ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2015年10月

2015年10月29日
於:紀尾井ホール(1階10列中央ブロック)

カルミニョーラ/ヴェニスバロックオーケストラ、来日公演

ジェミニアーニ:コレッリのヴァイオリンソナタ「ラ・フォリア」によるコンチェルト・グロッソ
ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲「お気に入り」RV277
J・S・バッハ:ヴァイオリン協奏曲 BWV1042

J・S・バッハ:ヴァイオリン協奏曲 BWV1056
        ヴァイオリン協奏曲 BWV1041
ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲「ムガール大帝」RV208

アンコール
ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲(2つのヴァイオリンのための2重協奏曲)
BV516から1,3楽章
ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲「よろこび」RV180からアレグロ
        ヴァイオリン協奏曲集「四季」から「夏」第3楽章RV315

2010年12月1日以来のカルミニョーラとヴェニスの公演である。相変わらずサービス精神旺盛の愉悦に満ちた公演だった。

 1曲目はヴェニスだけの演奏である。まあ小手調べか、顔見せかいつものパターンである。ヴェニスの構成はヴァイオリン×7、ヴィオラ×2、チェロ×2、コントラバス、リュート、チェンバロ。チェンバロは若い女性が弾いていた。ヴァイオリンとヴィオラは立って演奏するスタイルである。いつも思うのだがカルミニョーラがいないせいか、最初の曲のせいか、いつも出足は音色が硬い様な気がする。ホールに音がふぁーと拡がって聴こえないのである。
 カルミニョーラが入ってきてからはバッハとヴィヴァルディからそれぞれ3曲、2曲で、アンコールはオールヴィヴァルディである。ムガール帝を除いて全て我が家で聴けるので早速聴いてみた。バッハはシェリング/マリナー(1976年)、ヴィヴァルディは全てカルミニョーラである。ただしオーケストラは一部ヴェニスではない。

 まずバッハである。今夜の2曲目はチェンバロ協奏曲を改編したものなので初めて聴く。残りの2曲はおなじみの曲である。全体の印象はどうも私には居心地が悪い。緩徐楽章はカルミニョーラらしく歌っていて聴き応えがあるが、両端楽章はいずれも駆け足で落ち着かない。これが古楽の演奏と云ってしまえばそれでおしまいだが、シェリングの悠然たるテンポの演奏を40年近く聴いている者にとってはとても単調に聴こえて、だんだん飽きてくるのである。カルミニョーラ/アバドのモーツァルトの協奏曲も何か慌ただしい演奏だったが、バッハにしろモーツァルトにしろもう少し落ち着いて聴きたいものである。

 これがヴィヴァルディになるとまるで雰囲気が異なって来るのである。やはりカルミニョーラはヴィヴァルディである。RV277は20年ほど前の録音のCDを聴いたが、やはり今夜のほうが全体にゆったりとして素晴らしい。特に2楽章のやるせない様なヴィヴァルディ節×カルミニョーラ節はこれ以上考えられないような演奏である。
 ムガール大帝は初めて聴く曲である。タイトルにあわせてえらく大ぶりの曲で、ヴィヴァルディにしては背伸びし過ぎではないかという印象であるが、カルミニョーラの技巧を楽しむには良い曲かもしれない。

 アンコールの3曲はいずれも素晴らしい曲ばかりで、特にBV516はムローヴァとの共演のCDをよく聴いていて大好きな曲である。そいうこともあって今夜一番楽しめたのはこの曲である。1楽章のアレグロ・モルトは2丁のヴァイオリンのおいかけっこであり、スリリングな曲である。今夜はヴェニスのリーダーが2丁めを弾いていた。これは音楽を聴くことが快感につながる典型的な例である。この愉悦に満ちた音楽はヴィヴァルディの真骨頂であろう。最後の夏の3楽章は相変わらず威勢がよく、先日聴いたイムジチの演奏が寝ぼけて聴こえるほどである。ただ圧倒的なスピード感は2007年の録音のCDのほうがある。いずれにしろこれは従来の四季とは一線を画した演奏であることは間違えない。
 今夜の様にバッハとヴィヴァルディを並べて聴くと、バッハファンには怒られるかもしれないが、ヴィヴァルディのほうが数倍楽しいように思うのだが!音楽史をひも解くまでもなくその当時バッハはローカルな作曲家であり、ヴィヴァルディは世界(欧州)的な作曲家であった。今日はバッハがヴィヴァルディより高級というイメージがあるが、今夜の様な演奏聴いているとほんとかなと思う。

2015年10月28日


バイロイト2015年8月7日公演(NHKにて放映のもの)
ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」
指揮:クリスティアン・ティーレマン
演出:カタリナ・ワーグナー

