ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2016年04月

2016年4月29日

「スポット・ライト」、マーク・ラファロ、マイケル・キートン、リーフ・シュライバー
この映画を見てすぐ思ったのは、ウッドワード/バーンスタイン(ロバート・レッドフォード/ダスティン・ホフマン)の大統領の陰謀である。ニクソンを追いこんだワシントン・ポスト紙の記者たちの物語である。本映画「スポットライト」ではレゼンデス(ラファロ)/ロビンソン(キートン)のボストン・グローブ紙のコンビであり、彼らのジャーナリストとしての矜持と云うか本能というものを感じさせると云う意味でこの2つの映画の共通点を強く感じたのである。
 ある意味ではウォーター・ゲイト事件以上にショッキングな、長期にわたる聖職者による幼児虐待/レイプ犯罪を暴いた、実話に基づいた映画が本作である。舞台はボストン、そのオピニオン・リーダー的なボストン・グローブ紙に親会社から新しい編集局長(シュライバー)が着任。新紙面として数十年前の聖職者の幼児性犯罪をテーマとして出す。それを担当したのがロビンソンをリーダーとした4人からなる「スポット・ライト」部門のチームである。スポットライトは長期にわたって特定のテーマを追う特集記事班でありボストングローブ紙の看板記事の一つである。4人の調査、インタビュー活動がこの映画の大半を占め、それが「大統領の陰謀」と同様精緻を極めて見ごたえがある。アメリカ映画の得意中の得意の分野であろう。これは日本映画ではなかなかまねできないところだ。映画ではないがこう云う発想で匹敵する作品は立花隆氏の「田中角栄研究」くらいしか思い浮かばない。まあ余談です。
 この聖職者の幼児性犯罪にたいしてはボストン市民の間でもうすうす感じていたが、相手が聖職者であると云うことから、いままで掘り起こすことをせず今日まで来ている。これはカソリックというアメリカの精神生活に根付いたものを破壊することに対する忌避感は相当なものだからだ。それゆえ映画ではこのボストン紙にたいする有形無形の圧力が掛けられてゆく様が描かれる。つまり「大きな善(宗教)のために、小さな悪」は我慢しなくてはいけないのであるという理屈である。そのなかでこの事件は表面に出たものが問題なだけではなく、教会自身の組織ぐるみの犯罪と云う事を彼らは暴いたと云うことに意味がある。これはウォータ―ゲイト事件と共通するものがあるだろう。
 熱血漢レゼンデスと静かなリーダーロビンソンの対比も面白く、またグローブ紙の他のスタッフも生き生きと描かれていて一級のエンターテインメントであり、メッセージ性も強いアカデミー作品賞に相応しい出来栄えになっている。「バードマン」のキートンもよかったが本作のロビンソン役のキートンも素晴らしい演技だと思った。その他ボストン社会でのユダヤ人という立ち位置を静かに演じた編集局長(シュライバー)やレゼンデス以上に熱血的な調査をする、しかし宗教心の厚い祖母との板挟みになったレイチェル・マクアダムスの演技も秀逸。

