ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2016年11月

2016年11月20日
於:新国立劇場(1階7列中央ブロック)

新国立劇場公演
 プッチーニ「ラ・ボエーム」

指揮:パオロ・アリヴァベーニ
演出:粟國 淳

ミミ:アウレリア・フローリアン
ロドルフォ:ジャンルーカ・テッラノーヴァ
マルチェッロ:ファビオ・マリア・カピタヌッチ
ムゼッタ:石橋栄実
ショナール:森口賢二
コリーネ:松位 浩
ベノア:鹿野由之
アルチンドロ:晴 雅彦
パルピニョール:寺田宗永
新国立劇場合唱団、TOKYO FM少年合唱団
東京フィルハーモニー管弦楽団

粟國ボエームはもうこれで五回目だそうで、私はそのうち4回ほど見ているので演出については書くことはほとんどない。昨今の読み替えの多い煩わしい演出が多い中これは実にまっとうな演出であり、舞台装置であり、衣裳である。各幕はほとんどト書きに近いが、中でも美しい場面は3幕のロドルフォとミミの別れの場面である。うっすらと雪の積もったアンフェール門、二人の別れの歌の間ちらちらと雪が降る。実に繊細な舞台である。また2幕の群衆シーンも忘れられない舞台である。正面は広場になっており、右手がカフェモミュス、そのテラスにロドルフォの一行が座る、その横にムゼッタとアルチンドロ、そしてそれを取り囲む群衆。舞台も所作も全て音楽と軌を一にしているわかりやすさが何とも安心してオペラを楽しましてくれるのだ。
 このところ「ナクソス島のアリアドネ」、「ワルキューレ」、「トリスタンとイゾルデ」などの重めのオペラばかり聴いてきたせいか、プッチーニの音楽が実にほっとするような素晴らしい音楽に聴こえるのだ。イタリア人の描く愛と独墺系の作曲家が描く愛とは音楽に直すと随分と違うのだということを改めて感じる。これはワーグナーの音楽のほうが高級だとかそういうことではなく(そういう方は案外多い)、全く質が違うということなのであると私は思う。
 今日、久しぶりにこの曲を聴いて、大いに涙腺が緩んだわけだけれども、これはホントに素晴らしい音楽だと改めて感じた次第。1幕の2重唱にしても、2幕のあれは何重唱と云うのだろう、ロドルフォ達とムゼッタの思いがいり混ざった重唱に込められたそれぞれの思いのきめ細かさ、3幕のミミとロドルフォの別れの場面の痛切さ、そして最終幕のミミの死の場面の劇的な効果。このワーグナーのワルキューレの2幕とほぼ同じ演奏時間という短いオペラに実に多くのことや感情が詰まっているということを改めて教えられた。

 指揮のアリヴァベーニは初めての指揮者だが、そういうツボを実に心得た指揮ぶり。演奏はきびきびしているようで、聞かせどころでは思い切って泣かせるように音楽を歌わせるそういう技術をもった指揮者だと思った。演奏時間は108分(拍手込み)
 歌い手ではまずミミが素晴らしい。彼女はルーマニアの出身だそうだ。少々ほの暗い、深みのある声は、最初聴いた時は、ちょっと違うのではと思ったが、彼女の病や境遇を考えれば実に相応しい声で、3幕や4幕の彼女の歌唱は涙なしには聴けない、そういう聴き手の感情に訴える歌唱だった。イレアナ・コトルバスやアンゲラ・ゲオルギューらルーマニア出身の名ソプラノの系譜だろう。
 ロドルフォは輝かしい声で直情径行的なロドルフォの性格を歌いきった。ただ1幕の聴きどころの「LA DOLCE SPERANZA」への道が少々連続性に欠けたような気がした。ここはもう少しのスムーズさが欲しい。全体にそう云う声の唐突感がもったいない。
 その他、脇役はまずまず。邦人のコリーネやショナールはしっかりと脇を固めた。
不満だったのはマルチェッロ、声はちょっと重すぎるのではなかろうか?私にはもう少しの軽妙さ(演技ではなく声の)が欲しいのだ。ムゼッタはしたたかな女と云う面ではなるほどなあと思う歌唱だったが、コケットリーと云う面では物足りない。特に2幕のムゼッタのワルツ。もっとむんむんする女っ気が欲しい。2幕の合唱はとても充実していたように思った。

