ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2016年08月

2016年8月5日

「山猫は眠らない」についての考察

「山猫は眠らない」は原題をTHE SNIPERで第1作は1993年、それがなんと2014年までの21年間で5作もシリーズとして作られた。俳優を含め作りは超B級でもあるにもかかわらずなぜ5作も続いたのだろう。7月にケーブルテレビで全作品が放映されたので改めて見た。その印象をまとめてみたのが本稿である。

 本作のポイントは主役だろう。4作を除いてすべてトム・ベレンジャーが演じている。従ってべレンジャーの魅力がこのシリーズを引っ張ったということは可能である。私には彼は「プラトーン」でのウィレム・デフォーの敵役の印象が強い。要するに主役より脇での魅力だ。なるほど本作品群はべレンジャー扮する古参曹長、ベケットの人物像が魅力であることは間違えない。ベケットは海兵隊では孤高の狙撃兵である。彼を超える狙撃兵はいないという存在なのである。狙撃兵と云うのは監視兵とペアで行動する。つまり目標を捕捉し、狙撃に成功したか確認する役である。従って映画でもペアをくむ監視兵との妙が面白いところでもあるが、キャスティングとしてはべレンジャーほど魅力はなくドラマはすべてべレンジャー/ベケットに支配される。しかもストーリーはどれもベケットが指示されたターゲットを狙撃するという単純な骨格である。
 加えてシナリオのできも恥ずかしくなるような部分があって、あまり良いとは云えない。特に軍人精神などをのたまうところは国防省の宣伝映画かと思わせる部分もある。アメリカにはこう云う映画は過去良くあったが、それでも5作も同工異曲の作品が作られたというのは面妖なことと云わざるを得ない。

 結論を先に述べると、このシリーズが長続きしたのは物語の設定が面白いということだろう。それはかならず世界のどこかの紛争地帯を舞台にしているのだ。決してリアルに描いているとは思わないが、それらしく描かれているのでなるほどと思わされてしまうのだ。もっとも紛争地帯の人々が見たら噴飯ものかもしれないが、単なる荒唐無稽なアクションものに終わらせていないところに面白さを感じる。

各作に触れて見よう。
1作目はパナマ紛争である。麻薬王の傀儡の反政府の大統領候補の暗殺である。相棒はエリートの中尉。お定まりの現場を知らない背広やろうである。初めて見た時にこの映画での狙撃兵の行動が実にリアルに思えたのを覚えている。そういう技術面の面白さはこの映画の魅力でもある。

2作目はユーゴスラヴィア紛争。ベケットはユーゴに潜入して反国連軍のトップの暗殺を謀る。相棒は黒人で殺人犯、しかしちょっと話は複雑で結末はひねりがある。

3作目はヴェトナムである。しかしヴェトナム戦争が舞台ではなく終結後のホーチミン(旧サイゴン)が舞台。海兵隊の生き残りが終戦後も残り犯罪組織のボスとなる。しかも彼はベケットの戦友だった。ベケットは彼を狙撃のためにホーチミンに向かう。相棒は現地警察の刑事と云う変わり種。これも最後に一ひねりがある。

4作目は初めてベケット/ベレンジャーがでない。ベケットの息子(チャド・コリンズ)が海兵隊の狙撃兵に目覚めるまでを描く。べレンジャーは写真でしか出て来ない。舞台はコンゴ紛争である。ベケットの息子・ブランドンはスナイパーではなく海兵隊兵士として描かれる。コンゴ反政府軍への武器密売事件にかかわる犯罪の究明が描かれる。このシリーズで初めて女っ気がでてくる。3作目でもベケットの友人の妻との淡いロマンスが描かれるが女っ気とは云えない。

5作目は久しぶりにベケット/べレンジャーがでてくるが1作目から20年たっているためか、このべレンジャーはちょっとよたよたしていて、観ていて気の毒である。舞台はトルコであり、シリア内戦に関わる。しかし直接には2004年のアフガニスタン紛争の際の陰謀にかかわるメンバーが次々と暗殺される。ベケットもそのメンバーであり、今回は狙撃される側である。スナイパーになっているブランドン・ベケットは、父親と共同してその狙撃兵を狙う。

このようなストーリーであり、舞台設定のなかなか目の付けどころが良いというのが印象であり、アメリカ主体の話でアメリカ人には受けたというところだろう。キャスティングの充実とシナリオの丁寧さが求めらるが作り手はあまり気にしていないようだ。この舞台設定が面白さの決め手ではあるが、もう一つは狙撃のプロセスを丁寧に描いていることだろう。

2016年8月4日
於:サントリーホール(1階11列左ブロック)

東京交響楽団、第643回定期演奏会
指揮:飯森範親
ピアノ:オルガ・シェップス

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第二番

ポポーフ:交響曲第一番

真夏のコンサート。演奏する方も大変だろうが、汗だくで会場に向かう方も辛い。八月の定期とは珍しいのだが、おそらく来年のサントリーの改装に伴うスケジュールなのだろう。
 先日ノットとの共演ですばらしいブルックナーを聴いたが、今日も東響の器の立派さを改めて感じた。ラフマニノフでのピアニストに合わせた柔軟な演奏、初演のポポーフのうるさいばかりの大規模で複雑な音響を見事に再現した演奏、特に3楽章の一糸乱れぬ音楽の進行は唖然とするばかりだった。

