ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2016年07月

2016年7月21日
於:東京オペラシティコンサートホール(1階17列左ブロック)

東京フィルハーモニー交響楽団、第103回オペラシティ定期シリーズ
指揮:チョン・ミュンフン

モーツァルト:交響曲第40番

チャイコフスキー:交響曲第四番

チョン・ミュンフンは過去何度か聴いたと思うのだが、どうも印象が薄い。2013年のフェニーチェ劇場の引っ越し公演で「オテロ」を振ったのは覚えているのだが?

 今夜は久しぶりに聴いたのだが、実に見事な演奏で正直驚いてしまった。なにより良かったのは、オーケストラの鳴りっぷりが実に良いことだ。トゥッティでの音の充実度はモーツァルトもチャイコフスキーもほれぼれするほど魅力的である。オペラシティと云うこともあるのだろうけれども、それにしてもなかなかこうは響かないのがライブなのだ。

 40番はオリジナリティに富んだ演奏だと思った。古楽風と云う訳でもなく、また伝統的な情緒過多の演奏でもない。両端楽章は速いテンポで押し切るが、強引さは感じない。モダンオーケストラによる響きを最大限に生かした極上のモーツァルトが聴ける。テンポの揺れ動かしも結構激しいが、これもあまり無理は感じない。ただいろいろいじっている割には悲劇性と云うか、劇的なものはあまり感じなくて、そういう意味では現代的な、純音楽的な演奏と云うべきだろうか?2楽章は幾分腰を落として、ゆったりと音楽は進む。ここで印象的なのは低音楽器である。音楽はうねるように進む。くすんだ響きが何とも魅力的ではないか?メヌエットはまた最初のテンポに戻るが、トリオでは2楽章より更に腰を落として、大げさにいえば、止まらんばかりの、進み方である。ホルンは雲間の木漏れ日と云うより、燦々と輝く太陽の様に明るいのが印象的だった。演奏時間は30分弱。反復は丁寧に演奏されていたように思った。

 チャイコフスキーの四番を聴くのは久しぶりだ。このごろCDでも聴くことは皆無である。両端楽章の大げさな音楽に辟易する様な年になったのだろうか?若いころは勇ましいモットー主題がでてくるとぞくぞくしながら聴いたのだが?
 しかし、今夜のミュンフンの演奏はそういうこの曲の外面的な所を生かしながら、随所に面白さを見せてくれて、この曲も久しぶりに聴くと、なかなかのもんだなあと、失礼ながら、改めて感じた次第。
 1楽章はスケールが大きいし、緩急の落差も大きい。まあ、あざといと云えばあざといわけだけれども、それはこの曲の持つ潜在的なものを引き出したんだぜといわれれば、ああそうかと思ってしまう、そういう音楽の運びだ。例えば1楽章のモットー主題と第1主題の間や第1主題と第2主題の間の止まるようなテンポは凡百の指揮者では間が持たない様な遅さだが、限界のちょっと手前で次に進んでくれるところが憎らしいくらいだ。1楽章の長大な終結部の進め方などもけれんみたっぷりだが、この音楽にはフィットしていて、興奮を呼ぶ。
 2楽章の重苦しさは曲想通り。美しさと苦さを兼ね備えた演奏。3楽章のピチカートと木管の掛け合いは小気味のよいものである。4楽章も1楽章同様スケールの大きな演奏である。終結部のたたみこみ方は圧倒的でオーケストラもしっかりと食らいついていた。冒頭書いたように、オーケストラの鳴りっぷりの良さが今日の演奏を更に魅力的にしたといえよう。演奏時間は44分弱。

2016年7月19日
於:サントリーホール(1階20列中央ブロック)

読売日本交響楽団、第594回名曲シリーズ
指揮:コルネリウス・マイスター
ヴァイオリン:バイバ・スクリデ

ベートーベン:ヴァイオリン協奏曲

ブラームス:交響曲第二番

6時半に六本木一丁目駅に着き、サントリーホールに向かったが、途中の通路で水しぶきが飛んだので、何事かと思ったら、大雨だった。サントリーホールの前の広場には大勢の人が雨のため足止めを食らっていた。わずか数十メートルだが傘があってもずぶぬれになる大雨だ。会場に入るといつもと違ってなにやらむしむしする。そうだろう、二千人近い人が雨にぬれて会場に入ったのだから! ということで今日は楽器も演奏者もかなり大変なコンディションだったろうと思った。

