2016年10月29日
於:新国立劇場(1階10列左ブロック)
新国立劇場バレエ団公演
プロコフィエフ「ロメオとジュリエット」
振り付け:ケネス・マクミラン
指揮:マーティン・イエーツ
ジュリエット:小野絢子
ロメオ:福岡雄大
マキューシオ:福田圭吾
ティボルト:菅野英男
ベンヴォーリオ:奥村康祐
パリス:渡邊峻郁
キャピュレット:貝川鉄夫
キャピュレット夫人:本島美和
ロザライン:堀口 純
乳母:丸尾孝子
ロレンス神父:輪島拓也
管弦楽:東京フィルハーモニー管弦楽団
マクミラン版のロメオはもう新国立劇場の定番である。過去何度かこの劇場での公演に接しているがやはりマクミラン版の素晴らしさ、今回も改めて感じることができた。この振り付けの素晴らしさは要はシェークスピアの戯曲と同様、ここでの踊り手は皆生身の人間であるということを感じさせてくれる、人間はみなそれぞれ必死に生きてゆくというリアルさを体験させてくれる所にあろうかと思う。なお今回の公演はバーミンガム・ロイヤル・バレエの協力によるものである。しかし振り付けや装置は過去見てきたものと大きな差があるわけではない。このバーミンガム版は1992年初演だそうである。
今日の公演、3幕が圧倒的に素晴らしい出来栄えだと思う。幕開け冒頭のロメオとジュリエットの踊りは少々物足りないが、その後からこのバレエは実にリアルな踊りを示すことになる。それは何よりジュリエットの踊りの素晴らしさによるものだ。パリスの求愛に対する嫌悪感、両親の勧めは孤独感を与え、ロミオを求めてもいない、少女の心は絶望しかなく、涙しか出て来ない。そして誰も助けてくれないとわかった時、自分で切り開くしかないと決意する。ベッドに腰掛けるジュリエット。悲しみから決意へ、小野の眼力(めじから)がすごい。この心の動きを踊りと動作で実にリアルに指し示す。そこには踊り手ではなく生身のジュリエットしかいない。ローレンスから薬をもらったジュリエットは再びパリスの求愛を受けるがその時の心は偽装である。もう子供ではなく、心装う技を身に付けた大人の女、パリスへの拒絶の厳しさ、そして毒を飲むが、その恐怖感、そして最後の幕切れのロミオの死体を前にしての絶望的な叫び、全て共感を呼ぶもので涙を禁じ得なかった。誠に素晴らしい3幕であった。
しかし前半の1幕2幕は少々物足りない。その要因はいくつかあるが、まず群衆の踊りに生命感がないことだ。1幕、2幕の町の踊りはルネサンスを前にした民衆の自由な気持ちが現われて来なければならないと思う。それが感じられない。皆きちんと踊っているようには見えるが、それは振り付けに従っているだけの様な気がする。もっと自発性が欲しい。わずかにロザリンデの奔放さはそのなかでは印象に残る。
ただ1幕の舞踏会の騎士の踊りは中世の重苦しい階級性を表わすように踊りは画一的であるので、振り付け通りきちんとやることによる効果は大きいと思った。
つぎに3幕で良かった小野のジュリエットは1幕では少々物足りない。大人になりきれない少女ジュリエットにしては少し立ち居振る舞いが大人っぽく、3幕との成長の差が少ない。ここは少しオーバーでもジュリエットの大人への成長を踊りでも示して欲しかった。
3つ目は男性陣に物足りなさを感じたことだ。マキューシオはもっとのびのびと自発性の富んだ踊りをしてもらわないと彼のユニークな性格が描かれない。ティボルトは一応ロメオの敵役なのだと思うが、その性格が演技や踊りでは感じられない。要はロメオもティボルトもマキューシオもベンヴォーリオも衣裳を見ないと誰が誰やら分からないと云うことでは困るのである。ロミオの踊りも少々迫力がなく、影が薄いのも物足りないところだ。例えばバルコニーの場や3幕冒頭の二人の踊りもちょっとハラハラする。
わずかにベンヴォーリオのスケールの大きな踊りは男性陣では印象に残った。その他では2幕でのキャピュレット夫人のきちんとした感情表現が素晴らしかった。最近の公演はここまで感情露出しない演技が多い印象を受けていたので本島の演技は印象に残った。
イエーツはイギリス人のベテラン指揮者の様だ。てなれた指揮だと思うがめりはりをきかせすぎと云うべきか、少々粗いのが物足りないところ。オーケストラにもその心が移ったのか金管などかなり東フィルのこの劇場の演奏にしては荒っぽい印象を受けた。とはいえツボをはずさないところは流石で、3幕の素晴らしさはこの演奏によっても大いに助長されたと思った。演奏時間は134分。今回の版も一部カットあり。
