ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2016年10月

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2016年10月29日
於:新国立劇場(1階10列左ブロック)

新国立劇場バレエ団公演

 プロコフィエフ「ロメオとジュリエット」
振り付け:ケネス・マクミラン
指揮:マーティン・イエーツ

ジュリエット:小野絢子
ロメオ:福岡雄大
マキューシオ:福田圭吾
ティボルト:菅野英男
ベンヴォーリオ:奥村康祐
パリス:渡邊峻郁
キャピュレット:貝川鉄夫
キャピュレット夫人:本島美和
ロザライン:堀口 純
乳母:丸尾孝子
ロレンス神父:輪島拓也

管弦楽:東京フィルハーモニー管弦楽団

マクミラン版のロメオはもう新国立劇場の定番である。過去何度かこの劇場での公演に接しているがやはりマクミラン版の素晴らしさ、今回も改めて感じることができた。この振り付けの素晴らしさは要はシェークスピアの戯曲と同様、ここでの踊り手は皆生身の人間であるということを感じさせてくれる、人間はみなそれぞれ必死に生きてゆくというリアルさを体験させてくれる所にあろうかと思う。なお今回の公演はバーミンガム・ロイヤル・バレエの協力によるものである。しかし振り付けや装置は過去見てきたものと大きな差があるわけではない。このバーミンガム版は1992年初演だそうである。

 今日の公演、3幕が圧倒的に素晴らしい出来栄えだと思う。幕開け冒頭のロメオとジュリエットの踊りは少々物足りないが、その後からこのバレエは実にリアルな踊りを示すことになる。それは何よりジュリエットの踊りの素晴らしさによるものだ。パリスの求愛に対する嫌悪感、両親の勧めは孤独感を与え、ロミオを求めてもいない、少女の心は絶望しかなく、涙しか出て来ない。そして誰も助けてくれないとわかった時、自分で切り開くしかないと決意する。ベッドに腰掛けるジュリエット。悲しみから決意へ、小野の眼力(めじから)がすごい。この心の動きを踊りと動作で実にリアルに指し示す。そこには踊り手ではなく生身のジュリエットしかいない。ローレンスから薬をもらったジュリエットは再びパリスの求愛を受けるがその時の心は偽装である。もう子供ではなく、心装う技を身に付けた大人の女、パリスへの拒絶の厳しさ、そして毒を飲むが、その恐怖感、そして最後の幕切れのロミオの死体を前にしての絶望的な叫び、全て共感を呼ぶもので涙を禁じ得なかった。誠に素晴らしい3幕であった。

 しかし前半の1幕2幕は少々物足りない。その要因はいくつかあるが、まず群衆の踊りに生命感がないことだ。1幕、2幕の町の踊りはルネサンスを前にした民衆の自由な気持ちが現われて来なければならないと思う。それが感じられない。皆きちんと踊っているようには見えるが、それは振り付けに従っているだけの様な気がする。もっと自発性が欲しい。わずかにロザリンデの奔放さはそのなかでは印象に残る。
 ただ1幕の舞踏会の騎士の踊りは中世の重苦しい階級性を表わすように踊りは画一的であるので、振り付け通りきちんとやることによる効果は大きいと思った。
 つぎに3幕で良かった小野のジュリエットは1幕では少々物足りない。大人になりきれない少女ジュリエットにしては少し立ち居振る舞いが大人っぽく、3幕との成長の差が少ない。ここは少しオーバーでもジュリエットの大人への成長を踊りでも示して欲しかった。
 3つ目は男性陣に物足りなさを感じたことだ。マキューシオはもっとのびのびと自発性の富んだ踊りをしてもらわないと彼のユニークな性格が描かれない。ティボルトは一応ロメオの敵役なのだと思うが、その性格が演技や踊りでは感じられない。要はロメオもティボルトもマキューシオもベンヴォーリオも衣裳を見ないと誰が誰やら分からないと云うことでは困るのである。ロミオの踊りも少々迫力がなく、影が薄いのも物足りないところだ。例えばバルコニーの場や3幕冒頭の二人の踊りもちょっとハラハラする。
 わずかにベンヴォーリオのスケールの大きな踊りは男性陣では印象に残った。その他では2幕でのキャピュレット夫人のきちんとした感情表現が素晴らしかった。最近の公演はここまで感情露出しない演技が多い印象を受けていたので本島の演技は印象に残った。