イゾルデ:エヴェリン・ヘルリティウス
トリスタン:ステファン・グールド
マルケ王:ゲオルグ・ツェッペンフルト
ブランゲーネ:クリスタ・マイア
クルベナール:イアン・パターソン

今年のバイロイトの最大の関心事はカタリナの演出、ティーレマンの指揮の当公演だろう。新演出である。

 前奏曲を聴いていて感じるのは、ティーレマンの作る音楽の素晴らしさである。この短い時間の間で、じわじわとクライマックスにもってくる音楽の姿に思わずぞくぞくしてしまうのである。やはりティーレマンはオペラの人だ。来日公演は大体聴いているが、このごろオーケストラコンサートではいまひとつ感動というところまでにつれていってくれないもどかしがある。しかしこの8月7日の公演はそういう不満を一気に取っ払ってくれた。テレビで見てもこれだけ感動するのだから、ライブで聴かれた方はいかばかりだろう。この日のお客に強く嫉妬を感じる。
 彼の取るテンポは決して速くない。むしろ遅い方だろう。私の愛聴するベームのバイロイトライブ盤と比べても相当遅い。しかし実はきいていて遅さはほとんど感じない。たとえば1幕の終わりや2幕の終わりのの異様な遅さはちょっと辟易するが、そのほかではまず不満がないのである。それは彼の音楽はトリスタンやイゾルデの心の動きと軌を一にしているからなのだと思う。心が高ぶれば音楽は速く強く動く、しかし心が落ち着くと音楽まで落ち着くのである。そしてこの心の平静さから高ぶりまでの心の動きの精妙さも実に凄いのである。この心の動きを音楽に託す時に自然にそれがでるか、あざとさがでるかが一流と二流を分けるところだろう。ティーレマンのこのワーグナーであざとさはほとんど感じない、常に自然に、音楽は流れるのに、心のたかぶりを感じるのである。
 1幕では舟が港に着く直前トリスタンがイゾルデの部屋に入って来るシーンから幕切れまでや2幕のクライマックスの愛の2重唱の部分がその代表例だろう。音楽の起伏は激しく、テンポは急変するがこれは2人の心の動きの現れであり、十分説得力のあるものである。
 歌い手は皆素晴らしい。イゾルデのヘルリツィウスは昨年新国立で素晴らしいクンドリーを聴かせてくれたが本公演でも全く不満がない。テレビでの鑑賞なのでさだかではないが、他を圧するようなイゾルデではなく心の動きを精妙に歌い分ける繊細さを強く感じた。この音楽も演出も心理ドラマの様な作りにフィットしたイゾルデだと思う。グールドのトリスタンも決して英雄的ではない。しかしその素直な透明感のある声は本公演の役柄に合っているのではないかと思った。これであとわずか輝かしさがあれば云うことがない。その他ではマルケ王とブランゲーネが素晴らしい。ツエッペンフェルトは見た目はまだ若い。実に立派な声で感心した。ライブではどういうように聴こえたのだろう。ブランゲーネのマイアも素晴らしい。声もそうだが、芝居もうまい。

 さて、カタリナの演出である。バイロイトの公演ではマイスタージンガーをテレビで見たが、誠に不可解、不愉快な演出で最後まで聴きとおすのが苦しかった。このトリスタンはそういうことはない。そういう意味では今日的な普通の演出と云うべきだろうか?
 本演出のみそはトリスタンとイゾルデは媚薬を飲む前から深く愛し合っていたと云うところだろう。従って媚薬を飲む意味がない。私の理解はこうだ。政略結婚でイゾルデはマルケのもとに嫁ぐ、しかし介添えのトリスタンとイゾルデはすでに愛し合っている。舞台では二人が求めあっているシーンが1幕で演じられる。道ならぬ恋に落ちた2人は死を選ぶ。しかし2人は死にきれず生きて愛し合うことを選ぶ。それゆえ舞台では媚薬(死の薬と思っている)を飲まずに、お互いに手にかけ流してしまうのである。これが1幕である。ただこれだと幕切れのイゾルデが発する「私たちの飲んだのは何?」、ブランゲーネが「媚薬です」と答える台詞が意味をなさないのだが?こう云う台詞と演出との整合はもうすこし考えてもらいたいものだ。ただカタリナの解釈全体としてはそれほど違和感はない。
 少々脱線するが今年のロイヤルオペラの公演のドンジョバンニでもドンナ・アンナが1幕冒頭からもうドンジョバンニを愛してしまっていると云う演出だった。しかしそこはイギリスのオペラハウスだけあって?几帳面に台詞との整合性を十分考えた演出になっており面白いなあと思った。

