ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2017年02月

2017年2月27日

「蜜蜂と雷鳴」恩田 陸著、幻冬舎
2017年、直木賞受賞作である。感動的でもあり面白い本である。
 青春群像劇である。私自身この手の作品は苦手であまり読まないが、本作品は音楽コンクールが舞台であり、それに魅かれて読んで見た。
 主人公は4人である。彼ら4人の天才たちが芳ヶ江国際ピアノコンクールに如何に挑戦したかそのチャレンジ物語である。
 まだ十代の風間 塵、もっとも天才を感じる16歳の少年である。若くしてデビューしたが母の死によりスランプに陥り、大学の教授たちに励まされ再挑戦する20歳の栄伝亜夜、若くして大物感たっぷりの19歳のマサル・カルロス・アナトール、そして最年長の28歳、楽器店の店員をしながらピアノの練習をしている、高島明石である。
 作品の中で特に面白いのがこの4人のまだ短い人生の物語だ。たかだか10数年の人生が生い立ちを含めて語られる。その物語が後半の彼らの成長への伏線になっており、それぞれの到達点を彷彿とさせるようにできている。従って私には前半の2次予選あたりまでがとても面白かった。
 後半は彼らがたどり着いた音楽境地、すなわちなぜ音楽をするのか、という問いかけにたいする答えが縷々語られる。それは私にはすこししつこく感じられた。しかしこのコンクールには若者が100人近くエントリーするが、彼らのほんの一握りしか成功しないにもかかわらず、彼らはなぜ日夜鍵盤に向かうのだろうか?という本書の主題に対する答えがそこでは微に入り細に入り語られるのである。しつこくはあるがそれは説得力があり、人間がなぜ生きるかに通ずるものがあるようにも感じられた。
 それにしても著者の音楽的な知識は大したもので、たとえば音楽好きのわたしでもファイナリストの1次からの演奏曲リストを見ても半分程度しか聴いたことがない。しかし著者の各曲の演奏に対する表現のきめ細かいこと。音楽を文章にするのは非常に難しいがそれを実現しているということが凄い。直木賞に相応しい読みごたえのある本だった。
 ただ主人公の4人がいずれも日本語をしゃべるという設定は仕方がないが、国際コンクールということを考えると少々不自然。そして細かいことだが演奏者の選曲でシューベルトが1曲もないのは著者の趣味かそれとも聴き映えがしないからだろうか?

「応仁の乱」呉蓙勇一著、中公新書
ベストセラーらしい。応仁の乱というのは教科書で見たぐらいであまり小説の舞台になったりしないし、なんとなく地味であるという印象だ。それから100年後の信長以降の時代と比べると余計そうだ。大体足利幕府自身が尊氏の人的魅力以外、以下にに続く将軍たちにあまり魅力を感じないのである。
 最近「戦国無頼」という本を読み、それが応仁の乱の前夜を描いているので、そういえば応仁の乱と云うのはあまりなじみがないなあと思っていた矢先の本書である。そして本書は実に綿密に応仁の乱とその前後を一次資料を丹念に読み解き、描いている。主資料はいずれも僧侶のものである。経覚と尋尊といういずれも興福寺の別当をした人物である。戦闘には直接参加していないが、第3者的に眺めるという意味で比較的中立的である。また武士の立場だけでなくその時代に生きたいろいろな人々にスポットを当てているのが面白い。論文調の書き方だが引用や前頁での扱いなどもタイミングよく復活してくれているので実に読みやすい。これは応仁の乱を勉強するには格好の佳作である。

「汚染訴訟」ジョン・グリシャム著、新潮文庫
グリシャムのお得意のリーガルサスペンスだ。面白いことは面白いが過去の彼のこのジャンルの作品に比べると少々物足りない。
 それはおそらく主人公のサマンサ・コーファーの女性弁護士としての成長物語がセンターにあり訴訟事件が脇にあるからではないだろうか?過去にレインメイカーなどと云う作品も若い弁護士の成長物語ではあったが、しかし話のセンターはあくまでも訴訟事件なのである。本作でも案件はいろいろ出てくるが、それはほんとうにいろいろであり、本書の汚染訴訟と云うタイトルがぼけてしまいそうである。この手の話ならグリシャムでなくてもよかったのではないか?やはりリーガルサスペンスは文字通りそれを味あわせて欲しいものだ。

