ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2016年06月

2016年6月29日
於:サントリーホール(1階20列中央ブロック)

読売日本交響楽団、第593回名曲シリーズ
指揮:シルヴァン・カンブルラン
ピアノ:小菅 優

リスト:ピアノ協奏曲第二番

マーラー:交響曲第五番

所用があって前半のプログラムは聴きそこなった。
 後半のマーラーはここ数年では最も素晴らしい演奏の一つだ。特に中間の3つの楽章は比肩するものがないくらいオリジナリティを感じる。音楽は全体に骨太で奔流のように滔々と流れる。過去カンブルランの独墺系の音楽に対するアプローチは2014/11の
シューマンや2013年のマーラーのようにどちらかといったら引き締まった筋肉質の音楽を感じる演奏だったように思うが、今夜のマーラーとはそういう意味では随分と違った、良い意味で、印象だった。その代表が2楽章。ここは実に雄大な音の奔流である。特に後半の部分のとどまるところを知らぬ巨大な音流には抗する術は何もない。最後の5楽章に出てくる主題はまさに切り立った崖から音が落ちてくるようなスリル。
 3楽章のスケルツオ、舞曲風の楽想が楽しさを感じさせるが、実はそうではないということを今夜は気付かされた。ここに出てくる音楽は常人の書いたものではないのではないかと思わせるような、不気味な舞曲である。音楽が美しいだけに凄愴感が高まる。中間の短い休止の後のホルンのこだまの様な響きがその不気味さを打ち消す。このホルンは2度出てくるがいずれも素晴らしい演奏である。そしてクライマックスは置いてけぼりを食ったような寂しさを感じさせる不思議な終わり方。
 アダージェットは幾分速い。ここでは甘さは皆無である。余計な情緒をはぎ取った純粋な音がある。しかしそれなのに各弦楽パートの演奏、一音一音が単なる美音に終わらず、なにか意味深いものを伝えたがっているようで、実に感動的だった。クライマックスも節度あるもので気に入った。
 5楽章は明るく、華麗なフィナーレである。中間の3つの楽章の、何やらもやもやしたものをとっぱらったような演奏だ。冒頭、木管とホルンがもごもごしゃべっているような雰囲気がなんともおかしい、そして主題にはいると大きく音楽は動くが、しかし羽目をはずすことなく音楽の形がきちっとして実に安定感のある演奏だった。今夜はカンブルランの又新しい面を発見できた思い。じつに充実したマーラーだった。演奏時間は約69分。読響も好演。特に弦楽部の充実。金管、とりわけホルンの素晴らしさを特筆したい。

2106年6月26日
於:サントリーホール(1階11列右ブロック)

東京交響楽団・第641回定期公演
指揮:ダニエーレ・ルスティオーニ
ヴァイオリン:フランチェスコ・デゴ

グリンカ:歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲
ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲一番

チャイコフスキー:交響曲第六番・悲愴

イタリアの若手の指揮者によるオールロシアプログラム。イタリアの若手三羽烏の一人だそうである。なお後の二人は云わずと知れた、アンドレア・バッティストーニとミケーレ・マリオッティである。いずれも20~30代の若さである。ルスティオーニは33歳、2017年から大野和士のあとのリヨン歌劇の音楽監督に就任の予定である。

 グリンカは威勢の良い音楽になっている。これだけ歯切れのよい演奏は気持ちが良い。しかし良く聴くと威勢の良さだけでなく、ぐっと抑えた部分はしなやかで、柔らかく魅力的である。指揮ぶりは少々大げさで目をつぶって聴いていたくなる部分もある。

 ショスタコーヴィチは若い二人、デゴは27歳(ルスティオーニの奥様である)、ののりのりの演奏である。特に2楽章のスケルツオの飛び跳ねる、民謡風の旋律がそう、また4楽章の音楽ものりにのって一気呵成に終結に向かう。この二人の協奏はスリリングである。3楽章のパッサカリアは悲しみの溢れる曲だが前半は良いとしても後半は少々名技に走ったようで情感的には物足りなさもあった。演奏時間は36分。この難曲はいともやすやすと弾かれてしまい、もう難曲ではないことを思い知らされた演奏だった。なおアンコールは2曲。イザイの無伴奏ソナタ三番、バラードとパガニーニのカプリス16番だった。

