ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2017年09月

2017年9月29日
於:東京文化会館(1階15列中央ブロック)

バイエルン国立歌劇場来日公演2017

指揮:アッシャー・フィッシュ
演出:アウグスト・エヴァーディング

ザラストロ:マッティ・サルミネン
タミーノ:ダニエル・ベーレ
弁者:ヨハン・ローター
夜の女王:ブレンダ・ラエ
パミーナ:ハンナ=エリザベス・ミューラー
パパゲーノ:ミヒャエル・ナジ
パパゲーナ:エルザ・ベノワ
モノスタトス:ウルリッヒ・レス
3人の童子:テルツ少年合唱団
第一の侍女:ヨハンニ・フォン・オオストラム
第二の侍女:ラハエル・ウイルソン
第三の侍女:アンナ・ラプコフスカヤ

管弦楽:バイエルン国立管弦楽団
合唱:バイエルン国立歌劇場合唱団

モーツァルトの「魔笛」は何度もかいているけれど苦手なオペラの一つだ。人気があり聴く機会も多いのに残念なのだが!ばかばかしいストーリー、陳腐な歌詞、王子、鳥刺し、夜の女王、ザラストロなどのおとぎの国のような役柄などがどうしても目や耳が受け付けなかった。それでもこのごろと書きをよく読んだり、いろいろ聞きこんできて修練をしてゆくにつれタミーノなみに成長しているようで、カラヤンのレコードを聴いて楽しむことができるようになってきた。それでも積極的に聴くのはフィガロやドンジョバンニが圧倒的に多いのだ。

 さて、今日のバイエルンの公演、これは何という素晴らしさであろうか?恥ずかしながら魔笛を聴いていて涙が止まらなかったのはいかなるわけか?
 第2幕のパパゲーノには大いに感動した。第23場20番のアリア、なんと人間の本質を突いた「パパゲーノの歌だろう。飲み食いとかわいい恋人これさえあれば人生万歳というシンプルな生き様を素晴らしい音楽が彩る。27場のパミーナの歌は感動的、タミーノの試練の場は正直詰まらないが、そのあとの第29場、パパゲーノがパパゲーナを知ったための身を焦がすような愛を感じ、しかし自分の意志の弱さがパパゲーナと自分を隔てる、そして絶望で首を吊ろうとする。その時現れる3人の童子の歌のなんと素敵なことか、そしてグロッケンを鳴らすとなんとパパゲーナが現れる。この後のパパゲーノとパパゲーナの2重唱の素晴らしさ。ここで流れる涙は彼らの幸せを見て、こちらも豊かな気持ちになり、そして幸せな気持ちになるから流れるのだ。もう何年もこんな幸せな涙を流したことがない。しかしモーツアルトの音楽はそれを骨の髄から味合わせてくれる。この場面、真の人間の幸せは何かを鋭く解き明かしている。
 政治家の皆さんはくだらない和合の相談をする暇があるならばこの「魔笛」を見たまえ。われらが庶民の代表のパパゲーノが人間は何をもって幸せになるのかを指示して呉れよう。

 さて、今日の音楽の素晴らしさについてもう少し付け加えたい。アッシャー・フィッシュの作る音楽だ。これは今どきの古楽風のとんがった演奏は皆無である。わずかに乾いたティンパニにそれを感じるが全体に、音楽は上品に、優雅に、柔らかく進む。実にふんわりとしたバイエルンのマスとしての音響の魅力だ。要するに無駄な力を入れずに、陳腐な言い方をすればモーツアルトに歌わせているのだとしか思えない。これはたぶん今ではオリジナリティのある演奏の部類になってしまうのだろうが、私はとても気に入ったのだ。細かい話だがいつもは埋没するグロッケンの響きをこれだけ盛大にならした演奏は初めてだ。いつもはもう少し大きくしてくれないかなと欲求不満がたまっていたが実にすっきり。まさかスピーカーで増幅はしていないと思うのだが?なお、演奏時間は155分強。

 歌い手は名前も声も聴くのは初めての人ばかりだが、バランスが非常に取れていたのではないだろうか?パパゲーノ、パミーナが特に素晴らしい感動をくれた。夜の女王は、非人間的な部分が弱く、人間の情の面を強く感じた、こういう女王もあってよいだろう。声は細身だがすっきりと伸び切って気持ちよい。タミーノは私が最も感情移入できない役柄なので申し訳ないがなんとも言えない。モノスタトスはあまり悪人にもブッファ的にも思えない中間的の印象で半端。ザラストロのサルミネンは昨日のタンホイザーを見に来ていたが実にでかい人で驚くばかり。きさくにサインに応じていた。ただ今日の歌は少し年を取ったかなあという印象。まあ役柄がこうだからよいのだろう。3人の童子はバイエルンのDVDで聴くよりずっと清潔でうまいと思った。とにかくよいバランスだった。

