ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2017年04月

2017年4月28日

ヴェルディ「オテロ」2016年ザルツブルグ(DVD)
指揮:クリスティアン・ティーレマン
演出:ヴィンセント・ブサール

オテロ:ホセ・クーラ
イアーゴ:カルロス・アルヴァレス
デスデモーナ:ドロテア・ロシュマン

シュターツカペレ・ドレスデン
ドレスデンシュターツカペレ合唱団

待望久しいティーレマン指揮のオテロがDVD化した。昨年のザルツブルグの公演をもう見ることができるなんて便利な世の中になったものだ。
 期待通りの見事な演奏。まずオテロとイアーゴの声のバランスが素晴らしい。重く、暗いクーラのオテロと少し明るめのアルヴァレスのイアーゴ。このバランスは2幕や3幕の2人のやりとりを通じて非常に効果的だということが分かる。イアーゴの罠に嵌まったオテロ、嫉妬に狂い正気ではなく、声はどんどん陰鬱になって来る。クーラはそのオテロを見事に声で演じている。クーラは1幕の登場シーンではビブラートがきつく苦しいのか?と不安を感じたが、それは聴くにつれ杞憂に終わった。アルヴァレスのイアーゴは打つ手が次々と嵌まり絶好調、声も明るく輝かしい。3幕の幕切れがその頂点だろう。ロシュマンのデスデモーナはこの男性二人に挟まって、身動きならない女のようだった。とにかく歌では全く裏切られなかった公演だろう。
 ティーレマンのイタリアオペラというのはライブでもDVD、CDでも初体験だが、ワーグナーなどドイツものとアプローチは基本的には変わらない。緩急を鋭く付けて、まことにスケールの大きな音楽を作り上げた。歌唱にも柔軟な対応をしており、しなやかさも十分である。ヴェルディの椿姫ではどううかなと思うがオテロなら心配ないということだろう。初期のマクベス、中期のシモンやドンカルロなども聴いてみたいものだ。

 演出はそれほどきつい読み替えではない。衣裳はごった煮のようだがそれほど違和感はない。もっとも強調すべき点はト書きにない天使を登場させていることだろう。2幕のイアーゴのクレドの場面、最後で天使(背中に黒い羽根が付いている)が手に蝋燭の火をもって登場、しかしイアーゴがその火を自分の手に包む。そして天使を抱きとめ犯す。悪魔の申し子が天使を犯す。異様な場面、いかなる解釈をしたらよいのだろう。しかしこの天使は黒い羽根でどうみても天使の様には見えず、死神に見える。しかし配役ではANGEROとなっている。
 3幕ではオテロとデスデモーナの場面でまた天使が登場する。舞台の前面に長いテーブルがありその上に大小無数の蝋燭がありそのテーブルの上を天使がゆっくりいったりきたり。デスデモーナがオテロからお前は娼婦かとののしられるクライマックスでは天使の羽が燃えてしまう(本当に火がでる)。そして第4幕では煤だらけの天使がデスデモーナが死んだ後に登場。(正確にはデスデモーナはADDIOと云いながら舞台中央奥にある入口から歩いて消えてしまう。それゆえ死んだかどうかはわからない)天使はオテロが死ぬとともに自分も死んでしまう。この場面を見ると死神の様に思えるのだ。しかしオテロがデスデモーナに最後の口づけを求めてもデスデモーナは舞台にいないのだから、これはちと面妖な幕切れだろう。
 全体にザルツブルグの横長の巨大な舞台を持て余したような印象だった。1幕の終わり、4幕は舞台の1/3を仕切って、残りは真っ暗と云うありさま。
 しかし一度は聴いても/見ても損はしないだろう。日本語字幕がついていて便利。

 その他最近の映像では(2017、テレビ鑑賞)東京芸術劇場オペラ「蝶々夫人」を見た。笈田ヨシという海外で活躍している演劇畑の人の演出。時代は昭和初期に設定。自分の少年時代にかぶせたということだ。がテレビの映像解説ではどう見ても終戦後の様に思えるが?
 最も不可解なのはケイトの取り扱いだ。シャープレスの歌詞を代わりに歌ったり、握手をしていただけませんかなどの歌詞も追加してある。しかも蝶々さんの歌詞の「TUTTO E FINITO」の部分をカットしてあるのは解せない。どういう版を使ったのだろうか?しかもケイトの歌唱は相当ひどいように思えるのだが?何か意図があったのだろうか?
 中嶋彰子の蝶々さんはテレビだから実際とは違うかもしれないが力がなく、いざっと云う時の声が伸びを欠き物足りない。彼女はスザンナ歌いではなかったのか?幕切れの自害シーンも涙を誘わない。
 その他シャープレスは相当のじいさんの想定なのか力なく物足りなかった。海外から人を呼ぶ意味がない。ケイトもピンカートンも皆海外の人。しかしこの程度の歌唱なら今の邦人の実力なら軽く超えてしまうだろう。なぜ海外の歌手をよんだのか意味がわからない。

