ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2017年03月

2017年3月26日

「地の声」塩田武士著、講談社
グリコ・森永事件をモデルにした力作である。ここではギン・萬事件となっている。つまりギンガと萬堂製菓である。
 本作では犯罪を犯した者だけでなく、犯罪はそれにかかわる家族を含め多くの人生を崩壊させてしまうということを描いている。確か著者の作品で「崩壊」と云うのがあったがあれもそのような印象を受けた小説だったように記憶している。なお本作はノンフィクションではなく小説である。
 物語は曽根俊也というテイラーと阿久津と云う大新聞の記者を中心に展開する。曽根は父の遺品の中に難解な英文の文章と自分の少年時代の声が録音されているテープを発見する。そしてその内容は数十年前のギン・萬事件に関連するものと知り愕然とする。はたして父親は事件に関与したのか、俊也は調べ始める。一方阿久津は新聞社の年末年始特集でギン・萬事件を取り上げることになり、文化部の阿久津にも声がかかり取材班の一員になる。彼はハイネケン事件とギン・萬事件の細い糸をたどり欧州へ出張する。この2つのこつこつした情報収集の流れはやがて一つの大きな流れに合流するのである。
 本作の肝は俊也や阿久津の行う調査活動を丹念に描いていることだろう。特に人と人のつながりを解きほぐすさまは圧巻としか言いようがない。その相関図を自分で書きながら読み進んだのだが、自分で写したメモを読み返すと実に緻密なものである。
 本作にはうっすらと高村薫の「レディ・ジョーカー」や「マークスの山」の映像が浮かび上がり興味深い。
 いずれにしろこのジャンルでは最近読んだものの中ではベストと云えよう。

「騎士団長殺し」村上春樹著、新潮社
村上の最新刊である。彼の作品は3作ほどしか読んでいないのでえらそうなことは言えないが、読後はいつもなにか食い足りない様な気分が残り、自分の世界ではないなあと最近では敬遠していたが、本作はタイトルに惹かれてつい読み始めてしまった。
 モーツァルトのドンジョバンニの1幕でドンナ・アンナの父親の騎士長がドンジョバンニに殺される。それをモチーフにしたタイトルが本作であり、それが小説の中でどういかされるのかが非常に興味津津だったからである。なるほど騎士長のイデアが「私」とともにドンジョバンニを思わせる、「免色」氏にディナーに招待される場面など、オペラを彷彿とさせるシーンはないとはいえないが、ほんのわずかでありこの騎士団長殺しと云うタイトルの意は奈辺にあるのかよくわからなかった。
 まあそれはそれとして本作のつまらなさは登場する人物がみな実在感がないことだろう。ロボットとはいわないが、人形のようにみなふわふわして、切れば血の出る生身の人間の様に思えない、生きているにもかかわらず、生活臭がないというのもおとぎ話の様でちょっとついて行けないのである。皆きれいな服を着て良い車に乗って同じ世界で鬼ごっこをしているようだ。
 興味深いのは本作での道具立てである、例えばタンノイオートグラフを用いたアナログのハイエンドオーディオや使用する音楽、ショルティのばらの騎士なんて渋い。車へのこだわり、例えばジャガー、料理、お茶、もちろん絵画もそうである。これらはとても面白かった。村上ファンが読むとまた違う世界が広がるのだろう。

「屋根をかける人」門井慶喜著、角川書店
前作のの江戸の町を造る人々の物語も面白かったが、本作も知られざる人物に焦点を当て非常に面白い小説に仕上がっている。
 あとがきを見ると事実に基づいたフィクションとある。主人公のメレル・ヴォーリスは実在の人物である。アメリカ人で、1905年に単身、24歳で伝道のために来日、それから83歳で亡くなるまで日本に永住する。国籍も日本にうつし姓も妻の姓の一柳を名乗る。
 彼は近江商人の町の商業高校で教鞭をとる傍ら、バイブルの勉強会を開き、伝道活動を続ける。しかしひょんなことから関心のある建築に携わることになる。教会を中心にあまたの洋館を建てることになる。
 一方商才にもたけていてメンソレータムの国内販売権を取得し近江兄弟社を設立、事業でも成功する。最も多くの金は伝道につぎ込まれたらしい。
 本作の魅力はなんといってもこのメレルと云う人物の面白さにある。強い意思の力をもち、しかし人をたらすところもあり、あるときは軽佻浮薄にに思えるがそのフットワークの軽い行動力は日本の近代人にはないものだろう。伝道師あがりにもかかわらずマーケティングのセンスが抜群と云うのも楽しい。
 さらには彼の妻になったもと華族の満喜子のその当時では、女性としては、型破りの生き方も痛快である。その他メレルを取り巻く人物描写は皆生き生きして素晴らしい。終戦秘話は美しすぎるが、日米の懸け橋つまりメレルの場合は建築家だから屋根と云うわけだけれど、それがモチーフになっているのだからやむをえまい。とにかく面白い。

