ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2016年12月

2016年12月26日

今年を振り返って、音楽、映画そして本の印象に残った作品をあげてみた。

「音楽編」クラシック今年のベスト演奏

1.ウィーン国立歌劇場来日公演
ナクソス島のアリアドネ、ワルキューレ、そしてフィガロの結婚の3作品を鑑賞
したが、どれも素晴らしかった。特にオペラでの管弦楽の重要性をこれらの作品で知ることができたのは最大の収穫。3作品では演出の面白さからアリアドネが一番印象に残った。フィガロはやはりポネルの演出がインパクトが大きい。読み替え全盛の中でこの演出が今まで生き残ったのは忘れてはならない。ワルキューレは新国立のほうが面白く、あまり印象に残らなかった。

2.ヤナーチェック:「イエヌーファ」(3/18)
新国立劇場の公演である。今年も名演奏を楽しんだが、イエヌーファが忘れられない公演の筆頭だ。演出、歌手すべてにわたってゆきとどいた舞台だった。その他ではワルキューレ(10/8)とウエルテル(4/9)が印象に残った。

3.ジョナサンノット/東京交響楽団のいくつかの公演
まずファウストと共演したベートーベンのヴァイオリン協奏曲(10/16)、私が聴いたライブ演奏では最高の演奏だろう。ついでシューマンの交響曲第二番(12/3)、そしてブラームスのドイツレクイエムが素晴らしい。いずれもノットの個性あふれる演奏が印象に残る。オペラでは演奏会形式のコジファントゥッテも素晴らしかった。東響ではその他シモーネ・ヤングとのブラームス交響曲第四番とナクソス島のアリアドネ(二期会)が忘れられない。

4.クリスティアン・ティーレマン/シュターツカペレドレスデン来日公演
アルプス交響曲(11/22)を聴いたが、ドイツの歴史と伝統を感じさせる音の響きが忘れられない。その直前にサンフランシスコ交響楽団を聴いただけにこのドレスデンの音がより鮮明になった。ティーレマンは一時私には停滞を感じさせが、この演奏でやはり現代を代表する指揮者の一人だと改めて印象付けられた。

5.ズービン・メータ/ウィーンフィル来日公演
シューベルトの交響曲八番が素晴らしい響きで魅了された。ブルックナーも聴いたが、シューベルトの方がウィーンフィルの力を感じさせる演奏だった。

6.バレンボイム/シュターツカペレベルリンのブルックナー
五番、七番、八番、九番を聴いたが、基本的には1970-80年代にシカゴと録音した演奏とあまり変わっていないのに、音楽がすみからすみまでスケールアップしているのには驚かされた。

7.スクロヴァチェフスキー/読響のブルックナー八番(1/23)
またブルックナーだがマエストロの音楽が停滞していないのが凄い。何年か前に録音された演奏と比べても更にスケールアップしているのは驚くべきことだ。

8.二期会による「トリスタントイゾルデ」(9/19)
演出と音楽が一体となった幻想的な舞台。特に第二幕は忘れられない。

9.ヤコブ・フルシャ/都響によるマーラーの交響曲第一番(12/14)
交響詩の様な物語を感じさせるフレッシュなマーラーである。都響の充実した響きは流石である。

10.パーヴォ・ヤルヴィ/N響のマーラーの八番(9/8)
NHKホールという劣悪な音響の場で、あれだけの素晴らしい音を出すというのはやはりヤルヴィの力だろう。サントリーでの三番よりもこの演奏のほうが好きだ。

次点
その他セガン/フィラデルフィアのブルックナー四番、カンブルラン/読響のマーラー五番、プレトニョフ/東フィルのペールギュント全曲、新国立劇場のバレエからロミオとジュリエット、ラトル/ベルリンフィルのベートーベン(一番、三番)が記憶に残る。
 その他映像で見たものではメトロポリタンのライブビューイングでのオポライスのマダムバタフライとマノン・レスコーの歌と演技、今年のバイロイトのパルジファルの公演が忘れられない。
 以上あげつらったが、今年のクラシック音楽界の水準の高さを改めて強く感じた。しかし結局印象に残った演奏のほとんどが独墺系というのは自分の進歩のなさを感じる。