 イエーツはイギリス人のベテラン指揮者の様だ。てなれた指揮だと思うがめりはりをきかせすぎと云うべきか、少々粗いのが物足りないところ。オーケストラにもその心が移ったのか金管などかなり東フィルのこの劇場の演奏にしては荒っぽい印象を受けた。とはいえツボをはずさないところは流石で、3幕の素晴らしさはこの演奏によっても大いに助長されたと思った。演奏時間は134分。今回の版も一部カットあり。

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2016年10月28日
於:東京文化会館(1階10列左ブロック)

ウィーン国立歌劇場・来日公演2016
 R・シュトラウス「ナクソス島のアリアドネ」

指揮:マレク・ヤノフスキー
演出:スヴェン=エリック・ベヒトルフ

執事長:ハンス・ペーター・カンメラー
音楽教師:マルクス・アイヒェ
作曲家:ステファニー・ハウツィール
テノール/バッカス:ステファン・グールド
舞踏教師:ノルベルト・エルンスト
ツェルビネッタ:ダニエラ・ファリー
プリマドンナ/アリアドネ:グン=ブリット・バークミン
ハルレキン:ラファエル・フィンガーロス
スカラムッチョ:カルロス・オスナ
トルファルディン:ウォルフガング・バンクル
ブリゲッラ:ジョゼフ・デニス
水の精:マリア・ナザーロワ
木の精:ウルリケ・ヘルツェル
やまびこ:ローレン・ミシェル

今年のウィーン歌劇の東京公演はハプニングがあり、プログラムが大幅に変わった。当初はワルキューレとばらの騎士だったのが3演目になりばらの騎士はナクソス島に変わり、フィガロが追加になった。この理由はよくわからない。残念なのはウエルザーメストの指揮が聴けないことと、ばらの騎士の舞台が見られないことだ。国際公演でこう云う変更(今回もあったが出演者の変更)はよくあることだが、このようなプログラムが大幅に変更になったのはあまり記憶にないことである。ムーティのフィガロが追加になったのはよいけれど、あの有名な神奈川県民ホールで配役も若い人中心らしいので、とってつけたような公演といった印象だ。ダルカンジェロの伯爵とムーティが売りの公演になってしまったらしい。

 まあ、愚痴はともかく私にとっては今日が初日、「ナクソス島のアリアドネ」である。
この音楽はシュトラウスの作品では、私にとってだが、あまり得意ではない。音楽はべつにしてホフマンスタールの詞がどうもよくわからないのである。だから音楽を聴くことになるが、しかし序幕はドタバタ芝居、わずかに作曲家の歌が印象に残るくらいで、いきおいオペラの場面が中心になってしまう。

 さて、今回の公演はザルツブルグ音楽祭との共同制作らしい。2012年ザルツブルグ音楽祭(モーツァルト劇場)のこの曲の演奏はハーディング/カウフマン/マギー・スミスなどの主演で、これはDVDで見ることができると思う。私はNHKの放映を録画して見たが、実はこのザルツブルグと今回の公演は同じベヒトルフの演出ながらまったく別ものである。ただしセットは全く同じである。今回のウィーン公演は私たちが日ごろ聴いているおなじみの序幕+オペラバージョン、しかしザルツブルグバージョンは2部構成になっており1部は2幕で町人貴族ジュールダン氏と音楽家たちのドタバタ喜劇、それにホフマンスタールとオットーニ伯爵夫人との愛を挿入したややこしい話が加わる。第2部はアリアドネの物語で今回のウィーンの公演と同じである。ただザルツブルグバージョンはえらく長く、とくに芝居の1部は飽きが来るくらい長い。しかもこれはホフマンスタールの愛というベヒトルフによる追加があり、モリエールの町人貴族に音楽をつけたという初演版とも違うという、なんともわがままな公演となっている。そういうことだから2部のオペラの場面でもホフマンスタールやオットーニ夫人、ジュールダン氏などが舞台に出てきて演技をするという煩わしさ。しかも最後にはツェルビネッタとコメディア・デ・ラルテの一団の〆の様な部分が追加されている。まあ大変な代物である。
 プログラムを開いた時に、あれ、この舞台見たことがあるとまず思った。えーっ、今日の公演はあのザルツブルグの舞台を見せられるのか、と一瞬ドキンとしたが、プログラムの内容を読んでほっとした。本公演は私たちのおなじみの1916年の改訂バージョンである。ただし上記の様にセットは同じなのでザルツブルグ2012年のバージョンの影響がないわけではないのだ。まあそれは見てのお楽しみだろうか?