「ホルケウ英雄伝」山浦玄嗣著、KADOKAWA
紀元8世紀のころの、おそらく日本の話。大和朝廷(元正女帝のころ)は東北(エミシ)へ進出、日本を統一しようと試みている。しかしエミシは反乱をおこし激しく抵抗をする。
 主人公はエミシの住む北の果てケセ(気仙沼か)出身の少年マサリキン、吟遊詩人でもある。愛馬とともに人生修業の旅に出ている。そこで大和の圧政を目の当たりにする。ヒロインは大和の東北への橋頭保の鎮守府の役人に献上される女奴隷チキランケ、絶世の美少女である。物語はこの二人の出会いから別れまでを大和朝廷軍とエミシ反乱軍の激突を交えて進む。
 この二人の主人公の成長物語としてもおもしろいが、大和朝廷を征服者として、そしてエミシを被征服者として描いており、その単純さが劇画風で面白い。ただそれゆえかエミシの人々はあまりに美化されていて、ホントかいなと思わせる部分もある。とにかく大和は皆悪人で、エミシに悪人はいないというのである。それだから劇画風と云えるのだろうけれど!
 地名表示はすべてエミシの言葉(ケセン語というらしい)であらわしているので日本語で読むという意味では至極読みづらい。そこにもリアルさが欠けた、童話を読んでいるような印象を与える原因がある様な気がする。虐げられたエミシと云うのはわかるがあまりにも内容も表現も被害者意識が強すぎるように思った。東北の人が読めば面白いのだろうか?
 ただ読み物としては活字で読む漫画みたいなものなのですらすらと読めおもしろいことは否定しない。
 著者は医師でケセン語の大家だそうだ。

2017年2月23日
於:東京オペラシティコンサートホール(1階17列左ブロック)

東京フィルハーモニー管弦楽団、第107回オペラシティ定期シリーズ
指揮:ミハイル・プレトニョフ
チェロ:アンドレイ・イオニーツァ

ストラヴィンスキー:ロシア風スケルツオ(シンフォニック版)
プロコフィエフ:交響的協奏曲(チェロ協奏曲第二番)

ストラヴィンスキー:バレエ「火の鳥」組曲

今、シューベルトを聴き返している。昨日はポリーニによる(1987年)D960(21番)のソナタ。この曲は死の年に書かれた3曲のうちの最後のもの。いつもは内田光子の熱気を内に秘めた演奏を聴くが、久しぶりにポリーニを聴いてみようと思った。ポリーニのシューベルトはしごくあっさり系に聴こえる。過度に情感に訴えるようには聴こえないが、しかし1楽章や2楽章の悲しみと優しさの混ざった音楽をなんと感動的に聴かせてくれることだろう。内田もいつも心からシューベルトを聴かせてくれるが、ポリーニも違った意味で聴かせてくれる。シューベルトは30歳にしてこの境地に達した。彼の10代のころの交響曲や弦楽曲を時々聞くがそれと比べるとなんと違うことだろう。わずか10年ちょっとで人間がこれだけ成長するとは?そして30歳にしてこの境地に達するとは!シューベルトは友人たちには恵まれたが世俗的に大成功した人生とは云えまい。不幸な病にかかり亡くなるがもう倍生きていたらどういう音楽を書けたのだろうか?シューベルトはモーツァルトのような早熟の天才とは思えないので早逝が惜しまれる最大の作曲家だろう。今今年の直木賞の作品「蜜蜂と雷鳴」を読んでいるが、このコンクールの参加者で本書の4人の主人公たちの選曲にシューベルトは含まれていないのが実に不思議なことである。それだけ難しいということだろうか?
 なお、ポリーニのCDには3つの小品が含まれているがこれも素晴らしい演奏だった。