「映画編」
自分の好きなジャンルでは今年はそれほどめぼしいものはなかった。ちょっとさびしい
一応列挙する
オデッセイ、ブリッジオブスパイ、アメリカン・ドリーマー、ナイト・クローラー
チャイルド44、サンドラの週末、独裁者と小さな孫、日本の一番長い日
マネー・ショート、スポット・ライト、レヴェナント

「読書編」
映画に反して、小説・ノンフィクションとも今年は選り取り見取りの素晴らしさ。
以下列挙する
ゲルマニア:ハラルト・ギルバート著
ロンドン狂らん:中路啓太
典獄と934人のメロス:坂本敏夫
与楽の飯:澤田瞳子
1493:チャールス・マン
たまたまザイール、またコンゴ:藤田真知
家康、江戸を建てる:門井慶喜
サピエンス全史:ユヴァル・ノア・ハラリ
でっちあげ:福田ますみ
残り物:朝井まかて
ドナ・ビボラの爪:宮本昌孝
料理通異聞:松井今朝子
とりわけノンフィクションの1493と小説の料理通異聞は私の今年のベスト本である。

なお、以上音楽、映画、読書で取り上げた作品の寸評はブログで確認できます。

2016年12月21日
於:サントリーホール(1階20列中央ブロック)

読売日本交響楽団・名曲シリーズ
 指揮:マルクス・シュテンツ
 ソプラノ:アガ・ミコライ
 メゾ・ソプラノ:清水華澄
 テノール:デイヴィッド・バット・フィリップ
 バス:妻屋秀和

ベートーベン:交響曲第九番・合唱付き

年末恒例の第九である。各在京オーケストラが競って取り上げる。読響は今夜の名曲シリーズを含めて7回の公演だ。
 ドイツの指揮者、マルクス・シュテンツによるさぞや重厚なベートーベンかと思いきや、随分と肩を空かされた演奏だった。ただ本質的にこう云うスタイルが好きなだけに決して嫌な演奏ではなく、こちらが予想した演奏と違ったと云うだけのことだ。

 全体に緩急・強弱の振幅が大きな演奏である。特に強弱はかなりきめの細かい指示でレンジが広い音楽、それによる効果は随分彫りの深いベートーベン。目鼻くっきりのきりりとした演奏である。あえていえば私流の分類でいうとシャイーのようなモダンオーケストラを使った原典主義的な演奏である。カラヤン、ティーレマンの様な伝統的なスタイルとは一線を画したもの。ヴァイオリンはヴィヴラートを少なくしたすっきりしたもので、きりりとしたと同時に、清新な印象を強く受けた。それとティンパニが実に雄弁だ。バロックティンパニの様に乾いた、ぱんぱん云わせる音で、ところどころデンデン太鼓を思わせる軽さ。ヴァイオリンやティンパニの音を聴くと、古楽スタイルからの影響も強く受けているように思った。

