ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2016年02月

2016年2月27日
於:オーチャードホール(1階22列中央ブロック)

山田和樹/日本フィルハーモニー交響楽団・マーラーチクルス

武満 徹:ア・ストリング・アラウンド・オータム
     (ヴィオラとオーケストラのための)
      ヴィオラ:赤坂智子

マーラー:交響曲第五番

このチクルスも佳境に入ってきた。五番と云う名曲中の名曲をどうさばくか期待の演奏会だ。印象としては音を一音一音紡ぐように出してゆく、とても丁寧な演奏だと思った。これは基本的には一番から四番まで変わっていない。その丁寧さが自然さと相まったとき、音楽は実にフレッシュに響き素晴らしいマーラーになる。少なくとも二番まではそういう印象であった。三番からは少しその自然さが希薄になって、力こぶとは云わないまでも、丁寧さが裏目に出てきたのではないかと云う印象が強くなってきた。例えば三番の最終楽章や四番の1-2楽章である。
 今日の五番もそういうことだ。緩急をきちんとつけているので一応めりはりはあってスケールが大きいように感じるが、問題は緩の部分である。私の耳にはいかにも遅い。音楽はスムースに流れずに停滞をしているように聴こえるのである。もっとも抵抗のあったのは3楽章と4楽章だ。
 3楽章ではスケルツオの部分は若々しく力強い。これはマーラーの指示通りである。問題は中間のトリオに当たるレントラー舞曲の部分である。ここはとても遅くなり聴いていてオーケストラもなぜかごちゃごちゃと鳴っているようで、マーラーがこの部分に込めた感情を聴きとることはできない。「速すぎないように」という指示を守り過ぎたのだろうか?私には丁寧さがわざとらしさに聴こえ鼻につく。

 問題は4楽章である。この有名な美しい曲が全く美しく流れない。冒頭は良い。しかしだんだん音楽が盛り上がってゆくにつれ音楽はどんどん停滞してしまい、まるで森の中で迷子になった様な気分になってしまう。最後の全ての弦がトゥッティで演奏される部分の緊迫感もほとんど感じられない。ここも「非常にゆっくりと」というマーラーの指示に捕らわれたのだろうか?
 両端楽章は緩急の付け方がうまくいっていて聴きごたえがあった。1楽章は葬送行進曲という表示をとても意識したような演奏で、繰り返しの部分では提示よりも更に遅くなり、ムードとしては葬送を強く意識させられるが、聴いていてちょっとしんどい。5楽章は若々しくきびきびとしてフィナーレは高らかに盛り上がり音楽として埒があき気持ちが良い。
 演奏時間は76分弱。国内ライブ、CDでもこれほど長い演奏はあまりない。ライブでは上岡/ブッパタールが約70分で一番長い演奏だったろう。CDでバーンスタインの新盤やハイティンク盤が75分ほどだ。一時はバーンスタインの新盤が愛聴盤であったが、バーンスタイン盤を聴くのが辛くて、最近はまたショルティ盤にもどってしまった。バーンスタイン盤はむしろ旧盤のほうが好きだ。演奏時間を比べても仕方がないことかもしれないが、今日の演奏とショルティとは10分ほども違う。ショルティはシカゴと来日した時にぶちのめされるほどすごい五番の演奏を聴いて以来のファンである。いまはそれ以外では都響/インバルのライブ盤をよく聴く。

 先日バレンボイム/ベルリンシュターツカペレの演奏会でブルックナーの五番、七番~九番を聴いた。いずれもバレンボイムがちょうど山田の年齢くらいの時にシカゴとの録音をしているCDがあったので全曲聴き比べて見た。驚いたのは演奏時間が40年前の演奏と数分と狂っていないのである。もちろんそれは外形的なことである、各楽章の細かい取り扱いは随分と変わっていたが、しかし基本的なブルックナーのこれらの曲に対する姿勢は変わっていない様に感じたのである。さて、もう私は聴けないけれども40年後の山田が果たしてどのようなマーラーを振るのか興味津津である。次回は更に難解な六番に挑戦するがどうさばくか注目したい。私の好みとしては、できれば一番、二番の演奏を取り戻してもらいたいものだと思う。