 さて、今夜は若くして世俗的に大成功した2人のロシアの現代作曲家の3曲を聴いた。後半の「火の鳥」は日ごろあまり聴かない1945年版、初演の1910年全曲版をゲルギエフCDで聴いているが一部違うところがあり、またその他何種類かの組曲版があり、随分といろいろ手を入れる人だなあと思う。「火の鳥」は2010年4月にデュトワ/フィラデルフィアで聴いた1910年版の演奏が忘れられなくて、もうあれ以上のものは聴けまいと思いこんでしまっているので、他のどの演奏を聴いても何かつまらない。2010年来日演奏はまるで極彩色の絵巻物のように音楽は煌めく。何とも素晴らしい体験だった。今夜のプレトニョフはロシアの人らしいからデュトワの様には行かないだろう。でも出てきた音楽はロシア的(?)な重々しい音楽ではなくむしろ爽やかに響く。魔の踊りもおどろおどろしくなくスピーディな快感すら感じる。日本のオーケストラのせいもあるかもしれない。ロシアのオーケストラで全曲版を演奏したらどうなるのだろうかなどと考えていたら曲は終わってしまっていた。

 ピアニストとしても作曲家としても成功したプロコフィエフは私にとっては「ロミオとジュリエット」が原点である。どの曲を聴いていても、あれ、あそこはロミオのあそこに似ているなんて言う聴き方をついしてしまう。今日のチェロ協奏曲も1楽章の冒頭や2楽章にそれを感じたが気のせいかもしれない。彼の最晩年の曲でロストロポーヴィチの協力があったらしい。初めて聴いた曲だがとくに長大な2楽章はチェロ、オーケストラとも聴きごたえがあった。弱冠23歳のチェリストはチャイコフスキーコンクールの優勝者だそうだ。アンコールはバッハの無伴奏組曲三番からサラバンド、プロコフィエフの子供のための「マーチ」の2曲
 1曲目のストラヴィンスキーは初めて聴く曲。ペトルーシュカの一節を思わせる短い曲だ。なぜこの曲を冒頭に選んだのかはよくわからない。

2017年2月18日
於:東京文化会館(1階10列右ブロック)

東京二期会公演(ローマ歌劇場提携公演)

 プッチーニ:トスカ

指揮:ダニエレ・ルスティオーニ
演出:アレッサンドロ・タレヴィ

トスカ:木下美穂子
カヴァラドッシ:樋口達哉
スカルピア:今井俊輔
アンジェロッティ:長谷川寛
堂守:米谷穀彦
スポレッタ:坂本貴輝
シャルローネ:増原英也
看守:清水宏樹
牧童:金子淳平(NHK東京児童合唱団)