 前置きが長くなりましが、ついでにもう一つ。本公演ではヤノフスキーが指揮をする。これは私にはサプライズ。彼は何年か前に演出家への不満から舞台を放棄したはず。私はその発言を読んで、こういう硬骨な指揮者がいたのかと心で拍手をした。私の知る限り公で指揮者が演出家に一般論として批判の声をあげたのは彼以外ではエド・デ・ワールトしか知らない。さて、そういうヤノフスキーがなぜ今回舞台に戻ってきたか?私にはこういう変節は全く理解できない。ナクソス島は舞台がなければだめだなんていうことを云ったとかいわなかったとか。しかし彼はバイロイトにも出ているはずで、この行動は不可解極まるとおもった。芸銃的な理由だけなのだろうか?きちんと今回のプログラムでも意思表示をすべきではないだろうか?プログラム34ページには「オペラの世界に帰って来たヤノフスキー」という記事がある(奥田佳道氏の記事)がなぜ帰ってきたかは何も書いていない。

 本題に入ろう。ヤノフスキーの答えとも関係がある。今回聴いてこのオペラ、CDでは何度も聴いても面白みがわからないのだということが良くわかった。良く考えられた舞台とセットで聴かないと駄目なのだということである。それはなぜかは良くわからないが私なりの理解で云うと、シュトラウスがここでやっている、演劇的な要素(序幕)の面白さと音楽の融合、セリアとコメディの融合の妙といったものは耳だけでは到底追いつかないということではなかろうか?ベヒトルフの演出は細かく挙げれば物足りなさもあるが、そういうシュトラウスの狙いは十分再現できたものと思う。

 ヤノフスキーの指揮は小編成のウィーンの響きもあって実に爽やかに響く。話は違うがベルリンと来日してブルックナーを振った時のことを思い出した。あの時の音楽の進み方の一貫性のなんと潔いことか!今回もその響きにのって耳に残ったのはそれである。音楽はこれしかないという道を歩むという意味ではあの時聴いたブルックナーと同じなのである(私にとって)。しかし一筋縄ではいかないのは例えばオペラのなかのバッカスとアリアドネの長大な2重唱でのしなやかな音楽もやはりヤノフスキーの芸術なのだ。一貫はしているが硬直はしていないのである。演奏時間は118分。私の愛聴盤のシノーポリの演奏に比べると少々速い。

 歌手たちはどれも歌もうまいが芝居も上手。今日の歌手たちは大変だ、見た目もきれいでなくては駄目だし、機敏に動いて演出家にこたえなくてはいけないし、もちろんきちんと歌わなくてはいけない。そういう意味では序幕の作曲家が素晴らしく印象に残った。若くておぼこい作曲家、有り余る情熱と愛、そして成功したいという上昇意欲、そういった若者の心を歌で表わした。後半少し荒っぽくなったようにも思ったが気のせいだろう。
 オペラではバッカスのグールドが相変わらず素晴らしい声である。先日のジークムントもよかったが今日はそれ以上、そしてバークミン、少々細身だが良く伸びきって声が魅力である、演出もあって孤島での孤独な女と云う面は少々薄いにしても存在感は十分感じられた。ファリーのツェルビネッタはコケットさは少し欠けるものの、その鈴を転がすような声は実に魅力的で、むしろこう云う歌い方のほうがツェルビネッタの心の襞が表に出るような気がしてとても感心して聴いていた。聴きどころのレチタティーヴォとアリアはいろいろな動きを与えられながら十分な歌唱で拍手を一杯もらっていた。