「氷結」ベルナール・ミニエ著、ハーパーブックス
欧州のミステリはなかなかえぐいがこれもその部類。しかし底が深い推理ドラマにもなっていて面白かった。
 スペイン国境に近い、ピレネーの山麓の小都市サンマルタンの水力発電所に併設されているロープウェイに、近くの大富豪所有の高価な馬の頭が吊るされているという通報が警察にあった。ツールーズ署のセルヴァス警部他憲兵隊のジーグラー大尉らが捜査に乗り出す。近くには精神異常凶悪犯罪者を収容した精神病院がある。事件はそこに収容されている囚人との関係が疑われている中、市民が二人惨殺され首つりにされてしまう。この描写はえぐい。
 セルヴァスとジーグラーは過去の事件とのつながりをたどっていくと思わぬ深みがそこに待っていたのだ。セルヴァスの捜査は緻密で面白いが、少々ドジなところがあって、コロンボのフランス版とは云えないが、ちょっとカッコ悪いところがいらいらするし、リアルでもあるのだろう。

2017年3月20日
於:新国立劇場

新国立劇場公演
 ドニゼッティ「ルチア」

指揮:ジャン・パオロ・ビザンティ
演出:ジャン=ルイ・グリンダ

ルチア:オルガ・ペレチャッコ=マリオッティ
エドガルド:イスマエル・ジョルディ
エンリーコ:アルトゥール・ルチンスキー
ライモンド:妻屋秀和
アルトゥーロ:小原啓楼
アリーサ:小林由佳
ノルマンノ:菅野敦

管弦楽・合唱:東京フィルハーモニー交響楽団、新国立劇場合唱団
グラスハーモニカ:サシャレ・レッケルト

プログラムのルチアの上演史をみると案外少ないので驚かされる。ルチアと云えばドニゼッティ、ベルカントの代表曲なのに!なんと東京二期会では訳詞で一度公演があったきりで主催公演がないという。海外からの引っ越し公演と藤原歌劇団に見るべきものがある程度だ。
 そういえば私も聴いた記憶があまりない。2002年の新国立公演も聴いたような気もするが、その当時はブログも書いていないので確かめようがない。唯一聴いたのが2012/12のマリインスキー歌劇場/ゲルギエフの演奏会形式のものだ。これはデセイのルチアだけが素晴らしくあとはあまり記憶にない。ということで舞台付きで聴く/見るのは本公演が初めての様だ。
 このオペラは主役の3人のレベルがそろわないとまったく面白くない、特にタイトルロールのルチア役が難しいと云われている。愛聴盤のマッケラス/ロストの演奏は古楽演奏のオリジナル(1835)版で一般とは違うがこの作品の原点を味わううえで必聴のレコードである。ロストはマリア・カラス(セラフィン盤、抜粋)とは随分味わいが違うが、これが時代の流れなのだろう。この二人の名ソプラノの聴き比べは面白い。

