ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2017年06月

2017年6月30日

ワーグナー「パルジファル」
             1962年バイロイトライブ盤
指揮:ハンス・クナッパーツブッシュ
アンフォルタス:ジョージ・ロンドン
グルネマンツ:ハンス・ホッター
パルジファル:ジェス・トーマス
クリングゾル:グスタフ・ナイトリンガー
クンドリ:アイリーン・ダリス

レコード芸術誌の新譜宣伝を見ていたら、なんと6/21にクナッパーツブッシュの振った「パルジファル」1962年バイロイトライブ盤がシングルレイヤーのSACD化されて発売されるという。
 実は2015年にオリジナルアナログマスターからリマスターされたCD通常盤がタワーレコードの企画で発売されていて、今では最初のCDはお蔵入りしてリマスター版ばかり聴いていたのだ。(視聴記は2015年のブログ参照)

 しかしSACD、しかもシングルレイヤーの魅力に勝てず購入してしまった。2015年盤
と逐一照り合わせしたわけではないが、印象からするとこの2つのCDは別物の様な印象である。よしあしではなくそれぞれ持ち味があるのだ。これは聴いていただかなくてはなかなか言葉では説明しにくい世界である。ただ私のバイロイト体験では今回のSACD盤のほうがずっと劇場の音に近く、生々しい。15年盤は美しいがそれは作られたものの様だ。もっとも大きな違いは奥行きである。1幕の前奏曲からしてオーケストラピット内の奥行きが感じられるほどである。1幕の場面転換の鐘の音、ティンパニなどは決して前面には出なくてピットの奥の方に位置づいているように聴こえる。
 次に歌手達の声である2015年盤もそうだったが歌手達が皆若々しい。特にハンスホッターは見違えるようだ。昔はなにかモゴモゴしたようだったが、ちゃんと音源にはクリアな声が録音されていたのだ。そして個々の声以上に素晴らしいのは全体のバランス。それはまるで私が2008年にバイロイトでリングを聴いた時の座席、前から14番目(中央より少し前方)で聴いたかのように舞台に歌手たちが自然に立っているのが聴きとれるのである。まだ1回しか聴いていないのでこれから何度か聴き比べてみようと思う。それにしてもアナログ音源の奥深さに驚き呆れてしまう。

 なお付帯的な改善だが、SACD化により4枚組であったものが今回は3枚組になり、長大な1幕が1枚に収まったことにより全体を通して聴けるようになった。これは音楽ファンにとってうれしいことだ。ブラックディスクはブームだそうだが、SACDのこのメリットはとても大きいと思う。それとこれはマスターリングの過程での処理の結果だと思うが会場の咳や咳払いなどのノイズが極力抑えられているのもうれしいことだ。

2017年6月29日

今月もDVDで映画を随分見た。

 まず、小説の映画化、ポーラ・ホーキンスの「ガール・オン・ザ・トレイン」。エミリー・ブラント主演は正直、レイチェルのイメージではないが、見始めるにつれ、それは杞憂に終わった。毎日自分が住んでいた家、自分の元旦那と今の妻の生活を寂しく電車のなかから見ている、そういう孤独な女レイチェル。アル中でもある。しかしその家の近所に住む女性、メガンが行方不明になってから、サスペンス性が急に高まり。ブラントの演技が冴えわたる。映画化が成功した作品だろう。

 続いて異色の西部劇。イーサン・ホーク主演の「バレー・オブ・バイオレンス」。イーサンはマグニフィセントセブンにも出ており、なぜか西部劇づいている。
 陸軍の脱走兵らしい男、イーサンだ。メキシコに向かっている。水や食料の補給のためにあるさびれた町に立ち寄る。その町はジョン・トラボルタが仕切っている。そしてお定まりの展開。古臭いストーリーは仕方がないにしても、登場人物の語る言葉が多すぎるのが難点だ。もういいから次って言いたくなる。ただ銃の考証は正確な様に思った。まだコルトピースメイカーが高価な時代の設定だ。

 次はSF。「ロスト・エモーション」、未来の人類は感情を失っている。感情を持つ人間は病気と判断されステージに応じて感情抑制剤を処方される。そして最後のステージと
診断された時、施設に入れられ、安楽死させられる。こういう話は多いが本作も結末が見えている展開だ。原題は「EQUAL」。