「レヴェナント・蘇りし者」、レオナルド・デカプリオ、トム・ハーディ
デカプリォがついにオスカーを射止めた作品である。そういう意味では全編デカプリオ(グラス役)の生きざまに焦点があてられる映画である。
 映画は西部開拓時代のミズーリ(おそらくそうだと思う、年代も場所も特定されないのは監督のこの映画に秘めたものかもしれない)大平原が舞台である。物語は案外と単純である。毛皮のために狩猟をする米国人、原住民のアリカラ族の領域まで足を延ばす。グラス(デカプリオ)は原住民のポーニー族の女と結婚し息子(ホーク)とこの隊に斥候として加わる。しかし狩人たちは原住民に襲われ撤退をする。その逃避行のさなかグラスはクマに襲われ瀕死の重傷を負う。ヘンリー隊長は部下2人を付けグラスの最期を看取るよう命じる。しかしそのうちの一人フィッツジェラルド(トム・ハーディ)はグラスの息子を殺した上にグラスを置き去りにする。そこからグラスの追跡サバイバル行が始まる。そしてフィッツジェラルドを追いつめるのだが果たして結末はいかに!
 もちろんデカプリォの鬼気迫るサバイバル行は見どころがあり、ここがこの映画の見せ場であることはよくわかる。しかしどうだろう、この映画が描くアメリカ西部の大平原の自然描写が実に素晴らしい見せ場の様な気がする。映像美ではあるがそれだけではないだろう。天まで届く森林群、雪の大平原を照らす朝日や夕日、雪に覆われた山、川は澄み魚は泳ぐ、草原にはバイソンの群れ。人々はそういう大自然で生を営む。バイソンを食い、魚を食い、神に祈る。しかしそのような悠久の大地に抱かれながら、人々は醜く争い、殺し合い、奪い合う。この素晴らしい「自然」と醜い「人の営み」の対比がこの映画の肝ではないか?そしてその自然の美しさが失われてきた、人々の醜い争いばかりが目立つこのいま私たちが住む世界への警鐘ではないだろうか?イニャリトゥ監督も本作でオスカーを獲得している。
 デカプリォの映画に注目するようになったのは「ディパーテッド」からである、ちょっとやんちゃだけれどガッツもある男、そして「ブラッド・ダイアモンド」もその系列。フーバーはちょっとがっかりだったけれど、「ウルフ・オブ・ウオールストリート」は良かった。そして本作、もうやんちゃさは失われたが、ずっと大人の男、そして父親を演じていた。敵役のトム・ハーディはこのところ「マッドマックス」や「チャイルド44」で絶好調だが少しワンパターン気味のところもなきにしもあらず。本作ではデカプリォの敵役だが、なぜあれほどグラス(デカプリォ)を憎むのか、単に原住民の女と結婚したからだからか?それにしてはちょっと憎しみが激しい様に思ったが?もう少しそれを描いてくれるとドラマとしてさらに深みがでてくるような気がした。
 スポットライト、そして本作と重量級で大変見ごたえのあったことは言うまでもないことである。

「サバイバー」ミラ・ジョボビッチ、ピアース・ブロスナン
ケイト・アボット(ジョボビッチ)はテロ防止のためにワシントンDCからロンドンのアメリカ大使館にひきぬかれた優秀な官僚。査証発行のチェックの仕事をしている。あるとき、ルーマニアのパスポートををもつ医師に疑問をもつ。ケイトは審査に時間をかけるが、そのことでテロリスト集団のやとった殺し屋(ブロスナン)から狙われる。ここからケイトのワンマンショーだ。まあ嘘っぽい描写いくつもあるが、それに目をつむれば展開は案外面白い。アメリカ国務省のテロ対策プロパガンダの様な映画とも云える。ブロスナンはこのごろこういう役どころでお目にかかるがいい味がでていると云えようか?彼の最近の作品(ちょっと古いかな)では「ゴースト・ライター」での英国首相役が実に良かった。風貌からすると今回の様な殺し屋よりちょっと気が弱いが、粋がっているような役どころがはまり役の様な気がする。まあ本筋とは関係ありません。

2016年4月27日
於:東京オペラシティ(1階17列左ブロック)

東京フィルハーモニック・オーケストラ、第101回東京オペラシティ定期シリーズ
指揮:ミハイル・プレトニョフ
語り:石丸幹二

ソールヴェイ:ペリト・ゾルセット(ソールヴェイはノルウエイ語で日本では従来ソルヴェーグと云われている)
ペール・ギュント:大久保光哉
アニトラ:富岡明子
合唱:新国立劇場合唱団