 悲愴は思いのたけをぶちまけたような演奏だ。若さがなせる技だろうか?全体にテンポが速く、ぐいぐいと押し切って来るような演奏で、聴いていてこの圧力は相当大きく、最初はこの少々思い入れのきつい演奏に辟易するが、次第に抗するのが困難になるような、そういう演奏の様に思った。1楽章の序奏、1主題、2主題、いずれも入りの間を大きくとり少々あざとさを感じる。特に2主題の情緒過多に聴こえる演奏は私には抵抗があった。展開部の迫力は相当なもので、この部分のオーケストラの運動は素晴らしい。
 2楽章は身振りが大きい指揮ながら、出てくる音楽はそう嫌味ではなく、自然と流れる、歌謡風の演奏で実に耳に優しい。これとの対比の後半とのギャップは相当大きいが、そういう指揮方針なのだろう。3楽章は予想通りの熱演である。いささかもエネルギーを失わず、前進するオーケストラの音は不気味でもある。4楽章もものすごく速いテンポで押し切る。だから逆に情感たっぷりな演奏も抵抗なく聴きとれたのかもしれない。この演奏は思いのたけをぶちまけたような、衒いのない慟哭の音楽であり、実に感動的であった。こういう悲愴は久しぶりなだけに、新鮮にも感じた。私以外の多くの聴き手にも大うけで、ブラボーが続いた。演奏時間は43分。

追記
ルスティオーニと云う指揮者、どこかで聴いたような、と思い調べてみたら、2014年4月24日の二期会の「蝶々夫人」の指揮をしていた。あの演奏は舞台も歌も指揮も皆素晴らしかったが、指揮者の泣かせる音楽には参ってしまった。

2016年6月19日
於:東京文化会館(1階19列右ブロック)

英国ロイヤルバレエ・来日公演
 プロコフィエフ「ロミオとジュリエット」

振り付け:ケネス・マクミラン
指揮:クーン・ケッセルズ

ジュリエット:マリアネラ・ヌニェス
ロミオ:ヂアゴ・ソアレス
マキューシオ:ヴァレンティノ・ズケッティ
ティボルト:ベネット・ガートサイド
ベンヴォーリオ:ジェームズ・ヘイ
パリス:ヨハネス・ステパネク

管弦楽:東京シティフィルハーモニック管弦楽団

通常日曜日の公演は14時という意識があったせいか、今日の公演も14時からと思い込んでしまった。文化会館に着いたら人けが少ないのでおどろいてチケットを見たらなんと13時から、早く云ってよ、と云っても後の祭り。ただ幸運にも1幕の最後のバルコニーの場の直前に会場に入れてくれたので、そこから鑑賞することになった。
 しかし、今日の会場は凄いことになっていた。昨日のニッセイオペラもご婦人が多かったが、今日はその比ではない。目の子だが女性比率は8割を超えていた様に思った。従ってトイレが大変なことになっていた。新国立などはバレエの公演の時は男子トイレを片側女性に開放していたが、文化会館はその様な気が回らないらしい。まあ音楽とは関係ありません。バレエの女性比率は高いのは通例だが今日の様なのはあまり経験ないことだ。気のせいかオペラよりも年齢も若いのでなにやら華やいだ雰囲気だった。

 さて、このロイヤルバレエのマクミラン版の振り付けはもう何度も見ているものだが全く飽きない。いろいろな振り付けを見ているが、やはりこの版が最も良いと思う。それは第一に見せ場の踊りが実に感動的にできているからに他ならない。説明なぞはいらない、その踊りにひたることでこの悲劇を私たちも共体験できるのである。例をあげると、1幕のバルコニーの場、2幕のタイボルトの死の場面のキャピュレット夫人の悲嘆の踊り、3幕のロミオとジュリエットの別離、バレエなのに踊りを排した、苦悩を表わしたベットに腰掛けたジュリエットの姿、そして幕切れの場面、どれもこれも音楽とフィットし、見るものの心を揺さぶるのである。もうひとつ群衆シーンの描き方の見事なことだ。例えば1幕の市場や騎士の踊り、2幕の祭りなどはこれ以上のものは考えられないほどの素晴らしい振り付けである。

 この振り付けは1965年初演らしいからもう50年も生き続けて、まだ私たちを魅了しているのである。これは20世紀の舞台芸術の永久に残すべき作品の一つだと、今日のこの公演に接して改めた感じた。私見であるがその他残すべきものはハルトマン/オットーのばらの騎士、ポネルのフィガロの結婚、ゼッフィレッリのボエームなどである。

 今日の公演はいままでの公演とほとんど同じだが装置が少し変わっている。3幕のキャピュレット家の墓の場面、舞台には大きな石造りの建造物がありその下にジュリエットの棺がある。その建造物には巨大な人物像が彫り込まれている。それ以外の装置や踊りに変わりはないように思った。

