ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2016年05月

2016年5月29日
於:新国立劇場(1階12列中央ブロック)

新国立劇場公演
 ワーグナー「ローエングリン}

指揮:飯守泰次郎
演出:マティアス・フォン・シュテークマン

ハインリヒ国王:アンドレアス・バウアー
ローエングリン:クラウス・フロリアン・フォークト
エルザ:マヌエラ・ウール
テルラムント:ユルゲン・リン
オルトルート:ペトラ・ラング
伝令:萩原潤
4人の貴族:望月哲也、秋谷直之、小森輝彦、妻屋秀和
管弦楽:東京フィルハーモニー管弦楽団
合唱:新国立劇場合唱団

2012年の再演である(6/10に聴いている)。従って演出は基本的にはその時と変化はない。あの時も感じたのだが幕切れがどうしても納得できなかった。今回も同じである。ああいう終わり方とはわかっていても目の当たりにしていると音楽に集中できない。
 ローエングリンは自分の素性を明かす、オルトルートはしめしめとばかり登場、しかしゴットフリートが生還し、オルトルートは破れ、舞台右手に消えてゆく(消えてゆくのである、どこへ行ったのか?)、そしてローエングリンはこれは舞台奥に消えてゆく。残されたエルザはすがりつくゴットフリートを振り切ってこれも舞台右手に消えてゆく(いずこへ?)。国王やブラバントの人々も水がひくように舞台から消えてゆく。これはバイエルンの集団自殺やバイロイトの奇怪なゴットフリートよりはましだろうが、やはりいまはやりの夢も希望もない終わり方である。そう云えばスカラ座の公演も最後はカウフマン扮するローエングリンがぶるぶる震えながら終わる奇妙な終わり方をする。どうして素直な終わり方をしてくれないのだろうか?
 すなわちローエングリンは鳩の曳く船で去り、オルトルートはゴットフリートを見て倒れる(死ぬ)、エルザは気を失い倒れる。ブラバントの人々は驚きと喜びをもってゴットフリートを見、そして恭しくひざまずく。この様に終わってくれた方が音楽との整合性がある様に思うのだが?この様な演出は最近見たことがない。シュテ―クマンは演出についてインタビュー(本公演プログラム12ページ)で「本作の結末はいかなる夢も希望も存在しません」と云っているが、これは現代人のものの見方であるように思われて仕方がない。そういう意味ではこれは読み替え演出なのだろうと思ってうけいれるしかないのだろう。ト書きにあるようにブラバントの人々はローエングリンがいなくても、エルザがいなくても、ゴットフリートが帰って来たのだから、彼を中心にブラバントを立て直そうと恭しくゴットフリートの前にひざまずいたのではなかろうか、それゆえ決して未来がないとは私には思えないのだが?

 今回の公演もフォークトのローエングリンである。彼があってこそこの公演はなり立っているのであると改めて強く感じた。おそらく彼ほどこの役がぴったりの歌手はいないだろう。過去CD、DVD、ライブ公演でいろいろなローエングリン歌手を聴いてきた、バイロイトライブ録音のジェス・トーマス、アバドとの演奏会形式の録音のジークフリート・イェルザレム、スカラ座ライブのDVDのヨナス・カウフマン、バイエルンのライブ公演のヨハン・ボータ、しかしその誰よりもフォークトのローエングリンは素晴らしい。なによりもその素直に伸びきった声が魅力である。これに匹敵するのは過去聴いた中ではジェス・トーマスだけだろう。しかしフォークトはそれだけではなく十分な力強さがあり、劇場を圧するパワーすらある。そしてそのフルパワーの声でも決して声の形が崩れない安定感。今回の公演も1幕の神の様なローエングリンと、3幕の生身の人間のローエングリンとを歌い分け実に感動的だった。今年はバイロイトでパルジファルを歌う様だけれど大いに期待したい。
 エルザのウールもフォークトと対の様な声で魅了した。鈴を転がすような澄明な声は昔のグンドラ・ヤノヴィッツを輝かしくしたような声で素敵だった。ただ最強音になると若干乱れが、特に1幕では感じられたが、聞かせどころの2幕のオルトルートとの対決?、その後幕切れまで、更に3幕のローエングリンに身分を明かせと迫る場面などはその様な不安も少なく、劇的な歌唱を聴かせてくれた。今夜の演奏はこのオペラ自体もそうであるが、2幕の後半から3幕の幕切れまでの劇的な場面場面の歌唱が皆素晴らしく圧倒された。
 オルトルートのラングも邪悪さは幾分少ないオルトルートだけれども2幕の初めの2つの場面ではその持ち味を十分発揮して説得力のある歌唱だった。
 バス陣の二人も充実していた。ユルゲン・リンは少々年寄り臭いテルラムントだった。バウアーのハインリッヒは若々しい声が魅力。日本勢では萩原の伝令が存在感を発揮していた。
 合唱陣はこのオペラでは欠かせない、重要なパートであるが、演出のせいか動きが画一的なのは物足りないが、それは歌とは関係なく、素晴らしい合唱を随所に聴かせてくれて、新国立の高い水準を感じさせてくれた。

