんな話ありそうだ(失礼)と思えるからだろうか?

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