 スポーツもので「栄光のランナー、1936・ベルリン」。原題は「RACE」。1936年のベルリンオリンピックを前にしてアメリカのスポーツ界は参加の是非についてもめている。ナチの人種差別政策への批判によるものである。しかし後のIOC会長のブランデージが現地でゲッペルスと取引をしアメリカは参加を決める。それはその期間ナチは人種差別について表向き緩めるというものだった。黒人のジェシー・オーエンスはそういう政治色を知りつつも参加し金メダルを5個もとる。
 これはオーエンスの快挙を軸にはしているが、ナチのユダヤ人や黒人への差別と迫害にに反対しているアメリカが、実は最も人種差別をしているという実に皮肉な映画なのである。これはいまでも続くアメリカの黒人差別への厳しい視線を感じる映画だ。

 「ウインター・ウォー」、フランス映画、アルザスのスターリングラードと云われる激戦の再現である。フランス義勇軍とアメリカ軍の混成部隊は大戦末期、アルザスのイエプスハイムという地域を孤立した少数の兵士たちが守り抜く。戦場の英雄だった下士官が次第に心を病む様など戦争の厳しさと怖さを描くとともに、極限の中で闘いぬく兵士を生々しく描く。

 「我らが背きしもの」はジョン・ル・カレの原作の映画化である。ユアン・マグレガー主演。ロンドン大学の詩学の教授マグレガーは妻と休暇でモロッコのマラケシュへ行く。そこでマグレガーは妖しげなロシア人に声をかけられる。彼はなんとロシアマフィアのマネー洗浄の責任者ディマだった。彼はイギリスへの亡命を条件にマフィアの金の流れのメモリースティックをマグレガーに渡す。最初は躊躇していたマグレガーはやがてディマ一家を守ろうと妻とともにマフィアの殺し屋に立ち向かう。イギリス政界の汚職事件やMI6なども絡みながらル・カレらしいスケールの大きな展開を見せる。原作は読んでいないがル・カレの創作力は大したものだと思う。

 「レイジ・果てしなき怒り」、吉田修一の怒りみたいなタイトルだが関係ない。原題は「トロ」、主人公の名前である。スペインのギャングものだ。ロマノ団という強盗団に属すトロ兄弟。しかしこれで足を洗うという最後のヤマで、警察にばれて逮捕されてしまう。兄のアントニオは逃走中に殺され、2兄のロペスはうまく逃げおおせる。そして5年たち、トロの刑期はあとわずか。彼は仮釈放中である。そんな中、ロペスが組織の金を使い込んでしまう。ロペスに頼み込まれ仕方なくロペスの言いなりになり手を差し伸べる、トロ。トロはロマノ団のボスからも息子同様の扱いを受けていて、兄とボスの板挟みになる。最後は壮絶なバトルだが、現代のスペインなのに銃はほとんどなく、ナイフや肉弾戦だというのがおかしい。ロマノ団は名前からしてジプシーのようだ。舞台はアンダルシア。

 次はナチの戦犯ものである。これはただし相当なひねりがありねたばれになるとつまらないのであまり語れない。主人公はゼブ(クリストファー・プラマー)、老人ホームにいる。かなり痴呆が進んでいる。アウシュビッツの生き残りでありアメリカに移住している、老人ホームにはマックス(マーチン・ランドー)というもう一人の生き残りがいるが彼は車椅子で歩けない。マックスは痴呆のゼブに詳細なメモを渡し、自分の家族を殺したアウシュビッツのブロック長、いまではルディ・コランダーと名乗ってアメリカに入国している、男を探して殺すように指示する。痴呆の暗殺者という設定はユニークだ。
プラマーやランドーの演技はさすがである。おっと映画のタイトルは「手紙は憶えている」である原題は「REMEMBER」。

 最後は韓国映画。「弁護人」、ソン・ガンホ主演、ノ・ムヒョンをモデルにしたらしい。韓国、1981年の釜山、釜林事件(読書会事件)を素材にして映画化されたもの。ソン・ウソク(ガンホ)は高卒の弁護士、大卒に劣等感を抱き、普通の弁護士がやらない隙間を狙った活動をして成功する。しかしなじみの食堂の女主人の息子の大学生が反政府活動の罪で逮捕されたと聞き弁護を引き受けてから、彼の人生は大きく変わるのだ。全斗換の軍政下の韓国での民主主義が形だけだった時代を描いている。法廷シーンはウソクの独り舞台と云うのは映画だから仕方あるまい。