 飯守/東フィルの演奏には終演後ブーイングらしき声が聴こえたが、私にはどこがそうなのかわからない。実は前日レハールの「メリー・ウィドウ」を聴いた後でまだ頭の中は「女、女、女のマーチ」のにぎやかの音楽が鳴っている状態で1幕の前奏曲を聴き始めた次第。しかしこの弦だけで始まる前奏曲の素晴らしさ、一気にワーグナーの世界に引きずり込まれたのであった。飯守の指揮はいつもながら実に男性的で、例えば3幕の3場の兵士たちが集まる場面、オーケストラが次第に力を得ながら同じ旋律を3回繰り返すが、この盛り上がり方が尋常ではなく実に素晴らしいもの。以前聴いたケントナガノ/バイエルンの元気のない演奏とは音楽が別物と思うくらい迫力があった。また舞台両そでに近い3階席に金管のバンダを配したパノラマ的に広がる音響はライブならではの素晴らしさ。その他随所に聴きどころがあるが、なかでもこの音楽のキーの動機の禁問の動機は終始雄弁に響かせていたのが印象的だった。演奏時間209分強。サヴァリッシュの1962年のバイロイトのCDは195分だが、飯守の指揮には停滞感は感じられなかった。緩急のポイントを外していないからだろう。

2016年5月28日
於:東京文化会館(1階8列左ブロック)

ウィーン・フォルクスオーパー来日公演
 レハール「メリー・ウイドウ」

指揮:アルフレート・エシュヴェ
演出・美術:マルコ・アルトゥーロ・マレッリ

ツェータ:アンドレアス・ミチュケ
ヴァランシエンヌ:ユリア・コッチー
ハンナ:ウルズラ・プフィッツナー
ダニロ:マティアス・ハウスマン
ロシヨン:ヴィンセント・シルマッハー
カスカーダ:ミヒャエル・ハヴリチェク
ブリオシュ:クリスティアン・ドレッシャー
ボグダノヴィッチ:カール=ミヒャエル・エブナー
シルヴィアーネ:マルティナ・ミケリック
クロモウ:ダニエル・オーレンシュレーガー
ニェーグシュ:ロベルト・マイヤー