2017年4月23日
於:新国立劇場(1階9列中央ブロック)

モーツァルト「フィガロの結婚」、新国立劇場公演

指揮:コンスタンティン・トリンクス
演出:アンドレアス・ホモキ

アルマヴィーヴァ伯爵:ピエトロス・スパニョーリ
伯爵夫人:アガ・ミコライ
フィガロ:アダム・パルカ
スザンナ:中村恵理
ケルビーノ:ヤナ・クルコヴァ
マルチェッリーナ:竹本節子
バルトロ:久保田真澄
バジリオ:小山陽二郎
ドン・クルツィオ:糸賀修平
アントーニオ:晴 雅彦
バルバリーナ:吉原圭子

東京フィルハーモニー管弦楽団、新国立劇場合唱団
チェンバロ:小埜寺美樹

1幕の第7曲:伯爵、スザンナ、バジリオの3重唱、2幕の第14曲:スザンナ、伯爵夫人、伯爵の3重唱、2幕のフィナーレの8重唱、3幕の第19曲の6重唱、4幕のフィナーレなど今日の演奏の素晴らしさはモーツァルトのアンサンブルオペラとしてのフィガロの醍醐味を味あわせてくれたことではなかったろうか?決してビッグネームがいたわけではなく、内外の中堅の歌い手というキャスティング。しかしこのキャスティングは実にレベルがそろっていて、そういう意味でどの重唱をとっても誰が突出していることがなく、バランスが良いのである。じつに気持ちの良い歌唱である。
 ただしソロは良かったけれども、役作りを含めて幾分ばらつきを感じた。そのなかでもよかったのはスザンナ。声が実に伸びやかで気持ちが良い。可愛らしくて、しっかり者の小間使いの役どころを見事に演じ、歌っていた。続いて伯爵。少々明るいが立派な歌唱。これはリンドーロ/アルマヴィーヴァがそのままいやらしく中年になったような気持ち悪さを感じさせる役どころか?スザンナやバルバリーナへの振る舞いがその様に感じさせる。ロジーナが悲しくなって、アリアを歌いたくなるような気持ちが良くわかる伯爵像だ。それゆえか第18曲:伯爵のアリアは今一つ男らしさに欠けたように感じた。フィガロはとても立派な声で、召使のフィガロには見えない。もう少し軽妙さがあればよかったと思う。声の立派さと軽妙さの両立がフィガロの難しいところだろう。

 伯爵夫人は新国立でおなじみのアガ・ミコライ。彼女は何年か前に歌ったドンナ・アンナが実に素晴らしく、その歌唱は耳にこびりついている。あれ以来彼女を超えるドンナ・アンナは聴けていない。その後ドンナ・エルヴィーラやヴェルディのファルスタッフのアリーチェなどを聴いたがどうもドンナアンナのイメージが強くてしっくりこない、今日の伯爵夫人もアリアなどではいまひとつ感情移入できない。ミコライが作る伯爵夫人のイメージが浮かばないのだ。ミコライはもう少し感情の起伏の激しい音楽が向いているのではなかろうか?
 余談だが彼女のドンナ・アンナが素晴らしいので早速CDを買おうとタワーへ行ったのだが残念ながら1枚しか売っていなかった。しかもシュトラウスやモーツァルトのアリア集。ドンナ・アンナではなく、ドンナ・エルヴィーラ、伯爵夫人を歌っていた。どうもしっくりこなかった。例えば彼女はシュトラウスの「影のない女」のバラクの妻などはぴったりではないかと思う。そう云えば新国立の「影のない女」は暫く再演がないが聴きたいものだ。余談でした。

 さて、本題に戻ろう。その他の歌手にも少しふれる。ケルビーノは生硬な少年のイメージ、声もそれにあっていてなかなかよかった。バルトロとマルチェリーナはベテラン?だが少し声がばば/じじくさいように思った。もう少し若々しくてもよくはないか?ばあさんだから面白いのだというのもよくわかるのだが!ドン・バジリオはとてもうまくておかしい。ぴったりである。4幕のアリアがカットされて残念。その他、ドン・クルツィオ、バルバリーナも好演、合唱も1幕の衣裳はうすぎたなくて不快だが歌は立派なもの。

