ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2016年11月

2016年11月29日

「1941・決意なき開戦」堀田江里、人文書院
日本が対米開戦を決意し、真珠湾攻撃を開始したのは、いかなるプロセスで行われたのか?、今まで不思議でならなかったことに対する答えを期待して読んだ作品ある。
 1941年の春から12月までの間の政治、外交、軍事、社会のその時代の資料を丹念に読み込んで描いた力作である。
 多くの識者、軍人そして政治家、だれもがアメリカと戦争なんて無謀とは知りつつ、突入した戦争。そこには今の日本社会にも残滓が残る自己保身や組織防衛があり、その行くつく先が大ばくちに近い開戦と云う本作の結論は、残念ながら求める解ではないような気がする。結局このような日本の昭和史の一瞬(といっても8カ月だが)を切り取ったアプローチでは答えは得られないのではないかと思う。
 この作品はもともとはアメリカ人のために書かれたそうだ。従って原文は英語であり、本書はそれを邦訳したものである。率直に云えばそういうことが関係しているかどうかはわからないが、本書はアメリカは正義で日本は悪者というスタンスの様に感じられて仕方がなかった。感覚的で申し訳ないと思うが!
 私はここでは日米双方向から歴史を大きく見たヘレン・ミアーズの「アメリカの鏡、日本」のようなアプローチが求められるのではないかと読後感じた次第。もう一度読み直してみよう。

「戦国無頼」垣根涼介著、新潮社
室町末期という今まであまりクローズアップされていない時代の断片に焦点ををあてた時代小説であり、剣豪小説でもある。面白く読んだ。
 時は将軍義政の時代、15世紀半ばを過ぎたころ。もうまもなく応仁の乱が始まる。
登場人物は多彩である。まず骨皮道賢、ふざけた名前だが実在の人物である。このあと応仁の乱で活躍。野武士の走りの様な人物だが人望が厚く一勢力を築いている。
 もう一人は蓮田兵衛、彼も実在の人物である。大規模な土一揆を最初に指揮した人物、道賢と同じく人望厚くリーダー的存在。その他これも実在だが馬切衛門太郎、比叡山の法師の暁信、遊女芳王子などがからむ。
 主人公はそういう人物に囲まれ成長して棒使いの達人となる吹き流し才蔵である。彼は実在かどうかは不明。本書はこの人物を少年時代からスポットをあて、その成長物語として描いてゆく。これが読み物としての本線になるが、ここではむしろ伏線と云うべき室町末期の時代の描写が面白い。飢饉がつづき、農民や商人たちは疲弊する。一方では大名や大商人、僧侶には冨が集中する。極端な格差社会が生み出されるのである。この視点は今日的でもある。
 そういう時代に一石を投じる蓮田の生きざまが読んでいて痛快。クライマックスは彼が指導する土一揆である。この時代から100年もすると信長や秀吉がでてくる。また本書では集団戦法の先駆けとしての一揆勢の戦い方も描いており、そういう意味でも面白い一作。著者の目の付けどころが良いと思った。

 「ドナ・ビボラの爪」宮本昌孝著、中央公論社
本書も目の付けどころのよさが魅力である。戦国無頼もそうだが、史実とフィクションをうまくミックスする本書の描き方はストーリーに重みをもたせ、単なる読みもの以上のものを読者に与えるような気がする。
 本書はそういう実在の人物が実に生き生きと描かれている。特に上巻の帰蝶姫、彼女は斎藤道三の娘、不器量なため男の子の様に育てられる、道三から溺愛される。彼女のキャラクターはまことに魅力的で読んでいて本当に魅かれた。次いで光秀の妻、煕子、彼女は帰蝶のお付の侍女としてと云うより母親代りとして仕える。彼女の如何にも武士の女房としての立ち居振る舞いが素敵である。光秀の信長討ちのキーウーマンである。
 そしてこの二人の女性を取り囲む武将たち。特に信長と光秀の描き方は史実とは違うかもしれないにしても興味深い解釈である。
 ドナ・ビボラとは誰かはなかなか種明かしされないが、それは読んでのお楽しみである。著者のトリックの様な卓抜のアイディアが随所にあり、一気読み必至の一冊である。特に上巻が素晴らしい。下巻は信長の天下取りを一気に描くので、少し説明的になるのが残念と云えば残念である。ただ下巻ではドナ・ビボラが登場するのが待ち遠しくてページを繰る手が止まらなくなるだろう。

