2017年5月20日
於:ミューザ川崎(2階5列右ブロック)
東京交響楽団、第650回定期演奏会
指揮:ジョナサン・ノット
ピアノ:小曽根 真
モーツァルト:ピアノ協奏曲第六番
ブルックナー:交響曲第五番
なかなかうまくいかないもので、昨夜が少々軽めのダイエットフードだとしたら今夜は頗るヘビーな肉料理か?
ブルックナー1曲で81分なのにそれに小さな曲とは云えモーツァルトの協奏曲が付いているというのは大サービスだが、個人的にはブルックナー1曲で十分だと思う。
モーツァルトは家でもCDで2度ほど聴いただけでさして印象に残っていないが、面白かったのはカデンツァの取り扱い。とくに3楽章のカデンツァはまるでジャズである。おそらく小曽根の作だと思う。あの有名な映画「アマデウス」でモーツァルトがいろいろな作曲家のスタイルでチェンバロを弾くシーンがあるが、ジャズ風という声がかかったら、モーツァルトの音楽がジャズ風に変わってしまう、そういう面白さだった。小編成のオーケストラは古楽風のすっきりした響きが印象的だった。アンコールはレクオーナのアンダルシア組曲からヒタレイナス。小さな細胞の様な主題が巨大な即興曲の様に膨れ上がる。面白い曲だ。
ブルックナーは名演である。しかしおそらくこの様に鳴るブルックナーというのは稀有なものに違いない。まさにオンリーワンの演奏である。全体に音楽の隅々まで神経が通っており丁寧で緻密である。従って演奏時間も81分と過去の演奏に比べてもかなり長いが、しかしそれは苦にならない。一つはいつも云う音楽の流れである。緩急を激しくつけたり、長い休止できどきさせたりしないのだ。従って音楽はすこぶる自然に耳に入る。そして音楽は洗練されていてすこぶる美しい。もう一つは最初の理由と関係あるのだが、主題間、それと例えば提示部と展開部の間のつながりがものすごく滑らかなのである。これがこのとっつきにくいぎくしゃくしたように聴こえる(昔は4楽章は本当にそういうように聴こえたのだ)この音楽を美しさの極みの様に聴こえさせているのだと思う。反面ブルックナーのもつごつごつ感やあらぶる魂のようなものはあまり聴きとることはできない。そういう意味では過去聴いたティーレマンの対極の様な演奏ではなかったろうか?
1楽章の導入はゆったりしているが決してなよなよしていない。ここでの低弦の雄弁さは恐るべきもので、この様な導入はいまだかつてライブでは聴いたことがない。更に素晴らしいのは展開部への経過で奏されるフルートのソロ。星空に煌めくような美しさは本来この曲の持つものだが、管弦楽のうごめきのなかでの存在感が素晴らしく、これだけ決然としたフルートは初めてだ。この部分の強調は指揮者の誘導だろう。それだからその後の展開の雄大さが引き立つ。なんとも感動的なパッセージである。再現部からコーダでも音楽は決して急がないように聴こえる。この終結部分は力強く堂々と終わる。ブルックナーを聴いたなあという気分にさせられる。
2楽章の最初の主題、オーボエの存在感のある演奏、しかしこれは前記のフルートとは違って、楚楚とした趣、そして素晴らしいのは大河の様に滔々と流れる2つ目の主題。この2つの主題は兄弟のようなのに聴いていると、まるで印象が違うのは驚きである。とにかくこの2つの主題の対比とつながり、そして特に2主題の音楽の素晴らしさ、感動とはこういうことをいうのだろう。さらに展開の後半で木管がリレーの様に同じようなフレーズを奏する部分は美しさの極みである。フルートから入りそれをオーボエが受けさらにクラリネットが引き継ぐ、この繰り返しだけれど、決して単調にはならず永遠に続いてもいいやと思えるくらいの美しさ。
3楽章はちょっと音バランスが悪いような気がした。金管の運動がスムーズでないのだ。締めるところはしっかり締めているが中間がちょっと緩く、なよなよした音楽に聴こえた。
4楽章はごつごつした音楽だが、ノットにかかると違う音楽に聴こえる。休止を長くしないことや、主題間のつながりがとてもよいので、全体にすこぶる滑らかに音楽が流れる。そして最も驚くべき部分は展開部のコラール主題のフーガ、そしてそれに1主題が加わった2重フーガの部分である。ここは何回聴いてもとっつきにくい部分であるが、フーガの展開が非常に明快であり、音楽の見通しがとてもよいので、すこぶる充実して聴こえた。そしてクライマックスは再現部からコーダだろう。1楽章の1主題も帰ってきて、音楽は膨れ上がる、金管は力強く宙を舞い、そこに木管が切り裂くように入って来る(そう木管が埋没しないのだ)、そしてそれをささえる弦楽部の力強さ、このピラミッド状の音の場の充実ぶりは筆舌尽くしがたい。ミューザのホール特性もきいているように思う。
さて、聴き終って興奮が冷めてくるとこの演奏、ヴァントやつい最近急逝されたスクロヴァチェフスキーのような古武士風の演奏とは一味ちがっていて、そういう指揮者の演奏を支持する人たちからはどういう評価なのだろうかと思ってしまう。ブルックナー演奏には終わりはないのだということに気づかされた夜だった。
〆
於:ミューザ川崎(2階5列右ブロック)
東京交響楽団、第650回定期演奏会
指揮:ジョナサン・ノット
ピアノ:小曽根 真
モーツァルト:ピアノ協奏曲第六番
ブルックナー:交響曲第五番
なかなかうまくいかないもので、昨夜が少々軽めのダイエットフードだとしたら今夜は頗るヘビーな肉料理か?