 若い音楽家によるドイツの重厚な曲目2曲によるプログラムである。まずベートーベンである。オーケストラだけの主題の提示は随分とすっきりして、5月に聴いた佐渡/トーンキュンストラーの少々けれんみのある音楽作りとは異なっていて、ははあ今日はこうくるかとこちらも少々身構える。ドイツの若い指揮者が佐渡のような重厚な音楽作りをしないで、古楽風とはいわないまでもこのようにさっぱりとした音楽作りをするとは、何か逆転現象を見ているような気分である。しかしその反面若々しい繊細さは十分感じられこれはこれでベートーベンの一面を描いているように思った。このオーケストラによる主題は2回戻ってくるがいずれも冒頭と変わらないスタイルである。ヴァイオリンも1楽章では大人しく、指揮者の流れにのっているように思った。
 2楽章は逆にヴァイオリンが全体を支配するように感じられた。オーケストラは伴奏に近い、ヴァイオリンは実に奔放に鳴り響く。そして3楽章になって初めて協奏風になる。ここではえらく音楽は活発になり、そして凄いテンポで駆け抜ける。ヴァイオリンは奔馬の如くオーケストラを従えて突進する。後半の2楽章は面白かったが、全体として何かまとまりの欠けたような印象で、古今の名演奏の中で果たしてどの程度の存在感か、ちょっと疑問の演奏ではあった。演奏時間は41分強。アンコールはウェストホフのヴァイオリンソナタ第3番から第3曲「鏡の模倣」

 ブラームスも実に若々しい、青臭いとも感じられるような、フレッシュさである。1楽章はあまり面白くないが後半の3楽章がこの指揮者らしさがでたようだ。2楽章は実に情熱的である。身悶えする様な、まぶしい青春を感じる。3楽章の中間の勢いは大したもので、聴き手の耳をひきつけるものだ。4楽章は速いテンポで駆け抜けるが、これは少々勢い余ったところがあって、指揮者の気持ちとオーケストラが必ずしも同期していないのではないかと思わせる部分もあってちょっと残念だった。例えば終結部の盛り上がりから着地の部分で、ちょっとマットからはみ出たようだ。演奏時間は44分強。

2016年7月18日
於:東京文化会館(1階10列右ブロック)

東京二期会オペラ劇場
 モーツァルト「フィガロの結婚}

指揮:サッシャ・ゲッツェル
演出:宮本亜門

アルマヴィーヴァ伯爵:与那城 敬
伯爵夫人:増田のり子
ケルビーノ:青木エマ
フィガロ:荻原 潤
スザンナ:高橋 維
バルトロ:長谷川 顕
マルチェリーナ:石井 藍
バジリオ:高田正人
ドン・クルツィオ:升島唯博
アントニオ:畠山 茂
バルバリーナ:全 詠玉

合唱:二期会合唱団
ハンマーフリューゲル:大藤玲子
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

二期会のメンバーによる実に安定した、一つのスタンダードというべき、公演。何よりも安心して見て/聴いていられることがありがたい。当然のことながら歌手たちはすべて日本人である。ダブルキャストは相変わらず、私が聴いたのは2セット目のほうである。

 今日の公演でまず印象に残ったのはオーケストラの演奏だろう。ケッツェルは初めて聴いた指揮者だが実に感心した。序曲を聴いてまず響きの薄さが耳に入る。音楽は軽快で、きりりとしまっている。古楽風のスタイルとは違うけれども、例えばクレッシェンドで音楽を狩りたてたあと、ティンパニがパーンと小気味よく叩かれ、金管の鋭い音が鳴ると、これはいかにも今日的なモーツァルトだなあと思わされる。しかしクルレンティス/ムジカ・エテルナの録音を聴いた耳にはこの程度では驚かない。むしろ幕が開き歌がでてくる時、この指揮者の真骨頂が現れるのではないか?響きの薄さはしなやかになってきて、とにかく何でもない様な音楽で、さらっと音楽を流しているようで、実はとても印象的に響くのだ。例えば2幕で伯爵がドアを壊そうとする瞬間、スザンナが現われ伯爵も夫人も驚くが、スザンナは涼しい顔で歌う第7景などはその例である。
 気のせいか今日は女性に付けたオーケストラの音が実に素晴らしく耳に残る。伯爵夫人の2曲、ケルビーノの2曲はその例、しかし最も素晴らしいのは4幕の第28曲のスザンナの愛のアリア、ここは決して濃淡をつけてているわけでもないのだが、スザンナの歌を通じて愛を語るモーツァルトの声を感じさせるのだ。終幕の伯爵夫人の許しの音楽同様の普遍性を感じさせるそういう演奏なのだ。
 アンサンブルでの音楽の進め方も実に生き生きして楽しい。2幕や4幕の幕切れのアンサンブルの楽しさはどうだろう。久しぶりに聴いたフィガロだが音楽の素晴らしさを改めて感じた次第。