 演出はエヴァーディングの古典的なもの。プルミエが1978年、2004年に改訂されて、いまだに今日のように公演されているのだからすごいものだ。この演出はDVDやクラシカ・ジャパンでも放映されているのでおなじみなので詳しくは書く必要もなかろう。このオペラを楽しむのに十分な舞台と演出だろう。私が見た映像はサヴァリッシュの盤だが今回の公演と大きな違いは無いように思った。このサヴァリッシュの演奏を聴いているとアッシュの演奏のほうがスマートに聞こえるのも面白い。たとえば上記のパパゲーノのアリア20番などがそうだ。
 今回の魔笛公演は正直あまり期待していなかったが、実に楽しめた公演だった。なお今夕の公演の終演後、舞台にはオーケストラのメンバー、合唱団、裏方全員が登場。NBSの用意した垂れ幕もあり、観客は総立ちのスタンディングオベイション。

2017年9月29日
於:NHKホール(1階4列左ブロック)

バイエルン国立歌劇場、2017年来日公演
 ワーグナー「タンホイザー」

指揮:キリル・ペトレンコ
演出他:ロメオ・カステルッチ

ヘルマン:ゲオルク・ツェッペンフェルト
タンホイザー:クラウス・フロリアン・フォークト
ヴォルフラム:マティアス・ゲルネ
ワルター:ディーン・パワー
ビッテロフ:ペーター・ロベルト
エリーザベト:アンネッテ・ダッシュ
ヴェーヌス:エレーナ・パンクトローヴァ

合唱団:バイエルン国立歌劇場合唱団
管弦楽:バイエルン国立管弦楽団

おそらく、世界の劇場でもこれ以上は考えられないメンバーがそろった公演である。特に歌手陣はヴェーヌスを除いて、主役級の歌い手はすべてドイツ系というのも今ではもう考えられないことだ。わが新国立劇場のの歌い手を考えてみればよく分かる。そういう意味ではこの演出が今年の5月がプルミエで、そして今日このメンバーでこれが聴けるということは、バイエルン側の力の入れようも感じられるではないか?指揮はしかも最も売れっ子の一人のペトレンコである。

 ということでまず音楽からふれねばなるまい。ペトレンコは私の印象では日本では名前が先行しているような気がする。そのほかの海外の指揮者でいえばネルソンズもそうかもしれない。2人とも来日も少ないし(ペトレンコは始めて)、まだCDなどの販売もそう多くの種類が出ているわけではない。なお、ネルソンズはボストンと今年来日するので楽しみだ。
 さて、ペトレンコだ。今日の公演を聴いていて最も素晴らしかったのは3幕である。まず序奏の起伏の大きな音楽はタンホイザーの心を深く描いている。そのあとのエリーザベトにつけた音楽やウォルフラムにつけた音楽はそれぞれ胸を打つ。特にウォルフラムに与えられた「予期したとおりだ~」と有名な「夕星の歌」の音楽がせつせつとすすむさまは、ウォルフラムの心の動きを的確にとらえた演奏(歌唱も含めた)でありこれ以上のものは聴いたことがない。タンホイザーのローマ語りは淡々と進み、少々起伏にかけるが、タンホイザーが法王から宣告を受ける部分になって激高する様はこころをゆする音楽になっている。最後の救済の場面の合唱の感動的な締めは言うまでもないだろう。
 しかし通して聴くとペトレンコのタンホイザーは古今の名演とは少し違うような気がする。わたしにとって規範となる演奏は1962、バイロイト/サヴァリッシュ/ウイントガッセン盤と1971、ショルティ/ルネ・コロ盤である。この2つの演奏とペトレンコの音楽つくりの違いは、ペトレンコのほうがより音楽の流れを重視しているということではないかと感じた。ショルティにしろサヴァリッシュにしろ音楽を決めるところではバシーッとくる。ペトレンコはそれが優しい。たとえば1幕の幕切れ領主たちのホルンの音が遠景に、近景にはオーケストラが、パノラマのように広がり大きく盛り上がって終わるが、ペトレンコはショルティのようにけれんみたっぷりにはしない。抑制されているのである。これは後に続く音楽を大きく意識しているからではなかろうか?1幕で音楽を切ることをしないのである。2幕の最後に「ローマへ~」と叫ぶシーンも、なにやらタンホイザーも自信なさげに弱弱しいのも意味があってのことだったのだろうか?そういう意味では実に精緻に音楽が組み立てられている演奏ではなかろうか?管弦楽もそれにピッタリ寄り添う。前から4列目だったが音楽は全くうるさくなかったのはおそらく演奏のせいだろうと思う。
 演奏時間は189分。なおパリ版のショルティ盤は187分である。パリ版とウイーン版は歌詞はほぼ同じである。

