ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2017年07月

2017年7月29日
於:東京文化会館(1階14列中央ブロック)

二期会創設65周年記念公演
 グラインドボーン音楽祭との提携公演

 リヒャルト・シュトラウス「ばらの騎士」

指揮:セバスティアン・ヴァイグレ
演出:リチャード・ジョーンズ

元帥夫人:林 正子
オックス男爵:妻屋秀和
オクタヴィアン:小林由佳
ファーニナル:加賀清孝
ゾフィー:幸田浩子
マリアンネ:栄 千賀
ヴァルツァッキ:大野光彦
アンニーナ:石井 藍
警部:斉木健詞
テノール歌手:菅野 敦

管弦楽:読売日本交響楽団
合唱:二期会合唱団

歌手は全員日本人で二期会の持ち味の出た、いかにも記念公演らしい立派な「ばらの騎士」だった。
黙役を含めてすみからすみまで全く手を抜いていないキャスティング。例えばパメラ帽子売りなどはほんのわずかの出番しかないが、二期会デビューの藤井玲南という歌手を使っている。彼女の声は将来性を感じさせる美しいもので、二期会の将来の布石を考えたキャストであることがよくわかる。
 演出はグラインドボーンからの持ち回りなのは少し物足りないが、世界的な流れだからこれはいたしかたあるまい。
 ただ、そうはいってもこれは例えば、先日ライブビューイングで見た、メトロポリタンの公演に伍したものかというとそうは言い切れない。一流だけれども超一流にはなり切れないのだ。特に歌い手には、さらなる高みをめざすためには今一つ突き抜けたものが欲しい。

 林の元帥夫人は素晴らしい声で魅了するが、例えば1幕でのモノローグなどは今一つ深みがない。元帥夫人という役の重みがない。これは演出によるところがあるかもしれない。貴族の夫人というよりも町のおかみさん風なのである。このモノローグは32歳という夫人の設定以上の感動を私のような70歳の聞き手にも与えるのである。この時の流れという恐ろしさを、今日の歌唱では十分に感じとることができなかったのは残念であった。3幕でも3重唱などはさすがに聴かせるが、やはり役柄設定が私にはすっきりしなかった。
 オクタヴィアンの小林は女性陣では最も印象に残った歌唱。特に2幕の登場の場面、ゾフィーとの2重唱など皆素晴らしいが、惜しいことに華がない。後で触れるがこれは衣装のせいでもある。なんとも地味なのである。それとズボン役としての立ち居振る舞いが物足りない。例えば1幕の元帥夫人とのからみなどは男女の絡みとは思えないのである。もしかしたら同性愛として描いているのかと錯覚すらしてしまう。
 ゾフィーはさすがに安定した歌唱ではあるが、15歳という少女の初々しさが感じられないのは、仕方がないことかもしれない。

 予想外に良かったのは妻屋のオックス男爵である。声だけ聴くとずいぶんと若々しく、軽いオックスであるが、決して嫌な声ではない。ただ1幕の退場シーンや2幕の終わりの重みのあるバスは聴けない。演技も田舎貴族の味を十分感じさせるものまずまずの出来栄えだった。
 テノール歌手はもう少し華が欲しい。元帥夫人の居間の人々に埋没してしまった印象だ。ここは浮き上がってもいいから思い切って出しゃばってほしい。しかしこれも演出だったのかもしれない。

 演出は時代設定がよくわからないがそれほど無理のないもの。
 1幕は舞台に大きな長椅子があるだけの素気のないもの。背景は淡いグリーン。舞台は奥行きが狭い。居間のシーンでは登場人物でごった返し、せせこましい印象。1幕のでは元帥夫人がシャワーを浴びている場面から始まる。こういうのは珍しい。オクタヴィアンも元帥夫人もバスローブのようなものを着ていて、また髪も長く、二人の違いがあまりわからない。元帥夫人のモノローグでは奇妙な禿げ頭の男が彼女の後ろに座っていたが、なぜだかわからない。