「11/22/63」スティーブン・キング著、文春文庫
ケネディ暗殺と時間旅行(タイムトラベル)をミックスしたSFサスペンスである。凄いアイディアだと思ったら、こういうネタの本は何冊もあるようだ。
 主人公のジェイク・エピングはリスボン・フィールズというメイン州の小さな町の高校教師。ハンバーガー屋のアルから1958年に移動できる「穴」引き継ぐことになる。アルは何度も1958年に移動し1963年のケネディ暗殺を阻止しようと試みるが、自分が癌になり続けられなくなり、ジェイクに託したのである。そしてジェイクはそれを引き継いだのである。
 果たして過去に行った人間の行動が未来にどのような影響を与えるのか?スケールの大きな物語である。ラブロマンスもはさみ、これは冗長であるが、キイになる話であるので仕方がない。
 この小説のもう一つの面白さは1950~60年代のアメリカ社会の描写である、著者の目には21世紀の今日よりも豊かでより幸せな社会に描かれているが、アメリカ人の共通の思いかもしれない。
 本書で納得できないところが一つある。この時間旅行の穴から、つまり過去から戻って来た時、過去で行われたことはリセットされてしまうということである。それはあたかもゲーム感覚で、死んだ人間が何度も生き返るということになりかねない。人生がそう簡単にリセットされてよいのかと思うのだが!もっともそれには大きなしっぺ返しがあるので、それは読んでのお楽しみである。

「孤独な祝祭」追分日出子著、文芸春秋
東京バレエの創始者で数々の海外の団体の日本での引っ越し公演をプロモートした佐々木忠次の評伝である。彼はまたNBSの代表でもある。
 NBSには数々のオペラ公演でお世話になっているにもかかわらず、佐々木氏については全く知らなかった。本書を読んで初めて名前も人となりもわかった次第である。
 本書はバレエの部分の描写にかなりの紙面がつぎ込まれているが、個人的にはオペラの、それもたとえばスカラ座の引っ越し公演への道や新国立劇場の設立時の確執など知らないことが多く興味深かった。音楽好きには面白い作品だ。佐々木と云う人物は読めば読むほど世に天才と云われる人が持っている臭いをぷんぷんさせる人物だなと思わせる作品でもある。

2016年11月26日
於:日生劇場(1階J列中央ブロック)

東京二期会オペラ劇場
 (ライプチッヒ歌劇場との提携公演)

リヒャルト・シュトラウス
 ナクソス島のアリアドネ

指揮:シモーネ・ヤング
演出:カロリーネ・グルーバー

執事長:多田羅迪夫
音楽教師:小森輝彦
作曲家:白土里香
テノール歌手/バッカス
士官:渡邊紀公威
舞踏教師:升島唯博
かつら師:野村光洋
召使:佐藤望
プリマドンナ/アリアドネ:林正子
ツェルビネッタ:高橋偉
ハルレキン:加耒徹
スカラムッチョ:安富泰一郎
トゥルファルデン:倉本晋児
ブリゲッラ:伊藤達人
ナヤーデ:冨平安希子
ドゥリヤーデ:小泉詠子
エコー:上田純子
天使:小泉幸二
管弦楽:東京交響楽団

はからずもそれほどなじみでも好きでもない曲を今シーズン、2回も聴くことになった。1回目は秋のウィーン国立歌劇の来日で急きょ変更になった番組としてだ。ベヒトルフの独創的な演出もあって、また歌手たち、ヤノフスキーの音楽など相まって立派な公演だったと思う。
 今回のアリアドネはもういいやと思ってはいたが、指揮がシモーネヤングという魅力に抗することができずチケットを買ってしまった次第。演出はライプチッヒ歌劇場のものは今年のトリスタンと同じである。トリスタンがすこぶる幻想的な舞台だったので本作も大いに期待したのだが! 

