ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2016年08月

2016年8月31日

「コンビニ人間」 村田沙耶香 文芸春秋
芥川賞受賞作品。社会の規範に当てはまらない36歳の古倉恵子、子供のころ、死んだ小鳥に皆はお墓を作ろうと云ったのに彼女は焼きとりにした方が良いと云った、そういう女性だ。彼女は成長するにつれ自分の物差しと他人の物差しとは違うことに気付き、自分を隠すようになる、やがて成人して自分が安住できるのはコンビニだと云う事を発見。それは自分の行動を考えなくてすむから。すべてマニュアルに従えば良いのだから!初めて自分が社会的人間として生きられる世界なのであった。それが破られるのは白羽という奇妙な男性との出会いある。彼と同棲することにより、古倉の世界は変わってしまう。ユーモラスな文章でおもわずほほが緩んでしまう部分も多いが、異分子を排除する社会の恐ろしさを感じてぞっとする一方、こう云う女性が職場にいたらちょっと困るだろうなあとちょっぴり思った。

「落陽」 朝井まかて(祥伝社)
明治天皇が亡くなり、陵墓はご自身の御遺志もあり京都に作られることになった。しかし東京側では財界の渋沢栄一らを中心に天皇の魂を祭る神社の建立を建策する。しかし東京は神社を取り囲む植物林に相応しい針葉樹が植物相から云って不適合であると林学者らから反対の声がでる。本作はこの明治神宮の誕生物語をジャーナリストの目から見つめた小説である。主人公はタブロイド紙の記者瀬尾亮一と伊東響子である、これに編集長やら林学者やら、植字職人やらがからむ。政治家や宗教家や財界人は名前だけで表には出ない。そこが面白いところだろう。本書に描かれる庶民の暮らしや庶民の天皇に対する思いなどが実に興味深い。明治天皇を祭る神社が主人公の様な作品だがその実は天皇に対する日本人の思いの原点を見つめる作品のようにも感じた。夏目漱石の奏悼文はその一例だろう。面白く読んだ。

「暗幕のゲルニカ」 原田マハ著(新潮社)
本作は美術小説と云うジャンルの様だがとても面白く読んだ。ただ原田氏のたとえば「キネマの神様」のようにじわっと心の底から湧いてくる感動と云う部分は少々薄く、作りものの面白さと云えよう。その原因はこの作品はメッセージ性が強いことにある様に思う。メッセージが表に出過ぎなのである。ピカソの作品「ゲルニカ」のもつメッセージが主題であるが、すなわち、非戦、非暴力、民主主義の訴えである、その訴えが文章で何度も出てくると少々煩わしく感じる。
 話は2つの時代で生きる二人の女性が主人公である。かたやニューヨークの現代美術館の絵画部門のキュレーターである日本人の八神瑶子、時は9・11のあの時代である。そしてもう一人はピカソの愛人で写真家のドラ・マール(実在)である。時代は1937年ころから終戦までである。この二人の共通点はピカソ、その中でも「ゲルニカ」への思いである。時空を超えてこの二人が結びつく面白さは、最後までこの小説のページをめくる手を緩めさせてくれない。個人的に云えばダヴィンチ・コードのようなサスペンス性が欲しいなあと思うが、それは著者の思案の外なのだろう。

「サイクス=ピコ協定・100年の呪縛」 池内 恵著(新潮選書)
今日の中東問題の原点、諸悪の根源であるといわれているサイクス=ピコ協定を検証した作品である。本書によればサイクス=ピコ協定は実際にはロシアもからんでおり、サイクス=ピコ=サゾノフ協定と云う。しかしこの協定はロシアの共産革命やフランスの力不足で実行にはうつされていない。その後に結ばれたセーブル条約とローザンヌ条約が今日のトルコ、中東の地図を決めたという。本書の第一章はそれが詳しく書いてあり実に面白い。ついでロシアとトルコの関係、クルド人の独立、そして難民について触れ最後に定番ながらアラビアのロレンスについての面白い記述もある。後半では難民についての記述が興味深い。極端なことを云えば難民が国家を作るという、それが国家成立の歴史なのだという。
 本書はシリーズの1作だそうだが、続編を期待したい。中東問題を基礎から勉強したいという方にお勧めである。なお本書でも今の中東は冷戦下にあるとの表現を使っているのは興味深い。山内昌之氏の「中東複合危機から第三次世界大戦へ」をあわせて読むことをおすすめする。