 日本フィルは力演だと思うが、山田との音楽の練り込みが不足しているのではなかったかと云う印象が強く残った。特に緩の部分はオーケストラは印象だがおそるおそる演奏しているような気がしてならなかった。高弦、金管いずれも先日聴いたベルリンの充実した音は聴けなかった。ホールのせいもあったかもしれない。

 武満は最初の印象は「ペレアス~」みたいでいいなあと思って聴いていただが同じような旋律の繰り返しで眠ってしまいました。

2016年2月27日

「オデッセイ」マット・デイモン、ジェシカ・チャスティン他
リドリー・スコット監督の快心作。原作はアンディーウイアー著の「火星の人(MARTIAN)」
 マット・デイモン扮する宇宙飛行士(マーク・ワトニー)は植物学者である。火星に六人の仲間と上陸するが大砂嵐のため撤退を余儀なくされる。しかしワトニーは負傷したうえ嵐に飛ばされ、火星に一人取り残される。食料は400日分、次の火星船は4年後という危機に陥ってしまう。そこからワトニーのサヴァイヴァル作戦が始まる。現代のロビンン・クルーソーである。ワトニーの生き残るための工夫は数々あり見ていただくしかないが、大切なことは彼の思考パターンである。生きるためにはなにをするかということからさかのぼって一気に結論にたどり着かずに一つ一つ目の前の課題を克服すると云う精神の力が何とも素晴らしい。常にユーモアを忘れないと云うことも生き残った理由だろう。全く素晴らしい人間像を作ったものだ。この映画の見どころだろう。
 スコット監督の原作の刈込は実にうまく云っていて、細部に拘泥したら何時間かかるかわからない映画を2時間少々に納めても全く違和感がない。原作は読んでいたほうがわかりは良いだろうが、しかし読んでいなくても全く問題がない。原作に少し手を加えている部分もあるがそれも不自然さはない。
 俳優陣はデイモンを含めて皆素晴らしいが特に宇宙船エルメスの船長のルイス(ジェシカ・チャスティン)が素晴らしい。台詞は多くはないが部下を見捨てた苦悩、最後の救出場面でのリーダーシップなど静かな演技で素晴らしい人間像を作っている。
 映像も素晴らしい。これは3Dで見るべきだろう。特に近接して撮影した火星の映像や宇宙船の内部のリアルさは特筆すべきことだ。3Dもこれだけ自然な映像にコントロールできるような時代になったということだ。
 もう一つこの映画の特徴。こう云う救出劇になると家族愛だなんだと云うアメリカ人の好きな場面がでてくるが、ここではそれがほとんど出ていないということだ。特にワトニーには両親がほんの少し話に出てくるだけだ。宇宙の孤独ものでは「ゼログラヴィティ」が面白かったが、その作品と本作を隔てているのはそこである。(スカラ座にて)

「ジュラシック・ワールド」クリス・プラット主演
人間は何も学ばず同じことを繰り返すとはこの映画のなかである黒人が云う台詞。まさにそれがモチーフだろう。
 ハモンド博士が20年前に作ったジュラシックパークをインド人の資産家が譲り受けジュラシックワールドというテーマパークをつくり事業として成功している。しかしテーマパークゆえに定期的に新しいアトラクションが求められる。そしてそれがハイブリッド恐竜である。ハモンド博士はジュラ紀の恐竜たちの復元を図ったが、テーマパークの経営者は恐竜やその他の動物のDNAを操作し実在しない恐竜を作ってしまうのだ。それがエスカレートして生まれたのが最強の恐竜インドミナス・レックスである。しかしそれが檻から脱出してしまう。そして殺人鬼になり恐竜や人間を襲うのだ。さて結末はいかにという初代ジュラシックパークを思わせる展開である。グレイドアップしたリメイクの様でもある。恐竜同士の戦いは実に痛々しい。これは娯楽映画だけれどもその陰には結構きついメッセージをもった映画だ。

