ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2015年11月

2015年11月29日
於:新国立劇場(1階8列中央ブロック)

プッチーニ「トスカ」、新国立劇場公演
指揮:エイヴィン・グルベルグ・イェンセン
演出:アントネッロ・マダウ=ディアツ

トスカ:マリア・ホセ・シーリ
カヴァラドッシ:ホルヘ・デ・レオン
スカルピア:ロベルト・フロンターリ
アンジェロッティ:大沼 徹
スポレッタ:松浦 健
シャローネ:大塚博章
堂守:志村文彦
看守:秋本 健
羊飼い:前川依子
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
合唱:新国立劇場合唱団、TOKYO FM少年少女合唱団


ディアツの演出を見るのは、ブログをはじめてからでももう2度目(2009,2012年)だから新国立の演出では長寿のほうだ。今年の8月に亡くなられたそうだ。従って今回は田口道子という方が再演演出を行っていた。カーテンコールの際にディアツの遺影写真をもって登場していた。
 この演出は誠にオーソドックスでほとんどト書きとのかい離は感じられないものだ。さらに装置がト書きそのもので1幕のアンドレア・デッラ・ヴァッレ教会、2幕のファルネーゼ宮殿、3幕のサンタンジェロ城と実在のイメージで作られていて、それがリアルかつ豪壮なもので、柔な歌手なら装置負けしそうな素晴らしいもの。特に1幕の幕切れのミサの場面や3幕のサンタンジェロ城の屋上と地下の牢獄の2重舞台などはいつ見ても素晴らしいものである。もちろん2幕のファルネーゼ宮殿のスカルピアの部屋もルネサンス風の装飾がそれらしく作られていてこのオペラを見る楽しみを味あわせてくれる。おそらくこのトスカを初めてご覧になった方も満足されると思う。

 歌い手も実に充実している。タイトルロールのシーリは初めて聴くが柔らかく伸びやかな声が魅力。2幕の「歌に生き愛に生き~」は特に立派なものだ。古今の名歌手の歌うこの名曲を聴衆は固唾をのんで待っているわけだから、歌い手も大変だろうが、見事期待にこたえていた。今シーズンのアンドレア・シェニエにも登場するそうだ。カヴァラドッシは少々細身に最初聴こえたが、「妙なる調和~」の中間あたりからその様なことは気にならない、立派な歌だ。新国立ではサイモン・オニールの歌唱とともに印象に残るカヴァラドッシだ。3幕の「星は煌めき~」も素直にすっと伸びた声が悲しみを倍加させている。スカルピアも少々矮小化した人物の様な印象を受けたが、品性卑しい男なのだからそれにまずは相応しい歌唱と云えよう。主役級はバランスがとれていた。ただ歌い手が一人で歌うところは良いのだが、例えば、1幕のトスカとカヴァラドッシの2重唱やトスカとスカルピアとの2重唱、2幕のスカルピアとトスカの場面など、2人の対話の様な場面になると、なぜかやり取りが一方通行の様で、お互いが触発して更なる高みを目指すと云うような雰囲気に欠けていたような様な気がした。まあ全体からすれば些細なことのようであるが!

 イェンセンはノルウエーの指揮者だそうだが、起伏の激しい音楽作りは、このドラマにあっているように思った。十分歌手をコントロールして舞台をまとめていた様に感じた。演奏時間は112分(拍手込み)。東フィルのサウンドも磨き抜かれて美しく、また力強さも十分感じられ、安定感ある演奏は好感が持てた。

2015年11月27日
於:サントリーホール(1階20列中央ブロック)

読売日本交響楽団、第586回サントリーホール名曲シリーズ
指揮:オスモ・ヴァンスカ
ヴァイオリン:エリナ・ヴァハラ

シベリウス:カレリア組曲
シベリウス:ヴァイオリン協奏曲

シベリウス:交響曲第一番

ヴァンスカの快演である。カレリア組曲はアンコールピースとしてばらばらに演奏されることが多く、この3曲をまとめて聴いたのはおそらく初めてだと思う。最初のプログラムからヴァンスカはエンジン全開である。特に両端の間奏曲と行進曲風にの2曲はオーケストラがどの楽器も鳴りきって素晴らしい響きで圧倒される。ヴァンスカは速いテンポでぐいぐい音楽を進める。重々しさはほとんどなく軽快に音楽が進むのが実に心地よい。今夜のコンサートの素晴らしさを予告する大熱演である。