先日のノット/東響の意欲的なプログラムに続いて在京オーケストラの力の入ったプログラムである。東フィルの新シーズンの開幕に相応しい。
 グリーグといえば私にとってはペール・ギュントかピアノ協奏曲くらいしか思い浮かばず、それも近年ではほとんど聴かない。ものの本によればグリーグの歌曲やピアノ独奏曲に素晴らしい曲があるそうだがそこまで手が回らない。そしてペーギュントと云えばまあ組曲程度が時折定期演奏会で聴く程度で、まさか全曲26曲が定期公演のプログラムにのるとは思わなかった。全5幕で演奏時間は140分であったが、終演時間はなんと21時43分、定期演奏会では異例な長さである。前半に1~3幕、15分の休憩後後半は4~5幕が演奏された。今夜の演奏はこのイプセンの劇の部分は石丸の語り(日本語)で音楽と音楽の間のつなぎの様な形で挿入される。合唱やソロは原語で歌われ、字幕付きである。
 石丸の語りはおいておいて音楽について云えばほとんどが組曲でおなじみの音楽で全く退屈しなかった。全曲版と組曲との対比を見ると以下の様になる。
 2幕第4曲:イングリの嘆き(第二組曲)
 2幕第8曲:山の魔王の宮殿(第一組曲)
 2幕第9曲:山の魔王の娘の踊り(第二)
 3幕第12曲:オーセの死(第一)
 4幕第13曲:朝の清々しさ(いわゆる朝の気分)
 4幕第16曲:アニトラの踊り(第一)
 4幕第19曲、5幕第23曲:ソルヴェイの歌(第二)なお今夜の公演では19曲ソルヴェイの歌と20曲メムノン像は入れ替わって演奏されている。
 5幕第21曲:ペールギュントの帰郷(第二)

 ちょっとクラシックをかじったことのある方でペールギュント組曲を一曲も聴いたことない方はあまりおられないのではないかと思う。この組曲の音楽は全て美しく、甘い調べで聴き手を魅了する。コンサートでも部分的に聴くが例えば朝の気分などは実に素晴らしい音楽に聴こえ楽しいが、はてさてこの様な曲を26曲も聴かされてしまうと云う段になるとちょっと引いてしまうのではないだろうか?しかしそこは才人プレトニョフのこと、そうはならないのである。例えば「朝に気分」、「オーセの死」などオーケストラだけの部分は決して甘美に、感傷的に走らないのである。最低限の格調を保って演奏しているからものすごく高級な音楽に聴こえるのだ(失礼)。またソプラノが歌う19曲、23曲のソルヴェイの歌はオーケストラとソプラノの声が実に透明で音楽に気品を感じる。特に23曲は弦だけで歌われる短い音楽だが、が更に一層それを感じるのである。また第8曲の山の魔王の音楽も決して羽目を外すことはないのであることも付け加えなくてはいけない。
 歌手たちは特にソルヴェイを歌ったゾルセットが素晴らしい。プレトニョフのオーケストラに合わせてすこぶるつきの透明感のある声は印象的だった。ヴィブラートが少ない歌い方の様に聴こえた。その他の邦人たちはそれに比べるとちょっと様式的に違うのではと思われる歌唱だった。合唱は力演。
 石丸の語りはマイク付きである。このオペラシティのコンサートホールは残響が長いように思うが、そこでマイク付きになると少し聴きとれない部分がでてくる(私の場合です)。語りは全曲の1/3ほどを占めるものでこの部分はもう少しはしょっても良いのではなかったろうか?と終演後思ったが、しかしそうするとイプセンの劇の内容が聴き手に伝わらないおそれもでてくるかもしれないしなかなか難しい。個人的に云えば語りをなくして字幕で補強し、全26曲のみを演奏した方がプレトニョフの音楽作りを更に集中して楽しめたのではないかと思った。
 東フィルは新国立のピットでおなじみであるが、今シーズンからオペラシティの定期を聴くことにした。そのかわり新日本フィルをやめてしまった。オペラシティで続けて音楽を聴いてみたいと云う衝動がそういうことになったのである。この美しいホール、内装も、音も実に美しい。今夜の東フィルの響きも美しく、力強い。各楽器の透明感も聴きとれ初体験のペールギュント全曲を楽しませてもらった。ただ終演時間が22時に近いと云うのは一考を要するような気がした。オペラ1曲に匹敵する演奏時間であるから、開始を18時半にするとかの工夫が必要ではなかったろうか?
〆  

2016年4月24日
於:サントリーホール(1階11列左ブロック)

東京交響楽団、第639回定期演奏会
指揮:ジョナサン・ノット
ソプラノ:チェン・ルイス(ルル組曲、ドイツレクイエム)
バスバリトン:クレシミル・ストラジャネッツ(ワルシャワの生き残り、ドイツレクイエム)