 2幕の冒頭はゾフィーが衣装を着かえているシーン。舞台の前面の壁が上がると階段がありファニナル家の居間になる。正面にはきんきらきんのファニナルの巨大な文字がある。オクタヴィアンは階段を下りて、銀のばらをゾフィーに渡す。ここは伝統的なスタイル。しかしオックスが出てくると、大きなテーブルが持ち込まれゾフィーはその上に乗せられて、さらし者のようになる。オークションのような札もたてられるが、これは実際なんだかわからない。オックスとオクタヴィアンは争うが、お互い、剣は持っていないので、結局オクタヴィアンは銀のばらの柄でオックスの尻を刺す。これは、あとでマイスタージンガーのベックメッサーのような演技をさせるのかと思いきや、まったく後遺症がないのでちょっともったいない。
 3幕は先日のメトロポリタンの演出ほどではないが、伝統的なものとは大きく異なる。宿屋はいかにも連れ込み宿風で、ミラーボールが壁にあり、ソファは電動でベッドに早変わり。オクタヴィアンは最初から登場しない。ワインは飲めないわというシーンから登場。オックスは調子に乗って鬘を取り、下着になってソファベッドに横になりでオクタヴィアンを誘う。飾り窓の怪人は出てこなくて、仮面をかぶった男女が多数登場する。首吊りの縄が天井から降りてきてオクタヴィアンが首を吊ろうとする。また警部はその男女を前に急に裁判官のようになりオックスを糾弾するなど思いつき満載だが、それほど違和感はない。最後の元帥夫人がファニナルに同調するシーンも何となく軽く町のおかみさんがやーやーと言っているように聞こえる。要するにこれはウイーンの貴族を描いたものでもなんでもなくただの、どこにでもある男女の痴話話なのだろうか?全体があまりにも軽い演出なので少々物足りないが、今日的なのだろう。

 しかし今日の衣装は少々ひどいのではないか。1幕の元帥夫人とオクタヴィアンをみてもこれは相当不満。オクタヴィアンの軍服姿は華がないし元帥夫人が着替えた服は白に赤い鳥の刺繍のようなものが描かれたドレスだが、どうみても公爵夫人の着る代物ではない。まあ演出に合わせたといえばそれまでだが!
2幕のオクタヴィアンの衣装も超地味。3幕のゾフィーはナイトガウンを着たような外観で違和感を感じた。

 ヴァイグレの音楽は演出と軌を一にしている。決してウイーン情緒を味わえるものではないが、快速とも言える快適なテンポは小気味がよい。しかし例えば2幕の最後のオックスの小唄につけた音楽は至極さっぱりしていて、もう少し聴かせてほしかったが、これはこれで一つのばらの騎士の表現だろう。演奏時間は今年彼がメトロポリタンで振ったときよりずっと速い。演奏時間は174分。

 

2017年7月26日

まだ7月は残っているが、今月の読書の総括。

「水壁」高橋克彦著
阿弖流為シリーズの続編のようだ。9世紀の元慶の乱をモデルにした、蝦夷たちの反乱を描いている。本書では阿弖流為の4代後の「天日子」が主人公で反乱のリーダーとなる。都の安部玄水や出羽・陸奥の山賊などの人物を織り交ぜた、まずは一級の歴史小説となっている。朝廷方はほとんど実在の人物だが、蝦夷側はほとんどフィクションのようだ。出羽、秋田で飢饉が起こるが、朝廷は蝦夷を差別し、支援をしない。蝦夷側はそれに対して物部氏をバックに阿弖流為の子孫天日子をリーダーに立ち上がる。
 阿弖流為という人物は非常に魅力的な人物に描かれていたが、天日子は人物像としては肉付けが薄いように思った。蝦夷はすべて正しく、朝廷がすべて悪いという極端な描き方は仕方がないとはいえ、ちょっと物足りない。

