ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2017年11月

2017年11月29日

「ダイバージェント・ネオ」シャイリーン・ウッドレイ、テオ・ジェームス主演

映画の原題は「ALLEGIANT」でヴェロニカ・ロスの同名小説の映画化である。ダイバージェントシリーズはこれで3作目だが、各作品とも原作があるようだ。地球の核戦争のなか生き残った人々が存続のため外部からの巨大な封鎖壁を作り内外を閉鎖してしまう、そして住民を5つのフラクション(派閥)に分類。一種のDNA別の社会のようだ。しかしこの5つのカテゴリーに当てはまらない人々が生まれる。それがトリス(ウッドレイ)のような純粋DNAの持ち主なのである。この組織はそれまではジェニーンという独裁者によって秩序が保たれていたが、この異端者トリスの出現で社会に変動を与え、内乱が起こる。これが前作までだと思う。

 本作はだんだんひねくれてきて話がややこしい。要は人類が滅びた原因は遺伝子操作で自由に人をかえあえられることにあるという。このあたりは一言の説明で片付けられてしまうのであっけにとられるが、それが所与の条件なのだろう。地球絶滅の200年後、人類は大きくDNA別に純粋型、DNA操作を受けた損害型に2分される。トリスがいた社会は旧シカゴだ。住人は損害型DNAの持ち主、そこへトリスのような純粋型が生まれる。そのシカゴの閉鎖壁の外に生き残っていた人類がシカゴ内のDNA純化の実験の監視をするという設定、監視するのは遺伝子促進推進局でボスはデーヴィッド。
 まあそういう背景の中で、トリス、フォー(ジェームス)などの仲間は脱出して推進局の人々と接触する。そこではしかしとんでもないことが行われていたのだ。
 今回のキーワードは遺伝子操作のようだが、それと人類滅亡が何とも短絡的で頭によく入らない。小説ではどうなっていたのだろうか?もう少しそこの説明がないとただ紙芝居を見ているようにしか思えなく、時々睡魔に襲われる。遺伝子推進局の事務所はオヘア空港というのは、なんだかおかしい。

2017年11月27日

「宗麟の海」安部龍太郎著、NHK出版

歴史小説家の目の付け所の良さには感心するばかりだ。本作は戦国期に九州の大半を切り取った大友宗麟の物語である。NHKの大河ドラマでいま「直虎」を放送しているが、話としてはつまらなくはないが、ほかの戦国の領主に比べるといかにもスケールが小さく人物的魅力に欠けるのは否めないところだ。やはり人物としての大きさというものがないと1年間もファンを引き付けておくことはできまい。手を変え品を変え栗原小巻まで引っ張り出しても、小手先の事なのである。そういう意味では本作の大友宗麟という人物スケールも大きいが人間としての襞をたっぷり持っていて誠に魅力のある人物となっている。本作がNHK出版というのも何か皮肉っぽい。灯台下暗しだろう。来年は西郷らしいがもう西郷はいいよというのが本音だ。

 さて、余談はさておき、本作は全体で4つの部分からなっている。最初は宗麟の少年のころ、心臓が悪く戦国武将として不安がられているという生い立ちが描かれる。しかし頭脳明晰、父親も恐れるばかりだったそうだ。しかし1450年に2階崩れという大事件が起き、宗麟の父親が暗殺され、急遽宗麟が21歳にして後を継ぐようになる。武将たちの信籟を勝ち得て、藩の危機を脱する。ここまでが一部

 続いて宗麟がポルトガル人たちと接し、キリスト教を知り、海外貿易を知り、そしてアルメイダという友を得る。このポルトガル人との親交は美しいが、戦国大名としての打算やポルトガル人の野望のようなどろどろしたものはさっぱり拭い落としているのが少し物足りない。ジュリアとの交流も純愛だ。

 三部は大友家の危機である。中国の毛利の進出である。毛利との戦い、自ら初めて陣頭に立って、先頭を指揮する。戦略家として権謀術数かとして、リーダーとして世に認められたころだ。九州に宗麟ありだ。ここは本作の肝(おそらく作者は二部が肝とおもっているかも)なので戦場配置図や全体図など併記してあるとよりよかったと思う。

 第四部は宗麟が義統に領主の地位を譲り引退した後の話である。信仰生活に入るが島津との戦いや秀吉との邂逅などもあって、のんびり引退とはいかなかったようだ。
 誠に立派な起承転結であって、これはまるでソナタ形式のシンフォニーのような壮大な物語である。五〇〇ページもの大作だけれでも一度ページを開くともう止まらないだろう。


 