 さて、本題に戻ろう。今回の新国立公演はそういう意味で(ルチア初体験)大変楽しみにしていた公演だった。モンテカルロ歌劇場との共同制作だそうである。
 本公演、歌も素晴らしく、また舞台装置、演出、衣裳に不自然なところはなく、実に安心して楽しめた見事な公演だった。
 そしてそのなかでも素晴らしいのは歌い手たちである。まずルチアのペレチャッコ、ロシアの人らしいが、声にまったく癖がなく、素直に伸びきって気持ちが良い。1部では幾分細めの印象だがそれはルチアの純情可憐さを表わしたものだろう。2部の1幕でのエンリーコとの2重唱(1場)では決して純情可憐さだけではなく、一人の女としての強さが声にあらわれていてこの対比がドラマを生む。しかしライモンドに説得され政略結婚を迫られると(3場)一人の弱い女にになってしまい、いやいや花嫁衣装を着せられる。もうこの時からルチアの声には狂気の予感。そして2幕の5場の狂乱の場、「香がくゆり神聖な松明が輝いている~」は最後で少し伸びを欠いたが、素晴しいのは「私の死がいのうえに~」でここでのルチアの歌唱は技巧的優れていることは言うまでもないだろうが、ペレチャッコのもつ若々しい、清新な声の魅力の威力もあって、この悲劇のクライマックスに相応しい歌唱だった。

 エドガルドは1部では少々なよなよした歌唱が不満を感じさせたが、2部ではまったくそういうことがなく、2部の1幕や2幕の歌唱は力強いもの。2幕1場のエンリーコとの2重唱も聴きものだった。7場のアリアも情感あふれるもので共感を呼ぶ。ただ私には少々情感過多に感じられた。
 エンリーコは1部の「おまえはわしの胸に~」~「彼女のためを思い~」の歌唱で度肝を抜かれた。下手をすると軽業的にもとられかねないが、その声の魅力は圧倒的で、オペラ開幕の1曲目からブラボーの嵐で大盛り上がりだった。2部でも存在感たっぷり。2部の1幕のエドガルドとの2重唱も印象に残った。余談だがドニゼッティはヴェルディに大きな影響を与えたそうだが、この2重唱聴いていると「イル・トロヴァトーレ」の1幕のマンリーコとルナ伯爵の2重唱を彷彿とさせる。

 邦人もそれぞれ脇を固めてこの舞台を充実させた。とくにアルトゥーロの小原はジョルディよりも力強く彼がエドガルドを歌っても良いんじゃないかと思わせる部分もあった。小林のアリサも存在を十分感じた歌唱だった。

 指揮のビザンティはある時は歌い手に寄り添い、ある時は嵐のように音楽を駆り立てる。1部のルチアとエドガルドとの2重唱は前者の例である。2人はムード出し過ぎるぐらいの別れの場面だが、ビザンティもそれに輪をかけている。それだからこそ2部のルチアの悲劇につながるのだろう。後者の例は2部の1幕の幕切れの重唱がそれだろう。ここでのオーケストラを駆り立てる様はすさまじいものだ。演奏時間は137分(拍手、場面転換一部含む)
 なお、1835年の初演時はフルートで演奏された狂乱の場の音楽は今日の公演ではグラスハーモニカ(奏者によって改良されたヴェロフォンと云う楽器)で演奏されている。ドニゼッティの最初の構想ではグラスハーモニカだったが実際の公演ではフルート(木笛)だったそうだ。なぜこの構想を取りやめたかは不明らしい。マッケラスの原典盤では木笛で演奏されている。グラスハーモニカの音ははかなさを感じさせてくれるが、逆に少々気になって、歌に集中できないという欠点もあるのではないかと私は感じた。無理せずフルートでも何も問題ないと思う。この部分だけ原典に帰るというのも話題性以外何ものでもないような気がした。もしそれを貫くならマッケラスの様に古楽で演奏すべきだと思う。