「おもちゃ絵・芳藤」谷津矢車著
浮世絵の大家歌川国芳が亡くなった年から物語が始まる。筆頭の弟子の芳藤が主人公、それに弟弟子の芳年、芳幾がからんで江戸末期から明治にかけての日本画家の生きざまを描く、大変面白い作品。
 この本を読んで思い出すのは「アマデウス」のサリエリである。芳藤は筆頭ではあるが、天才的な画家とは言えない。才能はあるが、華がなく、丁寧さが取り柄。ただし自分以外の画家の天才は痛いほどわかる。そうして弟弟子にどんどん追い越されてしまう。芳藤には浮世絵など回ってこず、子供のための「おもちゃ絵」という新米画家がこなす絵しか依頼が来ないのである。しかし彼はそういう画家ではあるが妙に人から頼られている。そういう人物である。
 大きな時代の流れに当然画家たちも流されてゆくのだが、そして多くは流れに竿をさすのだが、芳藤はその流れの端に立ってじっと時代の流れを眺めている男のように感じた。サリエリとの違いはサリエリは世俗的な成功をしたが芳藤はそういうことがなかった。
 読んでいて興味深いのは彼の人生における岐路での選択である。ことごとく裏目に出るが、それはこの男の矜持なのだろう。自分だったらどういう決断をしただろう。そういうことを考えさせる小説だ。

「第五の福音書」イアン・コールドウエル著
バチカンを舞台に起きた殺人事件。それはバチカンでのある展示会を前にして起きた。被害者はウゴという学芸員で第五の福音書(4つの福音書を一つにまとめたもの))の研究の末、キリストの復活の際にまとっていた聖骸布の真偽を暴こうとしていたのである。容疑者はカトリックの司教シモン、そしてシモンの弟などが絡んだ一種のミステリのようだが、その実はまじめな福音書解釈をもとにした、カトリックと正教会と二分したキリスト教の統一を目指す大きな物語である。そういうなかでは殺人事件はほとんどみそっかすである。聖書に興味のある方にはおすすめ。

「バッタを倒しにアフリカへ」前野ウルド浩太郎著
アフリカにおけるバッタの農作物への影響は想像を絶するものらしい。雨季の後に大発生するという。著者はそのバッタ、サバクトビバッタを退治する研究のためにモーリタニアに行く。そして現地の研究所の人々と交流しながら、バッタの生態の研究、フィールドワークをしてゆく。
 本書はそういう一研究者の奮闘をユーモアを交えて描いている。もちろん面白いのはバッタやアフリカの砂漠に生きる生物の描写だが、それ以上に面白いのはモーリタニアの人々の描写である。また日本のポスドクの実態も興味深かった。日本にもこういう若い研究者がいるのだと頼もしく思った。

「下山事件・暗殺者の夏」柴田哲孝著
1949年の下山国鉄総裁轢死事件はノンフィクション、映画など数多の作品で描かれているが、本作は自身のノンフィクションをベースにした小説である。かなりの人物は実名で出ており、リアリティのある小説となっている。自殺説、他殺説と二分した事件だったが本書は他殺説をとっており、リアリティをキープしながら創作部分を織り交ぜて一級のサスペンスに仕上がっている。この事件に関心のある方は本作と著者の書いたノンフィクションと併せて読むと一層興味深いだろう。

「木足の猿」戸南浩平著
ミステリー文学大賞新人賞の作品である。主人公は奥井という元武士である。若い時に片足を失い義足である。仕込み杖をもち、居合の達人である。その男が「サムライ・ディテクティブ」になるというなかなか面白い設定である。時代は明治9年、奥井は17年間、同僚の藩士を刺殺した仇、矢島という男を、追いかけている。
 ある日玄蔵という怪しげな男から最近発生した英国人首切り連続殺人事件の捜査を依頼される。その下手人の一人が矢島というのである。奥井と玄蔵コンビの犯人探しも面白いが、それ以上に興味深いのは幕末から明治9年までの時代の変遷の描写である。サムライの没落、商人の台頭、外国商人の跋扈、文明開化の有様、そして貧乏人はいつになっても貧乏なまま残る。そういう社会風俗の面白さ、目の付け所の良い探偵ものであるが、社会派小説ともいえる。面白かった。