2016年11月20日

「マイケルムーアの世界戦略」
マイケルムーアがアメリカに足りないものを求めてヨーロッパを旅する。イタリアでは休暇の取得について、フィンランドでは教育の在り方、スロヴェニアでは教育費について、ドイツでは労働について、ポルトガルではドラッグについて、チュニジアでは女性の人権、などの切り口でアメリカとの違い(アメリカが劣る)を取材して驚く、ムーア監督。しかし最後にヨーロッパですぐれたことは、元をたどればアメリカだったんじゃないかという発見をするというオチで終わるところが楽観的。しかしヨーロッパだけから求めるというのは狭い了見で、もう少しグローバルな視野が欲しい。

「フィフスウエイブ」
小説の映画化。しかし作りはB級の域を出ない。地球を周回する「アザース」というエイリアンは謎の物体から電磁パルス、大地震、パンデミックという3つのウエイブで地球をせん滅しようとする。しかし生き残った若者、子供たちが徴兵されアザースを攻撃する舞台を編成する。しかしこの部隊の編成にはいろいろな疑念があった。そして次のウエイブは何か?
 ちょっと風変わりなエイリアンパニックものだが、役者や全体の作りがちゃちくて物足りない。もう少し恐ろしい映画にできたはずだ。

「インデペンデンスデイ・リサージェンス」リアム・ヘムスワース主演
パート2の難しさを改めて感じた作品だ。
 1996年の「インデペンデンスデイ」は国威発揚的ではあるもののストーリーとしては面白くできた作品だったが、この20年後の本作品はまさに二番煎じで新鮮さを見つけるのが難しい。中国人の女やリーダーを入れても、安易な発想としか見えない。さらに主人公たちの人物像はステレオタイプというのがもっとも困るところ。そして今回はエイリアンの親玉が女性で、その親玉を倒せば勝つというなんとも他愛ないもの、要するにエイリアンの社会は蜂的な社会だというのだ。女王蜂を倒せということになる。まあ安易ですね。話はすぱすぱ進み見る者に考える時間を与えない卑怯な手口。見る時間が無駄になる作品。

「復活」ジョセフ・ファインズ主演
イエス・キリストは磔刑のあと、埋葬されるが3日後に復活する。処刑に立ち会ったローマの第10軍団、クラヴィウス軍団長はピラトから消えたイエスの死体を捜せと命じられる。クラヴィウスはその過程で、イエスの信徒たちやマグダラのマリアを尋問してゆくうちに次第に彼らの考えに共鳴してゆく。イエスは復活して信徒の前に現われ、そしてガリラ屋で消えてゆくまでを本作では描いている。福音書にほぼ忠実に作られたまじめな映画である。従ってドラマとしての面白みはキリストものとしては少ない。例えばベンハーの様なああ云う感動はもうはやらないのだろう。

「フォージャー・天才贋作作家、最後のミッション」ジョン・トラボルタ、クリストファー・プラマー主演
原題のforgerとは贋物作りのこと。
 贋作の罪で5年の刑を受けたレイモンド・カッター(トラボルタ)は息子が不治の病と云うことが分かり、刑を10カ月残して仮出所を図る。そのために麻薬組織のリーダーのキーガンに借りを作ってしまう。出所後レイモンドは息子との短い時間を過ごすが、やがてキーガンからモネの「パラソルをさす女」の贋作を作りボストン美術館の本物と入れ替えろと命じられる。
 もと詐欺師の父親、弟、それとボストン警察の女刑事(冴えない)もからまり、終わりはみえていたとしても最後まで面白く作られた佳作である。トラボルタ老いたり、プラマーは相変わらずうまいもんだ。