シェーンベルク:ワルシャワの生き残り(語り手、男声合唱のための)
ベルク:「ルル」組曲

ブラームス:ドイツレクイエム

重厚な、そして考えられた、メッセージ性の強いコンサートプログラムである。ワルシャワの生き残りとはユダヤの収容所の話であり、それにドイツレクイエムとの組み合わせは素直に受け止めればなるほどと思われるが、イギリス生まれのノットがこういう配列を考えた意図は素直に受け止めてよいかはよく分からなかった。プログラムでの評論家の船木氏との対談では少し触れていたが、私には抽象的すぎて理解できなかった。まあそういうごたくは置いといて、音楽に浸ればよいのだろうか?

 ワルシャワの生き残りは、1948年初演である。非常に短い(約9分)曲だけれども重い曲である。先日聴いたバーンスタインの「カディッシュ」とも通ずるものがある。この曲も英語とヘブライ語のミックスというのも似ているところだ。この12音階の音楽の演奏の良しあしは良くわからないが作品の伝えたいことは良くわかる。男声による語り(英語)はところどころオーケストラの音で聴きとれない。カディッシュのようにマイクを使うと云う手もあったのではないか?
 「ルル」組曲も上記と同様初めて聴く曲である。アルバン・ベルクのオペラと云えばまず「ヴォツェック」を思い浮かべる。このオペラは比較的入りやすい。それは形式が古典の形式をとっているからだろうかと思う。旋律もついて行ける。しかしこの「ルル」は今日聴いただけではなかなかの難物である。一度全曲にトライしてみたい曲ではある。この組曲は全部で5曲からなる。第3曲の「ルルの歌」ではソプラノの歌が入る。ソプラノもルルの後にドイツレクイエムというのはなかなか大変だなあと余計な心配をしてしまった。

 ドイツレクイエムはなかなかの力演である。とはいってもライブでは2回目(前回には2011/10/25の都響の定期)であるからそんなにえらそうには云えない。全体に各曲は苦悩や苦役が前半で歌われ、後半ではそれの救いが差し伸べられる音楽になっていると思うが、そういう意味では2曲目と6曲目が聴きごたえがあった。
 2曲目の「人はみな草の如く~」と歌いだされるが、これが芝居がかった趣は皆無の実に抑制された演奏でそれがこの詩にあっており実に感動的である。ティンパニがうるさく演奏しないのも良い。宗教曲で芝居かかったというのは妙な云い方だが、この曲を聴いた方はお分かりだと思うが、オーケストラは実に起伏があって劇的で、何かやりたくなってしまう音楽なのである。ノットはそういう馬鹿なことをやらない知性をもった指揮者なのである。そして後半のアレグロ「主に救われた人々は再びもどり~」は実に喜ばしい音楽を聞かせてくれる。前半の重苦しさが解放される音の広がりが感じられる。第6曲もそういう観点から埒の空く音楽になっている。合唱の「われらここに永遠の地をもたず~」からバスバリトンの「見よ、あなた方に奥義を話しておく~」の重苦しさは、「地獄よ、どこにあるのだ~」で断ち切られ、大フーガ、「主よあなたこそふさわしい方~」で解放されるが、ノットの清潔感あふれる、透明な音楽は実にその言葉の意味が音楽で伝わってくる、今夜の最も感動的な部分ではなかったろうか?その他第5曲での美しく、透明感あふれるソプラノのソロも素晴らしく、また150人を超す合唱団の充実した演奏も感動的だった。またライブだけにはっきりとスケールの大きなオルガンの演奏が聴きとれるのも良かった。
 CDではカラヤンのすこぶるスケールの大きい演奏が魅力的であるが、たとえば第2曲などは何度も聴いているとちょっといいかな?という気にさせられる。その点ノットの演奏はそこまで演出した音楽でなく実に自然に流れるのが安心して音楽に浸れて良いと思った。ノットの演奏はプログラムビルディングとともにおそらく在京では一二を争うレベルの様な気がする。今後も目(耳)を離せない指揮者だ。なお演奏時間は71分強でほぼカラヤンと同じと云うのも面白い。