 さて、書きもらしたが1幕の舞台だが、数層の建造物が舞台をとり囲んでいる、それは非常に無機的で、金属やコンクリートの質感である。心的圧迫感を感じる。中央にはベランダの様なものがありトリスタンとイゾルデはほとんどこの上で歌う。このベランダは昇降する。左右にはいくつかの階段があるがところどころ閉鎖されていて、トリスタンとイゾルデがお互い求めあっても簡単には会えない仕組みになっている。クルヴェナールとブランゲーネはもちろん2人の不倫関係を知っている。2人を会わせないようにベランダの周りでうろうろするのである。

 2幕は少々異様だ。道ならぬ恋に落ちた2人はマルケにつかまり罰を受けるようだ。舞台の中央はまるで牢獄か法廷のようである。檻の様なものまである。2人はその場に連れだされるのである。マルケやメロートは上方の回廊の様なところでこの牢獄か法廷の様な場所での2人の愛する場面をまるで映画を撮影するように見ている。照明はスポットで2人に当たるようになっている。このスポット照明はトリスタンの歌う「昼」の象徴だろうか?愛の2重唱では2人はリストカットする場面もある。マルケが登場。ずっと上から見ていたのだから急にあらわれて、トリスタンに繰り言を云うのも変な話だが、まああらわれて、なんと飛び出しナイフをだす。最後は王からののナイフを渡されたメロートがためらいながら?トリスタンの背中に突き立てる。その前にマルケはイゾルデを連れて退場して舞台にはいない。美しい場面が一つある。最初のブランゲーネの警告のシーン。2人は観客を背にステージ奥に向かって立って歌う。やがて大きな影絵が二人を表わす。影絵の2人はゆっくり歩く、そしてそれは次第に子供が歩く姿になり消える幻想的な風景である。あたかも2人の人生を回想するかのようだった。

 3幕もなかなかユニークである。舞台右に椅子が5脚あってクルヴェナールや家臣が座っている。トリスタンは彼らに囲まれて横たわっている。やがてトリスタンが目覚め動き出す。しかしトリスタンは動いてもクルヴェナールらは椅子にじっとしている。トリスタンは瀕死の重傷とは思えないような動きを見せる。トリスタンはこの場面で長大なモノローグを歌うがそれは全て彼の頭の中の妄想なのである。だからトリスタンの歌はクルヴェナールには聴こえない。時々トリスタンが正気に戻る時にクルヴェナールが反応を示すのである。
 舞台の中央には宙づりだろうか、3角形の透明のボックスにイゾルデがいる。このボックスは次々と舞台の全面にあらわれるのである。しかしこのイゾルデは異様である。全て仮面をしていて、動きも人工的である。頭がもげたり、マスクをとると顔が黒かったり、最後はイゾルデの頭が割れ大量の血が顔を流れたりする。これらはすべてトリスタンの妄想なのであろう。イゾルデは絶えずトリスタンを手招きしている。
 マルケやブランゲーネは兵馬俑のように突如舞台右手にあらわれる。ここでのマルケの歌は2幕のマルケの歌と同様、本演出のみそからすると少々遊離しているような趣だ。イゾルデの愛の死はイゾルデが死なないので何か尻切れトンボの様な終わり方である。トリスタンはベッドの様なものの上で死んでいて、イゾルデはその横で歌う、舞台には紗がかけられている。最後にトリスタンに寄り添い、歌い終わると、マルケに引きずられるように退場して幕である。

 こうやって書いたのを読むとなんとまあ奇妙な?演出と思えるのだが、実は全曲を通した印象はそれほどの違和感はない。やはり一つの筋を通しているからだろうと思う。これは近年見たこの曲の演出のなかでも注目すべきものである。各幕後には一部ブーイングが飛んではいた。
 終演後の拍手、ブラヴォーはグールド、ヘルリツィウス、マイヤー、ツエッペンフェルトが大きかったが、ヘルリツィウスへはブーイングも飛んでいたのは少々解せないところだ。当日は暑かったようでほとんどの人がジャケットを脱いでいた。

参考(演奏時間)
ティーレマン
2004年ウィーン国立歌劇場
1幕:80分、2幕:80分、3幕:75分

2015年バイロイト
1幕:79分、2幕:82分、3幕79分


カール・ベーム
1幕:75分、2幕:72分、3幕71分
ベームとティーレマンとの差は相当大きいが、私はベームの演奏が学生の時から聴いていたこともあって好きである。