2016年11月17日
於:東劇

METライブビューイング2016-2017
 ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」(上演日10月8日)
 新演出

指揮:サイモン・ラトル
演出:マリウシュ・トレリンスキ

イゾルデ:ニーナ・ステンメ
トリスタン:スチュアート・スケルトン
ブランゲーネ:エカテリーナ・グヴァノヴァ
マルケ王:ルネ・パーペ
クルヴェナール:エフゲニー・ニキティン

ラトルがMETに登場し話題になった公演である。ラトルのオペラと云うのはCDでも全く聴いたことがない。エクサンス・プロヴァンス音楽祭でリングを振ったということは聞いたことはあるけれど、バイロイトやザルツブルグへ登場したか、も聞いたことがなかったので期待をもって聴いた。
 期待通り素晴らしい出来栄えだと思う。最も印象に残ったのは緩急・強弱のバランスがとても良いことだ。そして、それは歌い手の心理や行動に寄り添ったアプローチのため、音楽と舞台が一致しているように聴こえるのである。そしてそれは決して思い付きではないのである。演出によるものだろうが、この公演はこの作品を心理劇として描いているように思ったが、ラトルの指揮はそれと軌を一にしているのではなかったろうか?例えば1幕のイゾルデのモノローグ、モロルトがトリスタンに殺され、トリスタンは負傷してアイルランドに流されて、イゾルデに治療される物語だがこれは実にイゾルデの心理をえぐったような音楽だし、またトリスタンはそれを別のところで聴いており、音楽はトリスタンの心理も描写する。
 ただ、先に述べたように、この音楽進行はラトルの自然発生的、つまり感興のおもむくままではなく、彼の知的な音楽の組み立てから成り立っているのではないかと感じた。いずれにしろワーグナーの音楽の一面をあらわした音楽であることは間違えなかろう。演奏時間は228分。ベームより10分遅い。クライバーとほぼ同じである。

 歌い手も充実している。ステンメのイゾルデは先日のウィーン国立歌劇でのブリュンヒルデよりも役柄に合っているように感じた。彼女の素晴らしいのは声に全く癖がないことだ。ワーグナーソプラノはデボラ・ボイトにしろ先日の新国立のイレーネ・テオリンにしても、私がバイロイトで聴いたリンダ・ワトソンにしてもなにがしかの癖の様なものを感じるのだが、それがステンメの場合全く感じられない。全音域にわたっての安定感は素晴らしいとしか言いようがない。最後の愛の死をクライマックスにもってきた歌唱も納得できるものだ。
 スケルトンは初めて聴く歌い手だが、これも伸びやかな声が素晴らしい。3幕では若干の疲れを感じたが些細なことだろう。2幕の長大な2重唱は素晴らしいが、それよりも私は1幕のトリスタンがイゾルデの部屋(この演出ではトリスタンの部屋)に入り、媚薬を飲み、そこから幕切れまでの息もつかせぬ音楽の流れと歌唱が印象に残った。ライブでこれだけの完成度はなかなか味わえないだろう。
 パーペのマルケは安定感あふれるものだが、友人としての心情はあまり伝わってこないのは演出のせいだろうか。ブランゲーネはとても印象的だ。なんといっても聞きものは2幕の警告の歌だろう。実に素晴らしい歌唱だった。忠実な侍女を好演したと思う。クルヴェナールのニキティンは日本でもおなじみの歌い手である。クルヴェナールは初役とは思わなかったが、METの舞台で緊張したためだろうか1幕は少々不満。これは演出のせいかもしれないがクルヴェナールは忠臣というようには描かれていないせいか、存在感があまり感じられなかった。3幕では幾分私のクルヴェナール像に近づいたけれども基本的には同じ印象だった。

