ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2017年10月

2017年10月30日

「善悪の刃」、チョンウ、カン・ハヌル主演

2000年に発生した、薬村五差路・タクシー運転手殺害事件をもとにした映画、冤罪事件である。
 15歳のチョ・ヒュヌ(ハヌル)はバイク運転中薬村五差路で男と接触し横転する。実はその男はタクシー運転手殺害の犯人だったのだが、ヒュヌのバイクに凶器らしいナイフがあったことからヒョヌは逮捕され、警察のペク刑事らから暴行を受け自白を余儀なくされ10年間服役する。
 イ・ジュニョン弁護士(チョンウ)は金もうけをめざして弁護士になり、一獲千金を夢見た大訴訟を指揮するが敗れ、借金まみれになり、しかも妻からも愛想をつかされている。この二人が結びつくのジョニョンが友人のつてで弁護士事務所の無料相談窓口に仮採用された時、ヒョヌの母親がヒョヌの冤罪と賠償金についてイジョニョンに相談したからである。
 売名行為のつもりでこの冤罪事件を引き受けたジョニョンだが、次第にのめりこんでくる。検察からの圧力、弁護士事務所からの誘惑などあるが、ジョニョンは再審裁判にこぎつける。
 真犯人が出てきたのに逃がしてしまうなど作りは少々粗っぽいが、結局冤罪事件を映画にするのは最後が見えているからでそういう意味では面白かった。しかし怖い警察や金もうけ主義の弁護士というパターン、しかも弁護士は良心的な弁護士に変身してゆくパターンは韓国の人は好きなようだ。2014年の作品「弁護人」も同工異曲で同じパターンである。金もうけ至上主義、司法の横暴を批判するのは韓国の人たちには受け入れられやすい題材なのだろう。

2017年10月30日

「トーキョー・レコード」、オットー・D・トレシャス著、中公文庫

著者のトレシャスはベルリン特派員としてナチスドイツの報道でピューリッツァー賞を受賞したスター記者だそうだ。彼がアメリカに帰国後ニューヨークタイムズの特派員として1941年の2月に来日して取材活動を始めた。本書は彼が日本に滞在した一年半の日記である。正確に言うと1941年1月24日から1942年8月24日までである。1941年といえば太平洋戦争の開戦の年である。

 1941年を描いた書物は主に邦人のものでかなりあるが、私は最も印象深かったのはアメリカ在住の堀田恵理氏の書いたノンフィクション「1941」である。この作品はすでに公開されている一次データを駆使して日本がなぜこの無謀な戦に踏み切ったのかを丁寧に描いている。トリシャスの「トーキョー・レコード」は同時代であるから一次データはあまり出てこない、その代わり新聞や演説などの公開されたものの収集や、日本の政官財界の人々へのインタビューなどの丹念な取材活動を、克明に日記に残している。来日してから12月8日までは日米が戦争に踏み切るか、和平か、双方の国の中、特に日本が揺れ動くさまをシーソーのように描いている。この間の日記の内容はちょっとくどいので読むのもしんどい。しかし描写に迫力があるのはトレシャスが12月8日にスパイ容疑で逮捕され、釈放される翌年の5月20日までの記載である。激しい尋問や拷問の様が生々しい。そのせいかトレシャスの日本人や日本の歴史などにはあまり好印象をもっていない。むしろ日本人蔑視の印象すら受ける。例えば日本人の尋問官を蛇男とかハイエナ男とかの蔑称で日記に残している。
 しかしながら本書はは1941年の同時代感覚が味わえる誠に興味深い作品だ。日本人たちが戦争に近づくにつれ経済的に疲弊し、消費生活などないに等しい状況に追い込まれてゆく様など、海外人の目で見たとは云え、実に描写が細かい。ただ7トレシャス氏には申し訳ないが、上巻の開戦までよりも開戦後の下巻のほうがずっと面白い。

2017年10月29日
於:東京オペラシティ・コンサートホール(1階17列左ブロック)

ケルン放送交響楽団・佐渡裕/2017来日公演

ワーグナー:ジークフリート牧歌
シューベルト:交響曲第七番・未完成

ベートーベン:交響曲第五番・運命

運命と未完成のカップリングのコンサートなどというのはこの頃あまりお目にかからない。昔はレコードのゴールンデンカプリングといえばこの2曲だった。そういえばCDだってこういう組み合わせは最近では記憶にない。この組み合わせ1本で日本で8公演を行う。なんという自信だろうか。佐渡とケルンのコンビの熟成の表れだろうか? その自信のほどが音楽にもあらわれ聴きごたえのあるコンサートだった。特に前半の2曲は心に残った。

 ワーグナーはそれほど小編成ではないが、室内楽オーケストラ風の雰囲気がよく出ている演奏だ。ゆったりとしていて、いささかも神経質ではない。佐渡はほとんど何にもしていないようにも思えるがジークフリートからのいくつかの動機をはっきりと聴かせてくれ、その部分は音楽は一瞬輝かしくなる。しかし全体には温和な音楽の流れ。久しぶりに「ジークフリート牧歌」を聴いたが、実によい音楽だなあと改めて感じた演奏だった。聴いていてこんなに気持ちの良い音楽はそうないだろう。演奏時間は19分弱。

