ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2016年01月

2016年1月31日
於:東京文化会館(1階15列左ブロック)

藤原歌劇団公演
 プッチーニ「トスカ」

指揮:柴田真郁
演出:馬場紀雄

トスカ:佐藤康子
カヴァラドッシ:笛田博昭
スカルピア:須田慎吾
アンジェロッティ:久保田真澄
堂守:安東玄人
スポレッタ:沢崎一了
シャルローネ:田中大揮
看守:坂本伸司
牧童:時田早弥香
合唱:藤原歌劇団合唱部、多摩ファミリーシンガーズ
管弦楽:東京フィルハーモニー管弦楽団

藤原歌劇団に気合いを感じる素晴らしい公演だった。トスカは新国立で聴いたばかりだったのでつい比べたくなってしまう。会場の違いもあり、装置は新国立の豪華・華麗さにはかなわない。しかし歌手たちは新国立の海外組に決して勝るとも劣らない。なるほど新国立の歌手たちの声の威力は素晴らしいものであったが、なにか主役の三人がばらばらと勝手に歌っているようで、声の饗宴がドラマに結びつかないように思った。

 しかし今日の公演は三人の歌手たちの声がドラマにつながり、誠に見ごたえ、聴きごたえのあるものであった。
 トスカの佐藤は幾分小作りなトスカだが、その柔らかくのびやかな声は、歌姫に相応しい。「歌に生き、恋に生き~」も超ド級の声ではなく、可愛らしく聴こえ、悲劇性が増す。こう云うトスカもありかと思った。全域にわたって安定している声は安心して聴いていられるのがなによりである。
 笛田のカヴァラドッシも素晴らしい。彼は2014年に藤原歌劇での蝶々さんの公演で
ピンカートンを歌っていたが、あれも素晴らしい歌唱で、凄い若手がでてきたものだと思っていた。今日の公演でも彼の力強く輝かしい声はまことに存在感のあるものである。1幕の「妙なる調和」、その後のトスカとの二重唱も聴きごたえがあった。2幕のスカルピアとのやりとりは決して腰砕けにならないし、3幕の「星はきらめき~」など全て余裕のある歌いっぷり。
 須藤のスカルピアは幾分明るい声で凄みには少々欠けるが、スカルピアの屈折した、異常な性格を表現する歌唱力は見事なものだ。もう少し低音に深みがあれば更によかったろう。
 この三人の歌唱もさることながら、演技もよかった。日本人が西洋人を演じる時の気恥ずかしさがこの三人からは全く感じられないのは驚きである。やはり海外での場数を踏んでるせいだろうか?1幕のスカルピアとトスカの絡み、2幕の三人の絡み、などいずれも劇的効果が大きいのは決して歌からばかりではないだろう。
 その他脇役陣も皆安定しているが、堂守の久保田はどうもいけない。くちがぱくぱくして声がでていないように思う。演技もちょっと恥ずかしい。彼は「ランスへの旅」でブロフォンドを歌っていたがそれもちょっと声が物足りなかった。

 指揮の柴田も若い人の様だ。このプッチーニのドラマの音化に貢献していた。1幕の終わりのエネルギッシュな音楽の運び、2幕の劇的な表現、3幕の幕開けの情景描写の美しさとてもよかった。演出も若い人の様だ。基本的にはト書きを尊重しているようで安心して音楽にひたれた。舞台装置は少々変わっていて彼の演出ノートによると舞台を「劇場」に設定している。舞台中央に低い傾斜した楕円形の舞台があり、そこで例えば「歌に生き、恋に生き~」などが歌われる。左右には階段状の観客席があり、歌い手は観客に囲まれて歌う様なしかけだ。ただ実際はこの観客席はあまり機能していないような印象だった。この演出家による演出ノートはなかなか面白く、新演出の場合はこういうノートは披露してもらいたいものだ。プッチーニの歌詞へのこだわり、例えばトスカの最後の歌詞の「神のみ前で」の意味など論じられており面白かった。二期会もそうだが藤原のプログラムはとても良くできている。新国立や海外公演のプログラムも見習ってほしいものだ。

 いずれにしろ今日は日本人だけによる見事なトスカを聴かせてもらった。演奏時間は拍手込みで114分。藤原には熱烈なファンがいるようで、途中にタイミングを外したような拍手やブラヴォーがあったのはちょっと残念である。

2016年1月30日
於:オーチャードホール(1階22列右ブロック)

山田和樹、マーラーチクルス第4回
管弦楽:日本フィルハーモニー管弦楽団

武満 徹:系図ー若い人のための音楽詩(語りとオーケストラのための)
     詩・谷川俊太郎
     語り・上白石萌歌

マーラー:交響曲第四番
     ソプラノ・小林沙羅

山田のマーラーチクルスは第二期に入った。今年は六番までだ。一年ぶりに指揮姿を見るが昨年に比べると随分と余裕がでてきたような気がした。まあ気のせいかもしれないが!