 さて、音楽から。ヤングの演奏は期待通りの出来栄えである。ウィーンの演奏の様に明るく華やかな装いはないが、この日本のまじめなオーケストラから実に精妙な音を紡ぎだすのだ。楽器編成の少なさはウィーンも今回の公演も一緒のはずだが、ヤングの作る音楽のほうがずっと小規模の編成に聴こえる。幕開けの2つの音楽などはまるで室内楽の趣である。歌が入るとオーケストラはあまり表面に出て来ないように思えるが、しかしながら良く聴くといたるところでその精巧な音楽が聴こえてくる。しかも例えば最終幕の2重唱での充実ぶりはこの編成とは思えない大ぶりなものである。この千変万化の演奏こそヤングの真骨頂ではるまいか?これを聴くとヤノフスキーが硬直的にさえ聞こえるのである。
東響とのブラームスを聴いて今回の公演は楽しみにしていたのだが、予想以上の出来栄えで脱帽である。東響の演奏も秀逸。演奏時間は119分強(ツエルビネッタのアリアの後の拍手込み)

 歌手達はウィーンの公演に比べると幾分小粒ではあるが、このより小さい劇場をうまく使った声量でそれほどの不満は感じられなかった。タイトルロールのアリアドネは硬質の声が魅力、良く伸びていたが今一つのしなやかさがあればさらによかったろう。序幕はばたばたした演出もあってあまり楽しめなかったが、オペラの部分の歌唱は特に印象に残った。バッカスはグールドと比べるとちょっと可哀想だが、熱演は間違いない。ただ声に幾分のむらが感じられ、連続的な声の滑らかさ、声による演技の流れと云う面では少々物足りない。衣裳やメイクのせいかアリアドネの美しさに比べるとむさくるしいのも減点だ。
 ツェルビネッタは小悪魔風の演技と容姿と歌唱で魅了。オペラの中のアリア(ロンド)
も技巧的には今少しのレベルアップが期待されるが、それは超一流の世界であり、十分満足のゆく歌唱であったと云わねばなるまい。
 作曲家は少々不満。若き作曲家のイメージがない。それは歌唱にも演技にも感じられた。女性が男の役をやる、きりりとした風情がない。
 コメディアデラルテの道化たちのアンサンブル、妖精たちのアンサンブルはそれぞれ精錬されていて、演技は別として満足のゆくものである。ブリゲッラの伊藤の伸びやかな声はとても魅力的だった。

 問題は演出だろう。保守的な二期会の聴衆から良くブーイングがでなかったと思う。何年か前の「マクベス」の公演で最後はラジカセで音楽を鳴らすシーンがあって、終演後お年寄りが怒りまくっていたが、それほどとは云わないけれども、ベヒトルフのちょっと大衆受けを狙った美しい舞台と演出に比べると、私の様な超保守的なオペラファンには大いに不満であった。ライプチッヒの舞台では繰り返すが、今年の二期会の「トリスタンとイゾルデ」の公演はすこぶる幻想的な舞台で素晴らしいと思ったのだが、このアリアドネは少々期待外れだった。

 まず時代設定と舞台が問題だ。序幕はビルの地下、時代は現代だろう。舞台の奥手には自動車の駐車場、でその手前の部屋が舞台になるが、まるで運転手の控室。舞台左手手前には1階へ上ってゆく階段があり、その横には男女トイレの様な部屋があり、それはトイレであり歌手たちの更衣室でもある様だ。舞台右手奥は厨房につながっているドアがのようだ。中央にはテーブル、ソファなどがある。そこでこのオペラの出演者がほぼ同時に皆雑然と登場し、演技し、歌ったり、踊ったり、しゃべったり、そうやはり雑然とした趣である。舞台の始まる前の雑然とは違う、汚らしい雑然、猥雑の混然一体となった舞台である。
 正直いってこのオペラが初体験で、この演出だったら、誰が誰やら、何が何やらわからないだろう。少なくとももう少し歌や台詞に合わせた登場人物の出し入れをしないといけないのではないかと素人ながら思った次第。演出家の考えはあったのだろうが、私には何を伝えたいのかわからなかった。
 「オペラ」の舞台も奇妙なものである。舞台は晩餐会の様だ。序幕で出た人々も全員この晩餐会に出ている。大きな丸テーブルが何卓かあって、そこに物思いに沈んだ客たちが座っている。アリアドネは手前の2つのテーブルを移動しながら歌う。コメディアデラルテの一行の登場、その後のバッカスの登場の時は、アリアドネは、舞台左手前のテーブルに身動きせず座っている。衣裳は最初は純白の花嫁姿、そしてその後それを脱ぎ棄てると黒い衣裳になる。
 ツエルビネッタのアリアはハルレキンらと絡みながら歌う、ちょっと煩わしいが、まあ想定内。しかしロンドのところでは影絵が舞台中央にあらわれ、ツエルビネッタの歌う背景に奇妙なざんばら髪の人物が登場、それが男性器の様な物をしごくのである。まあわからないわけはではないが少々即物的。今年のバイロイトの「パルジファル」のクリングゾルみたいだ。そしてバッカスが登場、2人の2重唱になると舞台の奥が壁だと思っていたらそれが突き抜けて取っ払われ、外の星がキラキラと輝く。右手奥には灌木、左手の奥の上方には巨大な樹木が舞台に顔を出す。舞台の上方からなにやら大きな花をつけた樹木が吊り下げられる。(これもバイロイトのパルジファルの3幕の舞台の様だ)急に自然礼賛か?
 さて、2重唱もクライマックスになると晩餐会の人々はさまざまな衣裳を着て舞台でパントマイムの様なものを踊る。中にはカップルができる。しかし本当の最後では全員が死ぬのか気絶するのかは不明だが倒れ、アリアドネも倒れ、バッカスも倒れる。最後に天使が弓で私たちに矢を向けて幕。まあこれを読んだだけでは何が何だか分からないと思うが、書いている本人もわからないのだから仕方がない。美しいプログラムを読んだが、評論家の方々の論文にはこのライプチッヒの演出については一言も書いていないのは不勉強ではないか?評論家ならライプチッヒの公演をチェックしてしかるべきではないだろうか?それとも演出家のアイディアを解説してはいけないという様な不文律でもあるのだろうか?