「天空の蜂」江口洋介、本木雅弘、綾野 剛主演
まだ日本に原発が多数稼働している時代、テロリストが富山の高速増殖炉の上空に無人ヘリをホバリングさせる。日本中の原発を破壊しないとこのヘリが燃料切れになって原子炉の上に落下爆発してしまうと云うテロ予告である。このヘリはある企業が防衛庁に納入する新型巨大ハイテクへりである。そのヘリの開発者が江口、たまたまそのヘリの試乗に居合わせた江口の息子がその無人ヘリに乗り込んでしまった。猶予時間は8時間である。さて原発をどう守るか、江口の息子をどう救うか、緊迫の時が過ぎる。
 東野圭吾の原作は読んでいないのだが、どうなのだろうか、かなりいじってあるのではなかろうか?というのもこれは原発反対と云う強烈なメッセージが込められた作品の様に思われるからである。云わんとするところはよくわかるが、全ての台詞をそれに収れんさせると云うのはエンターテインメント性を削ぐような気がしてならない。
 ストーリーはなかなか面白いのだがメッセージ性が強烈なためテロリストたちの人物像やテロの計画の中身の精緻さがこの映画では欠落しているのでその面での面白さは薄れてしまっているのが何とも残念である。例えばこの最新の精緻なヘリコプターをテロリストがどうやって自在に無線操縦できるようになったのかが皆目描かれていない。もちろん図面は盗み出したのだけれど?でも図面がありゃできるものかい?
 それと相変わらずの家族愛。お父さんが働き過ぎで家にいないからって子供が変になったら、日本中の子供は皆変になってしまうよ、このステレオタイプ的家族の描き方。まあ日本でこういうサスペンスが成功しない見本の様な映画である。役者は勢ぞろいだが皆熱くなりすぎているのか台詞はいつも叫んでいるように聴こえる。

「ジョン・ウイック」キアヌ・リーブス主演
なんとも中身のない映画だ。どう展開するのだろうかと見ていたらどうも展開しないで終わってしまうと云う印象である。
 ウイック(リーブス)はロシアマフィアのヴィゴ・タラソフの組織の殺し屋として裏世界では有名な男だったが、5年前結婚を機に足を洗う。しかし妻が病死した直後に偶然にタラソフの息子がウイックの愛車を盗みさらには妻の形見の愛犬を殺してしまう。妻を失い絶望の底にいたウイックは怒り、復讐に立ちあがる。まあそこからはもう殺人に次ぐ殺人でストーリーも何もあったものではない。それにしてもこれだけに人が死んでいるのに警察のけの字も出て来ないのはどういうことだろう。妖しげな人間がたくさん出てくるがみなコミックの主人公のようだ。これはひょっとしたらコミックの映画化だろうか?

2016年2月21日
於:サントリーホール(1階18列中央ブロック)

ダニエル・バレンボイム/シュターツカペレ・ベルリン来日公演

モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番

ブルックナー:交響曲第九番

バレンボイムのブルックナー全曲演奏会も今夜が最後だ。5,7,8、そして今夜の9番と聴いてきたが会場はしり上がりに満席に近くなってきて8,9番はほぼ満席だった。

 バレンボイムのこのモーツァルトの23番のひき振りは1989年のベルリンフィルとのコンビでCDで聴いている。この演奏の愛聴盤とは云えないが、ときどき引っ張り出して聴いている。私にはこの可愛らしい23番、バレンボイムは少し立派すぎるように思うのである。大体ひき振りをする人は思い入れが強くなって私はあまり好きではない。この曲の愛聴盤は内田/テイトの古い盤である。いかにも上等な音楽を聴いた気がする。しかし彼女のクリーブランドをひき振りしたものは今一つ共感できない。とても立派な演奏なのだろうが、何時も聴いた後こんなに立派にしなくてもと思ってしまうのである。