 舞台は序幕では貴族(ジュールダン氏)の屋敷から始まる、正面は大きなガラスの窓、奥は庭に続く。そこから出演者の一部が登場。また舞台は2段になっており上段は庭に続くようになっている。階段を下りるとそこがメインの舞台でまず音楽教師やら執事らとの会話、やがて、舞台には今日のオペラの主人公たちが次々と登場、舞台の奥の大きな窓は閉ざされ、舞台全体が楽屋の様相。そこでは作曲家とツェルビネッタとの会話やコメディアンたち、プリマドンナ、やテノール歌手たちが右往左往のどたばた喜劇となる。しかし歌手たちの動きはト書きと大きく逸脱しているわけではない。
 オペラの場面はユニークである。舞台は2つに分けられ上段はジュールダン氏らが座る観客席である、約40席ある。ここにはジュールダン氏のお客や執事、作曲家などが座ってオペラを鑑賞する。下段はオペラが演じられる舞台。傾いたグランドピアノが2台、「は」の字に転がっている。手前にアリアドネが横たわり。周りには3人の妖精が、と云う具合でスタートする。
 ここでの演出の面白さは作曲家が、序幕ではこのような構成のオペラなんてやりたくないとわめきながら出て云ったのにもかかわらず、舞台に出て歌手たちに歌の指導をしていることだろう。「偉大な王女様」では作曲家の伴奏で歌うようになっているし、最後のコロラトゥーラでは楽譜をその場で書いて渡す場面もある、またハルレキンの歌う「愛、にくしみ、のぞみ、おそれ~」ではここでも作曲家が舞台に出てハルレキンの歌唱を指導したりしている。
 もう一つはこのオペラの観客席とオペラの舞台が一体になっていることだ。ハルレキンらコメディアンたちが観客席に座っていて、そこから舞台に降りてきたり、ツエルビネッタも観客席の通路をまるでムゼッタの様に歩いてきて、執事やジュールダン氏の口づけをうけながらオペラの舞台に登場する。ようするにここでは(この屋敷)ではプリマドンナよりツエルビネッタのほうがずっと人気者なのである、そういう描き方である。
 最後の場面もト書きとは違うがなかなかよく考えてある。観客席にはろうそくが並べられ、また観客たちは座っていて膝にろうそくを置いている。天井からは五基のシャンデリアが降りてきて、2重唱を歌っているアリアドネとバッカスに照明をあてる。周りにはコメディアンたち、妖精、ツエルビネッタ、そして作曲家もいる。バッカスの最後の一音でアリアドネとバッカスは観客席の階段を上り退場するがその際に二人のいさかいが描かれる。やがて舞台には作曲家とツェルビネッタ、2人は結ばれて退場する。まあこういうアリアドネです。いかがでしょうか?私は2012年のザルッツブルグの舞台を見ているのでとてもすんなり入れました。やはりザルツブルグバージョンよりも今回のウィーンバージョンのほうがよさそうです。この曲がお好きな方は是非2012年ザルツブルグバージョンをご覧ください。

 

2016年10月21日
於:NHKホール(1階18列中央ブロック)

NHK交響楽団、第1845回定期演奏会Cプログラム
指揮:アレクサンドル・ヴェデルニコフ
チェロ:アレクサンドル・クニャーゼフ

ドヴォルザーク:チェロ協奏曲
 
チャイコフスキー:交響曲第六番・悲愴

ロシアの中堅の演奏者による名曲2曲。演奏っプリが対照的だったので実に興味深い音楽会だった
 最初のドヴォルザーク。この曲の持つ旋律美をたっぷりと表に出し、どちらかと云えばちょっと感情過多ともとれるチェロ。オーケストラはそれに合わせて情感豊か、しかも鳴りっぷりのよさが気持ち良いくらいである。1楽章は第2主題が実に情感のこもったもの、そうはいっても決して大甘の音楽ではないところはこのチェリストの職人芸だろう。2楽章は更に音楽に沈潜して、木管との重奏の部分の美しさは感動をもたらす。3楽章は更に音楽は自由に動き出し、奔放さが情感の高ぶりを感じさせる。終結は少々大げさには感じられたがけっして嫌な音楽ではなかった。昔嫌いだったこの音楽、こう云う演奏を聴かされるとこの音楽の素晴らしさを再発見する。演奏時間は43分。アンコールはバッハの無伴奏チェロ組曲からサラバンド。

 次のチャイコフスキー、ロシア指揮者による粘っこい演奏かと思いきや、実に抑制の利いた音楽でちょっと意表突かれた。1楽章の主題、決して泣き節にならない。さらさらと河が流れるように音楽が流れる。展開部の音楽も案外と荒れ狂い度が低い。2楽章はさらに淡々と流れる。アタッカで始まる3楽章はものすごいことにテンポがほとんど変わらないままに最後まで振ってしまっているかのように聴こえた。大体どんどんテンポをあげて大げさに終わるというのがこの曲の典型パターンだが、ヴェデルニコフはそうはしていない。4楽章は流石に感情の高ぶりが音楽にあらわれているかのように、情感豊かに聴こえるが、それでもいつも聴いているこの曲の演奏に比べれば随分と抑制された音楽のように聴こえる。感情過多の情感押しつけ型の演奏に辟易している者にとっては大変ありがたい演奏だが、こういうスタイルで聴き手の心をぐりぐりもってゆくのはなかなか大変だろうとも思う。全体に少々醒めた印象がやはりしてしまうのである。自分は実にあまのじゃくであることを承知していても、やはりそう思ってしまう。音楽を演奏するというのは実に難しいことなのだということを改めて感じました。演奏時間は49分。