ウィーンフォルクスオーパー管弦楽団、合唱団、バレエ団

非常に楽しい公演だった。その代表的な部分は最後の幕の幕切れにあらわれているだろう。女、女、女のマーチを全員で歌いながら踊って幕となる。そしてアンコールでまた同じマーチを演奏、客席も手拍子で呼応する。そして幕、指揮者も舞台に上がって、もうおしまいかと思ったら突然ツェータが何やら叫ぶ。そしてまた女、女、女のマーチを全員で!その時指揮はなんとニェーグシュがオーケストラピットに降りて行うというハプニング。大盛り上がりのうち幕である。演出とは云え演出家の術中に嵌まる観客。でもみんな大喜び。
 オペラとオペレッタの厳密な違いと云うのはよくわからないが、音楽と詩と芝居の総合芸術であるということは間違いないところではあるまいか?今回有名なダニロとハンナの2重唱、あの有名なメリーウイドウワルツのメロディにのって歌われる「唇は語らずとも~」を聴いて大いに心を動かされたのは、この3つの要素がぴったり当てはまったからではあるまいか?ちょっと読んだだけでは恥ずかしくなるような歌詞に、なんとも通俗的なワルツ、そして一見くさい芝居、しかしこの3つかかけあわされると、思いもよらない高い芸術性を発揮するのである。そんな大げさなことを言わなくても要するのにすごく良いのである。
 今回のフォルクスオーパーの公演はオペレッタ・喜歌劇というものの正統的な演奏を心がけたような気がする。一例をあげると1982年のこの団体の公演で頻繁に使われた日本語ギャグで安易に笑いをとるということを皆無というくらい今回はやっていない。これはおそらく意図的に封印しているのではあるまいか?またこうもりにおけるフロッシュや本作のニェーグシュの演技やその他の歌手たちの演技は決して破目をはずさないのである。踊りも上品なものである。1982年の本作の公演ではカンカン踊りの場面で天国と地獄が踊られているが、今回ではカットされ美しいバレエソロになっている。そういったアプローチでしっかりした歌手たちに歌われ、演技されるとこのオペレッタがいかに人の心の胸を打つか聴き取れるだろう。「こうもり」はそういう面で歌い手の水準が少々物足りなかったように感じた。まあこういった印象だがそういうことだからこそドイツ語分かったらもっと楽しめただろうなあとつくづく思った次第。

 歌手たちにちょっと触れよう。
 ハンナは前半はちょっと声の濃淡にむらがあり不安を感じたがしり上がりに良くなり、後半は素晴らしかった。ヴィリアの歌も良かったが、ダニロとの2重唱は感動的。富豪の未亡人だが出は田舎の娘と云う役どころを演じる演技も良かった。
ダニロは全体域伸びやかな声が安定しておりまったく不安がなく楽しめた。その他ヴァランシエンヌが歌も演技も踊りも楽しめた。ロシヨンはこうもりでアルフレートを歌っていて、フロッシュとのやりとりがおかしかったが、今回のロシヨン役も超一流とは云わないまでも素晴らしい伸びやかな声を聴かせてくれた。ニェグーシュは上記のとおり。きちんとした演技で上品な笑いをとっていた。その他女声陣は皆舞台姿が美しくこのエロスの溢れる芝居を演じるにふさわしいキャスティングだった。とにかく歌えて踊れて芝居できるということは凄いことだ。

 演出・装置・衣装だが、時代設定がちょっと不明だ。20世紀初めだとは思うが、舞台奥の大きな窓の向うに拡がるパリの街並みは眼下に見えるので高層マンションの一室が舞台のようにも見える。舞台にはほとんど装置はなくわずかに大きな柱が移動してその柱にバーカウンターがあったり、その柱が東屋になったりするのである。また舞台はある時はポンテヴェデロ国のパリの大使館の様だし、ある時はクラヴァリ夫人の屋敷でもあるし、ある時はマキシムでもあるというようにも感じられるが、これは観衆の判断に任せると云った印象だった。

 指揮はエシェヴェという人、どこかで聞いたことがある名前だが、思い出せない。緩急自在、音楽が実に生き生きして活気があると同時にヴィリアの歌やダニロの歌、ダニロとハンナの2重唱などに付けた音楽の歌に寄り添った演奏は美しかった。演奏時間は127分強。なお1982年の公演はCDで聴けるので比較すると曲の構成が少しかわっている。例えば1幕は1982年では最初にハンナがでて歌うが、今回は総譜どうりらしいが、ヴァランシエンヌが最初に歌う。カットもあったかもしれないが不明。なお音楽の構成は1982年と同様3幕仕立てではなく、2幕の「女、女、女のマーチ」で休憩を入れる2幕仕立てである。〆