 演出は再演の様だ。この演出の妙は人の出し入れにある様に思う。どの場面でも人がごチャ付かず実に自然に動く。1幕の伯爵、スザンナ、バジリオ、ケルビーノの場面などどたばただが、決して動きが不自然にならないのが良い。これは歌い手の演技が良いこともあるのだろう。2幕の幕切れも機械的にならず、歌に聴衆を引きつけつつも、歌い手は自然に動いているのである。まあこういう場面はあちこち出てきて面白い。ただポネルのような絵画的な美しさなどはあまり期待できない。装置はシンプルで各幕は大きな箱の様なものが舞台の2/3位を占めて、その中で芝居が進む。まあ空間がもったいない様な気もするがそれほど違和感はない。4幕は大きな門型の構造物が組み合わされ伯爵の屋敷の広大な庭園を描く。農民や召使と貴族階級との対立軸といったものは表立ってでてこないがフィガロが伯爵に抵抗する場面もあってどきっとさせる。

 歌手たちのパフォーマンスは決して超一流とは云えまいが、しかしキャスティングが行き届いているせいか、とにかく穴がなく、実にバランスがとれているのが良い。2012年のウィーン来日公演だって、これが世界の超一流の公演だって、と思われる歌唱もなきにしもあらずだから、それとくらべても、十分伍していける演奏の様に思った。まあちょっと誉めすぎかもしれないが、フィガロをこれだけ楽しませてくれたのだからお礼を云わねばならないだろうということは間違いない。
 与那城は随分声が丸くなり豊かになった様な気がする。召使に翻弄される伯爵を無難に演じていた。伯爵夫人は2曲の素晴らしいアリアをうまく乗り切り、特に3幕の第20曲のアリアは夫人の心情を美しく描く。あと少しの伸びやかさが声にあれば云うことはない。スザンナはコケットさよりも頭の良い女の子といった趣。知性派のスザンナでフィガロや夫人や伯爵まで翻弄する。これも声にもう少し張りが欲しいが、ひとつのスザンナのスタイルを聴かせてくれた。フィガロは少々影が薄い。まあそういう演出かもしれないが、セビリアみたいに舞台を回しているという役回りではないような気がした。荻原の歌は相変わらず安定したもの。ケルビーノは舞台姿の美しさが印象的。声も良く通り、2曲を素晴らしく歌い上げ、たくさんブラヴォーをもらっていた。その他マルチェリーナの演技、歌唱が印象に残った。
 演奏時間は178分。なお4幕のマルチェリーナのアリア(25曲)、バジリオのアリア(26曲)はカットされている。

2016年7月16日
於:サントリーホール

東京交響楽団、第642回定期公演会
指揮:ジョナサン・ノット

ブルックナー:交響曲第八番(第二稿、ノヴァーク版)

この4~5年でブルックナーの八番を今日を含めて12回も聴いている。私の印象では「八番」には外れの演奏はない。今回を除いた演奏で印象に残ったのは今年の1月に聴いたスクロヴァチェフスキーのもの、2010年より断然好きな演奏である。ついで今年の2月に聴いたバレンボイムのもの。シカゴとの録音と姿かたちは似てはいてもスケールアップしている。もうひとつ2015年のヤノフスキーのもの。おそらく自分の好きな演奏にこれがいちばん近いように思った。その他2010年のティーレマンや2011年のシャイー、2010年のスダーンの演奏が個性的で印象に残っている。聴いた中で2010年のインバルは初稿のため参考にならず、2013年の東京アカデミッシュは素人オーケストラで指揮も遊び的で対象から外すと、のこりの10の演奏はそれぞれ思いで深いものばかりだ。