 トリンクスの指揮は速めのテンポで快適に進める。オーケストラは小編成のせいか響きは軽めで俊敏さを感じる。特にアンサンブルでのオーケストラと歌唱のマッチングが素晴らしい。モダンオーケストラによるこういうモーツァルトも気持ちが良い。演奏時間は
169分。

 ホモキの新国立の演出は2003年からはじまって今回で6回目の公演となる。フィガロの人気度がわかるような気がする。お客も集められるようで今日はほぼ満席だった(1階)。
 ホモキの演出を何度も見ていてやっと理解できるようになった。結局は秩序の破壊と自由平等ということのようだ。舞台は1幕では白い壁面の大きなボックスで囲われていて、それはきちんとした直方体になっているが、次第に傾き崩壊してゆく。これが秩序=階級の打破につながっているのだろう。そして1幕では衣裳もいろいろな色彩のものであるが、最終幕では全員白になってしまう、しかも男性はかつらをとってしまう。百姓も貴族も皆同じ衣裳なのである。こう云う仕掛けがわかるようになったのは前々回くらいからだろう。まあ何回か見ないと、こう云う演出は凡人には理解できないということだろう。
ただ、今日はみていてよくわからないところが一か所あって、それは1幕でフィガロが「もう飛ぶまいぞ~」を歌っている間ケルビーノは農民たちにぼこぼこにされているのである。あまりもてるのでやきもちを焼かれて殴られているというのでは読みが浅いか?

 フィガロの演出は何度も云うが昨年おそらく日本で最後の公演になったと思われるポネルの演出(ウィーン国立歌劇場)だろう。あの美しい舞台は今日の演出と同じ曲の舞台とは思えない。第二幕のケルビーノのアリアの場面の後なんて息を飲むような美しさ。もうこういう舞台が見ることができないなんて本当に残念だ。


 
 

2017年4月22日
於:ミューザ川崎シンフォニーホール(2階5列左ブロック)

東京交響楽団・第649回定期演奏会(東響コーラス創立30周年記念公演)
指揮:沼尻竜典
チェロ:堤剛(アッシジ)
合唱:東響コーラス

グバイドゥーリナ:アッシジの聖フランチェスコによる「太陽の讃歌」
 (チェロ、室内合唱団と打楽器のための)日本初演

ホルスト:惑星

1曲目は1997年に作曲された現代音楽、作曲者は旧ソ連のタタール共和国出身の女流作曲家だそうだ。この曲はロストロポーヴィチ古希を記念して献呈されたそうだ。
 音楽は初めて聴く曲だけれども美しさはとても感じる。それは私たちが日ごろ親しんでいる音階の音楽の旋律の美しさではない。むしろ各楽器(声も含めた)の音そのものの磨き抜かれたクォリティの美しさではないかと感じた。そういう意味ではベートーベン以降の音楽との劃然とした差を強く感じるし、昔イタリ―の教会めぐりをした時に、聴いたこともないような讃美歌が聴こえてきた事が何度もあった、その様な雰囲気の中世の教会音楽の音の響きの美しさに祖先帰りしたようにすら感じた。それは技法的にも12音階や私にはちんぷんかんぷんのなんたら数式などを駆使して生まれた音楽だから出自は違うが、聴いた印象はまさしく私には祖先帰りだ。
 曲は4つの讃歌からできているがつなぎ目がわからないのでほぼ全曲通しである。約45分の演奏。印象に残ったのは東響コーラスのハーモニーが会場に響く美しさ、それとマリンバ、ヴィヴラフォン、チェレスタなどに加えてミュージカルグラス(2つのグラスをこすって音を出すようだ、グラスハーモニカのミニ版)などの清潔感あふれる音の一粒一粒、それにチェロのちょっと素朴な音の響き、これらの音達がホールに混然と響き渡る時の神秘性、澄明感、これは純粋にこれらの響きに身を任す音楽だろうと私には感じられた。嫌いな現代音楽だが最後までほとんど飽きずに聴きとおした。
 チェリストにはチェロ以外の任務が与えられて、途中チェロをやめて、銅鑼をたたいたり、大太鼓をフリクションスティックという撥でこすって音を出したり、コントラバスの弓でフレクサトーンを演奏しながら舞台を1周したり、忙しい。これらはロストロポーヴィチを意識して、楽譜に記されているそうだ。堤さんご苦労様でした。