 さて、組み合わせの武満の音楽だが、今回は随分と聴きやすくとても楽しんだというより十分共感のできる音楽だった。谷川俊太郎の詩集「はだか」から選んだ6編に曲をつけたものである。「むかしむかし」、「おじいちゃん」、「おばあちゃん」、「おとうさん」、「おかあさん」、「とおく」である。フルートやホルンで演奏されるとても美しい動機はなんども姿を変えて出てくるがこれがすこぶる印象的、また珍しくアコーディオンも登場、指揮者の右側に座って何かとても懐かしい音楽を奏してくれた。語りの上白石の幼い声も曲想に合っていたのではなかったろうか?いままで武満の音楽はなかなか耳に入ってこなかったがこの曲はおそらく初めて楽しめた曲である。

 マーラーである。3,4楽章はすこぶるつきの素晴らしさである。3楽章は「安らぎに満ちて」と指示があるようにとても穏やかでやさしい。山田はほとんど何もしていなくて日本フィルの自発性に任せているような指揮ぶりだが、それゆえ感情過多にならず、音楽は自然に流れるのである。一聴、単調に聴こえるかもしれないが、きめ細かい音楽の変化は、深い感動と共感を呼ぶものだ。これは1曲目の武満の音楽に通じるものを感じさせる。ただ楽章の最後の大きく盛り上がる音楽はちょっと入りがばらついたようで残念。
 4楽章も3楽章の延長線上である。テンポは実にゆったりとしていて、天上の音楽に相応しい。小林の歌は幾分オペラ風になるのが残念だが、大体オペラ歌手が歌うとこうなるのでやむを得ないだろう。柔らかく伸びやかな声は魅力的である。
 1,2楽章は私には少々問題であった。緩急、強弱はつけているのだけれど、音楽全体が妙に薄っぺらく聴こえてしまって私は共感できなかった。今日は3,4楽章だけで大満足である。
演奏時間は59分である。


追記(2016年2月6日)
今朝の朝日新聞を見て驚いた。文化欄で武満徹没後20年の企画が各音楽会で取り上げられている記事である。しかしここには昨年から山田が取り組んでいる、マーラー+武満の企画が欠落しているのだ。このプロジェクトは3年間の壮大な計画である。記者の不勉強としか言いようがない。
 大体マスコミ(大新聞:私は朝日と日経)の音楽関係の記事は極小である。例えば私の住む東京の在京オーケストラの定期公演、年間では何百と行われているはずだが、私の記憶で朝日、日経ではまず記事になったのは皆無に近い。また国立劇場の歌舞伎などの紹介はあっても、新国立劇場の公演の記事は昨年の「ラインの黄金」以来見たことがない。国立と銘打っているのであるからもう少し評など載せても良いのではないだろうか。せいぜい海外のオペラやオーケストラが来たときなどはおざなりながら評論家の評が載っているくらいだ。残念なことだ。

2016年1月30日

「スターウォーズ・フォースの覚醒」デイジー・リドリー、ハリソンフォード主演
ディズニーによるスターウォーズ、実はあまり期待していなかった。しかし今回の上映に際してブルーレイで過去の六作品がセットで改めて発売され、衝動的に買ってしまい(家には何種類かのDVDがあるのに)、昨年末全作品を見たらどうしても本作が見たくなったのである。もうひとつ今年に入ってだろうか、NHKの特別番組でルーカスの特撮チームの会社の報道があった。当然このフォースの覚醒にも触れているわけで、そういった撮影秘話をみると、やはりこれは劇場で観なくてはと思いおもむいた。
 予想以上に面白かった。それは半分以上は映像の面白さである。新しいから当然だろうがCG映像のリアルさは今回が一番なのではないだろうか?NHKのテレビで丁寧にプロセスを見せてくれた砂漠の廃墟の追跡劇など印象的である。その他見どころは満載だ。ストーリーはエピソード4のリメイクに近い。ただルーク・スカイウォーカーの代わりに女性のレイ(デイジー・リドリー)になっている。レイの敵役はレイア姫とハンソロの子供であるようだ。おそらくレイとは双子の兄弟だろう。エピソード4のハンソロ的な役回りは帝国軍の黒人の脱走兵が演じており、これはあまり存在感がなかった。ルークがフォースの覚醒までにずいぶん時間がかかったのにレイはあっという間にマスターしてしまうのは不自然だがディズニーだからしかたがないか(失礼)。まずは新しいシリーズのスタートとして、及第点だろう。