 さて、今夜の演奏はバレンボイムのCDとは外見はにているが印象は随分と違うような気がする。音楽は立派すぎるくらい立派なのは間違えないが、そこには若干柔軟性が加味されてヴィヴィッドなモーツァルトを感じさせる演奏だ。2楽章のピアノの美しさは云うまでもないが、素晴らしい楽章は3楽章である。まさに天馬空をゆくとはこのことである。冒頭のフルート(このフルートは本当に素晴らしい、五番の1楽章のフルートソロは忘れられない)、クラリネット、オーボエ、そして2丁のファゴットがもくもくと雲のように湧き上がる様はこの名曲を聴く醍醐味だろう。そしてピアノのなんと若々しいことだろう。久しぶりにこの曲を楽しんだ。演奏時間は25分。
 アンコールは同じくモーツァルトのピアノソナタ10番の2楽章と3楽章。ここでは2楽章の中間部分の陰鬱さが前後の明るさとの対比で素晴らしい陰影を作る、そして3楽章のアレグレットの対極的な音楽。まるでブルックナーのように音楽が変化して感動的だ。

 ブルックナーの九番は七番や八番と比べてそん色はない演奏とは思うのだが、私にはどこかしっくりこない演奏だった。彼のシカゴとの録音は相変わらずの起伏の多い力強いものだが、今夜はそういう緩急の大きな変化は少ない。ただその反面音楽は妙に平坦になってバレンボイムらしさに欠けたような気がするのである。それゆえか両端楽章の音のクライマックスは盛大なものだが音楽がとても単調に聴こえてならなかった。ティーレマンが来日時に演奏した九番もこの様な印象で大きい音量だけがやけに耳についたのを覚えている。そう、盛大に音を鳴らし過ぎと云うのが両者の共通点かもしれない。2楽章の様なスケルツオなら良いが、3楽章のアダジオの様な部分の例えば第1主題の見事な第2楽句をあのように盛大に鳴らされると聴いているうちにだんだん気持ちが冷めていってしまうのである。もちろんこの後の生と決別の音楽との対比だと云うことはわかるが、このところなかなかこのこの曲の良い演奏には会えないのである。こちらが年をとった証拠かもしれない。
 素晴らしかったのは3楽章の最後のホルン、ワグナーチューバの重奏である。この部分の厳粛さはちょっと他の部分と場違いなくらいに感じたほどだった。ちょっと今夜の演奏は咀嚼に時間がかかりそうだ。演奏時間は60分でシカゴとの録音とほぼ同じ。ノーヴァック版による演奏である。

2016年2月19日
於:サントリーホール(1階18列中央ブロック)

ダニエル・バレンボイム/シュターツカペレ・ベルリン来日公演
ブルックナー:交響曲第八番

16日の七番と同様、バレンボイム/ブルックナー演奏の頂点を極める演奏だと思う。彼は1980年に八番をシカゴと録音している。この演奏は緩急・起伏の激しい、ちょっと忙しい演奏だった。しかし今夜の演奏はそういうバレンボイムが本質的にもっているブルックナー感は維持しつつも聴こえる音楽は随分違って聴こえた。ひとことでいえばこせこせしない、実にスケールの大きい音楽に変貌したのである。シュターツカペレ/ベルリンの演奏もそれに大きな寄与があったかもしれない。七番と同様素晴らしい弦である。更に七番でも感じたがホルン、ワグナーチューバのパートの充実ぶりは傑出していたように思った。1楽章の展開部、3楽章などソロのホルンの美しさ、またトゥッティの時の金管群の威力は水準の上がったとはいえ国内オーケストラでは太刀打ちできないだろう。

 1楽章の全体のゆったりとしたテンポが実に音楽に浸れてよい。80年の録音よりわずかに演奏時間が延びているのは起伏がなだらかになった証拠ではあるまいか?特に2主題と3主題のつなぎが実に自然である。わずかにテンポは上げているが突出感がないのである。3主題の壮大なサウンドにはただただ圧倒されるばかりだ。
 2楽章のスケルツオは速い、しかしこの速さは人工的ではなく実に生き生きとしているのだ。聴き手を引きずりこむ魅力は大きい。トリオはその流れを受けているせいかテンポは遅いが音楽は決して緩まない。
 3楽章はやはりクライマックスの取り扱いが私にはちょっと合わない。このクライマックスへの道をどんどん加速してゆく指揮者は案外多い。昔聴いたシャイーはその中でも抵抗は少ないほうだったが、やはりここの加速は緩やかなほうが好きだ。今夜のバレンボイムもかなり激しい。ここは80年の録音とは変わらない。この加速が激しいとクライマックスの盛大に盛り上がる音楽がド派手に聴こえるような気がしてならないのである。しかしこれはバレンボイム流なのだから仕方がない、これはこれで立派な音楽だとは思う。その他の部分は云うことのない美しさ。