2016年4月22日
於:NHKホール(1階20列中央ブロック)

NHK交響楽団、第1833回定期演奏会Cプログラム
指揮:レナード・スラットキン
語り:山口まゆ
アコーディオン:大田智美

ベルリオーズ:歌劇「ベアトリスとベネディクト」序曲
武満 徹:系図(ファミリーツリー)ー若い人のための音楽詩
     (谷川俊太郎の詩による:むかしむかし、おじいちゃん、おばあちゃん、
      おとうさん、おかあさん、とおく)

ブラームス:交響曲第一番

ごちゃまぜのプログラムだがそれぞれとても素敵な演奏だったので、ゴルフ帰りでへとへとだったけれど睡魔にも襲われずとても楽しんだ。

 ベルリオーズは「から騒ぎ」らしく強弱緩急明快な曲だが、輝かしいべルリオーズのサウンドを十分楽しめた。今日のN響は全体に音バランスが良く音楽の座りが良い。通常だとどうしてもベルリオーズの輝かしい金管が突出して騒々しい音楽になりがちであるが、そうはならないところがベテランの音作りだろうか?

 武満の「系図」は今年の1月30日に山田/日本フィルのマーラーチクルスで聴いたばかり。2度目だけにより楽しむことができた。大体武満の音楽はほとんど眠気を誘う様なものばかり(失礼)だけれど、この曲は初めて武満の音楽を楽しんだ曲である。1995年に本日の指揮者のスラットキンのよって初演されたと記録にある。そのせいか、はたまた冒頭書いたように2度目のせいかは分からないが随分と心が動かされた演奏である。この曲は若い人のためにと云うことになっているが、作曲者の狙いとは違うかもしれないが、私の様な老人にも十分感情移入できる音楽であると思う。最初の「むかしむかし」を聴くと自分の子供の頃が妙に思いだされてその頃の自分がいとおしく思われるのである。「おじいちゃん」、「おばあちゃん」、の年齢になっている自分だが、この音楽を聴いていると自分の様な気がしない。孫たちが自分のことをこう思っているんだと思うだけでまた今度は孫がいとおしくなるのである。「お父さん」、「お母さん」は何年も前になくなった両親の顔が思い浮かぶ、そして最後の「とおく」も少年時代のことが思い起こされこれは郷愁というよりもむしろ切ない想いに近い。全体の音楽の隠し味のようなアコーディオンの物悲しいムードが、目立たないが、この曲を支配する。ただアコーディオンは指揮者の前よりも山田の時のように指揮者の少し右側のほうが演奏がみえてよかったように思った。山口の語りは1月の上白石よりもさらに幼い感じで、こちらの方が曲想にあっていいた。1月に聴いた時にも感じた木管やホルン、アコーディオン、弦で奏されるこの曲全体を通して聴かれる美しい音楽は更に印象に残った。

 ブラームスも大変見事な演奏。第一にN響のサウンドが素晴らしい。特に弦楽部の充実ぶりは先日文化会館で聴いた「ジークフリート」に共通するものである。高弦はけっしてきらびやかにはならず、渋いとは云わないが、落ち着いた音がブラームスに相応しい。更に低弦部の重厚さも忘れがたい。この様な弦楽部があると、金管は更に生きるのである。ピラミッド型の音場は味わえるのである。
 1楽章は主部に入ると実に若々しい勢いを感じるが、さりとて2主題の美しい音楽へのケアも忘れない、じつに気配りの整った、聴きごたえのある演奏である。緩急の気持ち良いテンポ配分がいかにも高級な音楽を聴いている感じにさせるのだ。
 2楽章は最初のクラリネットやオーボエが美しい。しかしこれは胸を締めつけられるような切なさは味あわせてはくれない。反面楽天的な、夢を見るような音楽に聴こえる。まるで陶酔するように聴こえる弦の美しさ。これはこれで素晴らしいブラームスだろう。3楽章はもう少し勢いがあっても良いがグラチオーソの部分が生きているように思った。
 4楽章は熱演である。序奏は緩やかで主部は速いと云うのは古今の名演奏でもあるパターンで新しくもないが、それでも十分効果的で音楽の熱気を感じられる。コーダの部分のティンパニの炸裂は指揮者の指示だろうが、強烈の一言、圧倒的な終結を演出する。もう自室では滅多に聴かないこの曲だが、こうやって名演に接すると、名曲だなあと改めて感じるのである。演奏時間は約47分。