 ヴァイオリン協奏曲は先日フィンランド放響の演奏会で諏訪内が弾いたのを聴いたばかり。諏訪内の様にヴァイオリンが熱気をもってホール全体に放射されるのとは少々趣が異なる。凛として、ひんやりした触感のヴァイオリンで放射よりも凝集と云うべき感触である。情感は実に豊かで1楽章はちょっとこちらももてあまし気味であったが、2楽章はその情熱が空回りせず、熱気として伝わってくる。しかし特筆すべきはヴァンスカの指揮である。カレリア同様オーケストラのドライブが凄い。1楽章での鳴りっぷりは形容しようがないくらい素晴らしいものだ。ヴァハラのヴァイオリンほど感情過多でないのが心地よい。演奏時間は31分。アンコールはバッハの無伴奏パルティータ二番からサラバンド。これはちょっと余計だと思った。

 交響曲は更に素晴らしいものだ。ここでのオーケストラの鳴り様は、過去聴いた中ではカンブルランの指揮のシューマン以来のもだと思う。実に鳴りっぷりがよいのである。特に弦の鳴りっぷりは特筆すべきもので、いくら音量を上げても鋭い音にはならず豊かに鳴り響く。この心地よさはオーケストラを聴く醍醐味だろう。
 このシベリウスは感傷的な部分をこそげ落としたものだ。もちろん美しいことは間違いないが、決して甘い調べにはならないのである。3楽章のスケルツオの荒れ狂う様はどうだろう。2楽章のアンダンテだって後半は狂おしいばかりの音楽である。そして圧巻は4楽章。音楽は大きく盛り上がるけれども、二番の様な高揚感はないのである。それはあたかもマーラーの六番の交響曲の4楽章のごとく暗澹とまではゆかないけれど、荒野にポツンと一人取り残された時のような寂さや孤独を深くを感じさせる音楽である。演奏時間は37分。
 読響の演奏は上記のとおり弦を中心に素晴らしいが、交響曲では金管に細かい傷を感じた。おそらくヴァンスカはもっとオーケストラを鳴らしたかったのかもしれない。そういうもどかしさもちょっと感じた。なお特筆すべきはティンパニである。ヴァンスカの指示であろうが、これほど迫力のある響きはいままでにないもの。

2015年11月22日
於:サントリーホール(1階17列中央ブロック)

東京交響楽団、第635回定期演奏会
指揮:ジョナサン・ノット
ピアノ:エマニュエル・アックス

リゲティ:ポエム・サンフォニック~100台のメトロノームのための
J.Sバッハ:ストコフスキー編、甘き死よきたれ
R・シュトラウス:ブルレスケ~ピアノと管弦楽のための

ショスタコーヴィチ:交響曲第15番

現代音楽が好きなノットらしい凝った構成のコンサートである。開演20分前に会場に入ったのだが、雰囲気が少々異様であった。ステージ全面に100台(数えたわけではなくプログラムに書いてあった)のメトロノームが音を刻んでいるのである。すでにリゲティによる1曲目が始まっているようだ。メトロノームは20分~15分で設定されているらしく開演まじかになるとすこしずつ止まってしまう。ちょうど開演の14時にノットや楽団員が静かに入場、そのまま全てのメトロノームが止まるのをひたすら待つと云った按配。最後に2台が息が絶えるように止まるのだが、動悸が止まってしまうようで年寄りにはあまり気分の良い「企て」ではない。これが音楽だろうか?これを聴いていて「ばらの騎士」の1幕の元帥夫人の幕切れのモノローグを思い出したが、あれは気持ちを感傷的にさせ涙を誘うが、決して嫌味ではなく強く共感する音楽であるのだが、リゲティのはもう少し死が生々しく感じられ少々露骨ですらある。嫌な曲だ。
 しかもその後がなんとバッハ「甘き死よ来たれ」だからちょっと悪ふざけもきついのではないだろうか?ただストコフスキーの編曲は実に美しいのは否定しない。この曲を演奏している間にピアニストが入場しバッハが終わるとうす暗かったステージが明るくなり、若きシュトラウスの華々しい音楽がステージ上に展開する。死から生に場面転換したようだ。以上3曲は初めて聴く曲ばかりで、まあ全体の構成に面白さはあっても、さて曲自身にそれほど魅力があったのかと云われるとうーんと云わざるを得ない。
 なおアンコールにショパンのワルツの3番を弾いたのにはちょっとびっくり。ノットの構成との整合性を壊したように私は感じた。