 4楽章はかなり起伏の激しい演奏である。しかしこれはもともとこの楽章の持つ要素でもあるので当然と云えば当然だろう。先日のスクロヴァチェフスキ/読響でもこの楽章はそうだった。
 特に3主題になると性急感が感じられるがまあ許容範囲だろう。80年の録音で一番抵抗のあったのはまるでお師匠さんのフルトヴェングラーばりのコーダの部分である。ものすごい急加速をかけるのでちょっとたまげてしまうほどだった。しかし今夜のバレンボイムはそういうパターンを卒業したようだ。コーダには緩やかに入り、スケルツオ主題が戻ってきて、金管で奏されるころから、音楽は加速を始めるが、これが全く加速を感じないほどわずかなのである。そしてそのまま頂点に突入してゆく、そして音楽は壮大さを極めるのだ。これこそバレンボイム芸術の頂点の部分であろう。なお演奏時間は79分。今回のチクルスでは五番と七番はシカゴとの録音より数分速くなっているが、八番は数分遅くなっている。また今回の全曲演奏会ではほとんどノーヴァック版を採用しているがこの八番はハース版を使用している。

2016年2月18日
於:東京文化会館(1階5列中央ブロック)

ヴェルディ「イル・トロヴァトーレ」
二期会公演(パロマ歌劇場、フェニーチェ劇場提携公演)

指揮:アンドレア・バッティストーニ
演出:ロレンツォ・マリアーニ

マンリーコ:城 宏憲(小原啓楼体調不良で降板)
ルーナ伯爵:成田博之
レオノーラ:松井敦子(石原敦子体調不良で降板)
アズチェーナ:中島郁子
フェランド:清水那由太
イネス:そまやま恵子
管弦楽:東京都交響楽団
合唱:二期会合唱団

バッティストーニの期待のヴェルディである。しかし残念ながらバッティストーニの過去の指揮や先日聴いた藤原による「トスカ」に比べると若干完成度が低いように感じた。理由は2つ、歌手たちとバッティストーニの音楽作りである。
 歌手たちには波乱があった。主役級が2人も交代してしまったのである。特にマンリーコ役は直前の変更の様だ。カバー役の城が二期会初登場でこの大役である。このオペラは過去にも書いたように4人の歌手がそろっていないと何ともつまらないオペラになってしまう。最近聴いたなかではザルツブルグやMETの映像が印象的であるが、あの世界一流の公演でも決して十全とは思えなかったのだからなかなか難しいオペラだ。残念ながらライブで満足のゆく公演にはまだ一度もめぐり合っていない。

 さて代役のマンリーコ。1幕の舞台裏での歌唱はなかなか素直な声である。しかし聴きこむにつれヴェルディに必要な力強さにどうしても物足りなさを感じてしまう。細身の声はそれなりの魅力があるが、芯が欠けているような気がしてならなかった。例えば1幕の最後のルナ伯爵との決闘シーン、最高音を聴かせてくれたが、果たして文化会館の奥まで届いたかどうか?そして3幕の幕切れのアラールミと歌う部分も声は出ているような気がしたがこのオペラに必要な熱気と力強さが欠けるように聴こえた。
 代役の松井によるレオノーラも同じことが云える、歌は綺麗だが、綺麗事に終わってしまう、レオノーラの心情が十分出せただろうか?1幕や4幕のアリア~カヴァレッタへの道も熱い情熱までは聴けなかった。
 ルナ伯爵の成田はベテランの味を出していたが声に美しさが足りないのではないか?
2幕のアリアも不安定。聴いた印象は傲慢な貴族の息子というよりもマンリーコと同様悲劇の主人公の様な気がしてならなかった。事実そうなんだけれどもマンリーコの敵役なんだと云う事を忘れてはいけないと思う。私はもう少しマッチョさのあるルナが好きである。これは演出によるものかどうかはわからない。以上の3人は敢闘賞ではあるが敢闘では物足りないのである。聴いていてああここは大丈夫かな?という不安が先立ってしまう。
 素晴らしかったのはアズチェーナの中島である。上記3人に比べると声に余裕があり、聴き手に全く不安を感じさせない。豊かな声も魅力である。2幕や3幕のアリア、4幕のマンリーコとの2重唱も皆見事で聴きごたえがあった。やはりこのレベルまで4人はそろえて欲しいのである。その他脇ではフェランド役の清水が素晴らしかった。また合唱はとてもよかった、ポピュラーな2幕の冒頭の鍛冶屋の合唱などとても立派だった。