 ラフマニノフは久しぶりに聴いた。古今の名曲だけあって、もう冒頭聴いただけで引き込まれてしまう素晴らしい曲だ。ピアニストはシェップスというロシアの若い?女性である。実は大変な美女で驚いてしまう。しかも9等身ほどのスタイル。飯森さんも楽しいだろう(失礼)。それに目くらましにあったせいか、今日の演奏はえらく思い入れたっぷりである。いつもなら嫌になってしまうねっとり感なのだが、それがねっとり感と云う不快な言葉ではなく、むしろ官能的に響いて聴こえたのはシェップスの魔力にとらわれたのためだろうか?本当に女はこわい。特に1楽章は過去聴いた中でも傑出したユニークさだろう。冒頭の鐘の音はまるでこれからのめくるめく音楽の予兆のように静かに響く。決してどすんどすんと入ってこないのである。そしてオーケストラと呼応した主題の提示のなんとも身悶えする様な美しさ。これは我が愛聴するリカド/アバドの中性的な演奏に比べるとなんと濃厚な響きなのだろうか?シェップスもそれを知ってか実に情熱的な弾き方をするから効果は倍加。しかし目をつむっても同じ印象だったということは付け加えておこう。
 2楽章は濃厚さはうすれ少々淡白な夜想曲、黄昏時の様な音楽に聴こえ、私の様な年寄りには人生を振り返させるような優しさに満ちている。オーケストラの伴奏も実に美しく、楽想に相応しい。3楽章も1楽章の様な濃厚さは後半では感じられるが、前半は少々力が先立つような印象。しかし全体としてはとても面白くこの名曲を楽しんだ。おそらくこれを録音したものは何度も聴くと飽きてしまうだろうが、一期一会のライブには相応しいパフォーマンスだった。演奏時間は37分強。アンコールは2曲、サティ、ジムノぺディから1曲、プロコフィエフのピアノソナタ七番から三楽章。サティの抒情性、プロコフィエフのパワーともお客を沸かせていた。プロコフィエフはユジャワンなみの速射砲だが、ユジャワンはどちらかというと軽快感があるマシンガン、シュエップスはもっと腹に響く重火器のようだ。

 ポポーフはロシアの作曲家である。ショスタコーヴィチの同世代の作曲家である。ポポーフは本日の演奏曲の交響曲第一番で形式主義のレッテルをははられ、1972年になくなるまで表舞台に出ることはなかったという。わずかに映画音楽などが評価されていたらしい。
 さて日本初演の交響曲一番は1935年のロシアでの初演のときにはロシア人もビックリだったろう。現代の私たちはもうこう云う音楽は何度も聴いているからそれほどでもないが!
 巨大な大編成から繰り出す音響は有機的には響かず、なぜか無機的で混沌の中に首をつ込んだような印象である。特に長大な1楽章(約20分)は音楽につかみどころがなく、正直聴いていて退屈してしまった。しかし大音響が続くため眠気は襲って来ない、拷問の様な音楽だ。まいったなあとおもって2楽章。これは少々趣が違う。非常な透明感が音楽を支配して、特に木管群と弦楽部とアンサンブルが美しい。ところどころとげの様な部分があって美しさを阻害するが、全体としては1楽章より楽しめた。
 しかし圧巻は3楽章である。ここも大編成のオーケストラのフルの音量をシャワーのように浴びるが、しかし音楽は終結部にむけて収斂する動きが感じられる。同じような音形の繰り返しは決して単調さを導かず、むしろ恐るべき何ものかを感じさせる不気味さを聴かせてくれる。ここでの東響のパフォーマンスは先日のブルックナー同様腰砕けにならない強靭さを感じさせる。特にステージ中央から左奥に陣取った木琴や、鉄琴、チューブラーベル、ティンパニなどの打楽器の雄弁な響きがこの楽章の後半を支配して聴きごたえがあった。暑さを吹っ飛ばす3楽章だった。

2016年8月3日

「白い沈黙」ライアン・レイノルズ、ロザリオ・ドーソン主演
原題はTHE CAPTIVE。マシュー(レイノルズ)とティナの娘カサンドラは9歳、マシューがチェリーパイを買いに寄った店での数分間、車で待っていたカサンドラは誘拐されてしまう。それから8年間、警察では細々ながら捜査が継続される。夫婦は別居状態。ティナはホテルでメイドとして働くが、部屋を清掃しているとカサンドラの思い出の品が次々と現われる。果たしてカサンドラは生きているのだろうか?現在と過去が行ったり来たりで少し整理整頓が行き届いていないのでついていけない部分もないとは云えない。大組織が絡んだ誘拐の様に思わせるが、おしまいは尻つぼみが残念。ロザリオ・ドーソンの刑事役はなかなか良い。

