ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2017年01月

2017年1月26日
於:東京オペラシティ・コンサートホール(1階17列左ブロック)

東京フィルハーモニー交響楽団・定期演奏会
指揮:佐渡 裕
アコーディオン:御喜美江

ワーグナー:歌劇「タンホイザー」序曲(ドレスデン版)
ピアソラ:バンドネオン協奏曲「アコンカグア」

ブラームス:交響曲第一番

曲の構成も演奏も聴きごたえのあるコンサートだった。佐渡の指揮ぶりの変容は目覚ましいものがあり、今夜の様な実に落ち着いた、堂々とした棒さばきは、かつては想像もできないくらいだ。以前も書いたが彼に注目するようになったのはバーンスタイン/キャンディードの演奏を聴いてからである。あれは実に素晴らしい演奏だった。初めて聴いたのにあれだけの感銘を与えるのはただものではないと思ったのだ。しかしドイツものは緩急つけや強弱にわざとらしさを感じて、それがあたかも伝統的なスタイルの様に思わせるそぶりが嫌でたまらなかった。指揮台でぽんぽん跳ねるスタイルもバーンスタインの真似みたいで抵抗があった。しかし最近ではそういう音楽作りや指揮ぶりはは影を潜めている。トーンキュンストラーとの凱旋公演もそうだったし、今夜のブラームスもそうである。

 ワーグナーとブラームスの間にピアソラをはさむなんてまあ実に小粋ではありませんか!ドイツの両巨人の間のピアソラの音楽は実にひっそりとして可愛らしい。特に2楽章モデラートがそうだ。冒頭アコーディオンだけでシャンソン風のメロディが聴こえてくる。どこかの裏町をそぞろ歩きしているようなそういう趣である。この楽章はその他のソロ楽器との合奏が次々と繰り広げられ楽しい。しかしこの曲は単にひっそりしているだけでなく、3楽章の後半のクレッシェンドは見る見る音楽が膨れて来る様が迫力があり、聴きごたえがある。その前のひっそりした部分はやるせない雰囲気が一杯。1979年の曲らしいが、現代音楽もなかなかいいねえと思わせる作品だった。なおタイトルのアコンカグアは南米の山の名前だそうだ。
 アンコールはドメニコ・スカルラッティのソナタハ長調。ピアソラのラテン音楽と呼応するようなイベリア半島を彷彿させるこの曲を、アコーディオンで演奏するとまあ実に豊かなニュアンスが感じられ、チェンバロやピアノの演奏とはまた一味違ったスカルラッティだった。

 タンホイザーは堂々とした演奏で実に充実している。最後の弦が上昇してゆく中、巡礼の合唱の主題をホルンが朗々と吹く、その場面を聴くだけで、わくわくしてしまう。佐渡のワーグナーを舞台で一度聴いてみたいものだ。演奏時間はバレンボイムのドレスデン版とほぼ同じの14分強だった。ここでの佐渡は全く無理をしていない。緩急も強調せず、自然な流れに音楽を誘導している。だから音楽が大きく感じるのだろう。

 最後の曲のブラームスも同じである。一歩一歩踏みしめるような1楽章の序奏、そして主部に入るが、そこでも序奏の雰囲気を壊さないので、この曲の素晴らしさを一層感じさせてくれる。主部になってあわてる演奏もあるが、佐渡はそういうことはしない。2楽章はロマンの香りがむんむんする様な、素晴らしい響きに圧倒される。久しぶりにこの2楽章を聴いて心が動かされた。2楽章でも音楽は大げさな身振りをせず、実に自然な美しさを保つのだ。3楽章のスケルツオ風の部分で速度は上げるが、違和感はない。4楽章の序奏はいささか大ぶりになるがこれは仕方がない、主部にはいると速度を上げるのは伝統的スタイルの常套でもあるが、わざとらしさは感じない。とにかく音楽に無理強いをしていないのである。従って聴き手の胸にストンと音楽が収まるのである。コーダの部分は十分な迫力だが、力技ではなく、オーケストラの自然の力を引き出しているのが、スケールの大きさにつながっている。これは近来目覚ましい活躍の佐渡の見事なブラームスである。演奏時間は43分強。反復はしていないようだ。
 東フィルの演奏も見事なもの。新国立では東響と座付きオーケストラの座を分けているが、そこでの経験がいろいろなところで生きているのであろう。今日聴いていてホルン部分の素晴らしさを改めて感じた。在京ではトップクラスだろう。


 