 さて、バッティストーニも過去聴いたナブッコ、リゴレット、そしてトゥーランドットに比べると「らしさ」がちょっと薄い様な気がした。短い前奏もトゥーランドットに比べると一気に聴衆をひきずりこむパンチがない。オーケストラもちょっとヴェルディにしては大人しい様な気がした。私見だがバッティストーニはこのオペラのひたすら前進する、前のめりになった様な、情熱的な音楽の部分はあまり重視していないのではなかったか?その代わりこのオペラのもつもう一つの素晴らしい旋律美に焦点をあわせて指揮をしたような気がしてならない。一つは歌手たちに合わせて、もう一つは演出家のダークでミステリアスというムードに合わせたのではないかと思うのである。
 そうやって聴くと例えば1幕のフェランドの昔語りなどは歌手も良かったが、オーケストラが実に素晴らしく合わせているのだ。ここはオーケストラ一言で云えばブンチャッチャ、ブンチャッチャとやっているだけの様だがそういう旋律に対してもバッティストーニのめくばりが感じられ実に印象的なのである。普段はほとんど気にとめない部分だが、なぜか今日はとても耳に残った。今日の指揮は万事そんな感じ、至極丁寧に音楽を作っている印象だった。これはちょっと意表を突かれた思いである。もちろん幕切れなどはがんがん行くのはいつもの通りだが、それはおまけなのである。演奏時間は127分だが、反復はほとんどカットしてあるので、参考にならない。全体にはゆったりとした印象だった。

 演出の肝は演出家による演出ノートに書いてあるが、引用するとこのオペラは「そこで語られるのは事実や出来事ではない。主要な出来事はすでに過去のものになっており、観客はその出来事を直接体験したりすることはない~」ということにある。これはジュリーニが指揮をしたこのオペラの録音の解説に評論家の黒田恭一氏が書いてあることと同じである。その当時(1984年)なるほどと思わせる解説だった。
 そういう発想をベースに演出は作られており、したがって舞台はリアルさがなく、ダークでムーディでミステリアスなのである。ほとんど全幕は暗くて夜の場面の様だ。ステージ奥には絶えず月が描かれ場面によっては色が変わる。舞台前面には大きな中世を思わせるタペストりが吊るされている。それが開いたり閉じたりする幕のようにもなっている。4幕でレオノーラがルナ伯爵に身を任せるとこのタペストりが落下して舞台に広がる。そしてそれがマンリーコとアズチェーナの牢獄の場面になると云う按配だ。演出ではこの場面がなにか不思議な世界の物語風で、タペストりが落下した後横になっていたルナとレオノーラは立ち上がり、二人は関係のない様な顔?をして舞台奥に歩いてゆき、左右に別れて舞台裏に消える。それと同時に入れちがいになって、舞台左右からそれぞれマンリーコとアズチェーナが登場して、4幕が始まると云う具合になっている。なかなか面白いやり方があるものだと思った。その他の演出はト書きから大きく逸脱はしていない。全体に歌い手の動きは少なく、アリアなどではほとんど棒立ちで、まるでリサイタルの様に歌うのが、最近の演出にしては珍しかった。
 装置は簡素なもの、例えば1幕では白馬の銅像のみ、3幕では剣が6本ほど一列に刺さっているだけなど。衣裳はいかにも中世風の甲冑を着た騎士が登場するなど違和感はなかった。

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