今月の1本はなかなか選ぶのが難しい。あえてということで「手紙が憶えている」にした。ベテラン俳優たちの演技に座布団だ。

2017年6月29日

毎日蒸し暑い日が続くとつい柔らかい本ばかり読んでしまう。今月がそうだ。

 唯一の例外が片山杜秀著の「未完のファシズム」である。視点が実に面白く、一気読み。特に1章~7章までが面白い。日本の1945年までの道のりの始りは欧州のファシズムとの戦いと同様、第一次世界大戦だという。内外の専門家がこの大戦を分析した結論、次の大戦争は物量戦、科学戦、そして総力戦だという。要は持っている国が持たざる国に勝つというのだ。
 日本の様な中途半端な国は如何にに生き残れるか?2つの選択肢を当時の軍部は考えたという。一つは小畑敏四朗らのいう、勝てる相手を選び、速攻、殲滅戦でゆく。足りない部分は「精神」で補う。二つ目は石原莞爾の云う、もたざる国ならば持てる国にすればよい。それが対中国作戦、満州国設立に結び付くという。一見もっともな説だが結局どちらの道もうまくゆかなかった。ロジックが精神論にすり替わったからである。8~9章ではそれが事例で述べられている。
 タイトルの未完のファシズムとは第七章のタイトルからきている。簡単に言うと明治憲法は日本に独裁の道を与えなかったという。結局東條にしても一見独裁者の様だが、ヒットラーとはちがって、軍部などいろいろなしがらみにがんじがらめに縛られた、実に不自由な独裁者だった、というのである。それゆえなにもきめられないうちにずるずると大戦に曳きづり込まれたのである。
 片山氏は音楽評論でおなじみだが、こういう書物でお目にかかるとは思わなかった。面白い一作でした。

 「Gマン」はスティーブン・ハンターのスワガーシリーズのちょっと異色な作品。一九九三年の「極大射程」はスナイパーものの傑作で映画もこの分野では秀逸だった。本書はその主人公の祖父を扱った作品である。1934年ころのパブリック・エネミーズ(デリンジャーやネルソン)らの活躍した時代を舞台。祖父のチャーリーは田舎の警察官だったがその沈着冷静なガンファイトぶりが買われのちのFBIの前身の連邦捜査局の捜査官にスカウトされる。その祖父の残した土地に古い地図やら銃などが発見されもう70歳になったボブ・スワガーは祖父の業績の追跡をする。本書の魅力は祖父チャールスのギャングたちを追いつめて、そして迎えるコンバット・シューティング、そのリアルさだろう。史実はわからないが、丹念な考証に基づいているようで読み応えがあった。

「蘇我の娘の古事記」は周防 柳の作品。大化の改新から壬申の乱、それに白村江の合戦をからめた古代史のハイライトを横軸に、百済人の子孫の船恵坂その息子のヤマドリ、その妹のコダマ一族が文筆や徴税などの文官として生きてゆく、そして親子で取り組む国史編纂、その物語を縦軸に描いたもの。タイトルの蘇我の娘の口伝で古事記が書かれたという。その娘の出生の秘密なども織り交ぜ、面白い歴史小説になっている。ただ好みとしてはもう少し横軸の部分をダイナミックに描いて欲しかった。著者の視点はどちらかと云えば縦軸に向きがちである。

「黄砂の籠城」は松岡啓祐の作品。義和団事件を扱った一級の娯楽作品である。下敷きはありそうだがフィクションである。義和団事件と云えば私はすぐ映画の「北京の55日」を思い出す。1963年のころだから私がまだ中学生のころの映画だ。初めて見た時はろくすっぽ中国の近現代史を知らなかったから、この映画は案外面白く好きだった。今では考証的におかしいところが多々あり、まじめに見ることはないが、それでも義和団事件の骨格はそれなりに描かれているのでときどきDVDで見ている。まあ中国人のみなさんから見たら噴飯ものだろう。
 それにしてもこの映画の主人公はなんとアメリカの海兵隊の少佐(チャールトン・ヘストン)なのだからいい加減なのも度を越しているだろう。アメリカはこの時代中国に権益がないのでおそらく兵力が最も少なかったはず。それがなんと連合国のリーダーだった英国大使の片腕だというのだからびっくりだ。
 しかしそうはいっても本作品「黄砂の籠城」もそうはいばれない。本書ではチャールトン・ヘストンはいないかわりに桜井伍長が獅子奮迅活躍、柴中佐を始め日本兵の規律のとれた活躍、そして自己犠牲の精神など要は日本礼賛にになっているのが今一つ面映ゆい。それほどの模範国がなぜ中国を侵略し、大きな戦争に突入していったのか、いまひとつかみわない。面白いが少々食い足りない小説ではある。ただ連合国が包囲されたエリアの地図などの添付が丁寧でこの籠城戦の細部は丹念に描かれていると思った。