2017年1月26日

「コンカッション」ウィル・スミス、アレック・ボールドウィン主演
コンカッションとは脳振盪のことである。NFL、スーパーボールがまじかなだけに面白く見た。最近のNFLを見ていると試合中の脳振盪に対してのケアが凄い。もちろん危険なタックルやヘルメットでヘルメットに当たるという反則も厳しくとる。こういう反則で試合を面白くなくするという声もあったが、今ではもう当たり前になっている。これはその原因になった実話に基づいた映画である。
 2002年にピッツバーグ・スティーラーの元オフェンスセンターのウエブスターが変死を遂げる。解剖を担当したのはアレゲニー郡ピッツバーグの監察医で病理医のオマル医師である。彼はアルジェリアの移民でまだアメリカの市民権はない。その彼がウエブスターの死因は度重なるコンカッションであると結論付けそれを学界誌に掲載する。当然NFLは反発し論争となるという話だ。ウイルスミス演じるオマル医師の孤軍奮闘ぶりが描かれるが、脇役の彼の上司役の飄々とした演技、アレック・ボールドイン扮する元NFLのチームドクター、ベイルズの落ち着いた演技もあって面白くできている。オマル医師とケニア娘とのロマンスはオマル医師の硬派ぶりを示すものとして挿入されているが、全体の印象を和らげる効果はあるが余計なものの様に思った。

「ヒットラーが帰って来た」ドイツ映画
ベストセラー小説の映画化。原作も読んだがおもしろく翻案してある。全体にコメディタッチになっており、この原作のブラックさは少々薄められている。
 ナチが政権をとったのは決して強権で奪取したのではなくて、ごくごくまっとうな民主主義のルールにのっとって政権をとったのである。そして彼に投票したのは一般の市民なのである。そして2014年に亡霊の如くワープしたヒットラーはまた同じことをマスコミを通じてしていて、視聴者もそれに熱狂する。そういうブラックさは「本」のほうがずっと怖い。そして現代のヒットラーの秘書のユダヤ女性の祖母のこの亡霊ヒットラーに対する非難もアルツハイマーの老婆の言とされてしまって薄められている。本映画をご覧になった方は絶対原作を読むべきである。

「日本一悪い奴ら」綾野 剛、ピエール瀧主演
北海道警察の諸星要一巡査(綾野)の1975年から2002年までの警察人生を描いたもの。小説の映画化の様だ。
 柔道で道警にスカウトされた諸星は期待通りの成果を上げる、その後現場に配属されると恐るべき現実に直面する。しかしそんな現実に流されるようにピエール瀧扮する上司の暴力団まがいの捜査方法を受け継ぎ、特に銃砲の検挙ではエースとまで言われるほどまでのし上がる。しかしそれは元やくざの黒岩(中村獅童)やDJ上がりの男やパキスタン人たちと組んだ違法捜査だったのである。
 北海道警察の組織ぐるみの捜査をリアルにただし少々コミカル味付けをされて描いている。綾野演じる諸星巡査の転落の道が特にそうだ。その他デフォルメの部分はあるが警察映画としては役者もそろい面白くできている。

「エージェント47」ルーパーと・フレンド主演
ヴィデオゲームベースの映画だそうだ。話はポンポンと進むが、話はどうでもよく場面場面の活劇を見る映画の様だ。
 1967年、リトヴェンコ博士は殺人マシンをDNA操作により作り上げる。しかしその危険さに、博士は脱走、行方不明になる。ここで生み出された殺人マシンはエージェントと呼ばれ番号がつけられる。タイトルの47はその番号である。物語はエージェント計画の復活をキーに、エージェント47とリトヴェンコ博士の娘とそれを守るエージェントの間の闘争劇となる。とにかくわけもなくばたばたと人が死ぬ映画ヴィデオゲームらしい。

2017年1月25日

「阿蘭陀西鶴」朝井まかて著、講談社文庫
朝井まかての小説に登場する女性の魅力というのはいつも素晴らしく、その感性には驚くばかりだ。どうしてこのように人の心が描けるのだろう?いつも不思議に思ってしまう。
本作でも井原西鶴の盲目の娘おあいの描き方が素晴らしい。おあいは盲目だが母親の厳しい教育もあって料理、針仕事など家事はなんでもオッケー、その彼女の動きの描き方だけでも読みごたえがあるが、それは瑣末なことで、本当に面白いのは西鶴とおあいの親娘関係である。この描き方の微妙なこと驚くばかり。おあいは最初は嫌な父親と思っていたのが父の気持ちがだんだんとわかって、通じあう、その場面の感動的なこと。最後の数ページの美しさは筆舌尽くしがたい。
 西鶴の描き方も魅力的である。俳諧師から草紙作家への変身の面白さ。この人物の多面性が見事に描かれている。その他脇役が実に良い。おあいの女中お玉、その夫で俳諧師の団水。歌舞伎役者の辰哉、版元たち、長屋の人々、どの人をとっても切れば血の出る生身の人間として描かれ、一人として作りものらしきものはいない。
 これは映画にしたいくらいの素晴らしい小説だ。