 舞台装置は違和感のないもの。うまくCGを使っている。例えば1部の1場では中央に大きな岩がある。そこにエドガルドらが登って歌うのだが、その岩は波打ち際にあり、波が絶えず打ちつけている。その波をCGで表わしているのだが、これが本物のようだった。このシーンは場面転換で何度も出てくるので余計印象に残ったのだろう。2部2幕の幕切れではこんどは海に面した断崖が舞台になる。その他エンリーコの城内以外の場面では必ず海がのぞいていて、この舞台全体のモチーフの様なものになっている。
 演出も読み替えのない、オーソドックスなものだ。気になったところをいくつか見てみよう。ルチアの衣裳は結婚にやむを得ず踏み切る決意をするまではズボン(乗馬服)姿である。これはルチアは一見純情可憐だが、行動は活発で政略結婚に抵抗する姿を表わしているのではなかろうか?歌も2部のエンリーコとの2重唱ではそれを感じさせる。しかしエドガルドの裏切りの偽手紙やライモンディの説得で結婚を了承すると、その乗馬服は脱がされて花嫁衣装に着せかえられる。この演出ではそれを舞台上で行うのである。ルチアの服を脱がせるシーンがあってちょっとドキンとしてしまう。これはやり過ぎではないかなあとも思った。衣裳でルチアの性格や心情をあらわすきめ細かさ!
 狂乱の場でルチアが血だらけの衣裳で登場、その際に槍の先にアルトゥーロの首を刺しているのにはたまげてしまった。これはやり過ぎ。
 最後のエドガルドの自害の場面。すでにルチアが埋葬される墓が掘られている。人々がルチアの死がいを布にくるんで舞台に運んでくる。それを墓に置くが、エドガルドは墓に覆いかぶさりルチアを抱きしめ、抱えて断崖絶壁のうえで最後の歌を歌う。飛び降りる様子を示しながら幕。ト書きではナイフ自害することになっているが、断崖から飛び降りるというのはアイディアだと思った。ただここはトスカの様にきちんと飛び降りるべきだと思う。なおここでのルチアは本物ではないようだった。

2017年3月17日
於:東京オペラシティコンサートホール

東京フィルハーモニー管弦楽団・第108回オペラシティ定期シリーズ
指揮:アンドレア・バッティストーニ
ピアノ:松田華音

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第二番

チャイコフスキー:交響曲第六番「悲愴」

東フィルのオペラシティシリーズ、今シーズンの最後のコンサートである。それに相応しい重量級のプログラムだ。
 バッティストーニはオペラでは過去素晴らしい公演を聴いてきたが、さてオーケストラを指揮したベートーベンの五番やムソルグスキーの展覧会の絵などは今一つ感銘と云う域には達していないような気がした。今夜のラフマニノフやチャイコフスキーには適性を感じるので期待のコンサートだった。

 ラフマニノフのピアノを弾く女性はなんと8歳で国際コンクールで入賞しているらしい。まだ21歳のピアニストである。バッティストーニとのコンビで作りだす音楽は清潔感と情熱がうまくかみ合った、聴きごたえのある演奏だと思った。特に2楽章が素晴らしい。夜想曲のような曲ではじまるが、ぽつりぽつりと弾くピアノの一音一音が磨き抜かれたぞくぞくするような美しさ、音が全くにじまないので清潔感がたっぷりである。きらびやかさはなく、好きなオーディオで例えればエージングがきいたタンノイスピーカーで聴くピアノの様だ。カンカンしないで表現は悪いがコツコツと聴こえる。これが落ち着きと夢幻を聴き手にもたらす。しかしそれではすまなくて中間の音楽がざわざわ動く場面では弾き手も大いに心が動かされる。しかしここでも情感過多にならないのが良い。オーケストラもピアノに寄り添っている。
 3楽章は緩急をつけてまるで解きはなたれたようにピアノもオーケストラも飛翔する。バッティストーニの盛り付けは豪華だが松田の邪魔はしていない。この楽章は協奏の楽しさを十分感じさせる。楚楚とした趣の1楽章も印象的だった。
 これは今までに聴いたどの演奏とも異なる独自性をもった素晴らしいラフマニノフ。若さが放射されまことにまぶしいくらいの演奏だった。演奏時間は37分くらいあったと思うが決してだらだらとは感じなかった。