「眠る狼」はグレン・エリク・ハミルトンのサスペンスである。原題は「PAST CRIMES」である。
 舞台はシアトルである。主人公のボブ・ショーは10年前にあるいきさつがあって、この町を離れ、陸軍に入隊。その後各地を転戦し今は曹長。しかし10年間音信のなかった祖父のドノから会いたいという手紙をもらい、休暇を取って久しぶりにシアトルに帰郷する。しかしその着いた日になんと祖父は何ものかに銃撃されてしまう。祖父は裏世界につながるもう一つの顔をもっており、ボブはそのつながりをたどり犯人を追いつめてゆく。主人公ボブが魅力的に創作されている。著者の出世作らしいがおもしろいサスペンスだった。

最後に少し硬めの本。池田嘉郎著の「ロシア革命」、本書は革命全史ではなく1917年に起きた2月革命と10月革命の2つの革命を描いたものである。2月の時はまだブルジョア革命的な要素もあり。もしかしたら立憲君主制もといった様相もあった。このわずか8カ月の間に、戦争を戦いながら、政体を確立しようと模索した左から右までの多くの政治家たちの奮闘が克明に描かれている。最後はボルシェビキによる共産体制になるが、歴史にIFはないが、違う道もあり得たのではと思わせる。新書版で読みやすい。ただ政党の名前や人の名前がうじゃうじゃとでてくるのでそれが少々つらいところ。

今月の1冊は「未完のファシズム」だ。そして敢えて云えば「Gマン」この2冊がお薦めである。

2017年6月25日
於:オーチャードホール(1階22列中央ブロック)

山田和樹マーラーチクルス
 日本フィルハーモニー交響楽団

マーラーチクルスもいよいよ最終曲となった。八番は残念ながら他の演奏会と重なり断念したが、このチクルス3年間聴いてきた。今日が最後である、そして最後に相応しい熱演と云えよう。
 プレトークでも指揮者が云っていたがこの曲は死の影が濃い。私も若い時からそういう音楽と思い聴いてきた。しかし2014年の3月16日と18日のインバルの演奏を聴いてからこの曲への接し方が変わってきたように思う。これは決して死を恐怖して書かれた曲ではないのではないか? 、4楽章、これは死からの解放、救済を意味しているのではないか?まあ今頃気づくの遅いのではと云われそうだが、事実遅かった。
 今日の公演でも4楽章がそういう意味で実に素晴らしい。指揮者の音楽に対する思い入れはあって当然だが、それがあからさまに出ない、その自然さが一層この楽章の感動を深めるように感じた。冒頭の弦の芯のある鳴り切った音はどうだろう。この部分だけでもう胸が一杯になるのだ。そしてその後に続く金管群の充実ぶり。ここでは金管は決してがなりたてず、節度をもって、しかも豊かに鳴り響く。終結部に近づいて弦がトゥッティで鳴り響く。この部分の清冽さも忘れがたい演奏だ。そして浄化されたような終結。じつに感動的ではなかったろうか?
 1楽章は物足りない。大きな波の様に響いて欲しい弦楽セクション、これがさざ波のようにしか響かない。身も心も持ってゆかれるような音楽なのになぜか取り残されたような気分。管楽器群も少々うるさく4楽章の様には鳴り響かない。。
 2楽章のレントラーは決して田舎臭い舞曲ではなく、スマートに鳴り響く。3楽章のロンドブルレスケは決して暴力的に鳴り響かない。むしろスポーティなかっこよさだが、決して嫌ではない。しかしこれらは4楽章への前座の様だ。全ては4楽章に収れんし、浄化する。演奏時間は86分強。