2017年11月26日

「享徳の乱・中世東国の30年戦争」、峰岸純夫著 講談社選書メチエ

「応仁の乱」(呉座勇一著)のベストセラーでこの室町中後期、戦国初期の時代に脚光が当たったわけだけれども、本書もそのなかの一作だ。享徳の乱というのは本書に接するまでまるでしらなかった。応仁の乱の前の東国というのは、歴史本や小説でもあまり見ることがないものだ。伊勢新九郎がでてくるあたりからはなんとなくわかるがその前と云うとはて?といった塩梅だ。それはおそらくこの地域に後年の戦国時代の英雄が輩出されなかったことが原因かもしれない。

 本書でもその理由について少し触れている。サムライの地である東国になぜ、織田信長や武田信玄や徳川家康が出てこなかったのだろう、いままで疑問にも思っていなかったことを本書は伝えてくれる。もちろん太田道灌や長尾景春,山内・扇谷上杉などの武将はいたが戦国大名として大をなさなかったのである。北条がいるではないかといわれるかたもおられると思うが、北条は「地」の人間ではない。都から流れてきた伊勢新九郎が作った国なのである。

 さて、享徳の乱は1454年関東管領上杉憲忠を関東公方の足利成氏が自邸に招いて誅殺し、さらには山之内上杉邸を襲い合戦となることから始まる28年も続く内乱を云う。一言でいうと関東公方という東の将軍とその代執行者の上杉家との権力闘争で、これがやがて都の室町幕府が上杉管領方につくことから話が大きくなってゆく。著者は都方も決して一枚岩ではなく公方に味方をする者もおり、それが関西から西国、さらには全国に広がった応仁の大乱の一因なっているという。呉座氏の著書にはそういうことはあまり記載がなく、そういう意味では歴史の連環を本作で強く感じさせてもらったといえよう。またこの乱が後の戦国領主→戦国大名を生んだ大きな原因にもなっていると説く。
 本作ではおそらく原典資料の関係から無名の(?)新田岩松氏を狂言回しに使っているが、私には話をややこしくしているような気がした。また処処流れを削ぐような、逸話の挿入もこの乱自身を語らせるという意味では興を削ぐような気がした。ただいままであまり焦点を当てられていないこの時代を丁寧に資料を読み起こして、示してくれたという意味ではすぐれた読み応えのある著作といえよう。なお今日では享徳の乱は教科書にも載っているそうだ。


 

2017年11月25日

「メッセージ」エイミー・アダムス、ジェレミー・レナー、フォレスト・ウイタカー主演
原題は「ARRIVAL」、地球に12隻の宇宙船が飛来し、地球の12か所で静止する。目的不明、対話もできず。彼らの目的は何か?
 バンクス博士(アダムス)は世界的な言語学者である。国防省は彼女になぞの宇宙船の乗員とのコミュニケーションを委託する。物理学者のドネリー博士(レナー)、国防省の大佐(ウイタカー)が支援をする。次第にバンクス博士は彼ら宇宙人とのコミュニケーションができるようになり、彼らの真意を知ることになる。
 しかし中国をはじめとする国々は彼らを敵対者とみて攻撃を開始する。果たして彼らの真意はどこにあって、世界はどうなるのか?宇宙人から地球がバラバラなのを指摘されるのは癪に障るが本当だから仕方がない。なかなかメッセージ性の強い映画である。
 アダムスはなにをやらせてもうまい。しかしこのような大事件を一人の女性学者に任せるというのはあまり現実味がないように思うが、西洋人はそうは思わないのかもしれない。レナーはアダムスの刺身の褄のようだが、最後に存在感を表すようになっている。途中で眠くなるところもあり自分がこの手の映画が嫌いなのがよく分かった。

2017年11月23日
於:日生劇場(1階H 列左ブロック)

東京二期会オペラ劇場
 ヨハン・シュトラウス「こうもり」

指揮:阪 哲朗
演出:アンドレアス・ホモキ

アイゼンシュタイン:又吉秀樹
ロザリンデ:嘉目真木子
フランク:杉浦隆大
オルロフスキー:和田朝妃
アルフレード:吉田 連
ファルケ:小林啓倫
ブリント:大川信之
アデーレ:三井清夏
イダ:辰巳理恵
フロッシュ:イッセー尾形