2016年8月30日

「インサイダー」イ・ビョンホン、チョ・スンウ、ペク・ユンシク
韓国の政財界の恥部を描いた硬派の社会ドラマである。
 アン・サング(ビョンホン)はヤクザ上がりで、表向きアン芸能事務所の社長だが、実は祖国日報と云う新聞の社主である、イ・ガンヒ(ユンシク)の汚れ仕事を請け負っている、弟分でもある。イ・ガンヒはミレ財閥(自動車)のオ会長と組んで元検事のチャン・ビル議員を大統領にするべく暗躍している。しかしこの3人の盟友はミレ財閥への3000億の銀行融資の一部をを裏金とし、選挙資金とする企みの内部告発の証拠をアン・サングに掴まれてしまう。一方警察上がりのウ・ジャンフン検事(スンウ)はコネなし血縁なしの一匹狼検事としてチョン・オ・イの三人の癒着を追う。アンとウが結びつくとき事態は思わぬ展開を迎える。汚れ役のビョンホンが飄々と演じていてるし、検事役のスンウの熱血検事ぶりも屈折した心情までうまく演じていた。しかしペク・ユンシクの黒幕ぶりはそれ以上。これは血縁、地縁、コネの韓国社会の実相もあぶりだして予想以上に面白い映画だった。

「スパイ」メリッサ・マカーシー、ジュード・ロー、ジェイソン・ステイサム
お下劣で卑猥な映画だ。マシンガンのように汚い言葉が飛び交うエネルギーは凄いと思うが虚しい。ジュード・ローやステイサムがこの様な映画に出るとは嘆かわしい。話はCIAの内勤のデブでおブスのマカーシーがスパイになって大活躍するという荒唐無稽なもの。

「ドリーム・ホーム/99%を操る男」アンドリュー・ガーフィールド、マイケル・シャノン他
原題は「99HOMES」。デニス(ガーフィールド)は母親と息子と3人で住んでいるが失業してしまいローンが払えず家は差し押さえを食らってしまう。差し押さえ代行会社の社長のカーバー(シャノン)から家を追い出されて、なくなくモーテルへ引っ越してゆく。しかしひょんなことからカーバーに雇われるようになってしまう。やがてデニスはカーバーの分身になって追いだしを請け負ったり、違法すれすれの行為で法外な金を稼ぐようになってゆく。アメリカ社会のウイン・ルーズ、つまり勝ったものが成功し金を得るが負けたものはとことん負けて家まで失うという有り様を描いた映画である。エンドクレジットを見ると中東系のスタッフの名前が目立つのでハリウッド映画ではないかもしれない。みていて少々つらい映画である。

「エリザベス」
原題は「CLOSER TO GOD」。「ローズマリーの赤ちゃん」風の悪魔ものかと思いきや、クローン人間の話である。クローン人間の功罪、是非を問うた作品。まじめな作りでサスペンス要素もあるが表面的すぎてドラマとしてもう少し掘り下げのほしいところ。

2016年8月30日

「裁かれるのは善人のみ」ロシア映画
原題は旧約聖書にでてくる怪物「リヴァイアサン」、ロシア地方都市の政財聖の癒着を描いた恐るべき映画である。8/30朝日新聞の朝刊の記事「プーチン政権、地方のひずみ」をあわせて読むとこの映画で描かれた内容は荒唐無稽でないことが分かるだろう。
 ロシアの北部の漁港、プリプジヌイ市、小さな町である。そこは市長とギリシャ正教の司祭が牛耳っている町である。その町に古くから住んでいるコーリャ、妻は後妻である。市長の策謀で立ち退きを食らう。戦友の弁護士、ドミトリーの支援も受けて裁判で逆襲を図るが、市長側の反撃も厳しく、立ち退かざるをえない状況におちいってしまう。その後の展開は一言ではなかなか表わせない、人間ドラマであり社会ドラマである。
 この映画の面白さは地方都市の有り様をリアルに描いていることではないか?コーリャは絶望に陥り神に救いを求めているが、実はそこでも地方の権力との癒着があり、そこでは中央につながっていることも感じさせる政治構造を垣間見ることができる。見ていて何とも疲れる映画だった。

「1944、エストニア戦線」エストニア映画
珍しいエストニア製の映画である。エストニアとエストニア人の不幸な運命を描いた。
 1940年、エストニアはソヴィエトに占領され人々は徴兵されたり、収容所に送り込まれたりする。しかしナチスドイツが侵略してくると今度はドイツ軍として編入されてしまう。エストニア人はソヴィエト軍とドイツ軍とわかれて同志討ちになってしまうのだ。その中でドイツ軍のカールと赤軍のユーリに焦点を当てて、エストニアの不幸を浮き彫りにする。大国のはざまの小国の不幸が見ていて辛い。