 ホルストも現代音楽だが随分肌合いが違うものだ。こちらは現代のジャズなどの要素を取り込んだポピュラーなモダンさである。
 金管が宙を舞い、空間を切り裂く、それにチェレスタの煌めき、フルートなどの木管が溶け合う、そして重厚な弦がそれを支える。これはまさしくシンフォニーホールでのオーケストラを聴く醍醐味である。火星や木星、土星、天王星での活発な音楽のホールに溶け合う音はまさにそれであり、ミューザのコンサートホールとしての優秀さが東響の演奏と相まって素晴らしい響きだ。実に楽しい。沼尻の演奏は例えば木星では速いテンポで突入するが、マンボ風の金管の部分ではテンポを大きく落とし、そしてあのアンダンテではさらに大きく歌わせて、少々媚びる(失礼)。しかしそれは決して嫌なのではなく抜群の効果なのである。このあざとさの一歩手前の緩急つけは熟達の指揮と云うべきであろう。その他火星、天王星、土星も似たようなアプローチだが曲の性格もあって嫌味を感じない。それは沼尻のもともと持っているなんともいえない清潔感が支えているのであろう。久しぶりにこの名曲を楽しめた。こう云う曲を衒いなく選曲する企画にも感謝。

 サントリーホールが今年前半クローズでやむを得ず今年の東響の前半はミューザで聴くことになった。しかし驚くべきことに東響はほぼサントリーホールの私の定位置に近似の場所に席を用意してくれたのである。これはとてもうれしいことだ。
 悪口は書きたくないが読響でも同じことがあった。芸術劇場の席を提示されたがあまりにもひどい壁際の席だったので、継続をやめてしまった。定期の会員の量の差もあるだろうけど長期間の会員に対しての仕打ちとも思えないひどい座席だった。今年から読響は聴かないことにしたのはそう云う理由である。
 さて、ミューザは音響的には日本1か2番だろうが欠点もある、移動の通路がとてもせまいことと、座席が初めての人にはわかりにくいことだ。会場に入るとぐるぐると座席が回っているようで空間の中で自分がどこにいるのかがわからなくなる時がある。ただ会場側もそれを知っていて誘導は他会場では考えられないくらい丁寧である。

2017年4月21日
於:NHKホール(1階18列中央ブロック)

NHK交響楽団、第1859回定期公演Cプロ
指揮:ファビオ・ルイージ
ピアノ:ベアTリーチェ・ラナ

ベートーベン:ピアノ協奏曲第一番
ブラームス:交響曲第四番

オーケストラの導入部の後ピアノが入ってくるが、実に素軽く、爽やかである。これはまるでフォルテ・ピアノのような気分にさせられるサウンドの様に思った。ベートーベン25歳の時の作品、第1番の協奏曲である。交響曲の1番や2番のようないかにもやってやるぞいうような曲ではなく、むしろまだモーツアルトなどの先輩の抜けがらを、少ししょった作品のようにいつも思って聴いていたが、今夜の演奏を聴いていると、誠にその様に感じられるのである。ただ2楽章、緩徐楽章は後年の3番、4番の緩徐楽章の様な、夢見るような楽想が現われ、このピアノとまじりあう音楽は何とも魅力的な雰囲気をたたえたものとなった。ルイージ/N響は端正で爽やかな響きでこの演奏全体を下支えした。ルイージの音楽作りはもう大家の雰囲気が感じられた。なおピアニストはイタリア人で音楽祭での優勝の実績もあるとのことである。演奏時間は約35分。1楽章のカデンツァがとても短かったのでちょっと驚いた。アンコールはバッハのパルティータ1番からジーグ。

 ブラームスはうって変わって構えの大きな演奏である。どちらかというと伝統的なスタイルと云えようか?大きな枠組みの中で音楽を細かく動かし、そして旋律をある時は思い切り歌わす、ロマンの香りいっぱいの、重厚なブラームスを志向したものと思われる。特に両端楽章はそういうスタイルが生きて、いかにも立派なブラームスを聴いたという印象だ。1楽章の導入はじつにゆったりと優しく入って来る、楚楚とした雰囲気であるが、しかし展開され再現されてゆくなかで音楽が次第に大きな流れになり膨れ上がって来る。終結部の壮大さは見事なもの。決してせかないのが良い。4楽章もじつに個性的である。ゆったりとした前半、そして展開から再現に音楽が進むうちに音楽が次第に燃え上がって来るのだ。しかし残念なことにこういう重厚なブラームスを志向したにもかかわらず、今一つ私には不完全燃焼だった。それは例えば1楽章の終結部の大伽藍がそびえたつような音楽が、そうは聴こえなくて、案外と響きが薄く感じられ、音がばらばらとは云わないが、収斂しないのである。巨大な音の構造物と云う趣が聴きとれないのだ。これは4楽章の再現から終結にかけても同様である。この構えの大きな音楽の中にも透明な響きを狙ったのか、それとも会場のせいなのかはよくわからないが、おそらくサントリーやミューザで聴いたら少し違った印象受けたのではないかと思った。サウンドと云う意味では2楽章や4楽章の木管が絡む部分の透明感、爽快感は狙い通りだったのかもしれない。2楽章の淡淡とした、感傷を少し抑えた演奏は特にサウンドにフィットしていた。
 演奏時間は43分。