 今日の踊り手たちに四の五のということはない。どの踊り手も素晴らしい。タイトル役の二人は当然だ。特に3幕の2人の死の場面は涙を禁じ得ない、素晴らしいもの。ただ3幕の冒頭のロミオとジュリエットの場面はカットもあったせいか少々淡白に感じた。パリスとの結婚を強要され絶望のどん底のジュリエット、苦しみに耐えつつベットの端に腰かけ身動きできない、しかし決然として、立ち上がり、ローレンス神父の元に向かうジュリエットはもう少女ではない。この変化も十分感じ取れる踊りだった。
 その他ではマキューシオ、明るく、陽気な、若者を演じていた。キャピュレット夫人の悲嘆の踊りはなかなか難しいと思うが、もう少しオーバーにやってもよかったのではなかったろうか?コベントガーデンでこの場面をはじめて見た時はそれは驚愕のダンスだった。もう30年以上前のことだ。いまもってあれ以上のキャピュレット夫人にはお目にかかったことはない。バレエ団による群衆シーン、前半は見そこなったが2幕の祭りの場面は大変素晴らしかった。
 管弦楽は日本製だが少しむらを感じた。音楽の枠組みとしては何の不満も感じなかった。なお3幕を中心にかなりカットしていた。3幕の5場、6場は全部カット。2~4場は部分カットだった。しかしこのカットは無理がなく全体の舞台を損なうようには感じなかった。これは1984年のDVDと同じである。

2016年6月18日
於:日生劇場(1階G列左ブロック)

ニッセイ・オペラ2016
 ロッシーニ「セビリアの理髪師」

指揮:園田隆一郎
演出:粟国 淳

アルマヴィーヴァ伯爵:中井亮一
ロジーナ:富岡明子
バルトロ:増原英也
フィガロ:青山 貢
ドン・バジリオ:伊藤貴之
ベルタ:山口佳子
フィオレッロ:清水勇磨
士官:妹尾寿佳
管弦楽:新日本フィルハーモニー管弦楽団
合唱:ヴィレッジシンガーズ

純国産のセビリアである。指揮、演出、歌手すべて日本人。
 セビリアはいつも聴いた後楽しい気分になる。今日もそうだ。ところどころ不満はないことはない。しかし終わってみればいつもああ良かったなあ、今日は!となるのである。
歌い手は相変わらずダブルキャスト。公演は2回しかないから同じキャストでは一回しか歌えないということだ。しかし入りを考えると仕方がないかもしれない。満席にはなっていないのである。こういう純血種の公演はもっと注目されても良いのではなかろうか?タダ券できているような評論家もみかけなかった。こういう公演こそ見て若い(?)歌い手や指揮者の熱演を応援しても良いと思うのだが!

 さて、今日の公演で園田の指揮をまず第一にあげたい。このセビリア、序曲から実にきちんとした演奏である。急にテンポを煽りたてたり、落としたり、煩わしいことは一切やらない。しかも歌手への目配りは実に丁寧である。寄り添いすぎるということも感じられない。こういう指揮は刺激に乏しく物足りないという聴き手もいるかもしれない。セビリアはブッファだが決して音楽を崩してよいというわけではないのである。だからといってロッシーニのあの生き生きした旋律は決して失っていないのである。ロッシーニクレッシェンドだってオーバーアクションではないが実に気持ちが良いのである。
 粟国の演出もそれに呼応しているように感じた。歌い手の勝手な演技は皆無に近い印象だ。歌い手の動きはキチンと型にはまっていて、様式的ともいえようか?笑いをとるような品のないことはさせないのである。だから見ていて、げらげら笑う様な場面はほとんど出て来ない。要するにおちゃらかなブッファにはさせないぞという演出家の意思を感じるのである。つまりここには園田の作る音楽の対の様な演出があって、聴き手はロッシーニの音楽にひたすら浸ることができるのである。あえて不満を云えば2幕のアルマヴィーヴァ扮する音楽教師ドンアルフォンソの演技はちょっと今日の演出では異質の様な気がした。
演出で面白かったのは最後の場面。フィガロが歌い、ロジーナが歌い、そしてアルマヴィーヴァが歌う、それぞれの歌手が歌い終わった後お辞儀をするので、お客は皆拍手、最初は戸惑っていたが、ロジーナから皆大拍手で盛り上がった。その間にバルトロ、ベルタ、ドン・バジリオなども登場しお辞儀をする。なかなかスマートな締めくくりだった。
 装置はなかなか考えられている。舞台中央にはもうひとつ舞台の様なものがありそこがバルトロの屋敷だったり小道具で変わる。左右には舵を回すと動くような滑車のタワーがあって、これを回すと舞台が回るという仕掛けに見せかけている。実際は人力で舞台を回して場面転換をする。場面はほとんどが書き割りだったり、張りぼてだったりする。この変換はなかなか機敏で創意にとんでいる。衣裳もト書きの時代を表わしている。