 さて、知性派のノットのブルックナーはどうだろうか?彼はマーラーもブルックナーも両方レパートリーにしている指揮者である。過去聴いた経験で言うとマーラーの方があっているような気がする(三番はよかった)。ブルックナーでは緻密な音楽の構造が全体を機械的にするようなイメージがあってブルックナーは向かないのではないかと思っていた。しかし今日聴いてその様な不安は払しょくされた。全体にきりりとスマートな演奏であることはいうまでもないことだが、そうは単純でないところがノットの芸術なのだろう。
 特に両端楽章が素晴らしかった。1楽章は案外と重々しく入って来るのでちょっと意表を突かれた。もう少し軽やかに入って来るとばかり思っていたからだ。1主題の提示はその延長線にあり実にきちんとしたものである。なるほどこう来るかと思っていたら、2つ目の主題が一筋縄ではいかない、ここで表情が急に和らいで、音楽がしなやかになり、音色も多彩になり、じつに魅力的なもので、思わず引き込まれる。とおもっていたら、3つ目の主題はそういう思いを振り切るように、音楽は忽然と立ち上がり、走り出す、そしてその3主題の盛り上がりはブルックナー音楽の強く固い構造物という側面を明らかにするほど、力強い。以下展開、再現も同様であるが、再現部で3主題の屹立する様は聴きものである。
 4楽章の冒頭の1主題の提示部の荒々しく男性的な様は、今日初めてブルックナーの野人性を表わしたものではあるまいか?ここでは知性派ノットも情熱が爆発するのだ。ティンパニの炸裂、金管の咆哮、まさにブルックナーサウンドである。3主題も荒々しい、しかしその中でも音楽は決してあわてて走りだしたり、急に加減速はしないところがノットのよいところで音楽の流れに任せられるのである。聴きものは再現部からコーダへの道だ。これはまるで物語を見ているような、劇的な効果が感じられる。だからといって音楽にはけれんみはまず感じられない。ここでは1~3主題が順次出てくるが、音楽は沈む込むようなところから3主題の屹立する部分までリニアに立ちあがり、この噴き上がりが気持ち良く、劇的だ。そして一呼吸おいてコーダ。ここでは音楽は急加速はさせない。しかし良く聴くと少しづつ速くなっているが、それは実際にはあまり感じなくて、むしろ興奮させる効果につながっている。そしてスケルツオ主題が帰って来る時、音楽は素晴らしく巨大に膨れ上がり終結を迎えるのだ。なんとも素晴らしい音楽だった。
 2楽章はいささか速すぎるような気がする。スケルツオはまるでスポーツカーに乗ってすっ飛ばしているような感覚。オーストリーの野人のあらぶる音楽には感じられない。ただ面白いのはスケルツオの中間の展開の部分、ここはまるで蝶がひらひら舞うように音楽が聴こえ、素晴らしく美しい。トリオの部分は少々私には幽玄さ足りないような気がした。ここはヴァント、クナパーツブッシュやカラヤン(新)などの先輩たちのCDに一歩譲るように感じた。
 3楽章は2主題がとても素晴らしく気に入った。弦楽部へのノットの細かい指示が手に取るように分かり、ここでは音楽の持つ精妙さを引き出していた。クライマックスへの道も決して急がないのがノット流というか、シャイーやバレンボイム、ティーレマンらとちがうところで、どちらかと云うとカラヤンやヴァントの流れの音楽だということが分かる。
 全曲78分は決して遅い演奏ではなく、むしろ速いが、2楽章を除いてテンポには不自然さを感じさせなくらい自然な流れだった。オーケストラの充実ぶりも特筆すべきである。なおレコーディングのマイクが林立していたのでCDで発売されるのだろう。
 演奏が終わりタクトが降りるか降りないか、会場がまだ静まっている中。P席の某がブラボーと叫んだ。これはレコーディングへの意地悪としか思えないくらいタイミングが良い。しかし聴衆は大人でありまだ静寂を保ち、ノットが正面に向いた途端にふっきれたようにブラボーの嵐。まあこれだけ拍手をもらえば指揮者冥利に尽きるでしょう。ノットは最初はつまんない指揮者だなあと思っていたが、聴くたびに味がでてくる。今後ますます期待したい。


 