2017年4月20日

このごろ、読みたい本はたくさんあるが見たい映画はまったくないという現象が続いている。ツタヤで借りてDVDを見てはいるがどれもこれも面白くない映画ばかり。もう昔の映画を見るしかないか!

「ジェイソン・ボーン」マット・デイモン、トミー・リー・ジョーンズ
           ヴァンサン・カッセル、ジュリア・スティルズ主演
ボーンシリーズはボーンが自分を発見した前作でもう終わりかと思ったら、本作で復活する。ボーンにも白髪がちらほら。そんなに無理して作らなくてもと思うレベルの映画だ。
 ボーンはストリート・ファイターとなって地にもぐるが元CIAのニッキー(スティルズ)から連絡をもらう。CIAがまた裏工作をはじめたという。アンチCIAのボーンは立ち上がるが、そこに立ちふさがるのはCIA長官(ジョーンズ)とその殺し屋(カッセル)。まあ凄い俳優ばかりだが、ご老体登場と云う感もないことはない。ぽんぽんと目くらましかの如く場所が変わり、世界旅行ができそうだ。サイバー社会的な要素がとても強いのが特徴だろうが、第1作に比べるとストーリーに新鮮さがないのがもどかしい。初めと終わりに長大なカーチェイスがあるが、中身の薄さを補っているようだ。
 1作を見直したがだんちに面白い。

「怒り」森山未来、綾野 剛、松山ケンイチ、渡辺謙、宮崎あおい、妻夫木聡
    広瀬すずほか
吉田修一のベストセラーの映画化。原作の香りを十分もった映画化である。
 八王子夫婦殺人事件の犯人の山神、整形して地に潜るが、彼に似た3人の男がそれぞれ千葉?の漁港、東京、沖縄に現われる。彼らはいかにも胡散臭いが、周囲の人間は半信半疑。人間が人間を信じることの難しさ、現代人の抑圧された心から発する怒りを描く。面白く作られているが問題は役者の技量のばらつきだろう。キャスティングにもう一工夫あればと惜しまれる。

「ジャック・リーチャー、NEVER GO BACK」トム・クルーズ主演
リーチャーシリーズ第二弾。1作のアウトローはトムクルーズの新境地を開いたような作品でクールなリーチャーは魅力的だった。
 アフガニスタンの米軍基地の武器の横流しを暴露しようとする憲兵隊少佐のターナー、それにリーチャーが絡む。ストーリーの始まりの枠組みの大きさはちょっと期待をさせるものがあるが、リーチャーの娘を名乗る少女サマンサがからむと話が急減速、父子の関係がクローズアップされて、焦点がぼけ、最後はばたばたと都合よく終わる。クールなリーチャーはそこにはなく、スーパー・トム・クルーズが登場して怪我ひとつしないで事件は解決という按配だ。

「アンダーワールド」ケイト・ベッキンセイル主演
ベッキンセイル主演だからまさかヴァンパイアものではないだろうと思って見たが、やはりヴァンパイアものだった。狼男軍団対吸血鬼軍団の1000年戦争の最終決着だ。本当に西洋人はヴァンパイアとゾンビが好きだ。

「デーモン」アンソニー・ホプキンス、レイ・リオッタ、ジュリア・スティルズ主演
悪魔映画と思ったら違った。原題は「BLACKWAY」という。悪党の名前である。
 リリアン(スティルズ)はシアトルに住んでいたが、母親の遺産を受け継いでロッキーの山中の林業の町に移住する。そこはブラックウエイ(リオッタ)と云う悪党が牛耳っている。彼がどうしてこの町を牛耳っているのかはよくはわからないが、元保安官だったらしい。ブラックウエイはリリアンに目をつけて追い回す。保安官に相談しても埒があかず、ブラックウエイと因縁があるレスター(ホプキンス)に救いを求める。ここからは追跡劇となる。アメリカの陰鬱な地方都市を描いていて、それはそれで面白いが、ブラックウエイとレスターの対決の必然性がピンとこない映画だった。こう云う役のリオッタは怖い。

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