 1楽章の切り立った崖から逆落としの様な第1主題がそういう演奏スタイルにぴったりで、実に彫りが深い。しかしそういうパターンだけではなく2主題のしなやかな演奏を聴くとやはりこの人はドイツの音楽家で一筋縄ではいかないと思った。要するにワンパターンではないのだ。
 2楽章のモルトヴィヴァーチェは原典主義らしく、実にゆったりとしたもの。ティンパニが大活躍だ。ここでも中間のトリオのしなやかさを忘れてはいけない。1楽章と2楽章はほぼ同じ演奏時間である。ここらが伝統主義とは違うところ。
 3楽章は今日の演奏スタイルが生きた、実に清新なもの。これも原典主義者らしく実に速い演奏だ。しかしもうこういうスタイルに慣れているので全く驚かない。初めてノリントン/ロンドンクラシカルプレイヤーズの演奏のCDを聴いた時にはのけぞるくらい驚いた。それまではカラヤンかフルトヴェングラーしか聴かなかったからその落差は大きい。その後ライブでもブリュッヘン/新日本フィルなどの演奏を聴いてきたので、もう免疫ができた。
 4楽章は実に指揮者の細かい指示が煩わしいほど出される。特に強弱の振幅が大きい。例えばテノールがマーチを歌う、その後合唱、そしてオーケストラだけの部分が続くが、このオーケストラの部分を取り上げてみても、強奏から急に体を縮めて音量を下げる音量変化の場面の多いこと。ちょっとこの楽章はやり過ぎの感あり。終結部分もそうで、最後のソロの4重唱はものすごくギアを落とすが、コーダへの道でまた上げる、そしてプレスティッシモの前でまたギアチェンジ、そしてプレシティッシモと云った具合で音量だけでなく、テンポの変動も激しい。
 歌手たちおよび合唱はテノールのソロを除いて、新国立劇場の常連メンバーであるので実に呼吸の合った演奏を聴かせてくれた。感心したのは合唱である。大体第九の公演になると舞台にあふれるほど合唱団を並べるが、今日の公演は人数を絞っている。その効果は今日の演奏スタイルに実にフィットしたもの。決して合唱が肥大化して、オーケストラの細かい動きを阻害するなどと云うことがない。合唱、オーケストラ、ソロの音バランスが実に良いのである。これだけでも今夜の演奏の価値は大きい。
 こういう原典主義的な演奏を聴くとたまには、70分近い伝統的な演奏も聴いてみたいなと思うが最近はなかなか聴けないようだ。ブロムシュテットがN響を振るが彼も最近のベートーベンでは原典主義的なスタイルになってきているので(例えばバンベルクとの演奏での運命など)、今夜の演奏のようになるのだろうか?批評家はブロシュテットの進化と云っていたが、果たしてこれが進化なのかは分からない。残念ながらブロシュテットの公演は聴く予定はありませんが!
 なお。今夜の演奏時間は65分。

 

2016年12月16日
於:NHKホール(18列中央ブロック)

NHK交響楽団・第1852回定期公演
指揮:シャルル・デュトワ
ヴァイオリン:ヴァデム・レーピン

ブリテン:歌劇「ピーター・グライムス」から4つの海の間奏曲
プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第一番
ラヴェル・チガーヌ

オネゲル:交響曲第二番
ラヴェル:バレエ音楽「ラ・ヴァルス」

デュトワで忘れられない公演は、2010年4月にフィラデルフィアと来日した時のストラヴィンスキーの「火の鳥全曲」を聴いた時だ。あの極彩色のサウンドは今もって忘れられないし、その後この曲を聴くたびにその違いにがっかりさせられるのである。しかし今夜のN響とのコンビではどうも印象が薄い。今夜のプログラムも的が絞りにくいがデュトワの得意の音楽を集めたのだろうか?しかし今夜久しぶりに聴いて少しわかった様な気がした。

 まずブリテン、夜明けの音楽は静けさの透明感が素晴らしいが、しかしこの音は先日フルシャ/都響のあのすこぶる凝集力のあるサウンドとは随分違って、のっけから少々面食らってしまう。決して嫌な音楽を聴かされている訳ではない。すべての楽器があまりにも明快に、存在しているというのが明らかになってしまって、それはあたかも解像度のものすごく高いハイエンドのオーディオ装置で音楽を聴いているような、そういう気分になってしまう。さらに例えば3曲目の月光なども、弦や木管の音がキラキラと美しいのだが、それぞれがまじりあわないで、明快なままで会場の中を飛び回る、そういう音楽に聴こえるのである。あの絵画的に美しい、幻想的にすら感じさせる音楽が、そうは鳴らないというのはブリテンのこのオペラの音楽について云えばちょっと困るのである。これはオーケストラのせいか、ホールのせいか、はたまたデュトワのせいかはわからない。ただこのコンビでは大体こういうように音楽が鳴ってしまうところにいまひとつデュトワの食い足りないところがあるのではないかと感じた次第。