 そして、立派な歌手たちもそうだ。象徴するのはヴォルフラムを歌ったゲルネだ。上記の3幕での2つの歌はまるでオペラから切り取ったリートのようだ。これほど柔らかく、優しく、ヴォルフラムの気持ちを代弁した演奏は聴いたことがない。ほかの歌手たちもみなそうで、決してがなりたてないのである。これは大きな声を出さないということではない。割れるような、叫ぶような、歌い方をしないということだ。そういう意味では少し抑制のきいたタンホイザーだったのかなという印象もないことはない。しかしペトレンコはこの3時間のドラマをほぼ一気通貫のものとらえて、その流れを重んじているのであるから、途中で見えを切るような歌い方は許さないのだろう。
 その他ではパンクラトヴァのヴェーヌスのまさに肉欲の権化のような衣装で、声もそれを体現していた。彼女はたしかバイロイトで近年クンドリーも歌っており実力者であることを感じた。
 今ドイツオペラでこの人は欠かせない。バイロイトでもバイエルンでも常連だ。ツェッエッペンフェルトだ。初めて聞くが決して他を圧する声ではないが、この美声は印象に残った。アネッテ・ダッシュも一時はよく聴いたが、久しぶりに聴いてさすがなものだと思った。少し神経質そうな声と歌いっぷりはエリザーベトにはふさわしいと思った。
 そしてフォークとのタンホイザー。彼はライブでもレコードでもDVDでもこの頃よく接する。私の印象では彼のベストはローエングリンそして今年のバイロイトで歌ったばかりのマイスタージンガーのワルターであろう。さらに加えるとパルジファル。この3役はまるで彼のためにあるような気がする。しかし
このタンホイザーはなるほどその美声は何物もまねできないものであろう。しかしローエングリン、ワルター、パルジファルと比べるとタンホイザーは肉欲地獄に落ちるかどうか、もっとも人間にとって苦悩の大きな役柄ではないだろうか(相対的、主観的)。したがって1幕のヴェーヌスとの別れや2幕の幕切れの苦悩、そして3幕のローマ語りと救済の部分はもう少し感情を大きく動かしてもよいのではなかったろうか?例えば1幕のヴェーヌス讃歌はいかにも気のない歌唱で、これでは苦悩に結びつかないのではないかと感じた。まあそうはいってもこれだけのタイホイザーは世界でもそういるわけでもなくないものねだりです。私の理想はウォルフガング・ウインとガッセン。付け加えればルネ・コロです。この二人以上のタンホイザーは聴いたことはない(ただしレコードです)

 さてカステルッチの演出は困りました。とにかく舞台が静止しているときがないのだ。絶えず人が動き、そうでないときは小道具が動き、舞台上のドイツ語の字幕まででてくる(ドイツ語の分からない私には困るのですが)
 ということで印象を全部書いたら字数をオーバーしてしまいそうなので気にかかったところのみ記録しておこう。記録というのは残念ながら意味が分からないので、読み解けないからである。
 さて、今日の公演はウイーン版だとのことで、序曲は完結せず途中からバレエになるのだが、ここではならずに半裸の(ように見える)女性たちが最初は12人、最後は24人舞台上に弓を持って並び舞台奥の大きな円に書かれた女性の目を狙って射るシーンになる。この目は知らない間に耳になっている。肉欲を耳からも、目からも遠ざけようということか?女性たちはひたすら射ているだけで、、2場になる。2場はヴェーヌスの洞窟。舞台中央には大きな台がありヴェーヌスが座っている。ヴェーヌスは巨大な乳房と生殖器を持っていて動けない。周囲はヴェーヌスの虜になった男たちがもう肉欲の果てに肉の塊に化している。タンホイザーもこれを見たら逃げたくなるよね。舞台奥には円形の通路があり、現世に通じる道のようだ。
 3場への場面転換はいったん幕が下りるので妙味はない。ただ巡礼たちが大きな金の塊を担いでいるのが後に利いてくる演出になっている。4場では領主たちは大きな鹿を獲物として引きずっている。領主たちは最初は目出し帽をかぶっており、それをとるとこんどはミニオンみたいな顔になる。最後は鹿の血をお互いに塗り付けて幕。