 歌手たちにふれよう。まずロジーナの富岡が素晴らしい。まずその崩れのない安定した歌唱は今日のなかでは抜けている。決して声の幅は広いとは思えないが、高域も低域もしっかりと出ている。ロジーナの可憐だがコケットさにあふれているというよりも、もう少し成熟した女性のイメージだ。次にドン・バルトロの増原が良い。8番のアリア「わたしのような医者に向かって」は見せ場だが、早口も破たんがなく安定している。今日の演出のコンセプトにも合致した、下品さの少ない、バルトロだ。アルマヴィーヴァはもともと主役だけに出番が多く、今日の公演ではCDなどではあまり聴けない2幕の幕切れの直前の大アリアも歌われ大活躍だった(このアリアは2011年の藤原歌劇団の公演でシラクーザが歌ったものと同じだと思う)。惜しむらくは高音の伸びと透明感が物足りない。コロラトゥーラも少々切れが悪くちょっと残念だった。熱演だとは思うが物足りなさも残った。タイトルロールのフィガロの青山は重々しすぎる。もう少し軽妙さが欲しい。1幕の2番の「わたしは町の何でも屋」は名曲中の名曲だが歌が少し硬いように感じられた。尻あがりによくなってきたので前半がちょっともったいない。その他ではドン・バジリオの伊藤は逆にバスにしては少し声が軽く感じた。聴かせどころの1幕の6番のアリア「かげぐちはそよ風のように」も盛り上がりに欠けた。もしかしたら演出のせいだったかもしれない。
 全体に今日の歌唱は装飾が多く日ごろ聴いているCDとは随分と違った印象だった。それにしても今日の演奏の版は何を使ったのだろう。ゼッダがプログラムにメッセージを書いているが版については触れていない。プログラムに記載がないのはちょっと残念である。二期会や藤原のプログラムはそういう点では誠に丁寧だが今日のプログラムは少々雑だ。まあ無料だから仕方がない。もうひとつ1幕の伯爵のカンツォーネの伴奏のギターの奏者の名前はのっているが、チェンバロの奏者がのっていないのはいかにもおかしいではないだろうか?
演奏時間は拍手も交えて161分。

2016年6月17日
於:NHKホール(1階18列中央ブロック)

NHK交響楽団、第1839回定期演奏会Cプログラム
指揮:ウラジミール・アシュケナージ
オーボエ:フランソワ・ルルー

リヒャルト・シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」
リヒャルト・シュトラウス:オーボエ協奏曲

ブラームス:交響曲第三番

ドン・ファンは勢いがある。全体に隈取りを鮮やかにした活発な演奏で聴きごたえがあった。特に金管の運動、ティンパニの切れ味は心地よいくらいである。最初の主題の提示がそうであったのだが、その後テンポを落とし木管に自由に吹かせているかのような部分との対比が大きい。ちょっとあざといところもあるがこの曲自身にそんなところがあるのだからそれくらいは許容範囲だろう。緩急・強弱の幅の大きい演奏だった。演奏時間は18分強。

 オーボエ協奏曲はうってかわってシュトラススの最晩年1945年の曲である。終戦後半年近くの曲であるが、廃墟のドイツの暗いイメージはあまり感じられない。両端楽章は明るくちょっと驚くくらい。2楽章はそうでもないが!まあ初めて聴く曲なのでなんともいえない。アンコールはちょっとサプライズ。なんとステージの奥に置いてあったピアノ(今夜の曲目にはピアノがなかったのに、不思議に思っていた)をステージ向かって左袖においてアシュケナージの伴奏でアンコールである。グルックの「オルフェオとエウリディーチェ・精霊の踊りから」。

 ブラームスはあまり落ち着けない演奏だった。演奏時間は34分で全体に忙しい。
 1楽章の提示がなんとも元気がなく、オーケストラの集中があまり感じられない。反復になって少し戻したが、最初の違和感が尾をひく。2楽章は木管を中心にソロが美しいが、身悶えする様な情熱が感じられない、冷めた調子が気に入らない。しかし3楽章はとてもよかった。ここは情緒過多に演奏されるケースが多いが、今夜のちょっとさっぱりしたスタイルに合っている。旋律の美しさを自然に生かした感動的な部分を味わえる。しかし4楽章はまたいけない。流石に少しさらっとしすぎではないか?音楽がひたすら慌ただしく進むので、引き込まれないのである。
 アシュケナージ/N響の組み合わせは随分聴いてきたが、どうもあまり良い印象がない。私のこのコンビでのベストはシベリウスの7番である。来シーズンのCプロにはもう彼の名前がないのでこれが聴きおさめだろうか?複雑な気持ちである。

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