 プロコフィエフは初めてこの曲を聴いた時なんと美しい1楽章だろうと思ったが、今夜はその感銘は薄いのはどういうことだろう。レーピンの技巧的な部分ばかりが耳についてしまった。だから2楽章は呆気にとられるくらい凄い。
 アンコールの様な、そうでもないような、チガーヌもジプシー音楽風のムードのない音楽に聴こえるが、これはこれで良いのだろう。

 後半のオネゲルは弦楽+トランペット(菊本和昭)という凄い構成のもの。と云うのは弦はコントラバス8丁という、まるでマーラー並の重装備なのである。しかしそれであるにもかかわらず音楽はうねる様には聴こえずに素晴らしく透明な音楽の様に聴こえるのはN響とデュトワのなせる技だろう。弦の各パートが目で見るように聴こえるというのは奇妙な表現だが、そうなのである。これはなかなかこのようにははいかない演奏だろうと思った。この曲は初めて聴くが、最初の2楽章は暗く陰鬱でもう聴くのがだんだん面倒くさくなるが、3楽章になって、トランペットが加わるとやっと音楽が明るくなってほっとする。そう思ったとたんに終わってしまう変な曲だった。

 最後もアンコールのようなそうでもないようなラ・ヴァルス。これも複雑な音楽の割にはすこぶる透明に音楽が鳴り響く。解像度のものすごい高い演奏だ。各楽器がこれほど鮮明に鳴り切るラ・ヴァルスは滅多に聴けないだろう。私の好みで云えば今少しごちゃごちゃと音がまじりあった、混沌から、音楽が最後に立ち上がるという、生成の喜びの様なものを感じたかった。しかしこの演奏はこれで一つの形であり満足のゆくものだ。

2016年12月14日
於:サントリーホール(1階17列中央ブロック)

東京都交響楽団・第821回定期演奏会Bシリーズ
指揮:ヤコブ・フルシャ
ヴァイオリン:ヨゼフ・シュパチェク

ドヴォルザーク:ヴァイオリン協奏曲

マーラー:交響曲第一番・巨人

今年になって外来のオーケストラを含めてマーラーの交響曲は全部で11回(今夜を含めて)聴いている。(そのうち一番は3回)そのなかでも今夜の演奏は出色の出来栄え。フルシャは首席客演指揮者だが今回は2年ぶりの登壇だそうだ。デビューしたころからボヘミアの曲ばかりやらされたので嫌になったのかもしれない(冗談です)。今夜はドヴォルザークはあるがマーラーと云う骨のある曲、期待の公演だった。もっともマーラーはボヘミアとは縁のある音楽家ではあるが、まあそれはそれとして、このマーラーの演奏はある意味では個性的で、フルシャの思いが伝わるような演奏だったように感じた。

 全体の印象は神経質なところは皆無のおおらかなところが良い。急加減速はわずかに4楽章で感じるがこれも感情の流れによるものと理解すれば、全体の流れは実にスムースでこの音楽はこうあるべしと云うフルシャの棒にに納得させられてしまうのだ。その上に、この曲全体の起承転結が明快であることをあげたい。もっといえばまるで若者讃歌を物語にしたような構成にも感じたのである。
 1,2楽章は明朗さと若々しさの極み。全てが自然の流れの中でこの二つを感じさせる。ここには神経に触る音楽はなく、幸せの満ち溢れた音楽。例えば冒頭のクラリネットのカッコーの響きがなんと自然で、幸せ感が溢れているのだろう。第一主題のおずおずした進み具合の若者らしさ。そして再現部以降の爆発。2楽章も1楽章の延長でスケルツオ風の音楽はまるで若者たちの踊りだ。そしてまたクライマックスの爆発。とにかくこの最初の2楽章の爽快さは何とも言えないくらい素晴らしい。