 2幕は舞台全体に薄い白いカーテンが何枚も何枚も天井から釣り下がっている。このカーテンはモーターで自動的に動くようになっているようでかなりきめ細かい動き。そしてカーテンの後ろには常にダンサーが肉欲を象徴するようなパントマイムかダンスのようなものを演じている。歌合戦の小姓たちはまた半裸な女性。歌い手は地面に横たわって、まずヴォルフラムの歌を聴く。この際の竪琴は弓で象徴している。中央に演台のようなものがあり、そこにたとえば「KUNST」とか「LUST」とかドイツ字が浮かぶ。そしてその演台の中で何者かが卑猥な踊りをしたりのたうち回ったりする。ちょっと気持ち悪いエイリアンのようにも見える。エリーザベトの服の上に肉襦袢のようなものがかけられて半裸のように見せかける、タンホイザはその肉襦袢を抱きしめながら歌う。最後の場面カーテンは巻き上げられ天井が下りてきて頭上に迫る。

 3幕はヴォルフラムの夕星の歌の後、中央に2つの遺骸を置く台が運ばれる。ひとつはKLAUSと書かれひとつはANNETTEと書かれている。そこにいれかわりたちかわり遺体が運ばれる。最初は普通の遺体、次には少し腐敗した遺体、緑色のものをかけられる、3つ目は腐敗が進み腹部が膨れた遺体、4つめは骸骨、5つ目は髑髏だったか?最後は緑色の粉。以上をローマ語りの間ずっと見せられる。舞台奥には字幕で時間がどんどん経過していることを字幕で示す?正確にはわからない。巡礼たちは粉々になった金の塊をひとつづつもって巡礼の歌を歌いながら登場。タンホイザーとエリーザベトはもう死んでると思うのだが遺骸の台の上の緑色の粉を、それぞれが舞台前方の小さな台の上に盛る。これが救済を示しているのか?どうか?
 さあ、これらの演出や装置の意味するところはどこにあるのだろう?解説版が欲しいくらいです。こういう演出はいつも欲求不満がたまり、音楽に集中できない欠点があるが、おもしろいことは間違いない。
ほぼ満席でした。

2017年9月28日

レンタルDVDの世界では端境期なのか、今月は面白い映画はほとんどなかった。見終わって辛い映画が多くて妙な一か月であった。

愚行録
ボーダーライン
グレート・ウォール
バーニング・トランスオーシャン
汚れたミルク
サラエヴォの銃声
エル・クラン
コブリック大佐

以上8作である。その他旧作は山ほど見ているが割愛する。

「愚行録」は貫井徳郎の原作らしく仕掛けが施されていて最後は驚くが、陰惨な原作を陰惨に見せられて、特に主人公の田中兄妹の悲惨さは見ていてつらい映画だった。
 週刊誌記者の田中(妻夫木)は1年前に起きた田向家家族惨殺事件を追って、田向の学生時代の友人を丹念にインタビューしてネタを集めている。田向とその妻旧姓夏原の姿を次第に浮き彫りにしてゆく。一方田中の妹(満島)は育児放棄の容疑で逮捕されてしまっていた。本作の背後には一見平等な社会のようだが、堅固な階級社会が張り巡らされているという日本の社会構造があるという。田中姉妹は希望を持つことすら許されない悲惨な子供時代を経て大人になった、しかし大人になったにもかかわらず、子供時代を引きずらなくてはならない。田中の妹の切なさは大きな共感を呼ぶところだ。満島はそれを私たちに自然に気づかせている。

「ボーダーライン」出来の悪い映画だ。時代性のみに頼った作品。
 ホッブス、フローレス、デービスは合衆国国境警備隊員で18号線の検問所で任務に就いている。ある日メキシコから米国への入国者をデービスがチェックしていると、車は突然発進し、逃走を図る。ホッブスは追いかけ発砲するが、逆に撃たれてしまう。その車は麻薬シンジケートの車で、デービスは警察への潜入者だったのだ。フローレスは元締めを捜索する。トランプの言っているウォールなどどこにもない地帯がやはり相当あるんだということがわかる。米墨の麻薬戦争の一端を描いた小品。