 チャイコフスキーはバッティストーニらしいと云えばそうなのか、と思わせる演奏だ。これほど色彩感が豊かな悲愴は聴いたことがない。色彩感が豊かというのはちょっと抽象的だが、要は各楽器が実に明瞭に聴こえるのである。これは演奏のせいなのか、ホールのせいか、座席のせいかはわからない。しかし私の席ではその様に聴こえたのである。特に2楽章でこれだけ木管を意識させられた経験はあまり記憶にない。3楽章も金管がところどころでクローズアップされるのが実に印象的。ホルンがボーボー云っているのが、何度もでてきてそのたびにまるで幻想交響曲の5楽章の金管の様な不気味さを感じる。4楽章も各楽器がクローズアップされて日ごろ聴く、重厚な弦のなかで鳴っている木管や金管とは違って、浮き彫りになって聴こえるのが何とも不思議である。音楽の姿かたちは1-3楽章はそれほど破目を外すことはない。3楽章ももう少し派手にやると思ったが案外と大人しくバランスが良い。1楽章の展開部も決して唐突にならなくてここもバランスの良さが心地よい。さすがに4楽章は感情過多に陥った。むやみな休止は少々煩わしいし大仰なクライマックスは前半とは随分違う。しかしここは普通は大なり小なり皆こうなってしまうのでやむを得ないだろう。そしてその効果は認める。4楽章以外は標題性はあまり意識させられなかった。いままで聴いたバッティストーニのオーケストラ演奏の中では最もバランスが良く充実していたと思う。来シーズンはラフマニノフの交響曲二番を演奏するが、これがもっとも彼に適している音楽だと思うので楽しみなことだ。演奏時間は愛聴盤のカラヤンよりわずかに遅い。
 〆

2017年3月12日

「ルーズベルトは米国民を裏切り日本を戦争に引きずり込んだ」
  副題:アメリカ共和党元党首ハミルトン・フィッシュが暴く日米戦の真相
  青柳武彦著、ハート出版

なんとも長いタイトルである。日本がなぜ無謀な戦争に突入したのか?いろいろな書物を読んでいるが、どうも真相がわからない。昨年の11月29日のブログでも書いた堀田江里氏著の「1941、決意なき開戦」は最近読んだ中では最も面白かった、というか、ものすごい力作だ。しかし一言でいうと開戦は、松岡の狂気、近衛の無能、東条の官僚的行動などにより決意なき開戦に進む、国家的ギャンブルだ、日本は悪でアメリカは善、という結論はどうしてもああそうですかというわけにはいかない。ただ彼女の駆使する一次資料の雄弁さにはかなわないなあと思ったのも事実である。ただそういう彼女もアメリカ側の資料については突っ込みが甘いと思う。それは例えば巷間語られているルーズベルトの陰謀説については一蹴していることからもわかる。

 そういう意味でこのなんとも長ったらしいタイトルの作品を、そのタイトルに惹かれて買い求めたわけである。しかし読後はなんとも情けない気持ちで一杯である。それには当然理由あるのだけれども、書くのも嫌なくらいである。
 本書は副題にあるフィッシュの書いた「TRAJIC DECEPTION」というルーズベルト批判をした本を下敷きにしている。まずこれが気に入らない。なぜならルーズベルトの政敵がルーズベルトを批判しているのだ。自ずと目が曇るのが人間なのではないか、ところが著者はフィッシュの書くことに全幅に信頼をおいてているようだ。
 一方では、全編フィッシュの引用だらけにもかかわらず、著者はフィッシュの論をいくつかの部分でで否定をしているのがおかしい。普通引用と云うのは自分の言いたいことを裏付けるものではないだろうか?しかしこの著者は自分が素晴らしい本だから是非読めと云っている割には堂々と否定もしている。例えばヨーロッパのダンチヒ回廊の問題の取り扱いがそうである。読み手は大いに混乱するのではないだろうか?
 本書の構成はフィッシュ本の引用がメインにあって、それを著者が解説をするというスタイルをとっている。前述の様に否定している部分もあるが大部分はフィッシュが正しいとしていてそれに基づいてルーズベルトの陰謀などを語っている。しかしそれ以外の一次資料については全くおざなりである。つまり誰でも知っているようなものばかりなのだ。特に日本サイドの資料は物足りない。そして日本が戦争に突入したのは、日本側に責任はなくアメリカ/ルーズベルトの陰謀だというのである。堀田江里氏の逆でアメリカが悪で日本は被害者/善というのである。どうしてこういう極端なことになってしまうのであろうか?暗澹たる思いで本書を閉じた。