2016年5月27日
於:すみだトリフォニーホール

新日本フィルハーモニー管弦楽団、第559回定期演奏会、トリフォニーシリーズ
指揮:下野竜也
ピアノ:トーマス・ヘル
合唱:東京芸術大学合唱団

三善 晃:管弦楽のための協奏曲
矢代秋雄:ピアノ協奏曲

黛敏郎:涅槃交響曲

後半の涅槃交響曲の始まる前にホールの方が、私の席のすぐ後ろでバンダが演奏するので了承願いたいと云って来た。バンダを1階席の前後を分ける通路側に設置するということなのだ。私の後ろがバンダ1でフルート、ピッコロ、クラリネットそしてグロッケンなど木管は短く切って演奏して鐘のイメージを出すのである。まあこういう楽器だから大したことないだろうと思ったがそう簡単ではなくかなりうるさい。舞台のオーケストラや合唱を妨げるくらいだから、この曲を十分楽しめたというわけにはいかなかった。反対側にはバンダ2が位置したのだが、そちらの席はもっと大変だったろう。ホルン、トロンボーン、チューバ、コントラバスなのだから!
 この曲を初めて聴いたのは2009/4/7の読響定期、指揮者は今夜と同じく下野だった。下野はいつから指揮棒をもたなくなったのだろう。どうも指揮者が棒をもたないのは蛸踊りみたいで好きではない。まあ音楽とは関係ありませんが?
 2009年の時にまあこの曲を聴くのはもうないだろうなと思ったが、なんと又聴く機会を得てしまったのである。しかし今回の印象は随分と違う。前回はサントリーで、バンダは2階席に位置したので、バンダの楽器群特に鐘を模した木管や、法螺貝のようなチューバなどの金管が空から舞い降りるようで素晴らしいパノラマ効果だった。今回は私の真後ろがバンダだったのでそういうありがたみがなく、音響的な面白みもあまり感じられなかったのは残念だった。
 今回印象的だったのは全6楽章のうちの、2,4,6楽章に配された経文の合唱である。ソロとの掛け合いで次第に盛り上がってゆく様、単純な歌詞の連続、叩きつけるようなオーケストラなどあたかもカルミナ・ブラーナの日本版の様な印象で面白い演奏だった。オーケストラが中心の1,3,5は何度も云って申し訳ないが、バンダの位置もあって前回聴いた荘厳な響きが味わえずちょっと残念だった。ホールの違いもあったかもしれない。ただ通路を楽器群が占めて演奏するのは通路をふさぐことになり消防法上問題がないのだろうか?余計なことを心配した演奏でした。

 三善と八代の作品は初めて聴いた曲でなんとも書きようがないが、結局現代音楽とは、音の細胞の組み立て方の面白さ、その論理的な展開そして遊びからできているような音楽ではないのかという思いが強く残った体験だった。ただ矢代のピアノ協奏曲のソロの部分のいくつかの旋律はドビュッシーを聴いているようで深く印象に残った。ピアノ演奏は現代音楽特にリゲティが得意の演奏家だそうだ。ただしアンコールはバッハだった。「割れ汝をよぶ、イエス・キリストよ」BWV639。

2016年5月26日

「たまたまザイール、またコンゴ」田中真知著、偕成社
これは実に面白い紀行文だ。しかし単に紀行にとどまらず比較文化や経済史などの観点から見ても面白いのだ。
 著者は1991年と2012年にコンゴ川(かつてはザイール川)を上流のキサンガニという町から、キンシャサまで乗合船や給油船そして極めつけは現地の人々が乗る丸木舟も使って下ってゆく旅を二度行っているが、それをそれぞれ1部と2部にわけて紀行文にしている。もちろん同行者がいて最初は田中夫人、2度目はシンゴさんという学者の卵と現地の案内人、オギーとサレである。読んでゆくとやはり初めての1回目の旅が圧倒的である。その悲惨さが文章を通じて痛いほど伝わってくる。ものすごい臭いや蚊が群れをなすさまやもう今の日本人がおよそ経験しえない事柄が次々とこの夫婦を襲う。しかしそうはいってもこの二人の旅路は何かユーモラスである(失礼)のはこの様な過酷な環境の中でも好奇心を失わないで楽しもうという精神が心の底で根付いているからではないだろうか?私には読んでいるだけでもう体験したような気分になりもう無理と思わざるを得ない世界だ。