「駒姫」武内 涼著
秀吉が天下統一して世に安寧をもたらしたその時代、後の秀頼が生まれ、秀吉は秀次に関白職を譲ったことを後悔している。そういう折も折、秀次の側室として東北、出羽の駒姫が聚楽第に入る。それは秀次が高野山に追放されるわずか三日前のことである。当然駒姫は秀次に会うことはなかった。そして秀次は切腹を命じられる。淀君や秀吉の側近の思惑もあり、異例なことに39人の正室、側妾、そして子供たちは処刑ということになってしまった。不幸にも駒姫もその中に含まれていたのである。この小説はそういう数奇な運命の駒姫、その御物師(駒姫の衣装係)のおこちゃ、の二人を主人公に描いた歴史小説である。駒姫は最上義光の娘である。最上家を挙げて駒姫、おこちゃの助命運動を行うが、はたしてこの二人の運命はいかに?
 本作は、晩年の秀吉の老醜を描きながら、それに絡まるように、醜い争いの続いた戦国の世が終わっても、結局人間は醜い生き方しかできないのだと云う。秀吉やその側近は激しくデフォルメされている。そして最上家の人々はとても美しく描かれている。そのことを気にしなければ第一級の歴史小説だ。

今月はどれもみなそれぞれ面白かった。目の付け所の良さで「木足の猿」をベストにしよう。

2017年7月20日

ワーグナー「パルジファル」、ハンス・クナッパーツブッシュ1962年盤はすでに本ブログで2度ほど紹介している。最新のSACD盤を絶賛したばかりだが、レコード芸術8月号でも2つの記事で取り上げているので私なりのコメントをしたい。
 一つはオーディオ欄(217ページ)である。セルのブラームスなど最新のリマスターSACD盤を座談会形式で取り上げている。この中でパルジファルの/クナッパーツブッシュの3種のCDについて比較している、一つは最初にCD化された盤、一つはそのリマスター盤、そして今回のSACD盤である。この座談会で気になったのは最もバイロイトの雰囲気を出しているのは最初の盤だという声である。しかも咳払いやノイズが盛大に入っているのを臨場感があると云わんばかりの評価をしている。
 なるほど私もそうであった。この最初のCDの音、要するにバイロイトのステレオ録音の初期の時代のもの、その他ではサヴァリッシュのオランダ人やタンホイザーなどの音を本当のバイロイトの音と思ってありがたく聴いてきたのだった。しかし初めて(そして最後だが)バイロイトで「ラインの黄金」の冒頭が鳴った時(2008年)、あれ全然違うじゃないかと思ったのだった。地下からわき出るような、どこかこもった音と云う表現は全く当たらない。むしろ明快で、清々しい音、と思ったくらいだ。音楽は十分明瞭であり、それがホールの響きと合わさって、えも云えぬような魅力的な響きとなっている。何度も云うが決してもこもこした音ではない。
 そして会場ノイズも実際は最初のCDに入っていた様には聴こえないのである。むしろ最初のCDはそのノイズを強調して臨場感を出そうとしているのではないかと思わせる。

 私はこのSACD盤の評価はこの座談会よりむしろ170ページの増田良介氏のSACDシングルレイヤー録音評の記載のほうが共感するのである。一部引用するとこうである「オーケストラの深深とした響きが、広い空間ごと感じられるし、歌手たちの声には、そこで生きた人間が立って動いて歌っている実在感があるし、合唱は人の声としての集合体としての熱さと力強さをもって聴こえる」、まさに同感である。とにかくこの演奏が好きな方には一聴をおすすめする。

2017年7月18日
於:東京芸術劇場(1階N列中央ブロック)

東京都交響楽団スペシャル
指揮:エリアフ・インバル
アルト:アンナ・ラ―ション
テノール:ダニエル・キルヒ

マーラー:交響詩「葬礼」

マーラー:大地の歌

おとといのノット/東響の二番に続いて中一日於いて今日は大地の歌である。ホールもオーケストラも曲も違うのだけれども、そうはいっても、インバルとノットの音楽作りには相当違うものがある。極端に言ってしまえばノットは全体に穏やかである。強弱、緩急の幅をインバルほど大きくはとらない。インバルはあざといとは云わないまでもかなり音楽を動かすのである。ときには少し勝手気ままにやり過ぎてはいまいかとも思う場面もないとは言えないが、しかし全体を聴き終えた後は、深い感動を与えることは間違いない。マーラーの音楽の懐の深さを改めて思い知らされた2日間であった。