「グレート・ウオール」マット・デイモン、アンディ・ラウが出ている。デイモンはこんな映画にも出ているとは驚きだ。チャン・イー・モウ監督だから活劇・映像シーンは楽しめる。でもそれだけだ。
 伝説時代の中国(しかし火薬が出てくるからあえて言えば10世紀くらいか)欧州から黒色火薬を求めた一隊が万里の長城を目指す。結局ウイリアム(デイモン)とトヴァールの2人が生き残る。万里の長城にたどりつくがそこは臨戦態勢で大軍が駐屯していた。それは60年に一度、人間の強欲を戒めんとする天が地上にもたらす災禍「饕餮」という怪物の大軍を待ち受けている大軍だった。その怪物はまあエイリアンとプレデターが合体したようなもので、女王のみが無限の繁殖を繰り返す。軍師のアンディ・ラウやウイリアムらで撃退をするという、まあ劇画風の物語である。中国の武器の仕掛けがおかしい。

「バーニング・トランスオーシャン」原題は「DEEP WATER HORIZON」海上石油基地の名前である。
2010年、ルイジアナ湾の沖にある石油基地で起きた大爆発、実話に基づく映画だ。
 ジミー(カート・ラッセル)とマイク(マーク・ウオルバーグ)はBP社の石油発掘の技術主任と技師である。BP社の幹部(ジョン・マルコヴィッチ)はスケジュール遅れを嫌い、安全性のテストの一部を割愛してしまった。技術陣はクレイムをつけるが経営陣に押し切られる。しかしそれが原因で大惨事を引き起こす。アメリカ最大の石油事故につながったのである。これは人間の傲慢さへのペナルティであろうか?コントロールできない油井が崩れ、燃え上がる悲惨さが映像でリアルに再現される。

「汚れたミルク」欧州製の映画のようだが、舞台はパキスタンである。1994年のパキスタン、国内製薬会社の営業マンアヤンは、外国製の薬品の壁に阻まれ仕事がうまくゆかない。一念発起して外資系の会社に就職活動しなんと合格。粉ミルクやら薬やらの地域担当になる。上司からわいろを含めた商売を教えてもらい成功する。家も買い幸せな生活。しかし友人のファイズ医師からアヤンの会社(ラスタというがモデルはネスレ)の粉ミルクを飲んだ子供たちが死んでゆくケースが増えているという。ミルクは清潔な水で溶かすのが推奨だが、パキスタンではなかなか難しく、汚染された水で薄め下痢になってしまうというのだ。企業責任はこの場合あるのか?しかしアヤンは単身内部告発をする。
 実話に基づく映画だそうだが、人生をかけたアヤンの孤軍奮闘ぶりが痛々しい。

「サラエヴォの銃声」ボスニアヘルツェゴビナ映画?
 1914年、6月サラエヴォでガヴリロ・プリンツペがオーストリア帝国のフェルディナンド大公夫妻を暗殺、第一次世界大戦がはじまる。そこから100年後のサラエヴォのホテルヨーロッパを舞台に、記念式典に集まった人々やホテルの人々の一日を描いた群像劇。欧州の人には身近だろうが、この旧ユーゴの歴史に疎い私には少しついてゆけない部分もあった。一流ホテルのホテル・ヨーロッパが傾いていて労働争議が起きているという逸話は群像劇として特に面白かった。

「エル・クラン」アルゼンチン映画、実話に基づく。
 軍政から民主制に移行しつつある1983年、金持ちの子弟が誘拐される事件が多発する。民族解放戦線の仕業と見せかけているが、黒幕が存在する。実行犯はアルキメデス、その息子アレックス、そして彼らの同志である。アルキメデスは政府機関の人間らしい。しかし政府が民政に移行する過程でアルキメデスは切り捨てられる。アルゼンチンの暗い過去だ。

「コブリック大佐」これもアルゼンチン映画。
1976-83の間アルゼンチンは軍政下にあった。反政府の人々は「死の飛行」という刑を受ける。それは高度を飛ぶ飛行機から囚人を突き落とすという刑なのである。コブリックは海軍の大佐、パイロットである。その処刑飛行機のパイロットである。しかし良心に耐えかねて、妻とも別れ、失踪する。父親の友人が経営する、農薬散布会社のパイロットして地方の農村に逃げ込む。しかしひょんなことから地元の警察署長から目を付けられことになる。これもアルゼンチンの暗い過去だ2作続けてみせられるとちょっと嫌になる。コブリック大佐の苦悩はわかるが田舎娘と恋に落ちるという設定はいかがなものか?