「ゼロの未来」、クリストフ・ヴァルツ主演
近未来の情報社会。オーエン(ヴァルツ)はエンティティ解析官(よくわからない)、自分のことをIと云わずにWEと云うちょっといかれた男。社会を支配するマルコム社のマネジメント(デイモン)から「ゼロの定理:これが原題」を解けと命令される。しかし解けずに彼はますますおかしくなる。ベイズリーという娼婦やマネジメントの息子などがからみなんだかよくわからない展開に嵌まる。と書いたがこう云話で良いのだろうかと思うくらいちんぷんかんぷんの映画でした。

「チャイルド44」トム・ハーディ、ノオミ・ラパス主演
ベストセラー小説の映画化。原作の味を生かしながらうまく翻案している。面白い映画だった。
 レオ・デミドフは戦争の英雄で今は戦後のソ連の秘密警察の大尉をして、スターリン政権下、日夜政治犯を追っている。社会では恐れれられているが、エリート的生活を妻とともに送っている。しかし自分の同僚の子供が変死をする事件から彼の運命が大きく変わって来る。いろいろあって妻に政治犯の疑いがかかる。レオは妻を守るために自らの地位を投げ捨て、地方の民間警察に左遷されてしまう。しかし左遷先でも子供の変死体が発見される。レオは所長ネステロフ(ゲーリー・オールドマン)の協力も仰ぎ秘密裏に捜査を開始する。
 ソ連のスターリン圧政下の社会はもう歴史だろうけれども、そんなに昔ではないのだと云う事を教えてくれる。しかしこの映画の面白さは原作もそうだけれど、そういう圧政下で、レオが案外と科学的な捜査をする、そしてその捜査のプロセス、そちらのほうが面白いのだ。ただこの部分は本のほうがより面白い。映画だと少し刈り込んであるので簡単に事実がわかってしまうように感じる。まあでもテンポを生かしているのだからやむをえまい。
 トム・ハーディは大根役者の様に見える時もあるが、ある時は「裏切りのサーカス」の下っ端スパイのター役、ある時はマッド・マックス、そして本作とそれぞれ役作りがうまい。ノオミ・ラパスはリドリー・スコットのお気に入りの様で本作でもヒロインを演じている。彼女はミレニアムのリスベットの印象が強烈だが、本作でもライサ役を原作の雰囲気を出して演じている。

「サンドラの週末」マリオン・コティヤール主演
サンドラ(コティヤール)は夫マニュと共稼ぎ。二人で働いて親子4人でやっと生活している。しかし彼女はうつ病の治療で休職していて、復職しようと思ったら解雇されてしまっていた。これにはからくりがありマリオンの復職にさいしては従業員の投票がありマリオンの復職かボーナス(1000ユーロ)かを選べと云う。そういうようにしないと解雇できないようだ。しかしマリオンはそれでは生活できなくなるので同僚の女性の支援もあり社長に頼んで再投票してもらうことになった。今日は金曜、来週の月曜が投票日である。
 マリオンは従業員16人をまわり支援を取り付けようとする。しかし挫折するたびにめそめそと自分の殻に閉じこもってしまう。夫や友人に励まされやっと動き出す始末。さて結末はいかに!これはマリオンの成長の物語であるが、それとともにフランスの社会の現状を浮き彫りにした映画である。私は後者の面が面白かった。それにしてもコティヤールの演じるめそめそ女の不愉快なこと。演技がうまいのだ。