「ブラック・スキャンダル」ジョニー・デップ、ジョエル・エジャートン、ベネディクト・カンヴァーバッチ他
「裁かれるのは善人のみ」はロシアの都市の癒着を描いているが、本作はアメリカのボストンの政官癒着が描かれている。1975年ボストン南地区、アイルランド系ギャングジミー・バルジャー(デップ)、FBIコノリー(エジャートン)そしてジミーの弟の上院議員のビリー(カンバーバッチ)は幼馴染である。ジミーはコノリーと協定を結びギャング仇のイタリアマフィアのアンジェロを倒すために情報提供を行う。そしてボストンを牛耳る大物ギャングにのし上がる。デップのメイクアップには恐れ入るが、3人の幼馴染役が私にはそれらしく見えないのが物足りないところ。特にカンバーバッチとエジャートンがそうだ。カンバーバッチがこの癒着にどうからむかもやもやしていて物足りない。
 ボストンのアイルランド系ギャングの物語といえば「ディパーテッド」を思い出す。血の濃さははどちらも感じるが、映画の出来は相当違うように思った。

「キジ殺し・特捜部Q」
デンマークのベストセラー小説の映画化。原作も読んでおり興味深く見た。映画化に際しては骨格には手を入れずほぼ忠実に再現している。俳優はウルレク以外は全くなじみのない人ばかり。キミー役、ローサ役はイメージに合わなかった。カール、アサド、ローザの特捜部Qのメンバーは20年前の殺人事件の再調査に取り組む。思いもよらない犯罪が背後にあることが暴かれる。回想シーンの挿入がうまくいっていて、面白いサスペンスに仕上がっている。

「砂上の法廷」キアヌ・リーブス主演
原題は「WHOLE TRUTH」、キアヌ・リーブスがアクション役ではなく、殺人事件の弁護士になっているのが面白いところ。弁護士のランダーは息子のマークに殺されてしまう。ラムゼイ(リーブス)弁護士はランダーの同僚でマークの弁護を引き受ける。しかしマークは完全な黙秘を貫くので、ラムゼイは弁護ができず検察にやられっぱなしになってしまう。果たして判決はどうか?誰の証言が正しいのか見ているほうも疑心暗鬼になってしまうストーリーが面白い。静かな抑えた音楽も利いている。

2016年8月17日
於:サントリーホール(1階20列中央ブロック)

読売日本交響楽団・第595回名曲シリーズ
指揮:セバスティアン・ヴァイグレ

メンデルスゾーン:序曲「ルイ・ブラス」
シューマン:交響曲第四番

ドヴォルザーク:交響曲第八番

真夏のコンサートと云えば爽やか系の音楽がつきものだろうが、読響名曲はかなりしっかりしたドイツものが三曲。暑苦しいなあと思いつつも案外と楽しんでしまった。指揮者も演奏者のみなさんも、御苦労さま。
 ルイ・ブラスは初めて聴く曲ゆえパスして、メインの2曲について触れよう。両曲とも聴きごたえのある演奏だったが、後半のドヴォルザークは特に印象に残った。
 前半のシューマンが軽量級の音楽に聴こえるほど、このドヴォルザークはずっしりとして低重心。ボヘミアの音楽と云うよりも、ドイツのシンフォニーの系譜を思わせるような印象である。1楽章の冒頭からバスがしっかりと音楽を支えている。しかしただ単に重々しいというだけでなく、最初の主題などは軽やかであり、音楽は柔軟である。たたみこむような終結部も威力がある。2楽章はしなやかな弦や木管が印象的である。しかし後半で音楽の雰囲気ががらりと変わるがこの対比にもわざとらしさがないのが良い。3楽章もボヘミア風でないが、ドヴォルザークの郷愁を誘う様な旋律を大きく歌い上げている。ちょっと大ぶりな演奏になるが、これは本来この曲が持っている要素だろう。終楽章は緩急の妙が何とも云えず小気味良い。終結部の運動も威力があるが、私の好みからするともっと活発でも良いと思う。久しぶりに素晴らしいドヴォルザークを聴かせてもらった。演奏時間は38分。

 読響のシューマンといえば、カンブルランとの「ライン」が思い出される。あの演奏はおそらく読響の演奏では一二を争うものだったと思う。あれほど音楽がギュッと詰まったシューマンというのは聴いたことがない。私のシューマンの印象は拡散であって、凝縮ではないのである。それをカンブルランは意表をついて凝縮に向かう。
 さて、ヴァイグレのシューマンはどうか?シューマンの美しい旋律を丁寧に拾って聴かせるのはよい。2楽章や3楽章の中間部などの美しさは特に印象に残る。しかし両端楽章のうっそうと茂ったゲルマンの森林を思わせるような、重々しい音楽はここにはあまりない様な気がした。例えば5楽章の冒頭の荘重な音楽もそういうようには聴かせてくれない。両端楽章の主部のたたみこむようなオーケストラの跳躍もエッジがなまった様で切れと迫力に欠ける。この演奏を聴いているとドヴォルザークのほうがシンフォニーとしてはずっと出来が良いのではないかと思ってしまう。演奏時間は30分。