 演出は相変わらずの読み替えであるが、この演出で良いのは決して音楽を邪魔しないことだろう。走りながら歌うとか無茶なことはさせないということだ。
 前奏曲の間、舞台にはレーダーの様な、潜望鏡の様なものが映し出される。それゆえ設定は現代ということがわかる。幕が開くと舞台ははやりの分割方式。いずれも船の中である。まず中央はイゾルデの部屋、その上が艦橋で、トリスタンは船長の様だ軍服を着ている。船は軍艦のようだ。イゾルデの部屋の下はトリスタンの部屋。そしてこの3つの部屋をつなぐのが左手のらせん階段である。一番上段の分割部分にはいろいろな映像が映し出される。イゾルデのモノローグはトリスタンが艦橋で見ているのである。
 2幕はちょっと良くわからないが計器があるので艦橋が舞台の様だ。2場の途中から地下の船倉のような部屋に変わる。ブランゲーネの警告の歌は舞台裏だが、その間は舞台は太陽が活発な活動をしているような映像になる。
 2幕の幕切れはちょっとごちゃごちゃしている。トリスタンは剣ではなく拳銃をもってメロートに立ち向かう。厳密に言うとそうではなく、自死を試みようとするが、マルケの家臣らに取り押さえられてもみあううちに暴発してしまうというちょっと冴えない結末。
 3幕はトリスタンの病室。しかしトリスタンのモノローグは全て妄想である。子供のころを思わせる映像なども出てくる。またマルケ王の軍勢が攻め寄せて来るのも妄想。クルヴェナールは最後にお供しますとは云いつつも、あきれ果てたのか消えてしまう。
 この幕で面白いのはイゾルデの死である。ここではイゾルデはトリスタンの死体を前にして、カミソリで手首を切る。要するにト書きではなんだかわからないうちにイゾルデは死んでしまうが、この演出ではトリスタンと同様自死するのである。要するにこの物語は心中事件であり、2人以外の人物は現実感がない様に描かれている。まあ何度か見ればもっとわかるかもしれません。
 ただここでは奇妙な人物や動作があってそれが邪魔と云えば邪魔である。たとえば3幕の冒頭で子供がトリスタンにまとわりつく、これはトリスタンの子供のころか?とか、何度もトリスタンがライターに火をつけそれを指にかざす。アラビアのロレンスのピーターオトゥールのマッチのような小道具だが、意味不明、などである。まあ些細なことで本筋とは関係ない様に思う。


 

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2016年11月16日

白金台「リストランテ・センソ」
この店を知ったのは「週刊文春」のレストラン探訪記事である。もう数か月前である。常に気になっていて、その切りぬきはもう変色してしまった。そして今日待望のディナーである。仲間三人で予約。場所は南北線白金台1番出口から5分。細い路地を入った奥の小さなビルの地下である。入口から入ると正面は大きな厨房、オープンである。シェフを含めて4人、そして店長である。右手奥はバーカウンターになっている。左手はテーブル席になっていて6卓ほどであるので、どう詰め込んでも30人くらいの店だ。私たちが入店している間、結局2組のお客だけだった。しかしこれだけの料理をサーブするには一度にたくさんのお客は捌けないだろうというのが率直な印象だ。

 さて料理は基本は10品のコース、ただし2品(パスタとメインが2種類あるので1種類にする)削って8品にすることは可能。10品で12500円である。
 せっかくなので10品を頼みました。料理の良しあしは私は,泙困いしいこと器を含めて美しいことサプライズがあること、の3つであると思う。今日の10品はその全てを兼ね備えており、私の食人生70年でこれほどの素晴らしいものにお目にかかったのは5本の指の数ほどもないだろう。おいしいと同時に感動した。それは一つ一つの料理の素材の工夫、繊細な調理、大胆な味と盛り付けがひしひしと感じられることである。これだけ一品一品に気持ちを込めた料理はそうざらにはないと思う。