2016年10月20日

「サピエンス全史」 ユヴァル・ノア・ハラリ著 河出書房新社
私たち現世人類、ホモサピエンス7万年の歴史である。原題は「SAPIENS:A BRIEF HISTORY OF HUMAN KIND」、現代にはBRIEFとあるが、これはある面で正しくある面で正しくない
。つまり歴史の細かい流れを時系列で追ったわけではないと云う意味ではなるほどBRIEFではある。しかし現世人類・ホモサピエンスが、なぜネアンデルタール人やフローレス人など現世人類の祖先の親戚とも云うべき、世界に散らばっていた原人たちを駆逐して唯一地球生物の最高峰として勝ち残ったのかを、精細に描いているという点については、決してBRIEFとはいえない。
 私たちの祖先はいくつかの革命を経て生き残って云ったという。それは認知革命、農業革命、科学革命である。特に認知革命では言葉と想像力で集団行動をとれるようになったことがその他の原人たちとの戦いに勝ったと要因としている。農業革命では文字や貨幣の発明などが描かれ、貨幣とともに帝国の誕生や宗教の誕生が世界の均一化を生んだとしている。また科学革命は資本主義とも結び付き産業革命にいたっている。
 本書で唯一不満と云うとそれは現世人類が生き残ったのはわかったが、では現世人類を支配している欧米文化・社会はなぜそうなったのか?それについては記述がないということ。つまり今日世界を支配する西洋文化、しかし1492年に逆転の道をたどるまではアジアなかんづく中国や中近東の帝国が、世界の富と文化の支配者だった。それがなぜ逆転したのか、それを知りたい。

「でっちあげ」福田ますみ 新潮文庫
ノンフィクションである。一気読み必至の一冊であるが、読み終わると出てくるのはひどい話があったものだというため息以外何ものもでない。
 主人公は九州の1都市の小学校のごく普通の男性教師、小学校の4年生の担任である。あるとき生徒の体罰について親から訴えをうける。本人は全く覚えがないが事なかれ主義の校長や本人の優柔不断さにより謝罪をしてしまう。しかしそれで終わりと思いきや、事件はマスコミネタになり大騒動になってゆく。そしてモンスターペアレントと化した両親は民事訴訟をするところまでエスカレートしてゆく。
 結果は茶番劇となったわけだがそこへ行くまでのプロセスを著者は丹念に調べて記録してゆく。マスコミも最初からこのような調査をしておけばという批判の一つも云いたくなる。要するにマスコミを含めすべて一次データを鵜呑みにしたことによることから今回の騒動が起きたということだ。しかし批判はマスコミのみならず事なかれ主義の裁判所や役所や校長たちにも向けられる。ごくごく普通の、生徒に人気のある、優しい教師が何年もこの間、泥沼にはまったわけだけれども、これは決してよそ事ではなく、ごく身近でいつでも起こる可能性を示唆しているのが恐ろしい。

「タックスヘイヴン」橘 玲著 幻冬舎文庫
国際金融小説だ。主人公は古波蔵、牧島、桐依紫帆の3人、3人は高校の同級生、ある事件を契機に再会する。古波蔵は証券会社を辞め個人で裏社会のマネーロンダリングなどの仕事をしている、牧島もサラリーマンをやめいまではしがない翻訳家である。ある日プライヴェートファンドマネージャーの紫帆の夫の北川がシンガポールで変死を遂げる事件が起きる。身寄りのない紫帆は牧島を頼りシンガポールに行く。一方古波蔵は北川が使い込んだ10億円の回収のためシンガポールに向かう。旧友3人が再会する。事件はスイス銀行幹部、在日韓国人、朝鮮人、シンガポールの華僑、シンガポール警察、日本の特捜検事などを巻き込んでめまぐるしく展開する。どこまでリアルかわからない金融の世界だが、読んでいて面白いのは間違いない。