 2部は同行者に現地の人々がいることもあって少し余裕を感じるが、しかしこの21年の時間がこのコンゴ川の住民、村にはほとんど生活の変化に結び付いていないという表現がいたるところに出てくるのが何とも不思議なことだ。コンゴには森林資源、コンゴ川の水資源、金属(金、銅、レアメタルなど)、過去には天然ゴム、など豊富な資源が眠っているのに21年もたってなぜ国に変化が起きなかったのか?読んでいると次第にそれがわかって来るような気がするのである。結局ベルギーの植民地時代と今日とでは政治的に違うのは搾取する主体がベルギー人かコンゴの政治家の違いで資源が全てスル―してしまい、国民社会には何も残らないそういった経済構造が根幹の様な気がする。文中にあるコンゴ人の民族性は先天的なものか後天的なものかもかなり疑問に思った次第。文章の無類の面白さ、それと豊富なカラーやモノクロの写真が更にこの本を充実させている。


「家康、江戸を建てる」門井慶喜著 祥伝社
小説家というのは色々な切り口の歴史を私たちに見せてくれる。本作は家康が主人公のようだけれども実際は全然違う。設定は家康が1590年に家康から関八州へ国替えを命じられたそのころである。家康が何もない町から江戸の町を作るという、それにかかわる人々の物語である。
 構成は5つの話からなっておりそれぞれに主人公はいるがそれがいわゆる武士ではなく職人または武士でも戦闘員ではなくいわゆる技術官僚であるところが面白いところである。
 1.流れを変える:伊奈忠次とその後継者、利根川の流れを変え灌漑をおこなう
 2.金貨を延べる:後藤庄三郎、貨幣の鋳造
 3.飲み水をひく:百姓の六次郎、菓子作り担当の武士大久保藤五郎
          技術官僚の春日与右ェ門
          現在の井の頭公園の池から水の少ない江戸へ水をひく
 4.石垣を積む:見えすきの五平、石工である。江戸城の石垣の石を切り出す
 5.天守を起こす:秀忠将軍(天守の漆喰塗の秘密)
 以上であるが特に前半の3つは秀逸で面白かった。


「日本人はどこからきたのか?」海部陽介著 文芸春秋
日本人のルーツを探る、知的好奇心がかきたてられる作品だ。日本人の祖先と云えば縄文人だろうと思っていたが、そも縄文人はどこから来たのかとなるとはたと思考が止まってしまう。というのが私の基礎知識である。
 従来は日本人の祖先はアフリカを旅立った現世人(新人)が海を伝って日本にたどり着いたと云われていた。本書はそれを覆すものだ。遺跡を世界規模で精査、特にアジアという視点で見るとアフリカを出た現世人は45000年前ころから足跡が遺跡で捕捉されていて、彼らが2つのルートでユーラシア大陸の東端までたどり着いたことが分かるという。1つはヒマラヤをはさんで南ルートインド、インドシナ、インドネシアなどを経由して琉球諸島にたどりつく、もう一つはヒマラヤの北バイカル湖から中国、朝鮮半島を経由して日本にたどり着くケース、そして北ルートはもうひとつ北海道を経由してくるルートと3つのルートで現世人たちが日本に入ってきたと云うのである。当然北ルートと南ルートはどこかで混ざり合っている可能性があり、いろいろ混血をしながら縄文人になってゆくという。遺跡から見つかる証拠はまだ十分でないケースもあるがそこは大胆な推論で倫理を組み立てている。じつに魅力的な1冊である。