合唱:二期会合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー管弦楽団

二期会の層の厚さを感じさせる公演だった。私が聴いたのはダブルキャストのどちらかというと若い人が中心のキャストだった。ほとんどが初めて聴く歌い手だったが、歌い手の水準に凸凹がないせいか、至極バランスが良い。
 アイゼンシュタインはテノールが歌っていた。大概バリトンが歌うのだが、テノールもないわけではないというのはウイーンフォルクスオパーの来日公演でも、テノールが歌っていて、初めて知った。別に悪いわけではないが、慣れというのは恐ろしいもので、しっくりこないものだ。アルフレードがテノールだし、アイゼンシュタインもテノールだと敵役?が同じ声種で違和感があるのだ。もっとも今日のアイゼンシュタインのほうはずいぶんと重めなので、それほどめくじらをたてるほどのことはなかったのかも。演技も歌唱も又吉に大きな不満があるわけではない。
 アルフレードはイタリア人らしいところはあまりなく、素直できれいな声が持ち味のように感じた。声はもう少し力が欲しい、一杯一杯の感じがする。フランクは軽妙な味が出ていて好唱。ファルケは仕掛け人らしいクールな歌唱だった。ブリントはもう少し笑わせてくれてもよいのではと思わせる。

 女性陣は、こんなことをいうと。セクハラと取られてしまいそうだが、容姿が皆美しく、若々しいのが良い。特にアデーレは背も高く、見栄えがした。きれいな高音を聴かせたが、少し余裕がないのが難点だ。もう少し軽やかに聴かせてくれると素晴らしいアデーレになる。ロザリンデはアデーレに比べると、もう少し声に重みがあり違ったソプラノが楽しめた。ところどころ一杯になるが、何とかこらえて歌い切った。オルロフスキーは役作りがユニーク。せりふを読んだり、何となくぎこちない男の子といった感じで、プログラムのホモキのインタビューを読むとそれは演出のせいだとわかる。そういう意味ではなかなか好演である。とにかく聴かせどころ満載のこの曲を大きな破綻もなく、楽しく聴かせてくれたのはうれしいことだ。日本のオペラ界の水準の向上を感じた次第。

 今日の目玉の一つはフロッシュを演じた、イッセー尾形だろう。映画「沈黙」で名演技を見せたが果たしてオペレッタではどうだろうか?書き洩らしたが、本日の公演はせりふ部分は日本語である。3幕のほとんどの場面で登場し存在感を示したが、基本的には瞬間瞬間に笑いを取るといったところ。例えば「旗日にわざわざおいでいただいて」といって笑わせるといったたぐい。日生劇場といって客席の照明を明るくしたり、オーケストラをからかったりと忙しい。選挙もあったし、政治ネタなどでもう少し「毒」を味わいたかった。

 阪という指揮者は初めて聴く。今日の「こうもり」は少々早めのテンポが実に気持ちが良い。1幕のロザリンデ、アデーレ、アイゼンシュタインの3重唱など実にのりが良い。定番の「雷鳴と電光」が聴けなかったのは残念。本日の公演の成功への貢献度は高いと思った。

 演出も、狭い舞台ながらよく考えられている。ベルリンコミッシュオパーの舞台を移したものだ。
本日の公演は2幕構成になっている。1幕は通常の1幕ともともとの2幕のシャンペンの歌で終わる。2幕はこれは実に面白い始まり方をする。チューニングをしたときには指揮者がいて、演奏を始めている。ポルカだが曲目はわからない。客席は全然静まらなくてざわざわして、ほとんど全曲ざわざわしっぱなし、曲が終わるともともとの2幕の最後の部分が始まるといった塩梅。そこでやっと静かになる。これは演出なのか、今日のお客のマナー違反かはわからない?
 2幕は「兄弟となれ、姉妹となれ~」で幕。しかしそのまま3幕へ。したがってオルロフスキーの屋敷にいた人々はそのまま泥酔して眠りこける、そのなかでフロッシュの喋りが始まるという仕掛けだ。装置は終始同じものを縦にしたり、傾けたり、といじくるだけなので場面転換はほとんどなし。奥に大きな箪笥が2棹、その前右手にはピアノフォルテと書斎机、大時計、左手には大きなソファーといった装置である。
 今日の演出の最もユニークなところは、最初からこれはファルケが仕掛けた芝居ということがわかってしまうということである。一番はっきりしているのはオルロフスキーで、彼?はまるでファルケの操り人形のように動くということだ。要するにファルケに雇われているということだ。その他いろいろな場面でファルケの仕掛けを感じさせるようになっている。
 通常の演出ではもともとの3幕のさいごのところで種明かしがあって、「あっはっは」というわけだけれど、そういうおかしさはない。2幕で退屈していたオルロフスキーが2幕の幕切れで、大うけして大笑いをするという場面もないのだ。なかなか面白い演出だった。世の中には頭の良いやつがいるのだということだろう。カットは若干あり、上記のようにポルカ「雷鳴と電光は」聴けなかった。演奏時間は参考程度だ、130分。

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