「光炎の人」木内 昇著、角川書店
この小説も実に読みごたえのあるもの。話がどう展開するか、先を知りたくてつい飛ばし読みになってしまった。
 明治の20年に徳島県の貧農の子として生まれた郷司音三郎の生涯を描いている。しかし郷司という人物は調べても実在はしていないらしい(ウイキペディア)。従って驚くべきは彼は著者の創作物なのである。下巻の最後の最後まで実在の人物とばかり思っていた。大変な力作である。本作は読んでいて、郷司の立身出世物語かと思った。それは彼は実に努力の人であり、小学校中退と云う学歴にもかかわらず、関西の経済界の大物の目にとまり、転職を重ね最後は陸軍で無線電信機の製作まで行う人物になるからである。しかし単なる立身出世物語ではないことは最後まで読めばわかる。では明治・大正の時代を作った科学的精神を描いたものだろうか?もちろんそういう部分もある。新しい技術による製品が時代を作るという夢を郷司がもっていたことは事実である。しかしそう単純な話ではないのだ。そういうキャリアを踏んでゆく人間がその人間性まで大きく変わる、歪む、そういう姿を嫌になるほど丁寧に描いているのである。話は面白いが、かといって楽しくはないのだ。むしろあちらこちらにしかけた棘が読み手に刺さる、そういう小説である。これはまことに読みごたえのある小説だった。

「熊と踊れ」アンデシュ・ルースンド/ステファン・トゥンベリ
スエ―デンの作家の犯罪小説である。舞台もスエ―デンである。
 1990年代に実際に起きた「軍人ギャング」事件を扱ったもの。レオ・フェリクス・ヴィンセントの3兄弟、友人のヤスベル、そしてレオの恋人アンネリーが主人公である。軍隊が備蓄をしている兵器を盗みそれを使って連続銀行強盗を行った事件である。犯罪小説であるが主題は暴力である。
 レオ兄弟は父親のイヴァンの暴力を見て育ち、母親はその夫から暴行を受けたことから家を出てゆく。一方この事件を捜査する担当の刑事はブロンクス、彼も父親の暴力に対して兄が父親を殺してしまう。兄は刑務所にいる。そういう暴力渦巻くなかでの強盗事件である。犯罪の計画の克明さ、事件の描写など見るところ満載である。そしてブロンクスの捜査の面白さ。上下2巻の長尺ものだが最後まで飽きさせない。ただ1クローネ13円で換算するとこの強盗事件の規模は案外と小さくて本当かなとも思わせるが、実話なのだそうだ。

「競馬の世界史」木村凌二著、中公新書
競馬は学生時代から好きで、社会人になってから馬券も買うようになった。最近では馬券がパソコンなどで買えるので便利な世の中になったものだ。さて、競馬は博打だろうか?
本書を読んでいて、そんなことを考えてしまった。賭けるだけだったら競輪や競艇のほうが面白いかもしれない。しかし競馬は単にお金をかけるだけのものではないということを本書は教えてくれる。競馬の歴史は走ることを使命として生を与えられた、サラブレッドの歴史でもある。本書はそういうサラブレッドの血統の流れに触れながら、世界の競馬場の変遷、博打としての競馬のルール化の歴史を丁寧に描いている。できれば図表、例えばサイアーラインなどをもっと詳しく示してもらえたら競馬を知らない人でも面白く読めるだろう。

「言ってはいけない・残酷すぎる事実」 橘 玲著 中公新書
社会生活の中で、人に言ってはいけないことと良いことを人は自然と身に付けている。しかし本書はそういうタブーを破って、日ごろ云えないことをデータベースではっきりと云っているところが面白いところだろうか?