合唱:二期会合唱団
児童合唱:NHK東京児童合唱団
管弦楽:東京都交響楽団

指揮者を除いてすべて邦人による純血主義の公演。正直あまり期待はしていなかったのだが、聴き終ってこれは実に素晴らしい公演だったと思った。このオペラの中のオペラと云うべき作品に真っ向からぶつかっていった歌い手、スタッフに拍手をしたい。
 まず音楽だ。実はルスティオーニ/木下/樋口の組み合わせは2014年のこの二期会の公演で蝶々夫人を演じている。あの時の音楽は実に素晴らしく歌い手、オーケストラが一体になっていて感動的だった。演出も古典的なものでとにかく安心して見て/聴いていられるのが何よりだった。
 今日も歌手陣が素晴らしい。タイトルロールの木下は特に2幕においてその大ぶりな歌唱が生きる。2幕の「歌に生き恋に生き」ではトスカのやさしい心情が切々と歌われ涙を誘う。しかしなぜ神は救いの手を差し伸べてくだされないのか?その部分の深い悲しみへ共感できる歌唱だった。木下の演技はひと昔前だったら大げさな身振りで見てる方が照れくさくなりそうだが、この曲、この歌唱力、そして演出があいまって決して嫌な演技にならない。日本のオペラ界の成熟を感じる。1幕では樋口の若々しいカヴァラドッシにたいして少々姉さん女房風で若いツバメにやきもちを焼く風の歌唱だったが、これはこういう演出だったかもしれない。
 樋口のカヴァラドッシも実に素晴らしい。日本のテノールでは今や笛田と並んで双壁だろう。昨年の藤原歌劇団の公演で笛田がカヴァラドッシを歌っていたがあれも素晴らしい歌唱だった。しかし印象としては新しいせいか今日の樋口の方がインパクトが強い。それは若々しい声そのものの魅力がここではストレートにでているからだろう。ここからは何も足せないし何も引けない、そういう有無を言わさぬ声の魅力が樋口の歌唱にはみなぎっている。特に1幕の妙なる調和やトスカの黒い瞳を歌い上げる歌唱の見事さ、そしてトスカとの2重唱。2幕でも直情径行のカヴァラドッシを十分きかせてくれたし、3幕の生への別れへの深い悲しみも共感をもって聴いた。今後樋口、笛田は眼の離せないテノールになりそうだ。
 スカルピアの今井も驚くべき演技と歌唱だ。1幕のトスカに猫なで声で、しかもすり足で不気味に近寄る、その歌唱のうす気味の悪さ。これほどの歌唱はかつて聴いたことがない。CDでのゴッビの名唱はあるが、あれは私には音だけのせいか造られた印象が強いが、今日の今井は舞台で目の当たりにしているせいか、スカルピアの人間の品性の卑しさがとても自然に良く出ていた。ここの演出はト書きにほぼ忠実に行っている。2幕でも悪役ぶりを遺憾なく発揮、次第に高まる欲情を声で感じさせるリアルさ。
 その他脇も立派、牧童の幼い歌いっぷりも演出なのかと思わせるくらい自然、堂守はちょっと立派すぎるくらいだ。もう少し歌も演技もブッファ風にした方が良いのではなかったろうか?スポレッタの坂本はなんとも元気のない歌いっぷりがおどおどしたスポレッタにぴったり。これが演技だとしたら素晴らしい。

 ルスティオーニは2014年の蝶々さんと同様、よく歌い、かつ音楽がダイナミックに運動する。実によくできたドラマを見ているような気分にさせられる演奏だ。例えば2幕のスカルピアがトスカにせまる非人間的な、暴力的な場面の、音楽のぞくぞくするような圧迫感などがそうだ。前後するが1幕のスカルピアの登場する場面の凄み、ちょっと一呼吸を置いてスカルピアが歌うその間の緊張感が音楽でも十分感じ取れるのだ。演奏時間は109分(拍手込み)、これは速い方の部類であろう。

 演出、衣裳、装置はローマ歌劇場の持ち込みである。ローマ歌劇場だからそうなのか、それともこの演出家の意図なのかは分からないが、この演出は今日的な視点で云うと随分と大胆である。それは全てのト書きをチェックしたわけではないが、記憶している部分を含めて云うと、ト書きの忠実な再現を意図した演出、舞台だと思う。最近の演出家はなにかやらずにはいられないというタイプが多く、ひどいものになると実験劇場的な演出を見せられる場合が散見される。一部の観客や評論家にはそう云うのを新しいといって迎合する向きがある。しかし今日の公演はそういう風潮を勇気をもって断ち切っているのだ。そういう意味で大胆なのだ。
 たとえば2幕のトスカがスカルピアを刺した後、スカルピアの遺体のそばに2本の蝋燭に火をつけて置く。そして遺体の胸に十字架を置く。ト書きとの違いは蝋燭に火をつける本数が違うだけでほぼト書きとおりである。よく考えると実に臭い芝居だが、それがプッチーニの音楽にはしっくりくる。この場面がないとなぜかトスカを聴いた気がしないのである。そういう意味では私にとって今日の演出は理想のものだろう。
 装置は新国立の様な豪壮なものでなく、多くは布に書いたものだったり、まあ書き割り的なものだが、それで十分だろう。 1幕のアンドレア・デッラ・ヴァッレ教会、2幕のファルネーゼ宮殿内のスカルピアの居室、そして3幕のサンタンジェロ城の屋上というト書きの指示通り舞台はそれらしき作りになっている。
 この公演は日本のオペラの水準の高さを十分誇れる公演で、今後も是非維持していただきたいものだ。