「日本のいちばん長い日」役所行司、本木雅弘、山崎 勉主演
この映画はリメイクであるが、三船敏郎が阿南を演じた前作より面白いと思った。前作の良さは配役も含めた重厚感である。しかしその重厚感がなにか儀式を見ているようで、偽物臭く、面白いけれども最後の三船の切腹シーン以外は印象に残らない。
 本作は重厚感と云うものはほとんど感じられない。それはこの映画のスピード感によるものだろう。展開はぽんぽん進む、それはあたかも大きな、しかも奔流の様な、流れに翻弄された人々を描くがごときのテンポなのである。実際登場人物はみな哀れなくらい自分がなく、流されながらも、からくもなんとか自分の役割を演じようとしている。鈴木貫太郎しかり、天皇しかり、当然のことながら青年将校もしかりである。それゆえ私たちはこの戦争の最後の部分の映像のリアルさにおののき、わがことの様に共体験ができるのであろう。この場所に自分がいたらと思うだに恐ろしいことだ。
 役者はそういう観点からするとみなうまい。特に山崎の鈴木貫太郎は最初はわざとらしいなあと思いつつも、あの場合ああいう演技をしたかもしれないなあと思わされる。役所の阿南は糸の切れた蛸の様な陸軍をなんとかコントロールしようとする悲劇の将軍の様でありその苦衷は伝わる。ただ彼がでるとなぜか家族愛の押しつけの様な雰囲気になるのがちょっと違和感がある。その他松坂の畑中少佐は前作の黒澤年男よりずっとよい。空回りしているのは自分の演技の様でぴったりだ。役者の名前は失念したが井田少佐役は落ち着いた演技、妙に冷めた将校役にぴったりだった。

「ギヴァー」ジェフ・ブリッジス、メリル・ストリープ
これは見始めた時に、ありゃ、「ダイバージェント」のパクリかと思った。しかしエンドクレジットを見ると原作本があるようなのでまあ同系なのだろう。
 近未来、おそらく地球のある地域は閉鎖社会を形成している。そこは完全平等の管理社会。人種差別をしないと云うために色彩までも失われている。だから映画は半ばまで白黒である。そしてある年齢になると適性に合わせて職業が与えられる。人口制限があって年寄りや虚弱な乳児は「解放」と云う名のもとに殺されてしまう。また愛などの抽象的な感情は忘れ去られている。
 主人公はジョナスと云う少年。かれは「記憶の器」という職業を与えられる。この国では一人だけだ。実はこの国には過去の記憶がない、つまり戦争、飢餓、などの歴史がない。その歴史を受け継ぐのが「記憶の器」である。記憶を与えるのが「ギヴァー・GIVER」、まあそういう話だ。ジョナス少年は過去の記憶を与えられる旅に人間性を取り戻してくる。ジェフ・ブリッジスがギヴァー、メリル・ストリープは体制を守ろうとするリーダー役である。面白いかって?、ノーコメント



 

2016年1月28日
於:新国立劇場(1階16列左ブロック)

モーツァルト「魔笛」新国立劇場公演
指揮:ロベルト・パーテルノストロ
演出:ミヒャエル・ハンペ

ザラストロ:妻屋秀和
タミーノ:鈴木 准
パミーナ:増田のり子
夜の女王:佐藤美枝子
パパゲーノ:萩原 潤
パパゲーナ:鷲尾麻衣
モノスタトス:晴 雅彦
合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:東京交響楽団

久しぶりに日本人のみの公演である。昔はダブルキャストで海外組と日本組とで公演が分かれていた。シーズンで買った人がよく会場で日本組の公演とは知らずに来たためか文句を言っているケースが散見されたのだが、流石に最近の日本人の水準は随分と上がっていてそういうことはないようだ。
 しかし、考えて見ると新国立劇場での純血主義というのはいかなる意味があるのだろうかと思う。二期会や藤原はほぼ純血主義できていて出来不出来はあろうが、それはそれで筋を通した公演であると思う。しかし新国立では適材適所主義でゆくはずではなかったのか?つまり海外の生きのいい歌手と日本の中堅歌手との組み合わせである。それで成功してきたと私は思っている。その成果が昨シーズンの「パルジファル」だと思う。今後ともこの純血主義を新国立劇場で採用するならそれなりの意味を持つ必要があるだろう。少なくとも今日の公演ではなぜ純血主義をとったのか私にはよくわからなかった。二期会や藤原と競合しても意味のないことではないだろうか?
 今シーズンも半ば近くなったが、作シーズンに比べると今までのところはちょっと物足りない。2年目で手を抜いたわけではないだろうが?新制作の「イェヌーファ」や「ウェルテル」それとフォークトの登場する「ローエングリンに」期待しよう。