 ショスタコーヴィチの最後の交響曲の15番は彼自身の「わが生涯」か「英雄の生涯」に当たるもののように感じる。この演奏を聴いていて改めてそれを感じた。1楽章には作曲家が好きだった「ウイリアムテル」序曲からの引用があったり、4楽章ではワーグナーの「リング」や「トリスタン~」からの引用があったりする。この曲はヤンソンス/ベルリンのCDで何度も聴くのだがいつも4楽章の終わりまで到達しないで寝てしまう。今日は久しぶりに最後まで聴きとおした。交響曲の常である終わりの盛り上げはほとんどなく、気味の悪いカスタネットとウッド・ブロックのチャカポコ、チャカポコいう音で終わる。これを死の予感ととらえれば、前半のプログラムとの整合は感じる。演奏時間は46分。

 ジョナサン・ノットは東響と長期の契約を交わしたそうだが、一つ腰を落ち着けてじっくりと古今の名曲を聴かせてもらいたいものだ。スダーンが行ったようなシューベルト、シューマンの全曲演奏や、その他ベートーベン全曲、ハイドンのロンドンセット、モーツァルトの後期交響曲、マーラー、ブルックナー全曲など、ノットの足跡を残して欲しい。今の彼のプログラムは単発が多くてノットの芸術を味わうまでいっていないような気がする。

2015年11月21日
於:すみだトリフォニーホール(1階14列中央ブロック)

新日本フィルハーモニー交響楽団、第550回定期演奏会
指揮・ピアノ:レオン・フライシャー

モーツァルト:ピアノ協奏曲第12番

ラフマニノフ:交響曲第二番

もともとのプログラムはラヴェルの左手の為のピアノ協奏曲だった。過去に右手に障害のあったフライシャーがもう右手も使えるからモーツァルトにしてくれといったかもしれないが、理由は不明で若きモーツァルトの12番の協奏曲を聴くことになった。弾き振りである。
 フライシャーは今年87歳の様だが全くお元気である。常の弾き振りのごとく客席に背中を向けて指揮やピアノを弾く。序奏から随分とゆったりして、耳になじむ若々しいモーツァルトとは一線を画した演奏の様だ。しかしこの序奏に込められたニュアンスは非常にきめ細かく今までに聴いたことのないもの。ピアノが入ってきてもその雰囲気は変わらない、ピアノのタッチは非常にソフトで、まるで羽に乗ってふわふわ浮いているモーツァルトのようで心地よい。しかしその中で付けている強弱はときどきドキンとするほど鋭いところもあり油断ができない。素晴らしい1楽章だった。2楽章は少々重々しい。途中の長い休止も意味がわからない。3楽章も軽快さがもう少し欲しい。要するにこの演奏はモーツァルトの等身大の演奏ではなく、あくまでもフライシャーを体現したような演奏というべきなのだろう。演奏時間は28分。
 アンコールはないが、当日退団する安保というコントラバス奏者への花束がフライシャーから贈られ、記念にとジェローム・カーの「ALL THE THINGS YOU ARE」という曲を左手で弾いた。