2017年2月17日
於:NHKホール(18列中央ブロック)

NHK交響楽団、第1857回定期演奏会NHKホールCプロ
指揮:パーヴォ・ヤルヴィ
ヴァイオリン:諏訪内晶子

シベリウス:ヴァイオリン協奏曲

ショスタコーヴィチ:交響曲第十番

諏訪内のシベリウスは何度めだろうか、たしかサロネンとのコンビでも聴いているし、CDも諏訪内かハイフェッツのものと並べて、愛聴している。シベリウスのこの曲のスペシャリストとは云わないまでも、得意にしているのは間違いないだろう。それにしてもいつも思うが彼女の演奏、ヴァイオリンの音の放射能力のすごさをいつも感じてしまう。2階や3階では聴いたことがないが、おそらく隅から隅までその音が響き渡っていることだろう。これはストラディヴァリウスの威力だけではなく、彼女の卓越した技量によるものだろう。にもかかわらずその繊細な響きはどうだろう。1楽章の冒頭の一節を聴いただけで彼女の音に魅了されるだろう。音楽はますます豊かにスケールアップして、感情の表現のきめ細やかさはこれ以上考えられないくらい、微に入り細に入り、えぐりだす。演奏時間もCDより幾分長くなっている。
 2楽章の美しさは言うまでもないことだが、素晴らしいのは舞曲風の3楽章である。ヤルヴィのサポートもあって、ここでの躍動感はCD以上のもので実に心躍ると同時に深い感動をもたらしてくれる。演奏時間は32分弱。アンコールはバッハの無伴奏ソナタ3番からラルゴ。諏訪内のこう云うスタイルの演奏を聴くと、ハイフェッツの爽快な演奏もまたいいなあといつも思う。だからこの2枚は離せない。

 ショスタコーヴィチの10番はライブではテミルカーノフ/読響の演奏が比較的新しい。その他CDではカラヤン、ヤンソンスを聴くが、正直積極的に聴きたい曲ではない。なぜならこの人の曲は後付けかどうかは別として能書きが多い。政治的な裏表を音楽に託すというのも気持ちはわかるが聴き手にはあまり知りたくない話だ。
 この10番もスターリンをモチーフにしているらしいが、そのなかに自らの名前の音形
DSCHモチーフも多用して、最終楽章でそれが完成形で出てくる工作までしている。2楽章ではボリス・ゴドノフを思わせる旋律も登場し、スターリンとだぶらせている、とか3楽章の3つ目の主題は大地の歌の1楽章からを思わせるとか、女性のイニシャルをあらわしているとか煩わしいことばかりだ。このようなエピソードは作曲者がメッセージを具体的に残したかどうかはよくはわからない。おそらく音楽学者の後付けだろうとは思うが、音楽を聴くうえでは少々うざい。まあ読まなきゃいいんだが!
 事実私の良く聴くヤンソンスやカラヤンの演奏ではDSCHもモチーフの強調はとうぜんだろうが、それ以外の要素はあまり感じられないので、演奏家にとっては無視なのだろうか?聴き手によってはそれが物足りないというかもしれない。
 ヤルヴィの演奏もその系列の様で、1楽章冒頭の暗澹としたスターリン時代を思わせる音楽はむしろ清冽で冷ややかな音楽に聴こえる。その後のクラリネットの1主題もねっとりとはせずに冒頭の雰囲気を保ってしっとりと聴かせる。私もこう云うスタイルの演奏が好きだ。2つの主題の提示部分の素晴らしさは本日の演奏でも特筆すべき美しさだと思う。
 2楽章はスターリンうんぬんと云うことではないが、実に暴力的な音楽で演奏もそうであるが、一方では、あまりにもあざやかでスポーティにすら感じる。
 3楽章の最初の2つの主題は1楽章の雰囲気をもたらす。それを破るホルンの音、そしてその後の諧謔的な音楽。ショスタコーヴィチしかかけないような音楽だが、作曲家の心情があらわれてはいまいか?そういう云う演奏に聴こえた。
 4楽章は解放の音楽である。冒頭のアンダンテは1楽章の流れだが、音楽の表情はずっと穏やかになっている。アレグロになって次第にDSCHのモチーフが完成形で盛り上がってくる。ここでのヤルヴィとN響のコンビはこのコンビの成熟を大いに感じさせる、運動能力が圧倒的である。この部分だけとりあげても、太刀打ちできるのはノット/東響くらいだろう。この一糸乱れぬ音の充実は本日のハイライトだろう。凄い演奏もあったものだ。
演奏時間は52分強。