「マネーショート」スティーブ・カレル、クリスチャン・ベイル、ライアン・ゴズリング
ブラッド・ピット主演
2008年のリーマンショックを題材にした、実話をベースの小説の映画化。バブルに翻弄されない男たちを群像的に描いている。役者が充実していてなかなか面白い映画だった。
 時は住宅バブル、住宅ローンを債券化したウォール・ストリートは債務を更に債務化してゆき、人々、政府、そしてムーディまでもが、果てしない泥沼の中で狂奔する。しかしその中で何人かの人々がそれは巨大な金融崩壊の始まりだということに気付く。彼らもウォールストリートの一員である。それは単に目端が利いたやつらと云うだけでなく、哲学的ともいうべき洞察力をもった男たちなのである。そういう男の戦いは武器をとっての戦い以上に凄絶だということを感じさせてくれる。CDS,CDO,MBSなどの金融用語がややこしいがやさしい注釈が挿入され親切な作りである。緊迫した崩壊の日が彷彿とする作品だ。

「ディバイナー」ラッセル・クロウ主演
原題はWATER DEVINER。実話に基づく映画だ。ジョシュア・コナー(クロウ)はオーストラリア北西部で牧場を営んでいる、水脈を見つける天賦の才をもった男。それが原題になっている。
 妻と息子3人で生活しているが、3人の息子は第一次大戦に志願兵として出兵、ガリポリの戦いで3人とも戦死してしまう。3男はまだ17歳だった。戦後4年、コナーは息子たちへの思いたちがたく、トルコへ捜索の旅に向かう。実はこの映画を見てゆくにつれいらいらさせられてしまった。それは相変わらずのラッセル・クロウの独りよがり的な演技が鼻についてしまうからだ。挙句の果てにはイスタンブールのホテルで働く未亡人(オルガ・キリレンコ)とのロマンスまで芽生えてしまう、荒唐無稽さ。この時代のイスラム教徒の女性の描き方としては相当乱暴ではないか?ということで子を想う父の気持ちはわかるが映画としては空回りとしか思えない。

「ディーパンの戦い」スリランカ映画?
スリランカ難民のディーパン。反政府軍のディーパンは内戦で家族を失う。難民としてフランスに向かうが、家族として難民申請した方が有利と、その途中に同じくスリランカ難民の若い女のヤリニと9歳の少女イラヤニの3人で偽装家族となる。フランスでは荒廃としたマンションの管理人となって、フランス社会に溶け込もうとする。しかし家族とは云っても所詮他人、お互いの気持ちはばらばら。そんな時、このマンションでの麻薬抗争が勃発。3人はそれに巻き込まれてしまう。
 カンヌ映画祭でパルムドール賞を受賞。スリランカ内戦についてほとんど知識がないのでこの映画の背景が呑み込めないが、本質的にはそれは関係ない映画である。偽装家族となって難民として生きてゆく3人の生きざまがぬるま湯の日本では実感できないほど厳しいものだった。

「カットバンク」リアム・ヘムスワース、ボブ・ソーントン、ジョン・マルコヴィッチ、ブルースダーン主演
カットバンクはモンタナ州の町の名前である。予備知識なしで見たが案外面白かった。脇役陣の充実ぶりは凄いものだ。皆飄々として演じておりそれも見どころの一つだろう。
 アメリカでもっとも寒い町、モンタナ州カットバンク、人口3000人の小さな町である。ドウエイン(ヘムスワース)はスタン(ソーントン)経営の自動車修理工場で働く、父親が介護老人で、とにかくこの町を出てゆきたい一心である。ドウエインがデートの最中に殺人事件を目撃、それをヴィデオで撮影する。ところがなんと郵政省から殺人事件の証拠のその映像には10万ドルの賞金がでるというのだ。しかしその事件のあとドウエインの周りではこの事件にかかわる人物が次々と殺されてしまう。
 この映画の主題は閉塞感だろう。町の人は何らかの形で皆外に出たがっているか出たがっていた。しかしそうは思っていてもなかなか抜け出せないのだ。シェリフのマルコヴィッチ、郵便配達人のダーン、それとスタンやもとミスカットバンクの酒場のおかみなどの台詞の端々がそれを物語っている。役者の飄々とした演技が暗さを打ち消している。しかし最後は少々お気楽な結末。

「X・ミッション」ルーク・ブレイシー主演
原題はPOINT BREAK。ジョニー・ユタ(ブレイク)はバイクライダーであり冒険家で自分の映像を売って生活をしているが、山で無謀なバイク乗りの結果友人を死なせてしまう。ユタは其の稼業をやめ、学業に戻りなんとFBIをめざす。研修生としてある事件にのめり込む。それは義賊まがいの犯罪だった。ユタはその犯罪は8つの修練という、ある日本人の考えた環境保護運動に絡んだ行動と関係があると見破る。ユタは密かにその犯罪集団に侵入するが?
 この映画は正直よくわからない。飛行機からダイブしたり、山をモモンガみたいに飛び降りたりする修練がなぜ環境保護に結び付くのだろう?それと修練の中で犯罪に結びつくものとそうでないものとがあるのだが、その関連が良くわからない?まあ私には奇妙な映画としか思えない。

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