「帰ってきたヒットラー」ティムール・ヴェルメシュ著 河出文庫
1945年に自殺したはずのヒトラーが2011年のベルリンにタイムスリップしてくる奇想天外な話である。これは日本によくあるアニメの世界ではなく、至極社会学的にも政治学的にも「もし~したら」の描き方がリアリティをもっていて読んでいてちょっとナチ/ヒットラー登場の既視感すら覚える、すこぶる恐ろしい本である。
 話は全て「アドルフ・ヒトラー」が1945年のままでモノローグの様に語るので現代の人々とのギャップが当然出てくるわけでそこが面白いところだ。ただ現代のドイツ社会の政治、社会情勢に精通していない私にはその面白みをすべてわかるというのは無理の様だ。映画化されたということだから、映画で見たらまた違うのかもしれない。しかし現代のドイツの政治や社会に対する風刺小説というでの面白みは理解できそうだ。
 このヒットラーの登場に対して作品の中で、ホロコーストの生き残りの女性がこのタイムスリップヒトラーがマスコミでもてはやされているのを見て、「タイムスリップヒトラーの話は決して風刺ではない、昔ヒトラーが話したことをそのまま繰り返しているだけだ。そして人々はそれを聞いて笑っている。昔と同じだ」という。それに対してヒトラーは「自分は民主主義で総統になったのだ。だから自分の意思決定はドイツの人々、どこにでもいる市井の人々の意思決定なのだ」という。この本の怖ろしさはこういった民主主義の恐ろしさを示しているということではなかろうか?日本の現在の政治状況にも当てはまるのではないだろうか?

「判決破棄」 マイクル・コナリー著 講談社文庫
リンカーン弁護士、ミッキー・ハラーシリーズの第3作である。
 本作ではなんとハラーに検事の仕事が回って来る。24年前の少女殺人事件の犯人ジュサップの再審請求が認められ裁判が行われる。検事局は中立を保つために法廷検事責任者
にハラーを指名するというのである。助手に元妻のマクファーソン、そしてハリー・ボッシュ刑事を捜査の助手に任命して裁判に向かう。弁護士の策略やジュサップの異様な行動(なんと保釈を受ける)などがからまってクライマックスを迎えるのだが、本作はハラーが主人公なのは当然にしても、刑事のボッシュや元妻のマクファーソンの出番も多くちょっと焦点がぼけるのが難点である。ハラーの少し嫌味な会話もちょっと鼻につく。

2016年5月25日

「白鯨との戦い」 クリス・ヘムスワース主演
原題は「IN THE HEARTS OF THE SEA」、間抜けな邦題だと思う。
 メルヴィルの「白鯨」のモデルになった捕鯨船エセックス号の悲劇を描いたもの。なかなか見ごたえのある映画だ。同名の小説を映画化した。
 小説家メルヴィルは噂の巨大鯨を題材に小説を書こうとしている。エセックス号がその鯨に破壊されたという話をくわしく聴くためにエセックスの乗組員の一人ニカーソンに会う。事件から30年近くたった1850年のことである。口の堅かったニカーソンの語る内容は恐るべきものであった。エセックスは出航して1年以上たつが鯨影は見当たらなく、やがて彼らは太平洋の奥深く未知の海域に踏み入れる。そこには入れ食いに近い鯨の群れがいたのであった。新米船長とベテラン一等航海士はお定まりの確執があり、それはこの映画の前半の見どころではあるが、実は些細なことで、本線はこの鯨の群れに遭遇してからなのである。そこに待っていたのは人間を憎む悪魔の様な巨大鯨だったのである。鯨漁の迫力ある場面や、漂流する乗組員の苦悩など見せ場はたっぷりである。しかしこの映画が語っているのは自然を征服しようとする人間の傲慢さであろう。その傲慢さを打ち砕いたのが「白鯨」だったのだ。
 この当時の鯨の乱獲ぶりは凄まじいもので、油をとるためにのみ殺す実に残酷な漁だった。またその背景には鯨油が産業革命にとって必須のものであり、ビジネスが巨大であったことも示しているのである。今日の鯨の保護を欧米の人々が声高にとなえているが、おそらくそういう人に限って今日の鯨の絶滅危機は自らの祖先がもたらした結果だということを忘れているのであろう。