 しかし、3楽章で少し流れが変わるところがフルシャの一筋縄ではいかないところではないだろうか?コントラバスのマルティン君の主題、この紗がかかった様なほのぐらい響き、これがこの楽章全体を支配する。ここには1~2楽章の若々しさ、爽快さは失われている。その代わりレントラー舞曲からさすらう若人からの1節の部分では、冒頭のコントラバスのムードに合わせて、音楽はため息の様に響き、そこには懐かしさとせつなさが混ざった様な甘酸っぱい気持ち。ここにはもう脳天気な明朗さはない。
 幻想的な雰囲気はないにしても独特の世界を作る見事な3楽章だった。

 更に驚かされるのは4楽章。最初の主題の暴力的な提示。最初の2つの楽章からは想像もできないような響きだ。フルシャも指揮台で飛び上がり荒れ狂う。これは苦悩に引き裂かれた若者の気持ちだろうか?しかしそれゆえ2つ目の主題の慰めが一層素晴らしく聴こえ効果的。この対比がこの曲を支配するが、しかし1楽章の第1主題が帰って来る頃から、全体の響き冒頭の2つの楽章の基調に戻る。そして最後は豪快に若者讃歌を歌い上げるクライマックス。まあとにかくこれは素晴らしいマーラーの一番だった。この演奏を聴いていると先日のティルソン・トーマス/サンフランシスコの演奏がじじむさく、まるで出汁のきかないお吸い物のように思える。
 都響の演奏は十全とは思えないが(金管の一部)、しかしこの響きの厚さや全強奏での力強さはやはり在京のオーケストラでは一二を争う水準と云ってよいだろう。ドレスデンのような燻された輝かさは取っ払われたような弦だが、しかしそれはサンフランシスコの様な少々真水の様な素っ気ない音ではない。今夜の都響の最も良かったのは、音は野放図に拡散されないで、ぐっと内側に凝縮して聴こえることだろう。これは独墺系の音楽を聴くうえでは実に効果的であり、今夜のマーラーとの相性は抜群だったと云えるだろう。演奏時間は57分弱

 最初のドヴォルザークは最も苦手な曲の一つであり多くを語れない。民族的な音楽は魅力的、特に2楽章の美しさや3楽章の舞曲風の音楽など魅力たっぷりであるが、どうも駄目である。音楽に集中できず睡魔が襲ってきてしまった。ヴァイオリニストには申し訳ないことをした。アンコールはイザイの無伴奏ヴァイオリンソナタ第2番から第4楽章。

2016年12月13日

「料理通異聞」松井今朝子、幻冬舎
今年のベストワンともいえる小説だ(私の)。
 江戸随一の料理茶屋、八百善を一代で築き上げた4代目栗本善四郎の伝記小説である。4つのエピソードにそれぞれ時代の経過を感じつつ、そのエピソードを語る形式だ。
小説は主人公の16歳1782年から、亡くなる1839年までが描かれる。この小説の面白さはいくつかある。
 まず善四郎という人物が実に面白い。もともとは法事などの精進料理を作る福田屋と云う店に生まれた(出自については読んでのお楽しみ)が、持ち前の負けず嫌い、おせっかい、旺盛な好奇心で料理茶屋の道を歩むのである。料理の達人ではあるが、それ以上に文人や各界の名士との交流が彼を大きくしてゆく。要するに半世紀の彼の成長の物語でもあるところがまず読ませる。
 さらに面白いのはこう云った文人もさることながら、それ以外の彼を取り巻く人物の描写が皆生き生きしている。幼馴染の繁蔵やみなしごのお徳(善四郎の父親が拾って育てる)、その夫の万次郎、それから善四郎の妻のお栄、身受けした芸者の冨吉、旗本の姫,千満などである。そして江戸の町の描写、商人、町人の描写も興味深い。
 最後にやはり一つ一つの料理のレシピや出来栄えが錦上花を添えるのである。