2016年11月25日
於:NHKホール(1階18列中央ブロック)

NHK交響楽団、第1849回定期公演、Cプログラム
指揮:井上道義
ピアノ:アレクセイ・ヴォロディン

ショスタコーヴィチ:ロシアとキルギスの民謡による序曲
ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第一番(ピアノ・トランペット、弦楽合奏のための)
(トランペット:菊本和昭

ショスタコーヴィチ:交響曲第12番・1917年

38年ぶりにN響の定期を振る井上の意欲的なオールショスタコーヴィチプログラムである。
 1曲目は初めて聴く曲。中間に民謡をはさんだ聴きやすい小曲だが、オーケストラの運動量は相当なもの。ちょっとうるさい。

 2曲目の協奏曲はサンフランシスコ/ユジャ・ワンのコンビで聴いたばかりで、自ずと比較したくなる。サンフランシスコの演奏は良きにつけ悪しきにつけユジャ・ワンの色が濃い。トランペットは少々影が薄く、ユジャ・ワンのピアノばかりが耳に入る。
 そういう意味ではヴォロディンのピアノはそのようなカリスマ性は感じない。むしろトランペットとの自然な協調、オーケストラとのアンサンブルを重んじたような演奏に聴こえ、協奏曲を聴く楽しみはこちらの方が強く感じられた。トランペットの位置の違いも影響したかもしれない。ヴォロディンの場合はトランペットはヴォロディンのほぼ真横、随分近い、しかしユジャ・ワンの場合は弦楽合奏の後ろに位置し少々遠い。まあ1週間で2度もこの曲を聴いたわけだが、随分印象が違うので正直驚いている。ピアニストの個性が色濃く出た両者の演奏だった。アンコールはプロコフィエフ、10の小品作品12からスケルツオ。

 3曲目はオーケストラの機能性を十分発揮できる大曲で、井上の熱演もあいまってこの曲を味わうのに十分以上の出来栄えだった。特に両端楽章は迫力に富んだオーケストラの力を十分感じさせた。ただ同じ音の形が何度も何度も出てくるので少々辟易するのも事実。
 ショスタコーヴィチのレーニン&共産党礼賛のような趣の音楽だから、それが作曲されておよそ半世紀経て、この極東の島国で私たち日本人がそれを聴くなんて、おそらくショスタコーヴィチも想像だにしていなかったことだろう。最近の研究ではショスタコーヴィチのこの曲に秘めたものなどが明らかにされているそうだが、この曲を外面的に聴いた時に共感はしにくいというのが正直な印象だ。井上はそういうことは知った上でぱんぱん演奏していたが、純音楽的に聴けば聴き手にとっても相当面白い、またオーケストラの機能を引き出せるという意味では指揮者にとっても面白い曲だろうとも思う。しかし21世紀のこの時代に1917年と云うタイトルの曲を今日の公演に選んだ意図はどこにあるのか、最後まで不思議で仕方がなかった。

 井上のきざな指揮ぶりやアクションは相変わらず。もう70歳だから今から治らないだろう。終演後ガッツポーズをしたり、登場した時にあたかも38年ぶりと云う事を誇示するかのように舞台を見まわすために立ち止まったり、まあ煩わしいことをする指揮者だ。今日の様な素晴らしい公演を壊しているような気がした。(おそらく私だけでしょうが?)