 1曲目の「葬礼」は初めて聴く曲である、と思ったらそうじゃなかった。これはマーラーの交響曲二番の第一楽章の第一稿なのである。いくつか違うところはあるにしても、第一主題、第二主題は全く同じであるので、まるで二番の1楽章だけ抜き出して聴いているようなものである。ノットの演奏とは違う、音楽は切り立った崖から崖へ飛び移るようなスリリングな動きに聴こえる。ちょっとやり過ぎじゃないかと思うくらいだが、その効果は実に大きいものだ。

 前にも書いたがこのごろ「大地の歌」がとても聴くのが難しい曲になっている。若いころ夢中で聴いたことが懐かしい。しかしこうして1年ぶり(2016年の東京シティフィル以来)に聴いてみると、素晴らしい音楽には違いない。特に両端楽章の深い感銘は久しぶりに味わうものである。1楽章のキルヒの歌唱はこの詩に託された憂い、虚無、頽廃といったものはあまり感じない。しかしここには若者しか持てない熱情がある。それがこの歌からうらやましいくらいに感じる。特に間奏から3節全体は熱唱である。細身の伸びやかな声がこの歌に相応しい。インバルの音楽はここでもそうだが全体に色彩感が実に豊かで、音の数が増えたように聴こえる。3節の間奏の木管群の響き、そして3節への突入、オーケストラの機動性を感じさせる演奏だ。
 ラ―ションは当然のことながら5楽章が素晴らしい。懐のふかい声はこの歌に相応しい。しかしだからといって暗い声ではなく、むしろ明るい。それは色彩感の溢れるオーケストラと軌を一にしているのだ。特に「我がゆく先は~永遠に」までの全体が深く沈みこんでゆく音楽は久しぶりに感銘を受けた。
 青春についてと春に酔う歌は一閃の煌めきの様な音楽、夢を見ているのだろうか?
美しさについては歌よりもオーケストラの色彩と雄弁な語り口に耳を奪われた。
演奏時間は61分弱。

2017年7月15日
於:ミューザ川崎シンフォニーホール

東京交響楽団、第652回定期演奏会
指揮:ジョナサン・ノット
メゾ・ソプラノ:藤村美穂子
ソプラノ:天羽明子
合唱:東響コーラス

細川俊夫:「嘆き」

マーラー:交響曲第二番「復活」

マーラーが実に素晴らしい演奏だ。これは指揮者と管弦楽団、コーラスそしてミューザのホールが結集した結果と云えよう。音の響きがこれほど豊かに、鮮烈に鳴り響いたのを聴いたことがない。素晴らしいダイナミックレンジである。音はホールの中で飽和しないし、拡散して薄くもならない、音が大きすぎもしない、いや大きいのだがそれは全くうるさく聴こえず、すべて鮮明かつ繊細に聴こえるのである。このような音楽体験は滅多にできるものでもはない。ジョナサン・ノットの統率のもとに成し遂げられたたかみであろう。彼のマーラーではサントリーホールで聴いた三番がすこぶる印象的、天上から降りてくる少年少女のビムバムの声、あれほど感激したことがあったろうか?
 今夜もそういう音響的な工夫が特に5楽章でなされていて効果的である。バンダは実際どこから響くのかよくわからない、あるときはステージのバックから、ある時はステージの横奥から、そしてあるときは客席上方から散りばめたように聴こえる。そういう名状しがたい効果を狙ったものだろうが、そういう演出が演出としては聴こえずに、至極自然に聴こえるところがノットの技なのだろう。今日は四の五の云わずにこの響きに浸り、地獄からの復活を味わうべきなのだ。この演奏、もちろん標題性を無視したものでもないし、(そうであれば1曲目に細川の曲をいれはしない)歌曲の歌詞を無視したものでもないことは言うまでもないが、しかし古のバーンスタインなどのような、悪く云えばマーラーの音楽に溺れるというようなことはほとんど感じられないということに、現代のマーラー演奏の一つの典型を見た思いである。