2017年2月14日

「ニュースの真相」ケイト・ブランシェット、ロバート・レッドフォード主演
ブッシュ兇離戰肇淵狎鐐萋┐譴里燭瓩剖?浬J爾砲覆辰燭箸いΦ刃如△気蕕砲魯灰佑覇?發靴慎刃任砲弔い討離好ープの顛末を描いた力作だ。2時間余りの映像の緊迫感は流石だ。
 メアリー・メイプス(ブランシェット)はCBSニュースのやりてプロデューサーである。著名なダン・ラザー(レッドフォード)がキャスターをやっている名物報道番組の制作をやっている。しかしこのブッシュの徴兵忌避問題についての番組の真偽について問われることになった。フライングなのか、それとも真実なのか?原題は「TRUTH」である。メイプス自身の著作を基にした映画である。
 本作は古くは「大統領の陰謀」、最近では「スポット・ライト」に代表されるようなマスコミによる真相追及とそれに対する政治的圧力を描いた作品のひとつである。ジャーナリズムの良心を描いたものだが、本作はジャーナリズムが弱者という点を強調しているような気がして、それが少し弱いところだと思う。主役級の二人や脇も充実していて見ごたえのある作品に仕上がっている。

「ハドソン川の奇跡」トム・ハンクス、アーロン・エッカート、ローラ・リネイ他
原題「SULLY」、主人公の愛称である。結末が分かっているのに面白い?と云っている人がいたが、なかなか面白い作品だ。
 ラガーディア空港発シャーロット行き1549便が離陸直後に鳥の衝突により二基のエンジンとも推力喪失状態となる。機体はエアバス320である。サレンバーガー機長(ハンクス)は副機長(エッカート)とともに立て直そうとするが機は降下し続ける。機長はラガーディア空港他に戻ろうとするが、とっさの判断で無理と考え、ハドソン川に不時着する。乗客乗員全員無事であった。しかしその後のシミュレーション調査でラガーディア空港に戻れるという結果がでる。果たして機長の行動は英雄的行為だったのか、それとも無謀な行為だったのか?
 本作はヒーローを求めて描いたように見えるが、実は一人のヒーローよりも多くの人々の連帯によって全員無事と云う奇跡を勝ち取ったと云いたいのだと思う。今のアメリカに必要なものだからだろう。
 それにしてもサリーが妻(リネイ)に電話するたびに愛していると云っているが、アメリカの夫婦と云うのは実に面倒くさいなあとあらためて感じた。

「消された記憶」ジェームス・フランコ、エド・ハリス他
原題は「ADDERALL DIARIES」、しかしADDERALLという単語は辞書に載っておらず意味不明だ。
 スティーブン・エリオット(フランコ)は父親からの虐待を題材に書いた著作で成功する。そこでは父親は死んだことになっているが、朗読会の当日その父親が現われぶち壊しになり、スランプに陥る。しかし過去の記憶を自分本位に塗り替えた被害者意識の塊になっていたということに立ち直る。
 映像はパッパパッパと切り替わり、思わせぶりなシーンもあり、芸術映画ぶっているような作りが鼻につく。シナリオの底も浅く見え透いている。