ブルックナー1曲で81分なのにそれに小さな曲とは云えモーツァルトの協奏曲が付いているというのは大サービスだが、個人的にはブルックナー1曲で十分だと思う。
モーツァルトは家でもCDで2度ほど聴いただけでさして印象に残っていないが、面白かったのはカデンツァの取り扱い。とくに3楽章のカデンツァはまるでジャズである。おそらく小曽根の作だと思う。あの有名な映画「アマデウス」でモーツァルトがいろいろな作曲家のスタイルでチェンバロを弾くシーンがあるが、ジャズ風という声がかかったら、モーツァルトの音楽がジャズ風に変わってしまう、そういう面白さだった。小編成のオーケストラは古楽風のすっきりした響きが印象的だった。アンコールはレクオーナのアンダルシア組曲からヒタレイナス。小さな細胞の様な主題が巨大な即興曲の様に膨れ上がる。面白い曲だ。
ブルックナーは名演である。しかしおそらくこの様に鳴るブルックナーというのは稀有なものに違いない。まさにオンリーワンの演奏である。全体に音楽の隅々まで神経が通っており丁寧で緻密である。従って演奏時間も81分と過去の演奏に比べてもかなり長いが、しかしそれは苦にならない。一つはいつも云う音楽の流れである。緩急を激しくつけたり、長い休止できどきさせたりしないのだ。従って音楽はすこぶる自然に耳に入る。そして音楽は洗練されていてすこぶる美しい。もう一つは最初の理由と関係あるのだが、主題間、それと例えば提示部と展開部の間のつながりがものすごく滑らかなのである。これがこのとっつきにくいぎくしゃくしたように聴こえる(昔は4楽章は本当にそういうように聴こえたのだ)この音楽を美しさの極みの様に聴こえさせているのだと思う。反面ブルックナーのもつごつごつ感やあらぶる魂のようなものはあまり聴きとることはできない。そういう意味では過去聴いたティーレマンの対極の様な演奏ではなかったろうか?
1楽章の導入はゆったりしているが決してなよなよしていない。ここでの低弦の雄弁さは恐るべきもので、この様な導入はいまだかつてライブでは聴いたことがない。更に素晴らしいのは展開部への経過で奏されるフルートのソロ。星空に煌めくような美しさは本来この曲の持つものだが、管弦楽のうごめきのなかでの存在感が素晴らしく、これだけ決然としたフルートは初めてだ。この部分の強調は指揮者の誘導だろう。それだからその後の展開の雄大さが引き立つ。なんとも感動的なパッセージである。再現部からコーダでも音楽は決して急がないように聴こえる。この終結部分は力強く堂々と終わる。ブルックナーを聴いたなあという気分にさせられる。
2楽章の最初の主題、オーボエの存在感のある演奏、しかしこれは前記のフルートとは違って、楚楚とした趣、そして素晴らしいのは大河の様に滔々と流れる2つ目の主題。この2つの主題は兄弟のようなのに聴いていると、まるで印象が違うのは驚きである。とにかくこの2つの主題の対比とつながり、そして特に2主題の音楽の素晴らしさ、感動とはこういうことをいうのだろう。さらに展開の後半で木管がリレーの様に同じようなフレーズを奏する部分は美しさの極みである。フルートから入りそれをオーボエが受けさらにクラリネットが引き継ぐ、この繰り返しだけれど、決して単調にはならず永遠に続いてもいいやと思えるくらいの美しさ。
3楽章はちょっと音バランスが悪いような気がした。金管の運動がスムーズでないのだ。締めるところはしっかり締めているが中間がちょっと緩く、なよなよした音楽に聴こえた。
4楽章はごつごつした音楽だが、ノットにかかると違う音楽に聴こえる。休止を長くしないことや、主題間のつながりがとてもよいので、全体にすこぶる滑らかに音楽が流れる。そして最も驚くべき部分は展開部のコラール主題のフーガ、そしてそれに1主題が加わった2重フーガの部分である。ここは何回聴いてもとっつきにくい部分であるが、フーガの展開が非常に明快であり、音楽の見通しがとてもよいので、すこぶる充実して聴こえた。そしてクライマックスは再現部からコーダだろう。1楽章の1主題も帰ってきて、音楽は膨れ上がる、金管は力強く宙を舞い、そこに木管が切り裂くように入って来る(そう木管が埋没しないのだ)、そしてそれをささえる弦楽部の力強さ、このピラミッド状の音の場の充実ぶりは筆舌尽くしがたい。ミューザのホール特性もきいているように思う。
さて、聴き終って興奮が冷めてくるとこの演奏、ヴァントやつい最近急逝されたスクロヴァチェフスキーのような古武士風の演奏とは一味ちがっていて、そういう指揮者の演奏を支持する人たちからはどういう評価なのだろうかと思ってしまう。ブルックナー演奏には終わりはないのだということに気づかされた夜だった。
〆