 さて、今日の公演である。決してつまらなくはないが、さりとて過去聴いた本作のベストとは思えなかった。「魔笛」は人気作品らしくて公演が多くほぼ毎年聴いている。最近ではプラハの公演が良かった。これがライブでは私のベストだ。演出で面白かったのは昨年の二期会の公演だ。
 本公演のハンぺの演出はもう今日で3度目だろう。ト書きを逸脱しない、オーソドックスな演出は音楽を楽しむのにふさわしい。しかし簡素な舞台だけにそれだけ歌い手の演技や歌唱の力が試されると云えよう。
 今日の歌い手ではまずパパゲーノの萩原をあげたい。彼のパパゲーノは過去新国立と二期会の公演で一回づつ聴いているが、今回が最も素晴らしいと思った。それはまず力みのない自然な歌唱であるということだ。前回の二期会では1幕が少し力んだのか固くてちょっと物足りなかった。だから1幕のパミーナとの2重唱もあまり楽しめなかった。(2幕以降はそのようなことはなかったが)しかし今回はそのようなことはなく最初からパパゲーノになりきった歌唱と演技だった。おそらく本人も自信をもっているのだろう。そういうことが感じられる歌唱であった。続いてザラストロの妻屋が良い。この人はあまり演技がうまくないのか所作を見ているとわざとらしさが先に立ってしまうが、今日のザラストロの様な役だと静的な役どころなのでそういうあらが目立たなく、誠にゆったりとした自然な声を楽しむことができた。タミーノのリリカルな声は魅力的である。しかし聴き終った後の印象に乏しいのはいかなることだろうか?個人的に云えばこのオペラのなかでタミーノほど魅力のない役柄はいないのではないかと思っている。きっとそのせいだろう。

 女声陣のパミーナの初々しい声はまことに魅力的である。そう、一聴すると実に美しいのである。しかし例えば先ほどのパパゲーノとの2重唱。最初は実に素晴らしく聴こえる。しかし最後に歌い上げるところでの力感が乏しく、歌が尻つぼみで終わってしまったのは残念である。これは夜の女王の佐藤にも云えることである。1幕のアリアでは最初はなんて豊かな素晴らしい声だろうと思っていたら最後は声が細くなり、力が乏しく、尻つぼみで終わってしまう。昨年聴いた、二期会の「リゴレット」でもそうでちょっと聴いただけだと歌い手は皆実に美しいが、音楽の根源的な力を出すところでどうしても非力を感じてしまう。今日の公演も全体にそうで、何か綺麗事で済まそうと云う感じがして仕方がなかった。モーツァルトだから穏やかに演奏すればことたれりというわけにはいかないと思うのだが!
 これは指揮者にも感じたことだ。序曲から音楽は穏やかである。モダンオーケストラによる伝統的演奏と云えばそれでおしまいだろうが、それにしてももう少し力感が欲しい。ただ1幕のパパゲーノとパミーナとの2重唱や2幕の最後のパパゲーノとパパゲーナとの2重唱などに付けた音楽は実に美しく、楽しく、聴き惚れてしまうほどなのだが!
 なお演奏時間は153分だった。

2016年1月28日

「与楽の飯」(東大寺造仏所炊屋私記)澤田瞳子著(光文社)
古代奈良時代のグルメ本かと思って読み始めたが内容は随分と違う。時は聖武天皇、奈良に巨大な仏像を建設する。その造仏所で働く人々が主人公である。とりわけその食堂(炊屋:この当時食堂などあったとは)の主人炊男の宮麻呂と全国から徴発された仕丁の一人真楯が主人公と云える。この二人がほとんど奴隷的境遇ながら生き生きと生きる様は魅力的であるし、日本人のルーツを見る思いである。彼らを中心に7つの短編の連作集である。各作では炊屋での食事が紹介される。それが素材は粗末でもとてもうまそうに思える。そういう面ではグルメ本かもしれない。その他大仏の製造過程や仕丁、奴婢、僧侶たちなどの生活が描かれその時代の社会や人間模様が浮き彫りになる。与楽とは「抜苦与楽」という仏教の言葉からきている。