「秘密」生田斗真、岡田将生、栗山千明、他
日本製サイコパスもの、骨格はよいのに細部の肉づけに物足りなさを感じる。死者の脳内を映像化して犯罪捜査に使用するという実験が行われている。その責任者が生田、岡田はその研究所に引っ張られた刑事役。まあ一見荒唐無稽な話だがあり得ない話ではない。問題は作り方と演じ手の問題であろうか?大きな嘘でも小さな本当で固めるとほんものっぽく感じる時がある。それがこの種の映画の魅力だろうと思うが、本作はその細部のリアルさに物足りなさを感じてしまう。さらにはリアルさをもたらすには役者にそれらしい演技が求められが女サイコパスの織田梨紗の演技を見ていると恥ずかしくなるようなもので他の役者、例えばもう一人のサイコパスの吉川晃司がいくら頑張ってもとりかえしがつかない。アイドルを使って客を呼びたいという気持ちはわかるがもう少しキャスティングに神経が欲しい。岡田はともかく生田の役はもう一回り年齢が欲しいところだ。

「ブリーダー」マッツ・ミケルセン
珍しいデンマーク映画だ。ただ話はあまり面白くない。北欧というと豊かな国と云うイメージだがここではまったくそういうことはなく、下層で生きる人々を描いている。ヴァイオレンス映画と云うふれこみだがそれはほんのちょっぴりだ。
 レニー(ミケルソン)はビデオ屋の店員、ルイ、レオ、ビデオ屋のオーナーは友人、共通は映画。毎週集まって映画を見るのを楽しみにしている。レオはルイの妹と結婚しいる。ルイは裏社会に通じている。レオの妻が妊娠してからレオがおかしくなり、そこからこの男たちの日常が崩れてゆく。レオは自分の生活力では子供を養えないと思い、妻は子供が欲しいという。その板挟みでおかしくなるのだ。一方レニーは全くの映画オタクのぶきっちょうな男、彼にデリに勤める恋人ができる。それもこの男たちの均衡を崩すひとつとなってゆく。そういう4人に待っている結末は?

「ベン・ハー2016」ジャック・ヒューストン他
ベン・ハーといえば1959年のチャールトン・ヘストン主演の同名作品がまず頭に浮かぶ。あれを超えるものはなかなか難しいと思える。しかし本作はそれに挑戦している。というのは1959年は4時間近い長編だが、本作ではぷつぷつとはしょったり、翻案したりして2時間少々にまとめている。だから一見、59年版のダイジェストのような印象がする。
 それにしてもCGを使っているにもかかわらず59年版のほうが画面に力感がにじみ出ているのはいかなる理由だろうか?画面全体が暗く陰鬱で、歴史劇の持つ華麗さががない。それは現在までのこの映画が舞台となったパレスティナ、なかんずくイエルサレムの半世紀の歴史の重みがそうさせたのかもしれない。しかし、かといって隠喩的なものが強くあるというわけでもない。
 59年版は原作の様にイエス・キリストの物語という副題をもっているが、本作はその要素を薄めている。そのかわり敵役同士のベン・ハーとメッサラの友情を柱にしている。メッサラは孤児でハー家の養子だという。しかも祖父はジュリアス・シーザー暗殺者の一人と云う。この逸話は原作にあったかどうか定かではないがメッサラの性格付けには役に立つ。しかしその関係はベンハーの凄まじいばかりの憎悪に結び付くのかと云う点は少し疑問が残るところだが、それが現代的と云えば云えるだろう。59年版のシンプルさがわかりやすいのだが!
 一番の不満はベン・ハーが奴隷になりガレー船で五年間漕ぎ手をつとめた末に海戦のさなかクイントス・アリウス司令官を救助し彼の養子となリ、ローマでの戦車競走のチャンピオンになるという部分がそっくり抜けていることだろう。これがないから素人のベンハーがなんで一夜漬けで戦車競走の名手になるのかがわからなくなってしまうのだ。
 全体に2時間におさまるようにいろいろ工夫しているが、どれもこれも押し込もうとして焦点がぼけたように思える。

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