2016年8月9日

「シスト」初瀬 礼著、新潮社
シストとは嚢胞と云う意味だ。本書は社会派サスペンスというふれこみであるが、広義で云えばそうなるだろうが、私の定義ではこれはパンデミックものであり、謀略物である。スケールの大きな、ストーリーが魅力の作品だ。更に云えばマスコミへの厳しい目や、現在の老人社会やアルツハイマーなどへの視点もある、視野の広い作品である。面白く読んだ。
 主人公は御堂満里菜、父はわけありロシア人で自分を置いてロシアに帰ってしまい、母は若くして亡くなり、いまは一人で生きている。フリーのジャーナリストとしては少しは世界でも知られている。戦場などの生々しい取材が得意だ。話の発端もチェチェンの戦場である。チェチェンからの取材が終わり、帰国直後からタジキスタンで発生した恐るべき感染力をもった伝染病によるパンデミックが発生する。満里菜はそれに巻き込まれる。それに加えてアメリカ国防省やロシアの情報局までがからみパンデミックから謀略物に話は大きく展開してゆく。全体の話の構成は実は半歩先が読めるサスペンスなのでハラハラ感は乏しいが実によく考えられた複合的・多面的な構成で読み飽きない。ただ彼女以外の主人公のキャラが説明的だったり、ステレオタイプだったりするのが少々物足りないところだが、主人公の魅力がそれを補って余りある。映画化してほしい作品である。

「謎のアジア納豆」高野秀行著、新潮社
別に納豆はそれほど好きではないが、つい手にとって読んでしまった。なかなか面白い本である。その面白さの原点はなんと云っても著者の納豆に対する飽くなき思いである。
 私は納豆は日本人しか食べないのかと思っていたら、なんとアジアには納豆を食する人々が大勢いるということが良くわかった。しかもそれらの人々の分布は決して広範ではなくシルクロードのヒマラヤをはさんだ南側の少数民族の食生活に共通しているという。彼らの原点は中国の南の少数民族で漢族に追われて今のミャンマー、タイ北部、ブータン、ネパールなどに流れてきた民族らしい。中国に残るのは苗族だという。
 しかしそうなると日本の納豆とアジア納豆の接点はどこにあるのだろうかという疑問がでてくる。著者はそれについても納豆の製法や納豆の姿などの切り口で言及しているがそれはなかなか決め手がないという。
 納豆が好きな人にも嫌いな人にもお薦めの力作である。

「明治のワーグナーブーム・近代日本の音楽移転」竹中 亨著、中公叢書
この本が音楽史やワーグナー演奏論など音楽に主眼をおいた作品として読むと少々がっかりするだろう。そういう意味では詐欺的タイトルである。騙されたくない人はまず本書を手にとってあと書きから読んで納得してから購入すべきだろう。もちろん明治の社会思想史の一片を描いたものとしては面白かったのも事実である。
 本書は明治になってから洋楽が如何に日本の社会に溶け込んで、邦楽を押しのけて、学校教育の中心となっていき、普遍化に至ったのかを克明に述べている。明治の初期には邦楽と洋楽の融合を図り国楽を目指すが、やがて文明開化の波にのって音楽の西洋化が進む。それは東京音楽学校の設立や外国教師たちの活躍、日本人留学生の物語、日本でのコンサートの様子などの逸話によって描かれている。しかしなかなかワーグナーにはたどりつかない。言っておくが、ワーグナーがでてくるのは序章と最終章のみである。明治の人は楽劇を直接見たり聞いたりできなかったはずだが、それにもかかわらずワーグナーブームが識者の間で起きたのはなぜなのだろうか?著者はそれを社会思想的背景によるものだと述べている。それは西洋音楽が日本の社会や教育に移転したプロセスと同じだとしている。音楽の先生になる人にはお薦めの本だ。

「反戦、脱原発リベラルはなぜ敗北するか」浅羽通明、ちくま新書
リベラルとは穏健な革新派を云うらしい。反原発デモや安保関連法案反対のデモを主導するが結局は原発は再稼働するし、安保関連法案は通過してしまった。しかし安保関連法案を例にとると、あれだけ大規模なデモを主導できたのに、その運動とは無関係にいとも簡単に法案が通過してしまったのはなぜなのだろう。本書はそういう疑問に答える論争書である。日ごろリベラルとは、などということはほとんど考えた事がなかったし、国会を取り巻くデモをみてもあまり共感はできなかったのだが、本書を読んでなぜ共感できなかったのかよくわかった。

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