 ラフマニノフは、そう年中聴いていたい曲ではないが、一年に一回ほどは聴きたいと云う曲のひとつである。この曲の緩徐楽章の美しさは半端ではなく、ここだけでも聞きごたえがある曲だ。ただ聴いた後イチゴのショートケーキを5個くらい食べたくらい甘さがたっぷりなので暫くは聴かなくてもいいやと思わせる曲でもある。
 今夜の演奏は全体が映画音楽の一節を聴いているように聴こえ、ムードが一杯である。これはこの曲の一面を表わしているわけで別に嫌ではない、ただ1楽章の中間などところどころ飽き来たのも事実である。反面スケルツォ楽章の中間、3楽章のクラリネットのソロの部分の美しさは筆舌尽くしがたい。また3楽章の最初のクライマックスのあとの長い休止、音楽が止まったかと思ったが、その後に続く木管群の美しさ、そしてまたクラリネットももどり、弦がそれに合わせて大きく盛り上がり終わる。何とも素晴らしい音楽ではなかったろうか?4楽章は盛大に盛り上がり迫力十分だった。演奏時間は65分で過去聴いた中でも最長。如何にムード一杯だったかよくわかった。

2015年11月20日
於:NHKホール(1階18列中央ブロック)

NHK交響楽団、第1821回定期演奏会
指揮:ウラディミール・フェドセーエフ
ピアノ:チョ・ソンジン

ショパン:ピアノ協奏曲第一番

グラズーノフ:バレエ音楽「秋}
ハチャトゥリヤン:バレエ組曲「ガイーヌ」抜粋(剣の舞、レスギンカ舞曲他)
チャイコフスキー:序曲「1812年」

ショパンはチョ・ソンジンという今年のショパンコンクールの第一位というピアニストの演奏でそれが期待で聴きに行った。バロック~古典~ロマン派とクラシック音楽の演奏のスタイルはかつてと随分変わったように思うがショパンはその中でよく云えば孤高、悪く云えば置き去りにされたような印象だ。まあ良く聴きこんでいないせいか、だれが弾いても似たような印象なのである。聞き始めは良いなあと思っても最後まで到達しない、いつも途中で飽きてきてしまう。その中でもアルゲリチの演奏した24の前奏曲、ツィメルマンの演奏したバラード・スケルツオの2つのCDは滅多に聴かないショパンのなかでも時折取り出して聴こうと云う意欲がわく。それとてバラード1番を聴いてしまって終わり。まあショパンを語る資格はなしかもしれません。
 その中で今日聴いた協奏曲はなかでも最も苦手にしているもので、序奏を聴いただけで嫌になってしまう。ピアノが入って来るとその甘ったるさにむせるようになってしまう。それなら聴かなきゃいいだろといいわれるかもしれないがこの20歳の青年がどれだけ新しいショパンを聴かせてくれるのかが楽しみだったのである。

 結果としては従来のショパンを大きく変えたものとは思えなかった。きらきらときらめくピアノは美しく流石だとは思うが、しかし1楽章や2楽章の心を身悶えさせるような旋律は美しいだけで、あまりかき乱されない。外面的な美しさは十分でもそれだけの様な気がするのである。3楽章の聴かせどころも華がなく盛り上がらなかった。しかしこれはもしかしたら情緒過多の演奏を排した結果こうなったのかもしれないがよくわからない。
 アンコールで弾いた24の前奏曲から4番もその例である。遅めのテンポで至極丁寧に弾かれていて一音一音がきれいである。音楽の姿かたちとして整った演奏だろう。しかしこの曲を聴くとき心に迫る、寂しさやはかなさ、せつなさ、などおよそ人類しか持てないそういう感情が、この演奏から湧き出ているようには私には全く感じられなかったのは残念なことである。
 フェドセーエフの指揮にも一端の責任があるのではないか?序奏からして少々重々しく、ものものしい。ミスマッチの様に感じた。

 後半のプログラムはロシア音楽のアンコールピースばかり集めたような組み立てだ。フェドセーエフともあろう人がよくこういうプログラムを受けたなあと思う。Aプロでチャイコフスキーの五番が組み込まれていたので仕方がないだろうが、プロコフィエフやラフマニノフ、ショスタコーヴィチの交響曲などの選曲もあったのではないだろうか?
 懐かしい曲ばかりで、いずれも私が中学校の音楽の時間に習った曲で、クラシックに首を突っ込んだばかりの頃はよく聴いていた。なかでもさすがに1812年はライブの迫力は凄い。最後は打楽器も凄いがトランペットやトロンボーンが倍になった金管や打楽器群の威力はNHKホールの空間に打ち勝った。

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