「悲しみのイレーヌ」ピエール・ルメートル著(文春文庫)
「その女アレックス」はミステリー界を席巻したが、その作家の処女作である。警察小説としては本作のほうが面白い。それは主人公のヴェルーヴェン警部と彼の班のメンバーの個性が浮き彫りになっているのと、捜査の過程の面白さからきているとおもわれる。内容は残忍な娼婦殺人事件に端を発した連続殺人事件。しかしこの本の構造には驚くべきものがあり警察小説ファンとしては見逃せない。ただ邦題が悲しみのイレーヌと云うのはまずかったのではないか。なぜならイレーヌは警部の妻であり、結末を想像してしまうのである。読んでいて「ボーンコレクター」をちょっと思い出した。

「甲州赤鬼伝」霧島兵庫(ガッケン出版)
歴史小説家と云うのは歴史上のいろいろな人物に焦点を当てるもので、その目のつけどころにはいつも感心してしまう。本作は武田信玄の重臣赤備えで有名な山県昌景の二男昌満の短い生涯を描いている。
 勝頼の代になり長篠の戦いで武田軍は大敗北を喫する。その際に昌景もその長男も討ち死に。武士に向いていないと思われていた二男が後を継ぐことになる。しかし昌満は父の「鬼となりて名を天下に」という遺言の言葉抱いて、やがて武田勝頼も認める赤備えのリーダーとして立派な武将に成長する。そして有名な井伊直政につながってゆく。戦国武将の厳しい定めを迫力ある筆致で描いた佳作である。

「曾呂利」(秀吉を手玉にとった男)谷津八車著(実業之日本社)
これも面白い人物に焦点を当てた小説だ。鞘師、曾呂利新左エ門の物語。秀吉が天下を取ってから豊臣家が滅亡するまでの話を連作風にまとめてある。
 ここでの曾呂利は秀吉にかかわるもろもろに人物、例えば蜂須賀小六、関白秀次、千利休、石川五右衛門、石田三成などの心に入り込み、彼らの心を乱す。そして彼らを秀吉から引き離すのである。まだ30歳の著者の才気を感じさせる読み物になっている。

「孤狼の血」柚月裕子著(カドカワ出版)
これは読みごたえのある警察小説である。しかも悪徳警官小説である。やくざの世界を描いた小説でもある。
 広島県東呉原署の大上刑事は捜査二課の暴力団担当の刑事で班長をやっている。そしてかれはヤクザとの癒着をうわさされているきな臭い男である。そこへ広大卒の学士様(ノンキャリ)が新米刑事で配属されてくる。彼は早速大上刑事ににくっついて動くようになる。このての二人のコンビはあまたの警察ものでは定番であるが、わかっていながら、こう云うコンビは面白い。
 事件は呉原市にあるヤクザの息のかかった金融会社の男が行方不明になったところから始まる。これにヤクザの古い過去や抗争事件が絡まり話は複雑に展開する。こういう悪徳警官を一つの柱に据えた小説の面白さはどこにあるのだろう。それは大上刑事が警察の仕事の範疇を大きく超えて捜査をし、それがまた結果をもたらしているところにあるのだろう。それは組織のしがらみや規則に縛られている私たちの日常を痛快に破壊しており、私たちはそれゆえその行為に共感していると云うことではあるまいか?読んでいて「警官の血」を思い出した。

「天国でまた会おう」ピエール・ルメートル著(ハヤカワ文庫)
またまたルメートルである。しかし今回はミステリではなく純文学である。本作の舞台は第一次世界大戦の最末期、ドイツと向き合った戦線での出来事から物語が始まる。貧しい階層の出身のアルベールと新興成金の息子エドゥアールは、上司である落ちぶれ貴族出身のプラデル大尉の姦計にはまり、無謀な戦闘に巻き込まれる。負傷はするが二人は生き残る。そして戦争は終わる。戦後のアルベール、エドゥアール、プラデル、エドゥアールの姉マドレーヌ、父のぺリクール、その他もろもろの官僚たちが複雑に絡み合いながら、戦争を食い物にする男たちを描く。それは一方では戦争の悲惨さ、無謀さを私たちに伝える、また一方では極限状態に置かれながらも人間性を失わないと云うのはどういうことかをも教えてくれる。面白かったが読み終わったは虚しい虚脱感の様なものが漂う作品である。
 ルメートルの作品には数々の引用がなされれているらしい。「悲しみのイレーヌ」の巻末にも紹介してあった。本作も同様らしい。読んでいてまったくわからないのが残念である。

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