2017年9月26日

今月もあとわずか残っている。今読んでいる本は2冊あるが今月末までには読み切れないので締め切って、9月の読書のまとめをしたい。

今月読んだのは以下の本である。
「イノベーターのための日本史ー近代日本の創造的対応」米倉誠一郎著
「水を石油に変える人ー山本五十六不覚の一瞬」山本一生著
「いくさの底」古処誠二著
「帝都大捜査網」岡田秀文著
「修羅の果て」貫井徳郎著
「観応の擾乱」亀田俊和著
「タフガイ」藤田宜永著
「冤罪犯」翔田 寛著
以上8冊である。

 いろいろなジャンルが入り乱れているが好みでいうと今月のベストは「冤罪犯」と「タフガイ」である。また力作であり目の付け所に感心をした「水を石油に変える人」がそれに勝るとも劣らない。

 警察小説の「冤罪犯」は実に面白い。舞台は千葉県船橋署、主人公たちは捜査一課の課員、巡査部長の香山、新米刑事の増岡(女性)、その教育係で巡査長の三宅、そして彼らの上司である入江係長である。この人物たちの描き方が面白い。香山は妻を亡くし、一見クールな刑事だ。三宅は見た目はブッファ風だが繊細な神経の持ち主、古い刑事の生き残りだ。増岡はいじめのトラウマがあり刑事になった。職場ではセクハラやらパワハラに断固と立ち向かう。彼女だけが造形が優しい。入江は硬派の刑事、実質1課を仕切っている。そのほか表に見えない刑事、警察官も丁寧に描かれてこの警察小説に鋭い彫りをもたらしているのだ。これがこの本の魅力。
 もちろん、ストーリーも面白い。船橋管下で少女惨殺死体が発見される、増岡ー香山ラインは7年前の同地区で起きた連続幼児虐殺事件・いわゆる田宮事件の模倣犯の仕業という見立てで別働捜査をする。田宮事件の犯人はすでに立件され死刑の判決を受けているが、控訴中に自殺を図る。この田宮事件と現在の事件とが交錯しながらストーリーは展開する。この捜査のプロセスや警察の力学などおなじみだが、本物らしいところが良い。このジャンルの秀作。

 「タフガイ」は打って変わって、最近ではあまり見ないスタイルの探偵小説だ。これもとても面白い。最近の探偵小説はあっても、捜査にインターネットやスマホを使ったり、特殊能力者だったりで、古典的な足で丹念に捜索をするという話にはできなくなっているところに、古い読者は面白さを感じなくなっているのではないか?その点この作品は1974年という時代設定をしている。それが第一の面白さ。これはオールドファンには実にうれしい。そのころの新宿や銀座の風俗、そのころのポップスミュージックの数々、そして主人公らの衣装、車などなど。読んでいて懐かしい。スマホもインターネットもない時代なのだ。
 この本のもう一つの面白さはフィリップ・マーローの模倣とも思われる私立探偵浜崎の造形である。なんだまねっこじゃねえかとも言えそうな部分もないことはない。大体「タフガイ」という名前さえもぱくりっぽいのだ。しかしよく読めばこの浜崎という人物はなかなか屈折したものを持っており、単にフィリップ・マーローの真似とは片付けられない魅力もある。このあたりは読物の好みでわかれるところだろう。まあ映画化はすごく難しいと思うが?
 ストーリーは浜崎が少年時代に入所していた鑑別所の仲間、石雄が大富豪の御曹司としてあらわれる。石雄の父の庄三郎は浜崎に最近失踪した娘の捜索を依頼する。しかしその娘は何かを捜査していたらしく、何者かに銃殺されてしまう。浜崎は探偵として捜査を続けるがそれは幸せな人々の過去を暴くことになるとわかり苦悩する。久しぶりに面白い娯楽探偵小説だった。レイモンド・チャンドラーの「ビッグスリープ」を思わせる雰囲気。チャンドラーへのオマージュか?