2016年7月12日

「1493・世界を変えた大陸間の交換」チャールス・C・マン、紀伊国屋書店
原題は「UNCOVERING THE NEW WORLD COLUMBUS CREATED」
 著者は「1491」でコロンブス以前のアメリカ大陸を描きそして本作「1493」ではアメリカ発見後のアメリカ大陸そして世界の変動を描く、スケールの大きい話だ。著者は学者でなくジャーナリストである。それゆえ読みやすく難解な話もわかりやすい。「1491」の続編になるが遥かに面白い。ただし本編が700ページ、EXHIBITなどが100ページの歯ごたえのある本であることを覚悟して読まねばならない。
 本作のキーワードは「コロンブス交換」である。これはアメリカ大陸とユーラシア大陸アフリカ大陸の人や物、文化の交換(交流)のことである。コロンブス以前にはこの大陸間には何もなかったのである。そしてこのコロンブス交換はさまざまな事象(環境、生活、経済体系に対して)を生み出すが、大きな流れとしては、今日のグローバライゼイションの端緒であるとしている。
 著者は具体的な事象でコロンブス交換とその影響につき説明している。例えばジャガイモ、サツマイモ、トマト、トウモロコシ、タバコなどのアメリカ原産の食物がいかに大きな影響を世界に与えたかを描く。ジャガイモはヨーロッパの飢餓を救う食物となり人口増にも貢献したが、単一作物に頼ったためにこれも大陸間を渡ってきた疫病菌によりジャガイモが倒れアイルランドの大飢饉を生んだという。また中国によるサツマイモやタバコは今日の中国における環境破壊につながっているという。
 銀も世界を大きく変えた。ボリヴィァのポトシの銀はスペインの経済を変え、ヨーロッパの経済を変えた。さらにはフィリピンのマニラ経由で中国の明との交易でモノの流れが大きく変わり、同時に明の貨幣経済のみならず政体に影響を与えた。この様な例をこれでもかと実例をもって描く。
 しかし、極めつけは人の交換だろう。アフリカから奴隷として人が1000万人以上移動したという、その奴隷制への推移も精緻に描かれて面白いが、後半の数章で描かれる奴隷にまつわる話は読むのが少々つらいところである。面白いのは何と言っても銀の流れ、食物の流れ、そして病原菌や害虫の流れである。本書の優れたところはこれらは頭で考えたことだけではなく実証的であることである。こういった交換の影響が今日まで大きく影響していることを現場検証して説明している。
 コロンブスが新大陸を発見せず、3大陸が孤立して今日まできたとしたらどうなのだろうか?孤立していないまでもコロンブスによる発見があと200年遅かったらどうなのだろう。想像するだけで面白いではないか?

 
「中東複合危機から第三次世界大戦へ・イスラームの悲劇」
 山内昌之著、PHP新書
これは面白くもあり骨のある本だ。骨というのはこの本の中心である中東は地勢的にも、歴史的にも、現代史上も実に輻輳しておりなかなか頭に入らないということだ。大体どこの国がスンニ派でどこの国がシーア派などということすら読んでるはしから忘れてしまうのだから始末が悪い。それほど自分にとって中東は遠いところなのであるということを改めて感じた。山内氏は自らこれらの地域に足を踏み入れた最新の状況をもとにして分析をしており、それがタイトルにつながっている。
 中東を源にする危機は新たなスタイルの戦争だという。例えばISによるパリのテロ(著者は虐殺と云っている)そのものが戦争であるという。先の大戦の様な国家同士が連衡して大戦をすると云う時代ではないという。しかしISがシリア、イラク、イラン、サウジなどの中近東の国々に与える影響、それをもろにかぶるアメリカ、ヨーロッパ、ロシアそしてトルコがからまる複雑な国家間の関係は第二次冷戦と云い、新たなスタイルの戦争とこの冷戦が絡まると第三次世界大戦になるのではないか、その火種だというのである。
 この本を読んでいて、例えばロシアのプーチンやトルコのエルドアン、イランのロウハ二などの指導者の政治力には圧倒される思いである。翻ってこの様な国際政治の中で日本の政治家はどれだけ国際的に政治力を発揮しているのか、またできるのか、不安を感じてしまうのが正直な気持ちである。
 プーチンとロシアについて云えばエマニュエル・トッドの「ドイツ帝国が世界を破滅させる」(文春文庫)と合わせて読むと面白いと思う。

「リボルバー・リリー」長浦 京著(講談社)
何ともスケールの大きなストーリーである。荒唐無稽とも思える展開。時代背景は関東大地震の直後、軍縮の時代の話である。文化的にはこれからラジオが普及するかと云う時代である。
 主人公は小曽根百合(推定27歳)、これが凄い女性で、特務機関で諜報活動の教育を11歳から受け、特に銃による接近戦が得意だ。それゆえ銃撃戦の場面の凄まじいこと、まるでチャンバラである。
 日本軍が軍縮で戦備の増強ができない中、軍部は細見欣也と云う男を使って国際投機をおこない莫大な利益を生む。しかし細見は軍部を裏切りその金を隠匿しようとする。その息子が慎太14歳、細見家が軍部に狙われ抹殺される。慎太は、ある人物に依頼された百合の支援があり生き残る。ストーリーの中心は百合と真太の逃避行、この場面の描写は面白いが、400ページ以上の大半がそうなので、少々生臭く辟易しないこともない。この二人にからむ人物たちもみな印象的でうまく描かれている。
 また、ストーリーもさることながら、この時代の描写がきめ細かくてそれを読むのも面白いのである。面白く書かれた上等なエンターテインメントである。

 

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