「江戸を造った男」 伊東 潤著 朝日新聞出版
河村七兵衛(瑞賢)の生涯を描いた力作である。伊東の歴史小説はどれをとってもはずれはない。ぐいぐいと読ませる魅力をもっている。
 本作は江戸の材木商として財をなした七兵衛が幕府に依頼されて、出羽・陸奥のコメを西廻り、東廻りの航路を切り開く話、高田藩の関川の治水による石高の改善、そして河内平野の治水、さらには大福銀山の発掘事業など江戸時代の経済地盤を築いた逸話を克明に描いている。ただ七兵衛という人物があまりに立派すぎて正直まぶしい、完璧な人物として描かれているように思った。技術的な悩みや人間としての苦悩があまりにもすらすらと解決されてしまう様に読めるのである。そういう人間としての陰影の濃さがあまり見えないのがちょっと読み足りないところだ。それとタイトルが門井慶喜の「家康、江戸を建てる」という作品と被るような印象を受ける。もう少しなんとかならなかったものだろうか?とはいえ読み物としては第一級のもの。

2017年1月22日
於:新国立劇場(1階11列中央ブロック)

新国立劇場公演
  ビゼー「カルメン」

指揮:イヴ・アベル
演出:鵜山 仁

カルメン:エレーナ・マクシモワ
ドン・ホセ:マッシモ・ジョルダーノ
エスカミーリョ:ガボール・ブレッツ
ミカエラ:砂川涼子
スニガ:妻屋秀和
モラレス:星野 淳
ダンカイロ:北川辰彦
レメンダート:村上公太
フラスキータ:日比野 幸
メルセデス:金子美香
合唱:新国立劇場合唱団、TOKYO FM少年合唱団
管弦楽:東京交響楽団

第4幕幕切れで、ドン・ホセがナイフを出してカルメンを刺そうとする、しかしホセはなぜか刺せない。カルメンはその場を去りエスカミーリョを追う。しかしホセはそのカルメンを追って振り向かせ、腹を刺す。カルメンはホセを見て信じられないと云う顔をする。さて、カルメンはホセが自分のことを刺せないと思っていたのだろうか?歌詞を見ると、カルメンは愛よりも死よりも自由を優先する女だ。ホセとこの場面で会ったときにホセの形相を見てその瞬間に死を覚悟したのかもしれない。光秀の謀反に直面した信長の様に!ただし、信長は直前まで光秀の謀反など思ってもみなかった。カルメンもそうだったのではないか?自分を愛するホセは自分を刺せるはずがないと、高をくくっていたのに違いない。あのカルメンの驚愕の顔はそういう演出に違いないのだ。今日の鵜山の演出を見てそんなことを考えてしまった。
 この公演は2010年、2014年(いずれもブログ参照)に続いて3度目だ。しかし鵜山の最後の場面の演出についてこのように思ったのは今回が初めて。きっとその他の場面でもきめ細かい演技をつけていたのかもしれないが、あまり印象に残らない。それはこのオペラの音楽が相当濃いからだろう。ちょっとやそっとの演出ではなかなか歯が立たないのだろう。決して鵜山の演出が凡演と云っているのではないのだ。むしろト書きを尊重しながらすべてのアクションに合理性をもたせているところはとても素晴らしいと思う。この濃い音楽に対抗しようと思ったらいつだったか、東京芸術劇場オペラで舞台をなんとフィリピンに移した、読み替え演出ぐらいえぐくやらないと無理だろう。そうなると舞台はハチャメチャになること必至である。そういう意味でも今日の演出は納得できるものである。

 アベルの指揮はそういう濃い音楽を少し軽めに演奏している。全体に速いテンポがそれを助長しているかもしれない。スペイン情緒といったものも強調はしない。しかし緩急はところどころ付けてアクセントは忘れないのだ。序曲や4幕の前奏から闘牛場の前~闘牛士の行進までの一連の音楽のテンポ設定を聴いているととても細かくやっているのが良くわかる。しかし全体の流れは軽快で速いのである。とても面白かった。演奏時間は153分。