「走狗」伊東潤著、中央公論新社
伊東氏の著作の中の人物の目の付けどころがいつもとてもよく感心してしまう。明治維新前後の話で最近読んだものでは村田新八や大鳥圭介などがあってこれらも実に面白く、西郷や勝ばかりが明治を造ったわけではないということをいくつかの視点で教えてくれるのである。
 本書は日本の警察組織を造った川路利良の物語である。川路は薩摩藩の最下層の武士として生まれた。といっても実質百姓なのである。いつかは這い上がろうという上昇志向の強い若者として最初は描かれる。西郷から眼をかけられ、やがては勝と西郷の伝令役にまでなる。それまでには武士として鳥羽伏見の戦いなどで武功をあげるという実績をあげてきた。しかし桐野など上級の武士たちからはさげすまれてきた。そののち西郷との関係から大久保からも認められるよになり、ポリスの研究にイギリスへ留学するようにまでなる。帰国後大久保の支援をうけ警察組織を造るがそれからは大久保に従って謀略の人となる。
 川路はその当時の人物として、優れた能力をもっていたということは間違いないだろう。ただ自ら国を築くという資質は欠いていた。むしろ西郷や大久保などの描いた大きな絵のなかで自らの才能を伸ばす、そういう人物なのである。そいう意味ではかれの46年の生涯は潔く、ひたむきで感動的ですらある。走狗という言葉のもつ軽蔑的な意味は彼の生涯にはあたらないだろう。しかし世の中の西郷びいきの人々の歴史的評価、またこういう謀略の徒を嫌う一般論、は違うということではなかったろうか?個人的にこう云う人物は好きであり、共感をもって読んだ。

「犯罪者」太田愛著、角川文庫
テレビ映画「相棒」のシナリオで知られている著者の第一作だそうである。読みごたえのあるサスペンスだ。
 本作は大きな骨格で支えられている。つまり通り魔殺人事件と原因不明の奇病というまったく関係のない2つの事件が結びつくという構造である。
 主人公ははみ出し刑事の相馬、相馬の友人、ジャーナリストの鑓水、そして通り魔事件の生き残り修司の3人である。この2つの事件を結び付けるのは3人であるが、その他にも政財界や2つの事件にまつわる人物が複雑に絡み合う。そして舞台も目まぐるしく変わり、秘められた伏線は無数にある。時間も現在と過去がぱっぱと映像的に切り替わる。ということで普通こう云う本はページをめくる手ももどかしい状態になるのだが、そういうこともあって読了するのに1週間近くもかかってしまった。若い人には良いのだろうが年寄りにはそのスピードについて行けないところがあって、前のページに戻ったりする確認作業が多くなり、結局私には全体がもたもたしたと云う印象が残った次第。もう少し刈り込んで700ページ近い本を2/3位にしてくれた方がこの内容にはふさわしかったのかなと、これはやつあたりです。

2017年3月10日

「ヒート」マイケル・マン監督、ロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノ主演
この映画は1995年の作品である。もう過去何度も見ている。しかし見るたびにこのジャンルの映画としては第一級の作品であるとの思いが強くなる。今年の3月に監督自身の監修したリマスター版が発売されたので早速買って見た次第。このDVDは2枚組で作品以外に監督自身の解説のほかメイキングのドキュメンタリーがついていてこれがめっぽう面白いのだ。
 ヒートの面白さは2つあって1つは銃撃戦のリアルさである、特に銀行強盗の後の銃撃戦はこれを超えるものはなかなか出て来ないのでは思わせるくらいリアルである。メイキングを見るといかにこの部分をリアルに作り込んでいることが良くわかる。
 もう1つの面白さはこの銃撃戦に負けずにドラマとして実によくできているということだ。その源はなんといっても主役の二人の演技である。強盗団の首領のニール(デ・ニーロ)と刑事のヴィンセント(パチーノ)はお互いに認め合いながら最後は激しい銃撃戦の末決着をつける。2人のつばぜり合い的な演技がスリリングである。また脇のキャスティングが優れている。なかでもヴァル・キルマーとトム・サイズモアの役になり切った演技が秀逸だと思う。これはマイケル・マンの最高傑作と云えるだろう。
 マンのその他の作品では1981年のクラッカーが隠れた名作である。(3/1ブログ)ジェームス・カーン演じる主人公の破滅的な結末が素晴らしい。そして破滅的でありながら銃撃戦のなんとクールなことだろう。その他最近見たマンの映画では2006年のマイアミ・バイスがあるがこれは今一つ物足りない。潜入捜査の話であるが、潜入した刑事がボスの女とできてしまうなんて安直な作りで、ヒートで見せたような鋭いリアルさがない。コン・リーを使う理由も良くわからない。マイケル・マンの作品が全て良いとは限らない見本の様な作品だ。マイケル・マンもヒートを超える作品はなかなか作れないということだろう。