2016年11月22日
於:サントリーホール(1階16列中央ブロック)

シュターツカペレ・ドレスデン/クリスティアン・ティーレマン来日公演

 ザルツブルグイースター音楽祭in Japan

表記の企画で行われた今回のツアー、目玉は演奏会形式の「ラインの黄金」だろう。しかし、この頃、2時間半のラインの黄金を一気に聴くのは辛くて、今回はオーケストラプログラム其の1を聴くことにした。お客は「ラインの黄金」にまわったためか前方左右、後方20列目以降などはかなり空席が目立ったコンサートだった。ティーレマンでもこの値段ではお客を呼べないということだろうか?それともドレスデンに魅力がないということだろうか?
 現在の指揮者でティーレマンほど伝統的な音楽作りを堅持している指揮者は皆無である。そういう意味では貴重な指揮者であり私のもっとも注目する指揮者の一人である。

 さて、昨夜はアメリカウエストコーストの代表的なオーケストラサンフランシスコ響の演奏を聴き、そして今夜は16世紀に創設されたシュターツカペレ・ドレスデンの演奏を聴くことになった。この両者の音色の違いは驚くべきものである。座席はほぼ同じところだから私の印象はそれほど間違ってはいないだろう。サンフランシスコのサウンドは昨日のブログのどおりでライトで明るく、開放的なサウンドである。

 そして今日の最初のプログラム、ベートーベンの「ピアノ協奏曲第二番」の冒頭のオーケストラだけの序奏が流れただけで、ああこれは!と思わずため息がでるくらい。それはあまりにもサンフランシスコとの音色の違いが明らかであったからである。低弦は実に重く,厚い。そして高弦はサンフランシスコの様な透明感と云うより、もう少し粘っこく、渋い。輝きはあるが、それは少し燻してあるのだ。音楽は決して開放には向かわず、ぐっと沈み込むような凝縮・凝集の方向に進む。まさにベートーベンを聴いているという、そういう実感を味わえるのである。
 これはオーケストラのもつ響きでもあり、ティーレマンの作りたいサウンドであると思うのである。昨夜のサンフランシスコも同様で20世紀の初めにできた100年の間にできたサウンドにティルソン・トーマスの作りたいサウンドがミックスされて出てきた「音」だと思うのである。
 どちらが好きか?それは野暮な問いである。どちらも好きであるとしか言いようがないではないか?しかし我が家にあるスピーカーは英国製でいわゆるブリティッシュサウンドであるが、同じ英国製のタンノイで示すような、重厚で輝かしい音とはちょっと違うので、敢えて云えばいまの好みは少しサンフランシスコよりだと云っておこう。。

 さて、ピアノはキット・アームストロングという若い人である。イェフィム・ブロンフマンが病気のため、代演である。情感あふれる2楽章、天馬空をゆくような3楽章が印象的である。ただ曲は違うにしても昨夜ユジャ・ワンを聴いた耳には、今この時点ではあの印象が強く他のピアニストの音が微温的に聴こえて仕方がない。しばらく冷却が必要だろう。しかもなんと今週のN響の定期でユジャ・ワンと同じショスタコーヴィチが聴けるのでどうなるか楽しみである。
 なおアンコールはバッハ「パルティータ1番からメヌエット機廖

 後半のプログラムはR・シュトラウスの「アルプス交響曲」、ティーレマンの十八番である。彼のウイーンフィルとのライブレコーディングはSACDで聴けて、私の愛聴盤の一つである。その他ではカラヤンやショルティが素晴らしい。
 今夜のティーレマンも期待にたがわぬ名演だ。「頂上にて」や「嵐」の描写は凄い、しかし決してこけおどしにはならないのだ、純音楽的な充実感を味あわせてくれる。
 最も印象に残るのはそういう部分ではなく、そう云ったクライマックスへの道の描写、例えば「滝」や「幻影」、「林で道に迷う」などの部分の精妙さ、そしてクライマックスを過ぎた後の締めくくり、例えば「エピローグ」など、である。ドレスデンの上記のサウンドが錦上花を添える。久しぶりに独墺系の充実したオーケストラ音楽を堪能した。演奏時間はウィーンライブ盤とほぼ同じで、53分。