最初の1品は「お食事の前の軽いスナック4品」、説明を覚える間もなく口に入ってしまったがどれも凄く美味しい。スナックといえどなにかひと工夫されていて、それが口の中ではシンプルな味に凝縮する。
 2品目はメニューでは「定番」という表記である。2品あり写真の右手はロシア風のパンケーキ、そば粉でできているふわふわのパンでその上にサワークリームとキャビアがのっている。左手の器が凄い。トマトのエキス(写真で白いもの)底にはチーズパンナコッタが敷かれていてこれがめっぽううまいのだ。お代わりしたいくらいだ。
 3品目はメニューでは「色彩」と表示されたもの。野菜サラダである。しかしこのサラダ驚くことに、なんと19種類の素材に2種類のソースが絡まっているのだ。それは写真で見ると、小さな緑の塊であるが、まるで宇宙の様な雄大さを感じさせる。このサラダ、ちびちび食べないでそこからグイと混ぜて宇宙を飲みこむ気持ちで食べると一層うまい。

 パン類はちいさなフォカッチャがひとつと薄く伸ばした穀物を油で揚げたかっぱえびせんの海老抜きの様な触感のもの、チャルダというそうだが、添えられる。しかし料理が多いのであまり手がでない。(最後の写真)

 いよいよ魚料理である。
 4品目になるが、イワシ、寒ブリ、根菜、レモンである。写真ではイワシが見えないが根采の下に隠れている。素材の新鮮さを味わう料理だ。レモンソースが特にイワシに合う。根采も微妙な味付けを感じる。
 5品目は海老である。足赤海老と高海老でいずれも鹿児島、神戸の海老だそうである。ふっくらした海老が何ともうまいが、キノコや白トリュフと混ぜて食べると更に一層うまみが拡がる。
 次にパスタが2品である。
 6品目(パスタ1)は水牛乳製リコッタのラヴィオリをカボチャのスープで食べる、ホタテがいくつか浮いており一緒に食べるが、ラヴィオリの中のうまい具との見事な味の調和だ。写真の白くふわふわしているのはバターの泡である。
 7品目は「伝統」というメニュー表示のパスタ2で、今日は特別にタヤリンというパスタのバターソース白トリュフがけというなんともぜいたくなもの。トリュフは目の前で熱々のパスタの上にかけてくれる、それももったいないくらいたっぷり。(写真でもお皿にたっぷりかかったトリュフを見ることができる)パスタは35gだったが、100gたべてもうメインはいらないねと、皆で云いあったくらいうまい。ただしこの料理は追加料金が必要だ。

 いよいよ残りはメインの肉料理である。
 8品目鴨胸肉、柘榴、ビーツ、赤キャベツ。この皿の盛り付けの美しさ。ピンクと鴨肉との不思議な調和。鴨肉のしたに赤キャベツのゆでたのがあり、それを絡めてビーツをつけて食べる。鳥の肉と云う概念を超越したうまみが口に広がる。
 9品目は意表を突かれる料理だ。なんとすき焼き仕立てなのだ。牛肉のミスジの部分をスライスしてすき焼きだれの様なソースにからめてある。イタリアンとは別世界の様だ。

 デザートのまえに口直し
 口直しはヨーグルトである。写真で見ると小さなものだが、なんとメレンゲ、ジェラート、ムース、スープの4層に分かれているのである。少しづつ食べてもよし、私の様にグイと混ぜてぺろぺろと食べてもよし、ヨーグルトのいろいろな要素が混然となって口に広がる不思議さ。
 10品目は「秋の森」というデザートである。これも見た目は小さいがサプライズだ。写真で茶色く見えるのが、上記のチャルダで、それを森に見立てているのだ、そしてこのチャルダ(森)を一枚一枚食べてゆく(分け入ってゆく)とその下にはホワイトチョコのムースやらフレッシュいちじくやいちじくムース、栗など秋の食材がでてくるといった趣向なのだ。デザートも余裕があれば2~3こ食べたいくらいだ。