〆
於:新国立劇場(1階10列左ブロック)
新国立劇場バレエ団公演
プロコフィエフ「ロメオとジュリエット」
振り付け:ケネス・マクミラン
指揮:マーティン・イエーツ
ジュリエット:小野絢子
ロメオ:福岡雄大
マキューシオ:福田圭吾
ティボルト:菅野英男
ベンヴォーリオ:奥村康祐
パリス:渡邊峻郁
キャピュレット:貝川鉄夫
キャピュレット夫人:本島美和
ロザライン:堀口 純
乳母:丸尾孝子
ロレンス神父:輪島拓也
管弦楽:東京フィルハーモニー管弦楽団
マクミラン版のロメオはもう新国立劇場の定番である。過去何度かこの劇場での公演に接しているがやはりマクミラン版の素晴らしさ、今回も改めて感じることができた。この振り付けの素晴らしさは要はシェークスピアの戯曲と同様、ここでの踊り手は皆生身の人間であるということを感じさせてくれる、人間はみなそれぞれ必死に生きてゆくというリアルさを体験させてくれる所にあろうかと思う。なお今回の公演はバーミンガム・ロイヤル・バレエの協力によるものである。しかし振り付けや装置は過去見てきたものと大きな差があるわけではない。このバーミンガム版は1992年初演だそうである。
今日の公演、3幕が圧倒的に素晴らしい出来栄えだと思う。幕開け冒頭のロメオとジュリエットの踊りは少々物足りないが、その後からこのバレエは実にリアルな踊りを示すことになる。それは何よりジュリエットの踊りの素晴らしさによるものだ。パリスの求愛に対する嫌悪感、両親の勧めは孤独感を与え、ロミオを求めてもいない、少女の心は絶望しかなく、涙しか出て来ない。そして誰も助けてくれないとわかった時、自分で切り開くしかないと決意する。ベッドに腰掛けるジュリエット。悲しみから決意へ、小野の眼力(めじから)がすごい。この心の動きを踊りと動作で実にリアルに指し示す。そこには踊り手ではなく生身のジュリエットしかいない。ローレンスから薬をもらったジュリエットは再びパリスの求愛を受けるがその時の心は偽装である。もう子供ではなく、心装う技を身に付けた大人の女、パリスへの拒絶の厳しさ、そして毒を飲むが、その恐怖感、そして最後の幕切れのロミオの死体を前にしての絶望的な叫び、全て共感を呼ぶもので涙を禁じ得なかった。誠に素晴らしい3幕であった。
しかし前半の1幕2幕は少々物足りない。その要因はいくつかあるが、まず群衆の踊りに生命感がないことだ。1幕、2幕の町の踊りはルネサンスを前にした民衆の自由な気持ちが現われて来なければならないと思う。それが感じられない。皆きちんと踊っているようには見えるが、それは振り付けに従っているだけの様な気がする。もっと自発性が欲しい。わずかにロザリンデの奔放さはそのなかでは印象に残る。
ただ1幕の舞踏会の騎士の踊りは中世の重苦しい階級性を表わすように踊りは画一的であるので、振り付け通りきちんとやることによる効果は大きいと思った。
つぎに3幕で良かった小野のジュリエットは1幕では少々物足りない。大人になりきれない少女ジュリエットにしては少し立ち居振る舞いが大人っぽく、3幕との成長の差が少ない。ここは少しオーバーでもジュリエットの大人への成長を踊りでも示して欲しかった。
3つ目は男性陣に物足りなさを感じたことだ。マキューシオはもっとのびのびと自発性の富んだ踊りをしてもらわないと彼のユニークな性格が描かれない。ティボルトは一応ロメオの敵役なのだと思うが、その性格が演技や踊りでは感じられない。要はロメオもティボルトもマキューシオもベンヴォーリオも衣裳を見ないと誰が誰やら分からないと云うことでは困るのである。ロミオの踊りも少々迫力がなく、影が薄いのも物足りないところだ。例えばバルコニーの場や3幕冒頭の二人の踊りもちょっとハラハラする。
わずかにベンヴォーリオのスケールの大きな踊りは男性陣では印象に残った。その他では2幕でのキャピュレット夫人のきちんとした感情表現が素晴らしかった。最近の公演はここまで感情露出しない演技が多い印象を受けていたので本島の演技は印象に残った。
イエーツはイギリス人のベテラン指揮者の様だ。てなれた指揮だと思うがめりはりをきかせすぎと云うべきか、少々粗いのが物足りないところ。オーケストラにもその心が移ったのか金管などかなり東フィルのこの劇場の演奏にしては荒っぽい印象を受けた。とはいえツボをはずさないところは流石で、3幕の素晴らしさはこの演奏によっても大いに助長されたと思った。演奏時間は134分。今回の版も一部カットあり。
〆