 

2016年11月21日
於:サントリーホール(1階18列中央ブロック)

サンフランシスコ交響楽団、2016アジアンツアー
指揮:マイケル・ティルソン・トーマス
ピアノ:ユジャ・ワン

ブライト・シェン:紅楼夢 序曲(日本初演)
ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第一番(ピアノ、トランペット、弦楽合奏のための)

マーラー:交響曲第一番「巨人」

2012年以来の来日である、あの時と同じユジャ・ワンも同行している。2012年はパガニーニ狂詩曲とマーラーの五番であった。独墺系のマーラーとまた違ったティルソン・トーマスの個性の出た演奏だったし、サンフランシスコの響きもライトで明るい、正しいかどうか分からないが語感で云うと、ウエストコーストサウンドという言葉がふさわしい。今回もほぼ同じ印象だった。

 1曲目は「紅楼夢」というオペラから、演奏会用の序曲である。日本初演であり初めて聴いた曲だから何とも言えないが、中国の音階の独特の響きが懐かしくもありなかなか面白い曲。
 2曲目のショスタコーヴィチは相変わらずのマシンガンのようなユジャ・ワンのピアノをを堪能した。両端楽章の音楽はそれを音化しただけでぞくぞくしてしまうという彼女の不思議な魅力を味わえる。しかも中間のトランペットソロの2重奏もしっとりとしてよかった。サンフランシスコの弦は混じりっけない透明度の高い、さっぱりしたもの。こう云う音楽には良かったのかもしれない。
 アンコールは1曲目はトランペットとベースとのトリオでジャズ「TEA FOR TWO」を演奏。それで一度舞台が明るくなり休憩かと思いきや、止まらぬ拍手にユジャ・ワンが再登場、今度はソロでチャイコフスキーの小品「四つの白鳥」を軽く演奏。
 ユジャ・ワンの衣裳は相変わらずセクシーなもの。背中が大きく露出したブルーのドレスだった。ユジャ・ワン独特(内田光子より傾斜が更に深くなった)お辞儀も相変わらず、オーケストラも一緒に同じようにお辞儀していたので聴衆も大喜び。

 マーラーは明るく、輝かしい、そしてちょっと軽めの、独墺系のオーケストラとは一線を画したサウンドである。コントラバスが6丁と云うようにツアーのためか編成が小さいのも影響しているかもしれない。金管の輝かしさが全体を支配しているが、2012年の時にも感じたが、この金管の輝かしさは決して直進的ではなく、きらきらとホールに広がる開放的な輝かしさなのである。そして弦はどちらかというと中性的で、混じりっ気のない、純水の様な透明感、これがミックスした不思議なマーラーサウンドである。しかしこの音はなかなか魅力的でティルソン・トーマスのマーラーの世界を十分味あわせてくれる。これはSACD化された録音でも楽しめます。
 彼のマーラーはどちらかと云えば楽天的で、深刻さはあまり強調されない。ただこの曲の3楽章は深刻と云うことではないが、しっとりとした響き(弦と木管のミックス)で、純音楽的な美しさを十分味わえた。1,2,3楽章は重厚さが、あまりないライトな音楽をどう評価するか、好みが分かれるところだろう。私はこういうマーラーも良いと思う。ただこの行き方は後期の交響曲に相応しいと私は思っている。演奏時間は55分。
 なお前半のプログラムではコントラバスは舞台右奥、第一ヴァイオリンに対抗してチェロが配置されていた。しかし後半ではコントラバスは左手奥、チェロは第一ヴァイオリンの横に配置されていた。曲想によって変えたのだろう。
 余談だがアメリカのオーケストラはほとんどの場合時間前からステージに上にいて練習をしている。そしてコンサートマスターのみが時間になると入場して拍手を受ける。休憩時間も多くの楽員はステージに残っている。
 独墺系のオーケストラは時間になると一斉にバックステージに戻り、改めてはぞろぞろと拍手を受けながら入場してくる。まあどちらが良いでしようかねえ。

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