 最後は小さなお菓子3品。白く見えるのが消化に良い成分の入ったラムネ菓子である、あとはフィナンシェなど。やっと最後までたどりついたが正直10品は多いと思った。
だが、初めてなのでトライと云う意味では良かった。次回からは8品にしよう。10品だと時間もかかる。6時半に入店してから帰るまで3時間半もかかるので、この近所の方は良いが遠距離の人はちょっと辛い。6品くらいにしてもお腹は一杯になると思うので、10品から適宜削除してメニューを選んだほうが良いと思った。店長が丁寧に応対してくれるので伸縮自在である。
 なお、ワインだが料理に合わせてお任せという選び方にした。3杯でで3000円である。仲間たちは、白、赤、赤にしたが、赤がハーフボディにしては少し重すぎたようだ。私は下戸なので軽めの赤を一杯だけ飲んだが、これはなかなか良かった。
 全て食べ終えた印象は満腹は当然ながら、なにかを達成し終えたような、達成感を感じる、要するにシェフの力の限りの料理を、私たちの舌と胃袋がしっかり受け止めた満足感そういった感動を感じて店を後にした。
なお写真は料理番号の順番に掲載している。

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2016年11月15日
於:神奈川県民ホール(1階20列中央ブロック)

ウィーン国立歌劇場来日公演2016
 モーツァルト「フィガロの結婚}

指揮:リッカルド・ムーティ
演出:ジャン=ピエール・ポネル

アルマヴィーヴァ伯爵:イルデブランド・ダルカンジェロ
伯爵夫人:エレオノーラ・プラット
スザンナ:ローザ・フェオーラ
フィガロ:アレッサンドロ・フェオーラ
ケルビーノ:マルガリータ・グリシュコヴァ
マルチェリーナ:マーガレット・プラマー
バジリオ:マッテオ・ファルシエール
クルツィオ:カルロス・オスナ
バルトロ:カルロ・レポーレ
アントニオ:イーゴリ・オニシュチェンコ
バルバリーナ:イレアナ・トンカ
村娘:カリン・ヴィーザー
ウィーン国立歌劇場管弦楽団・合唱団

ポネルの演出がもうウィーンでは上演されないらしい。彼の演出をはじめてみたのは1974年8月24日、ザルツブルグ夏の音楽祭の公演である。オーケストラは今日と同じ。指揮はカラヤン、スザンナはミレルラ・フレーニ、フィガロはホセ・ファン・ダムだった。残念ながらその公演については全く覚えていない。だからその時のポネルの演出・舞台・衣装が今日の公演と同じかどうかはさだかではないが、いずれにしろポネルの演出が今日まで生き残ったということが凄いことだと思う。カラヤンの指揮したザルツブルグの公演では、映像で見ることができる「ばらの騎士」と並んで忘れられない舞台である
 。実は2012年のウィーン国立歌劇場の日本公演でもポネルのフィガロが上演された。指揮はペーター・シュナイダーである。だから今回は聴きに行くのをやめようかと思ったのだが、上記のこの演出が日本で見ることができる最後の機会かもしれないということと、ムーティのモーツァルトということにつられてチケットを買ってしまった訳だ。神奈川県民ホールというのには目をつぶったが!実は2012年の時も神奈川県民だったから、この公演と相性が良いのだろう?