「地上の星」村木 嵐、文芸春秋
焦点の絞りにくい時代小説である。
 時は16世紀戦国時代の末期、ザビエルが日本に上陸した頃からは話は始まる。天草島の娘おせんは人買いに売られるが、アルメイダという南蛮人と兜布という日葡辞典を作っている男に救われる。そしてこのおせんが70歳過ぎて、島原の乱を迎える直前までの物語である。話はこのおせんと辞典編纂の物語かと思いきや、イエズス会の宣教師の話、天草の島を支配する五人の領主の話、その中の天草家の姫の話などがからまってきてどれが本線か私にはとてもつかみにくい作品だった。ただキリシタンの布教活動や、キリシタン同志の確執、天草がキリシタン王国になった背景なども描かれておりそれは面白かった。

「傷だらけのカミーユ」ピエール・ルメートル、文春文庫
ルメートルのカミーユ・ルヴェーベン警部シリーズの3作目である。「その女アレックス」、「悲しみのイレーヌ」に引き続きそのストーリーの卓抜さに驚かされる作品だ。
 本作はわずか3日間の捜査を描いている。宝石商強盗を目撃した、カミーユの恋人アンヌは瀕死の重傷を負う。カミーユは亡き妻エレーヌをやっと忘れかけた時に、出会ったアンヌの惨状にショックを受けるが、アンヌを守るために、アンヌとの関係を隠して、捜査を秘密裏に行う。やがて驚くべき事実が明るみ出てくる。これ以上書けないが、驚愕のストーリーであることは間違いない。文春海外ミステリー2016ナンバーワンの作品である。ルメートルの3部作では「その女アレックス」がやはり忘れられない。

「猫に知られることなかれ」深町秋声、ハルキ文庫
1947年、終戦後の混沌とした東京を舞台にした謀略小説。
 主人公は永倉、元香港の憲兵、藤江、陸軍中野学校出の元スパイの二人である。永倉は香港から戻り戦犯の疑いをかけられるかどうか不安な毎日を送り、自暴自棄になってヤクザの用心棒をやっている。その永倉をCATと云う組織にスカウトしたのが永江である。CATとは緒方竹虎がリーダーの組織で、GHQの支援を受け対共産、対旧勢力(軍人)などの扇動を食い止め、戦後の復興・独立への道をスムースにする役割をもっている。4つのストーリーからなりいずれもこの2人が絡む。それにロシアの支援を受けた元軍人や、GHQの民政局の支援を受けた一派、旧軍人のテロリストなどがからみそれらとの壮絶な戦いが繰り広げられる。戦後の混沌を少々あざとい描写ながら生き生きと描いているところが本書の魅力だろう。アクションが劇画風なのが少々興を削ぐ。

「逆転の大中国史」楊海英 文芸春秋
中国の中華思想に真っ向から立ち向かった力作である。
 中国4000年の歴史のうち、漢民族が中国(著者はシナとよぶ)を支配したのは、漢、宋、そして明であわせて1000年にも満たないという。例えば隋や唐は、鮮卑系の民族だし、元はモンゴル、そして清は女真族(満州)であり、その他浸食した民族はあまたありという。
 要するに中国の歴史の大半はユーラシア大陸の中部の遊牧民が支配していたというのである。さらにはこの遊牧民は独自に石器時代や青銅器時代などの文明を中国と並行してもっていたというのである。彼ら遊牧民は中国より劣等で中国に従属していたという話は中国による歴史のねつ造だと云う。
 多くの参考文献や写真はそれを裏付けている。
 ただ写真や地図が少々小さくて見にくいのが難点である。それと写真が著者の生まれのオルドス周辺のものが多いというのは少々視野が狭いように感じるし、資料の引用が日本人の論文が多いというのもちょっと気になるところである。
 それにしてもユーラシア大陸中部、西域の遊牧民族に焦点を当て、丁寧に描いた内容は興味深いものがあった。

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