「水を石油に変える人」は実にばかばかしい話だが、どんな人でも窮地に追い込まれると理性ではわかっていてもすがる気持ちが、信じるに変わってしまう。その人間の心が暴かれている。これはだれしも経験していることだから共感を持って読めるだろう。
 本書は希代の詐欺師・本多維富とそれを取り巻く人々、それに関わる人の狂奔を描いた力作である。
本書の発端は阿川弘之の小説「山本五十六」でその中に水を石油に変える人の逸話が書かれていた。著者はそれを温めて、それから数十年の研究の成果として本作ができたという。
 二次大戦直前、日本はのどから手がでるほど石油が欲しかった。そのような中、本多という男が水を石油に変えるという実験をしているという。海軍は大西中将を中心に検証をするため、海軍の中で実験をすることを決める。もちろん海軍次官、山本五十六も承認しているのである。しかしこの本多某、以前「藁を真綿(絹)」に変えると称して、詐欺罪で起訴されたいわくつきの男だった。そんな男になぜ騙されるのか?
読者には馬鹿に見えるが、しかし狂奔の渦の中の人にはそうは見えなかったのだろう。重ねて言うが人間の心は実に弱いものだ。これは面白い本だった。

「イノベーターたちの日本史」は日本の近代の発展に寄与した政治家、企業人、科学者を「創造的対応」という切り口で描いたものだ。登場する人物は高島秋帆、大隈重信、笠井順八、高峰譲吉、大河内正敏、そして財閥の三井、三菱の礎を作った人々である。財閥の人々をのぞくと、どちらかというと歴史に埋もれた人々のように思われる。例えば高峰譲吉は同時代人の野口英世に比べると、その名声は実績と比べるとその度合いが違うという。すなわち本書に登場する人物は、世評とは関係なく、著者の切り口である「創造的対応」に合う人物である。そういう意味で実に主観的な本であるが、中身はそれなりに面白い。しかし人物が少々地味で面白みのないのが難点で、損をしているような気がした。どうせあてはめるのなら大隈じゃなくて坂本ではなぜいけないのかがよくわからない。「創造的対応」という著者お得意の概念に無理に当てはめようとしたからではないだろうか?学者の論文を読んだという、読後感に近い。

「いくさの底」は日本がビルマを占領したころの話。戦争小説のジャンルだろうが、推理小説の面白さもあり、なかなかユニークな作品である。作者はこういうジャンルが得意らしいが、面白く読んだ。
 ビルマ、シャン州(中国国境に近い)のセムオイ村、中国の重慶軍と日本軍が接している地域である。そこへ、重慶軍の掃討のために斎藤少尉率いる小隊が入村する。通訳には商社員の依井が帯同する。彼が本書の主人公にようだが、そう明確ではない。斎藤少尉は昨夏この村に駐屯しており、村人とは懇意、ただ昨年ここで重慶軍と遭遇するという事件ががあった。そしてその事件が伏線になって、2つの殺人事件がこの村の中で発生する。犯人はだれだ?謎解きも面白いが、当時の日本軍、中国軍、板挟みのシャン族(ビルマ少数民族)の描写が興味深い。特に被征服者のビルマ人の気持ちの痛々しさが読後感を支配する。

「帝都大捜査網」も警察小説だが舞台はなんと昭和11年である。連続刺殺事件が発生する。奇妙なことに被害者の素性はすぐわかる、そしてその刺し傷の数は遺体が次々と発見されるほど、減少してくるというのである。警視長、特別捜査隊隊長の郷咲が主人公。迷宮入りと思われたが、被害者同士の共通点が次第に明らかになってゆく。謎解きとしては面白い。昭和の成金と失敗者への急転、そして不況のとば口、そういう世相をあらわした殺人である。一つ不満を言えば主人公の捜査に娘が口を出すことだろう。次第にその理由があきらかにされるが、主人公の性格描写の手法だろうが、ちょっと姑息である。映画にするとき女っ気がないと困るから無理にはめ込んだようにも感じられ、リアリティを削ぐ。残念だった。

「修羅の果て」はなんとも奇妙な話で、正直文庫本2冊を持て余した。細部にトリック満載なのはよいが少々複雑すぎやしないだろうか?もう少し作為を減らしたほうが、そして読者が簡単に結論にたどり着けるようにしたほうがよいのではなかったろうか?実験小説ではあるまいし!
 主人公は3人、警視庁公安のエリート、久我、西池袋署防犯課の悪徳刑事、記憶喪失の青年である。これらの3人が3つの時代で生きてゆく様が、同時に描かれる。最後には収れんするって?まあそれは読んでのお楽しみ。