 シューベルトはこのところどちらかというと深刻な演奏をよく聴いている。たとえば隅から隅まで神経を張り巡らせたプレトニョフ/東フィルのライブや聴いたあと実に暗澹というか、暗いというか、この世の終わりのようなアーノンクール/ベルリンフィルのCDなどである。今日の佐渡の演奏はその対極にあるように感じた。全体にテンポが速く、メリハリが効いている。おそらくプレトニョフなどの演奏を聴いた後だから余計そう感じたのかもしれない。音楽は生き生きと息づいていて、シューベルトの若々しさを感じる演奏だ。1楽章の最初の主題から音楽はさらさらと流れる、さらさらいってもそう単純ではなくところどころに、「気」を感じるのだ。だからその部分は愛おしいほど美しい。もう一つの主題はきりりとして勢いを感じる。この推進力はあまり未完成では感じられないものだが、この演奏ではそれが無理押しに聴こえない。おそらく昔の佐渡だったら、私はわざとらしい演奏だなあと感じたかもしれない。しかし今夜の演奏はそれこそが自然の流れのような気にさせるのである。
 2楽章は緩徐楽章だけに1楽章ほどメリハリはつけていないが、主題間の落差は大きくとって音楽のスケールをより一層大きく聴かせる。久しぶりにすばらしい未完成だった。演奏時間は26分弱。

 運命も比較的速いテンポでぐいぐいと迫る。特に4楽章の迫力は相当なものだ。3楽章のスケルツオから4楽章に突入する経過部分から、4楽章の凱歌への切り替えの妙を堪能させてくれる。そして4楽章は一気呵成に終結になだれ込む。前半も素晴らしいが、音楽は全体に流麗に流れる。ただ未完成ほどメリハリを感じない。したがって部分的に一本調子に感じる。例えば1楽章の終結部分へなだれ込むところでは、スピード感が先行してしまって、音楽がするすると通り抜けてしまうように感じた。2楽章も流れ重視で、それはそれでよいのだが、もう少し山谷が欲しいような気がした。演奏時間は34分弱。

 未完成も運命も実は佐渡がこのような演奏をするとは全く思っていなかった。もう少し芝居かかった、大ぶりな演奏だと思っていたのだが、まったく意表を突かれた。これは将来は別として、今の佐渡のベストの演奏が聴けた思いである。
 なお、アンコールは「フィガロの結婚」序曲。


 

2017年10月29日

「東芝の悲劇」大鹿靖明、幻冬舎

およそ経営者と名の付く方は一度この本を手に取って読むべし。ここには経営者がしてはいけないことが書いてある。例えば東芝が経営者何代にもわたって行われてきたバイセル取引という不正行為による決算の粉飾、WHや半導体への身の丈しらずの過剰投資など、また経営者同士の内紛、確執などこれは禁止事項のデパートというべき企業の実態を丁寧に描いている。
 しかし昔は日立野武士、東芝公家、三菱殿様といわれたくらいの企業がいつからこうなったのか?本書では西室から始まった4代にわたる経営者の経歴から、業績などを通して今日の悲劇を迎えた東芝のルーツを探す。著者は云う、もし西室が社長にならなければ、もし西田が社長にならなければと。
 経営者が業績を上げたいと思うのは当然のことであるが、それを考える前に自らの会社から生計を得ている人々が何人いるか、まずそれを脳裏に浮かべて意思決定をしなくてはならないのではないかということではないか?そしてそれ以前に東芝というような大企業であればあるほどステークホールダー、株主はもちろんの事、お客様、関係会社、製品を通じての社会的責任など多岐にわたった思慮が必要ではないかと思うが、本書を読む限りそういうことへの気配りはほとんど感じられないというのは実に寂しいことだった。第一にあるのは、自らの業績、名誉心、功名心だけだったというのはさらに寂しいことだ。
 読んでいてつらい本だったが実に面白かった。

2017年10月26日

「キング・アーサー」チャーリー・ハナム、ジュード・ロー主演

アーサー王伝説に基づくストーリーは子供のころから童話などで親しんでおり、好きな話だ。そういえば「エクスカリバー」なんて映画もあった。本作はそういう伝説説話的な英雄譚を期待すると少し当てが外れる。ただしこの映画は大づかみな骨格やいくつかの有名な逸話は維持している。

 ユーサー王(エリック・バナ)の支配するブリタニア、6世紀頃か、弟のヴォーディガン(ロー)に裏切られ妻もろとも殺されてしまう。息子のアーサーは小舟で難を逃れやがて今のロンドンに流れ着く。そこで売春宿の女たちに育てられる。そして成人するが彼が覚醒するのは父が残した、エクスカリバーという剣、大きな岩に埋め込まれている。過去何人もその剣を抜くことができない。アーサー(ハナム)はその意味も知らずあっさりとそれを抜いてしまう。この剣を抜いたものが真の王と、民衆は信じている。ヴォーディガンはアーサーの殺害を命じる。アーサーはユーサー王の旧臣たちと逃亡し反撃に出る。まあそのあといろいろあってアーサーは王位につくという話である。剣を抜く話や、湖から剣を返される話、魔術師マーリンを思わす女魔術師、最後には円卓の騎士も登場。基本の逸話はつまみ食い的に拾い出している。
 しかしそれ以外の魔術師の場面やバトルシーンは劇画風で、アーサー王の出世物語的な劇的な語り口ではないので、ストーリーはバトルシーンのつなぎ的な要素しかない。したがって物語そのものは至極単調で眠くなるのだ。ときどき目が覚めると戦いをしているという塩梅だ。円卓の騎士にはアジア人やアフリカ系や中東系がおり、オールドファンには違和感があるが、それが今日的なのだろう。

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