 歌手たちは皆とても素晴らしい。今年は藤原もカルメンをやるが今日の公演に対抗するのは大変だろう。
 カルメンのマクシモワは先シーズンの「ウェルテル」のシャルロットがとてもよかった記憶がある。今日のカルメンも決して蓮っ葉な女として演じていない。そのきりりとした声はむしろ知性すら感じられるカルメン像を作り出している。決してエロスの女王ではないのだ。2幕の5重唱や幕切れの歌唱にあるように「自由」を自分の生きる基準にした女性なのである。ただカルメンは不幸にも絶世の美女だった。それを感じさせる歌唱は1幕のハバネラである。彼女は軽くステップを踏みながらホセの周りを歌いながら踊る。これを見て/聴いて心がうごかない男はいまい。セギディリャも素晴らしい歌唱だ。
 ホセのジョルダーノも素晴らしい。1幕のミカエラとの2重唱や2幕の花の歌などはもう少し緻密さが欲しいと思ったがこれはこれで素晴らしい。しかし真骨頂は3幕の幕切れと4幕の幕切れだろう。これはおそらく鵜山の演出効果も大きく貢献しているだろうが、普通の男性なら一度や二度はこう云う思いをしたことはあるのではなかろうか?それをジョルダーノが代弁して歌っている。感動的な歌唱だ。
 エスカミーリョは伊達男を好演。邦人歌手たちも皆良かった。特に盗賊の4人組のアンサンブルが素晴らしい。ミカエラの砂川は1幕は今一つ声が伸びきらず不満が残ったが、3幕のアリアは実に素晴らしく、心を打つ。妻屋のスニガも演技は相変わらずだが、歌は安定している。しかし星野のモラレスはわざとこう云う乱暴な歌い方をしているのかと思わせる歌唱で、聴いているのが少々つらかった。彼の後に妻屋のスニガが登場するが妻屋の声の美しさに驚いたくらいだ。
 久しぶりにカルメンを聴いて/見て、いろいろ考えて楽しかったが、疲れた。そういういろいろな思いをもたらす素晴らしい公演だったように思った。

 
 
 

2017年1月14日
於:サントリーホール(1階11列右ブロック)

東京交響楽団・第648回定期演奏会
指揮:秋山和慶
ピアノ:小菅 優

メシアン:交響的瞑想「忘れられた捧げもの」
矢代秋雄:ピアノ協奏曲

フローラン・シュミット:バレエ音楽「サロメの悲劇」

矢代の曲は2度聴いているが、その他の2曲は初めて聴くもの。いずれも現代音楽だ。昨夜のN響は同じ現代でもスペインの音楽で、今夜とは随分印象が違うものだ。同じ現代音楽でも、もうクラシックの定番として親しまれている曲と、今夜の様にそうでもない曲との違いはどこからきているのだろう。そんなことを考えながら今夜の音楽を聴いていた。

 矢代の曲は2014年、2016年と聴いてきたから今回で三度目になるが、結局覚えていたのは、1楽章の冒頭のピアノで奏せられるドビュッシー風の主題だけだった。これは3楽章でも循環して聴けるので覚えているのかもしれない。あとはさっぱりだ。まあちょこっと音楽を聴いただけで反応しなくなったのは老いが進んだということか、悲しいことだ。昔は初めて聴いた曲でも良い部分は覚えていて又聴いてみようと、CDを買って聴いてその曲を自家薬籠中のものにしたものだが、どうも年をとるとそういう気力も起きないらしい。あいかわらず昔馴染みのベートーヴェンやモーツァルト、ブルックナーやマーラー、ヴェルディやらワーグナーを聴いている進歩の無さだ。今日のこの演奏も正直ちょっと苦行に近い。3楽章などはピアノが壊れないかと心配するくらいの演奏で、この曲はこんな曲だったのかと改めて感じた次第。もう3回もいろいろな定期公演で聴いているということは日本の現代曲では名曲なのだろう、きっと。
 アンコールは矢代の小品を一曲。

 メシアンもあまり聴かない作曲家だ。この曲も初めて聴く。ただ3つの部分のうち両端の部分は親しみやすい美しい曲で良いと思った。今年は読響でカンブルランはメシアンの曲を連発するが、現代音楽が好きな?彼の本性がでてきたということか?ということで、関係ない話だが、来シーズンは読響定期は聴かないことにした。東響のジョナサン・ノットも現代音楽好きだが、そうはならないことを祈る。少なくとも来シーズンはそうではなかったのでほっとしている。

 シュミットのサロメは後期ロマン派のようなうねるような音楽が魅力だが、ほとんどが大音量の音の奔流と云う印象で、正直耳がつかれた。それしか覚えていないというのもちょっと申し訳ないが、初めて聴くということはそういうことなのだろう。クラシック音楽は、要するに勉強をさぼるとおいしさも味わえないということだ。

 各楽団の定期公演は年に10回程度あるがそのうち必ず1回は現代音楽のシリーズがある。これは実に迷惑な話で、こういう現代音楽を聴きたい人のためには特別なコンサートを設けたらよいと思うのだが、そういうことはなかなかしない。そうすると客が集まらないからだろう。そうなると、定期で演奏する意味は、現代音楽が苦手でも来る、私の様な音楽好きへの啓蒙のためということなのだろうか?余計なお世話である。今夜もいつもは満席の東響のコンサートだが相当空席が目立った。要するに1回券を買ってまで来る人は少ないということだろう。

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