 
追記
コンサート開始前に熊本地震の犠牲者の皆さまへの哀悼の意として、バッハのアリアを演奏。その後黙とう。

2016年4月19日
於:サントリーホール(1階20列中央ブロック)

読売日本交響楽団、第591回名曲シリーズ
指揮:下野竜也
ソプラノ:エヴェリーナ・ドブラチェヴァ

ベルク:パッサカリア(フォン・ボリース編)
ベルク:「歌劇ヴォツェック」から3つの断章
     1.1幕2場、3場
     2.3幕1場
     3.3幕4場、5場

モーツァルト:交響曲第41番・ジュピター

読響の新シーズンのオープニングである。最初に熊本大震災の犠牲者の方々への追悼のために「バッハ・前奏曲」を弦楽だけで演奏。

 本割りのプログラムは意欲的と云うべきか、ごちゃまぜと云うべきか?なかなか意図を読みずらい。そういうこともあってかか随分と空席が目立ったコンサートだった。大体読響名曲というといつも満席になるのだが下野でこのプログラムでは人を呼べないと云う事なのだろうか?

 しかし、それぞれはなかなか聴きごたえがあるもので予想以上に楽しんだ。ヴォツェックをこういう形で聴くのは初めてである。今夜の演奏では読響のスケールの大きな演奏が素晴らしい。特に3幕、3幕の4場が特にそうだ。3幕1場のマリーに付けた音楽の悲痛な響きも透明感が際立っていて、とても良かったと思う。マリーは随分と可愛らしいマリーで、自分のイメージとは随分違うが、これはこれで立派なマリー像だ。そう云う声だからこそ感じられる悲痛さもあると云うことだろう。このコマ切れを聴くと新国立の舞台が見たくなってしまう。しばらく再演がないがそろそろ良いのではないだろうか?

 ジュピターは1楽章から随分勇ましい。しかし1楽章はちょっと単調で、反復も生きない。2楽章は柔らかい音は良いのだが、アクセントがなくだらだらと流れている感じだ。音楽の姿かたちが悪いのではなく、聴いていて何か教科書を読んでいるようで面白くない。後半の2楽章はがらっと印象が変わる。メヌエットは勇ましいが単に勇ましいのではなく、出てくる音楽は実に生き生きとして、聴き手をひきつけるものがある。それは印象では大変雄弁なティンパニのリードに預かるところ大ではなかろうか?トリオの表情も豊かでこれこそがモーツァルトであると云う事を感じさせる。4楽章は音楽が更に生き生きと活動をし始める。この活発さは決して若々しさを表現しているだけではなく、この音楽の持つ鋭さ、厳しさをも表わしているように思った。編成を小さくした効果もあってか音楽の透明感が素晴らしい。実に各楽器の分離が良く、見通しが良いのだ。
 1ヴァイオリンの横にヴィオラ、そしてその横にチェロを配し、2ヴァイオリンは1ヴァイオリンと対面で演奏をする。古楽風とも違う、モダンオーケストラでのこの透明感はとても美しく、この響きは好きである。反復のカットはなく全曲39分の演奏時間である。
 たまたまこの日にアーノンクール追悼番組の録画を見たら41番も入っていて聴いてみた。アーノンクールはあまり頻繁に聴く指揮者ではないが、この演奏は従来のモーツァルトとは随分違っていて、もうこれは19世紀の音楽を聴いているような印象でぞくぞくするような素晴らしい演奏だった。そのあと比較試聴で愛聴盤のベーム/ベルリンを聴いたが反復はなく、アーノンクールの様なあっちにぶつかりこっちにぶつかると云った演奏の対極にあるような趣で、一気呵成に駆け抜ける素晴らしさ。受ける感銘は甲乙つけがたい。下野の演奏と云い、モーツァルトは奥が深い。

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