「観応の擾乱」応仁の乱で成功して、柳の下に泥鰌ではないが、またまた足利時代(室町時代)を描いたものだ。足利尊氏というと私には吉川英治の「私本太平記」がすぐ思い出される。本書はその尊氏と弟の直義との争いである「観応の擾乱」を描いたものだ。しかしその後の南朝対尊氏、尊氏の子直冬対尊氏・義詮との戦いまで描かれる。本書を読んでいると鎌倉幕府が滅びてからもずっと戦乱は続いていたことがわかる。それとこの当時の武将は戦況でころころと陣営を変えてしまう、そのドライさには驚くばかりである。まあその当時の武将の論理があるのだろう。まるで選挙を控えた最近の国会議員みたいだ。
 それはそれとして、多くの武将がくっついたりはなれたり忙しく、そのうち誰が誰やらわからなくなってしまうのが難点、人物注釈表のようなものがあると嬉しい。
 読んでいて、この当時の幕府の意思決定の機関やプロセスが面白い。武将たちのニーズをくみ取るリーダーには武将たちがついてゆくということなのだろう。それゆえ武将たちがついてゆくとき、離れてゆくときには理由があるのだということがよく分かった。なじみのある太平記とはずいぶん違うが面白く読んだ。

2017年9月22日
於:NHKホール(1階18列中央ブロック)

NHK交響楽団、第1865回定期公演
指揮:パーヴォ・ヤルヴィ
ピアノ:デニス・コジュヒン

グリンカ:幻想的ワルツ
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第四番

スクリャービン:交響曲第二番

オール・ロシアプログラム。すべて初めて聴く曲である。初めての曲は疲れる、どういう素性の曲なのか、どこが聴きどころなのか、好きになりそうな旋律があるのか、などと考えながら聴いてしまうからだろう。
今日は特に前半の2曲はCDももっておらず、まったく手探りだった。グリンカはあのひげ面のロシアの農民風の肖像画が思い出されて、きれいなワルツのこの曲とはどうも結びつかず、そんなことを考えていたら終わってしまった。9分くらいの曲だ。ヤルヴィが好きな曲だそうだ。
 ラフマニノフはどうしても有名な二番や三番と比べてしまう。この四番は初稿が1926年だがその後書き直され、今夜聴いたのは第3稿・最終稿で1941年版だそうだ。何度も書きなおすくらいだから本人もきにいらなかったのではなかったのだろうか?今夜初めて聴いてみて、有名な曲たちに比べると、華がないし、耳に残る旋律もない。ラフマニノフらしくない地味さである。二番、三番に比べると演奏回数が少ないのもわかるような気がする。ピアニストはロシアの人。昨日は韓国の17歳の少女の独楽鼠のようなくるくる回るピアノを聴いたが、今夜は熊のようなド迫力。二番か三番を聴いてみたかった。アンコールはスクリャービンの3つの小品(作品2)から練習曲一番。若いころのスクリャービンの耳に優しい美しい曲だ。演奏も思い入れたっぷり。

 最後はスクリャービンの交響曲二番である。スクリャービンはロシア音楽院でラフマニノフと机を並べたそうで、二人はその当時の天才ピアニストで1,2位を争ったそうだ。二人はその後全く違う道を歩んだが、今夜の交響曲はまだスクリャービンの後年の神秘性や難解さがなく、ラフマニノフと似通ったような音楽だ。実は本箱をあさったらなんとアシュケナージが指揮をしたスクリャービンの交響曲全集があった。今回の公演にあたって、3度ほど聴いてみたが、もうそれで充分。とにかく聴きやすく、耳に優しい旋律満載。特に1楽章のクラリネットの吹く主題や5楽章の脳天気な主題など一度聴いたらまず忘れないだろう。初演はあまり評価されなかったようだがなぜだろう。本人も後年この作品に見向きもしなかったそうだから物足りないところがあったのだろう。後年の神秘的な音楽とは別人のように違う音楽。晩年は狂気に襲われ、すさんだ生活をしたそうだが、同じ天才でもラフマニノフとはずいぶん違った人生を歩んだようだ。
 ヤルヴィの演奏はベートーベンやブラームスなどの音楽とはずいぶんと違ったおおらかなもの。甘い旋律を思い切り歌わせる。5楽章もスケールが大きく、音楽がすべてあけっぴろげだ。こういう曲だからだろう。3楽章、5楽章が聴きごたえがあった。N響の木管群の美音をたっぷりと聴かせてもらった演奏だった。演奏時間は44分
 今夜は雨のせいか、プログラムのせいかお客の入りが悪い。後方や前方両翼(1階)は空席が目立った。今夜のようなプログラムは意欲的というべきか、ヤルヴィの自己満足というべきか?ひがみ根性かもしれないがいつもCプロが割を食っているような気がする。

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