「悪党に粛清を」マッツ・ミケルセン、エヴァ・グリーン
この映画も油が絡む。変わり種の西部劇である。ジョン(ミケルセン)とピーターの兄弟はデンマークからのアメリカ移民である。移住してから7年の1871年、彼らはやっと家族を呼べるまでになる。しかし妻子を呼んだジョンには過酷な運命が待ってた。なんと駅馬車に乗り合わせていたならずもの(ミケルセンが住む村のボスの弟)に妻子が殺されてしまうのである。兄のピーターも惨殺され、ジョンは単身仇打ちに乗り込むのであった。この映画には大きな背景があって、村のボスは東部(?)の石油会社に依頼されて彼の支配している村の住民の土地を買い占めるためにボスになっていたのである。この村は油田のど真ん中にあったのだ。映画はこの背景の油田買収劇とジョンの仇打ちが交差しながら進む。それにボスの弟の妻(グリーン)の話も挿入されて案外と面白くできた西部劇だった。それにしてもエヴァ・グリーンがインディアンに舌を抜かれた黙役とは驚きである。

「顔のないヒットラーたち」ドイツ映画
1958年のフランクフルト、戦争が終わって13年たち、ナチの戦争犯罪については殺人犯以外は時効となり、ドイツ人の間では忘れたいという気持ちもあり、次第に過去のナチの記憶が薄れつつあるころの話である。若い人々はもうアウシュヴィッツの名前も知らない、その中で1963年のアウシュヴィッツ裁判を指揮するラドマン検事の孤軍奮闘の物語である。ラドマンは新米検事で交通事故の処理ばかりの毎日に飽き飽きしている。そこへアウシュヴィッツの親衛隊員に対する告発がなされる。検事たちは無視をして手を出さない。ラドマンはユダヤ人の検事総長の支援も受けて調査を開始する。しかしその当時ナチの残党が官憲の上層部に入りこんでおり、ラドマンに圧力がかかる。
 ドイツでのナチスの復活を阻止する契機となったアウシュヴィッツ裁判への道を克明に描いた見ごたえのある作品である。「帰ってきたヒトラー」などというタイムスリップものの小説がベストセラーになるなどヒトラーやナチの話題に事欠かないドイツであるが、絶えずこういう警鐘を鳴らし続けてゆくのであろう。

「ヒットラーの暗殺、13分の誤算」ドイツ映画
これもヒットラーものである。1939年ミュンヘンでヒトラーの暗殺未遂事件が起こる。犯人はゲオルグ・エルザー、ドイツの地方の出身の赤色戦線の一員だった。ベルリン刑事保安局長やゲシュタポの執拗な取り調べを受ける。果たして単独犯なのか組織犯なのか、尋問とエルザーの回想シーンで話は展開する。ヒトラーの暗殺事件と云えばシュタウフェンベルク大佐によるものが有名であるが、これはもう一つの暗殺事件である。当時のヒトラーやナチスが社会に浸透してゆくありさまが描かれている。これも見ごたえがある映画ではあるが、本線とはあまり関係ない、エルザーと人妻との不倫について長々と描かれているのは、緊迫感を緩め、興を削ぐ。

「劇場版・MOZU」西島秀俊、香川照之、真木よう子
ひどい映画である。良く原作者がOKを出したなあと思う。
 テレビ映画化されていたもののこれはその続編である。テレビシリーズは最初は面白かったがだんだんつまらなくなってきたのは倉木(西島)の不死身が度を超えだしたからだろう。本作でもその点は云える。ハリウッド製の映画でも相当ひどい作りはあるが、本作の不死身振りもちょっとあり得ないほど。話も日本にいたと思ったら「どこでもドア」じゃあるまいし、突然東南アジアの街での追跡劇があったり、ダルマの手下の伊勢谷友介がちょっと出てきてはすぐ消えるのは意味不明だし、ちょっと台本がひどすぎやしないだろうか?役者も本気で演じているのかよくわからないが皆相当ひどい。特に松坂桃李の殺し屋は見ていて恥ずかしくなる。松田勇作の真似をしているようだが、松田がこれを見たら怒るだろう。

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