 演奏時間は84分弱(ただし1楽章と2楽章との間の合唱の配置やソロの配置の時間5分程度は外してある。純粋演奏時間である)バーンスタインより速いがインバル、ショルティらよりは遅い。例えば2楽章の冒頭の弦楽部だけの演奏では休止も多用し、かなり粘っこく指揮をしていたように見え、演奏時間も少々長く感じたが、しかし実際聴感上では決して冗長でも、粘っこくも感じなかった。要するに流れに無理がないということだろう。ついでに言うとこの2楽章の前半の弦の部分は墨絵の様な実に繊細な音楽に聴こえ、従って中間で木管や金管が登場した時、その音楽の色彩感が形容しがたい素晴らしさで現われる。この対比のなんと見事なことだろう。?
 思いつくままに書いている。4楽章の「原光」、ここでの藤村の歌唱は見事としか言いようがない、おお、小さなくれないのばらのつぼみよ、と歌いだす、その冴え冴えとした声。これは声にまったくの挟雑物のない、自然な声なのだ。「原光」をこういう声で聴いたのは初体験と云わざるを得ない。大体がビブラートを利かした不自然な声が多いのだから!なお藤村も天羽も位置は指揮者の前でなく、舞台右奥ヴィオラや第2ヴァイオリンの後ろに位置している。
 1楽章の冒頭はギアがまだローの感じである。しかし音楽が進み後半の主題の再現あたりから、音楽は情熱を帯びてくる。ティンパニの強烈な一撃、金管の咆哮など怖ろしいばかりにオーケストラが猛り狂う。
 3楽章はユーモラスな部分と5楽章を思わせる部分との交錯が面白い。

 そしてクライマックスの5楽章。合唱やソロは座ったままで歌う。そしてメゾが「おお、信ぜよ~」と歌いながら立つのだ。オルガンも加わった最終部の鳴動する音楽はこの世のものとは思えない、まさに感動的と云いようがないものだ。この部分は聴いていただくしかない、言葉では書けない世界である。
 日本ではインバル/都響の演奏以上のものは聴けないと思っていたが、ここに強力なライバルが現われた印象である。
 コーラスもオーケストラも熱演だった。2楽章の前半の弦パート部の繊細さ、ノットの棒への反応は東響の進化を感じる。反面金管の一部では今一層の精緻さが求められるだろう。コーラスは今一つのパワーと繊細さが欲しかった。しかしこれはこの演奏を聴いてさらに上を目指すという意味である。今夜の演奏は感動的だった。何度も云いたい。
なお、本日の演奏に使用した楽譜はシュタルク=フォイト&キャプランによる新校訂版(2010年)とのことであるが従来聴いてきたものとの違いはよくわからない。

 1曲目の細川俊夫の「嘆き」はメゾ・ソプラノとオーケストラのための曲である。もともとはザルツブルグ音楽祭の委嘱で作曲されたもの。東日本大震災の犠牲者への哀悼を表わしてる。音楽を聴いているとそういう嘆きや悲しみが強く感じられ重苦しい。後奏に救いの様な音楽がきけたのでほっとする。歌詞はゲオルク・トーラルという詩人の書いたものである。もともとはソプラノのために書かれたが、藤村のために新たにメゾ仕様に書き下ろされたものだ。
 この曲を1曲目に持って来て、マーラーの「復活」につなげようという考えだろうが、2曲合わせて100分以上の演奏時間は聴き手には苦痛である。ここでは「嘆き」に当たる部分はマーラーが1楽章で書いているように思われるので、少々メッセージ性を意識しすぎた演奏会の様に感じた。私の様な年寄りにはマーラーだけで十分だ。なお会場には細川氏が2階席で演奏を聴いていて、終演後座席で拍手をもらっていた。

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