 さて、ポネルの演出はボーマルシェの原作を換骨奪胎したと云われている、ダポンテの台本にかなり沿った演出であって、昨今の妙な読み替えではない。それゆえ至極安心して舞台も音楽も楽しめるのである。会場でも休憩時にそう云う声がちらほらと聴こえて来た。
 1幕はフィガロ/スザンナの新居、中央に2階に上がるらせん階段、その左に大きな窓、右手が入口、右手手前がベッドだ。中央には大きな椅子。ケルビーノが隠れる椅子だ。2幕は伯爵夫人の居室。左手奥にバルコニーに通じる大きな窓。ケルビーノが飛び降りる窓である。舞台左手には化粧室への入口、舞台右手奥にはに大きなベッド、その手前がスザンナの部屋に通じる扉。この幕が最も美しい舞台である。忘れられないのはケルビーノのアリエッタの後、伯爵夫人の前にひざまずいて伯爵夫人の手に唇をつけるシーン、左手奥の窓から光が入り実に美しい。後にも先にもこれほど美しい場面にお目にかかったことがない。(写真添付)
 3幕は伯爵の書斎である。1~3幕の舞台の特徴はリアリティである。装置それぞれの実体感が凄い。昨今のぺらぺらの舞台と比べたら雲泥の差。ただし4幕はまるでファルスタッフの3幕のように幻想的な舞台、真っ暗闇からだんだん月明かりで舞台が明るくなるのも、知らない間にそうなるのが素晴らしい。歌い手の出し入れは自然だし、歌手たちを決して邪魔しない。演技のために歌がおろそかになることはないのである。ただその反面すらすらと目に入って来るので、昨今の演出の様な刺激が乏しい。それが物足りないと云えば物足りない。まあ、あまのじゃくなのです。

 ムーティの演奏もポネルの演出に合わせた至極まっとうな音楽だ。しかし最近聴いた(CD)今一番のお気に入りのクルレンティスの過激な演奏を聴くと、微温的なのは否めない。ただもうこういうモーツァルトはなかなか聴けないのではないだろうか?先日のニッセイオペラの「後宮からの誘拐」の川瀬の指揮はあきらかに最近の古楽スタイルに影響されている。ムーティはそれとは対極的な演奏である。流れから云うとベームやカラヤンらの諸先輩につながっているのではなかろうか?通奏低音はフォルテピアノとチェロ、演奏時間は181分(拍手込み)。なお4幕の通常カットされるマルチェリーナとバジリオのアリアはきちんと歌われた。

 歌手たちはダルカンジェロを除けばなじみがない。特徴はスラブ・ロシア系が少ないということだろうか?ムーティの選抜らしい。
 なかではスザンナとフィガロが非常に素直な歌いっぷりと演技で好印象だ。ただ歌も演技も少しまじめすぎやしないかとも思った。最も良いのはこの2人に生身の人間を感じることだろう。単にト書きとおりに歌って演技している訳ではないということだ。
 ダルカンジェロのモーツァルトはどうしても重々しくていけない。いくら領主さまとはいえブッファの悪役?なのだからもう少し軽妙さが欲しい。とはいえなかなかこの役は難しい。気にいった伯爵と云うのが見当たらないが、ショルティ盤のトマス・アレンなどは好きな方だ。
 伯爵夫人は声は綺麗だけれど、どうもむらを感じていけない。ちょっと落ち着いて聴けなかった。ケルビーノもよかったけれど、女っ気が抜けないケルビーノで野暮ったくていけない。もう少し立ち居振る舞いにきりっとしたところが欲しい。その他の脇役陣ではマルチェリーナが印象に残った。
 全体に演技と歌がかみ合わない部分が気になった。舞台では演技を開始しようとしているのにほんの一瞬だけれども、音楽が始まらないといった場面が散見されたのはちょっと残念だった。
 オーケストラは響きに乏しいホールゆえか最初は潤いがなかったが、そのうち慣れてきたのか気にならなくなった。20列と云う後ろの方の席だったかもしれない。
 終演後最終公演だったようでオーケストラもバイロイトの様に舞台に上げて拍手を受けていた。
 なお、今回の3公演のブログで使用した画像は全てプログラムのコピーです。無断借用ですがご容赦ください。

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