 武満の弦楽のためのレクイエムは私にはこのマーラーの前ではいかにもスケールが物足りない。セットで演奏する意味が感じられなかった。
 
 このチクルスを聴いて日本フィルが一昔前とは別物の様な素晴らしいオーケストラになったと思った。特に金管楽器の充実は特筆すべきだろう。これは最近の日本のオーケストラの特徴でもある。おそらく世代交代が進み若い優秀な奏者が加わったからだと思う。

2017年6月24日
於:ミューザ川崎シンフォニーホール(1階CA-5列左ブロック)

東京交響楽団、第651回定期演奏会
 指揮:秋山和慶
 ホルン:フェリックス・クリーザー

ウエーバー:オベロン序曲
ハイドン:ホルン協奏曲二番(偽作)
モーツアルト:ホルン協奏曲

ブラームス:交響曲一番

ホルン協奏曲の奏者は両腕がない。たしか朝日新聞でも取り上げられレていたはずだ。
しかし実際に演奏する姿を見ると驚きと云うより、こう云うスタイルを確立するまでどれほどの努力と鍛錬をしたのか、ただただひたすら脱帽しその演奏にききいるのみである。ホルンは金属で組み立てられた装置に固定され、クリーダーが椅子に座るとちょうどくちもとにマウスピースが来るような仕掛けになっている。そのとき両足の靴を脱ぎ裸足になり、その左足を装置に足をかけ、そして左足の指でバルブを操作するのである。
 ハイドンよりも愉悦に満ちたモーツァルトの二番のほうがずっと楽しく音楽も伸びやかである。ホルンに傷はないとは言えないが、足で繰り出す技のすごさを見るとその様なことは瑣末なことの様に思える。アンコールはロッシーニのソロ曲を一曲。
 東響の小編成もしっかりとサポート。すっきりとした響きが好ましい。

 ブラームスは一点、一角、揺るぎのない堂々たる演奏である。昨今のピリオド奏法に影響されたような演奏や、伝統スタイルを意識しつつも、現代の演奏スタイルを意識した演奏などが横行している中、今夜の秋山の演奏はそういう流行に右顧左眄せず、一人我が道を歩む、基本は伝統的な演奏スタイルだろう。ただ決してテンポのゆらぎなどで破目を外さないので至極模範的な演奏に聴こえる。私が子供のころから慣れ親しんだ、あのひげつらのブラームスを彷彿とさせる演奏なのだ。そういう意味でわたしにはとても懐かしいのだ。例えば一楽章や四楽章の序奏の構えの大きさはどうだろう。今日この様なブラームスを振る人はとても少ないのではないだろうか?これは嫌味でも何でもない。初めてこの曲を聴く人や若い人には絶対のおすすめの演奏なのだ。こう云う演奏を経ずして、やれヤルヴィだ、ラトルだ、シャイーだ、ティーレマンだといっても始まらないのである。

 前記のとおり一楽章の序章は至極ゆったりとして気持ちが良い。ここでは余計なことをしていないので、全体にテンポが緩やかで、揺るぎのなさも感じる。主部に入ってテンポを上げる指揮者もいるが、秋山は全く動じず、急がない。
コーダもかえって腰を落としてじっくり構える。オーケストラも凄いが、更に欧米のたとえばベルリンと組んだらもっと秋山のしたいことが伝わるような気がする演奏だ。
 2楽章は素っ気ないほどだ。美しいが素朴な木管や弦の響きが懐かしい。
 3楽章も他を圧倒するような豪快なオーケストラの音は聴けない。物足りなくないと云えば嘘と云えるが、厚塗りの演奏よりずっと良い。
 4楽章の序奏も構えが大きい。わざとらしさがなく、本当に指揮者の感じたままを振っているので、聴き手にはそのかまえが決して大げさには聴こえないのだ。コーダは流石にテンポを上げ下げがでてくるがそれも正直可愛いもので、振幅はとても小さい。

 この演奏は聴き終った後、興奮のるつぼに投げ込まれる様にはならない。しかし聴き終って帰りの電車の中で咀嚼していると次第によかったなあという思いが溢れる、そういう演奏だった。
 ブラームスはどうもこう云うスタイルの演奏をイメージしていなかったようで、むしろシャイーのような明るく、軽やかな演奏を求めていたらしい。シャイーの演奏と今夜の演奏を聴き比べると恐るべき違いがあるが、でも両者とも立派なブラームスであるということは間違いない。再生芸術を楽しむ醍醐味だろう。演奏時間は46分弱、反復はカット。

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