「うつけ世に立つ・岐阜信長譜」早見 俊著、徳間書店
信長を主人公にした小説はあまたあるが、この作品はそのなかでも面白い切り口だ。
 岐阜城攻めから朝倉攻め(二次)までを描く。今作品の肝は英雄信長のおごりと慢心の物語と云うことである。もし信長がもっと慎重であれば死ななくてもよい兵士が万といたということである。ただもし信長が慎重居士だったら、人間として魅力が欠けるし、それにより天下統一も遅れたのではないかとも思われるのだが、まあそれは余談である。
 信長は朝倉(一次)攻めで浅井から背後を突かれ、三好攻めでは本願寺に背後を突かれ、長島攻めの敗退、などがおごり慢心のつけである。しかし本書では将軍義昭がその根っこにいたということ、信長は義昭というより、将軍家を甘く見た「付け」が大きかったことに最後で気付く。しかし最大のおごり慢心は本能寺の変だろうが、本書ではそこまでは描かない。しかし昨今の光秀の研究ではそういう説も成り立つであろうと思わせる作品だ。

2016年10月19日
於:東京オペラシティコンサートホール(1階17列左ブロック)

東京フィルハーモニー管弦楽団・東京オペラシティ定期シリーズ
指揮:アンドレア・バッティストーニ

ヴェルディ:歌劇「ルイザ・ミラー」序曲
ヴェルディ:歌劇「マクベス」より第3幕の魔女の舞曲
ロッシーニ:歌劇「ウィリアム・テル」序曲

ベートーベン:交響曲第五番・運命

今年の十月に当楽団の首席指揮者に就任したばかり、あれよあれよという間に首席になってしまった。まだ29歳である。本日のプログラムはイタリアの歌劇から3曲とベートーベンと云うハイブリッドな曲目である。彼のキャリアからイタリアオペラの曲をくっつけられるのは致し方ないことだろうが、首席になったこともありそろそろそういうプログラムからは脱却して欲しい。そういう音楽は二期会などの公演で聴かせてもらえばよろしいのではないだろうか?余談だが彼の二期会との「ナブッコ」と「リゴレット」は歌手たちの非力さを忘れるほどエネルギーにあふれた素晴らしいべルディだった。要するにこういうオペラ公演とコンサートとは切り離したプログラミングをしてほしいものだ。来年オテロを演奏会形式でやるそうだ、まだ早い様な気もするが聴いてみたいような気もする。ただしっかりとした舞台で指揮してもらいたいというのが願望だ。

 さて、前半では2つのヴェルディがやはり抜きんでている。めりはりと云う言葉でさえも不適当だろう。若きムーティを思わせる威勢の良さ、しかし決してヴェルディの音楽をはみ出さない。ルイーザミラーのたたみこむような後半、マクベスの2曲目のなんとも異様なあでやかさは同じ指揮者の棒とは思えないほどだ。やはりかれはヴェルディでこそ本領が発揮できるものだと確信した。それに比べるとロッシーニは品がない様に思った。ヴェルディの様に指揮しては駄目と云うことだろう。

 ベートーベンは若さが噴出した、けれんみたっぷりな演奏である。若干29歳の青年指揮者が今ここでしか演奏できないという、そういう演奏に聴こえた。1楽章の提示部の前のめりの音楽は今一つ共感できない。音楽は軽く突っ走るが、一つの音が鳴りきっていないのに次の音がでてくるようなそういう印象である。オケの音が空回りしているようだ。展開部になると幾分落ち着くが、ここでのテンポ変動はすこしわざとらしい。そしてコーダの威勢の良さは迫力はあるが、どっしりしたドイツ音楽とは一線を画したもの。しかしこの痛快な音楽の運びは従来のベートーベンが鼻につくつくという人には良いかもしれない。
 流石に2楽章は落ち着きをみせたしっとりとした音楽運び、しかしところどころ木管などのしなを作るような部分はオペラ風と云うのだろうか?少々違和感があった。終結部はまたあわただしさが戻る。
 3~4楽章は苦悩から凱歌へという音楽には感じられないが、颯爽としたスポーティなベートーベンが聴ける。3楽章の中間の低弦は象が軽快なステップを踏んでいるかのような不思議な音楽。軽さと重さの両立。そして4楽章への突入への経過部分は美しいが少々外面的。しかし凱歌になるとフェラーリが驀進する様なそういう音楽になってしまってどうも落ち着かない。終結部は凄まじいスピードで、これは力技で決めた投げの様だ。これはこれで興奮するが、ボルトが世界新記録を出したのを見ているような、そういう興奮なのである。
 さて、この演奏を録音していたようだが、バッティストーニは聴きたいだろうか?なお演奏中ジャンプするのはよいとしても、叫ぶのはやめた方が良い。演奏時間はカラヤンとほぼ同じ31分だが、別の音楽を聴いた印象だった。アンコールはラフマニノフのヴォカリーズ。これは思い切り歌わせた素晴らしいもの。ここに一つの適性を感じた。

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