「オマールの壁」パレスティナの映画
カンヌ映画祭など多くの映画祭で高く評価されたらしい。
 イスラエルの支配下のヨルダン川西岸、オマール、タリク、ジャムードは幼馴染、3人はイスラエルの圧政に強く反発、イスラエルの基地を襲い兵を1名殺してしまう。しかしなぜかオマールだけがイスラエルの秘密警察につかまってしまう。激しい拷問を受け、また秘密警察のラミにはめられ協力者になることを強要されてしまう。一方でオマールはタリクの妹ナディアを愛しており結婚を約束するが、思いもよらぬ展開が待っていた。
 イスラエルの占領下の地域に住むパレスティナの人々の苦難がひしひしと伝わる、痛々しい映画だ。ナディアとオマールの悲劇も辛い。

「特捜部Q・Pからのメッセージ」デンマーク映画
特捜部Qシリーズ、デンマークのベストセラーのシリーズである。
 カール・マーク、アサド、そしてローサの3人だけの特捜部Qに古い手紙のはいったボトルが届けられる、手紙には血痕らしきものが付いており、捜査を指示される。手紙の内容から8年前に誘拐された兄弟の兄のものだということが分かる。しかし不思議なことにこの兄弟の失踪について親から届けがでていないとうことだ。彼らの親はある教団の熱心な信者だったのだ。そのようななか別の「神の弟子」と云う教団の信者の姉弟が誘拐される。調べてゆくといろいろな教団の熱心な信者の子供が何人も誘拐されていることがわかる。はたして単なる誘拐事件なのかサイコパスのシリアルキラーなのか?
 北欧のミステリーはエグイものが多いが、これも結構怖い。宗教がらみ、しかも子供が被害者と云うことからきているのだろう。マークとアサドの宗教論議はつまらないが、最後できいてくる。

「ハイライズ」トム・ヒドルトン、ジェレミー・アイアンズ主演
これはさっぱり分からない映画だ。映画の中のテレビジョンをみるとブラウン管の古い型だから1970年代だろうか?場所はロンドンの郊外の様だ。
 ロイヤル(アイアンズ)は建築家で巨大な高層建築群でできている都市を開発をすすめている。ハイライズとは高層建築と云う意味である。その1号棟に入居した精神科の医師ラング(ヒドルストン)はやがてこの建物の異常さに気がつく。下層階と高層階とであたかも人々の階層を表わしているのである。やがて階層間の闘争が始まりあっというまにこの高層ビルは荒廃とした廃墟にになってしまう。まるで実際の社会の縮図のように!
 まあこういう理解で良いのだろうが描き方が汚らしい。

「セルフ/レス」ライアン・レイノルズ、ベン・キングスレイ主演
ダミアン(キングスレイ)は成功した不動産王、しかし末期がんに侵されて余命いくばくもない。そのようななか、巨額の費用で若々しい肉体が得られるという。ダミアンは迷った末その治療を受ける。生まれた新ダミアン(レイノルズ)は医師からは人造人間と云われているが、新ダミアンは幻覚で過去の記憶らしいものを見てしまう。果たして自分の新しい体はどこから来たのか疑うようになる。こういう時代が来るかもしれないが、結局金次第というのは今日的解決策。
 旧ダミアンの部屋がトランプのきんきらきんのようなのがおかしい。ダミアンのモデルはトランプだろうか?、しかもダミアンという名前も暗示的だ。だってオーメンの主人公、悪魔の子なのだから!

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