追記(11/3)
3日ほどかけて、フルトヴェングラーの指揮したものを改めて聴いてみた。この無限に続く様な演奏には辟易してしまうが、時折押し寄せる波の様な音楽には圧倒されてしまう。ただ歌手を含めて少し時代かかっていやしないかとも思う。気軽に聴ける演奏ではなく何年かに一度斎戒沐浴して聴くべき演奏だろう。もっともトリスタンとイゾルデと云う曲自身がそうお気楽に聴ける曲ではないことは間違いない。
1幕:86分、2幕87分、3幕80分

2015年10月25日

「パリよ永遠に」、フランス映画
1944年8月のパリ。占領軍のドイツ司令官コルテッツ将軍は、ヒトラーからパリを廃墟にする命令を受け、実行するばかりになっていた。ノルマンディーに連合軍が上陸し、ドイツ軍は浮足立っていた。中立国のスウェーデンの総領事ノルトリンクは、パリ破壊を阻むため虚々実々の説得を行う。家族をヒトラーに人質として取られたコルテッツ、パリを守ろうとするノルトリンク、最後の決断はどうだったか?
 舞台の映画化で、ほとんどの場面はホテルムーリス内の将軍の部屋での2人の会話でなりたっている。息詰まる2人の対話、緊張感の溢れる芝居が素晴らしい。結論はわかってはいても最後まで画面にくぎつけだった。

「イミテーションゲーム」ベネディクト・カンバーバッチ、キーラ・ナイトレイ主演
第二次世界大戦中のドイツの暗号機「エニグマ」を解読し今日のコンピューターの基礎を作ったアラン・チューリン(カンバーバッチ)の戦中、戦後の物語である。過去にもエニグマを扱った映画はあったが、本作は戦後のチューリンにも焦点を当てているところが特徴だろう。1939年ケンブリッジの教授だったチューリンは4人の仲間とともに軍の委嘱でエニグマの解読を始める。苦難の道だったがやがて解読に成功する。しかし真の苦難の道はそれから始まったのである。暗号解読という偉業が縦糸としたらその時代の社会通念、例えばホモセクシャルの社会での受容や女性の社会的進出の様相などが、横糸として描かれていて、重厚な仕上がりなっている。カンバーバッチの風貌がチューリンの人物像にぴったりだし、ナイトレイがまたいい役をやっている。面白く見た。

「フォックスキャッチャー」チャニング・テイタム、スティーブ・カレル主演
1984年のロス五輪のレスリングの金メダリストのマーク・シュルツ(テイタム)は、翌年の世界大会、そして1988年のソウル五輪めざして同じく金メダリストでコーチの兄、デーブとトレーニングに励んでいた。そこに大財閥の当主ジョン・デュポン(カレル)が彼らのスポンサーになりたいと提案をしてきた。マークは受けるがデーブは断る。デュポンは若いころからレスラーを夢見ていたが、母親(なんとバネッサ・レッドグレーブ)に反対されてあきらめたという経緯がある。デュポンはコーチとしてマークを中心としたレスリングチームのお山の大将になる。やがてマークとデュポンとの間に奇妙な友情が生まれる。しかし説得されて兄のデーブがこのチームに参加することにより話は思わぬ方向に進む。
 実話に基づく作品である。主役の3人の好演もあって実に息詰まる心理ドラマになっている。とくにデュポン役のカレルの演技は異様であり、圧巻である。

「ブラックハット」クリス・ヘムスワース主演
上記3作に比べると以下の作品はちょっと落ちる。

 香港の原発にハッカーが侵入して制御装置に細工をし、原発が破壊されると云う事件が起きる。犯人の意図は不明。中国のサイバー防衛武官のチェン大尉はアメリカの協力を得ないと解決ができないと進言、なんと中国とアメリカFBIとの合同捜査となった。捜査のメンバーはチェン大尉、天才プログラマーの妹ウエン、FBIバレット捜査官(ヴァイオラ・デイヴィス)、ジェサップ捜査官、そして天才ハッカーで現在詐欺事件で服役中のハサウエー(ヘムスワース)である。チェンとハサウエーはMITで机を並べた仲である。舞台は香港、アメリカ、香港とめまぐるしく動く。話のスケールは誠にでかいが細部に不満が残る。ちょっともったいない。例えばハサウエーとウエンとのからみなどはとってつけたようで、話のテンポを削ぐような気がするし、ハサウエーの天才ぶりも少々嘘っぽい。ストーリーは秀跋なのに惜しい。ヘムスワースはいつも同じような演技で物足りない。ヴァイオラ・デーヴィスの演じる女性捜査官が実に魅力的である。ブラックハットとは悪人という意味だが、ここではハッカーのことを云っている。

「ゴッドタウン」フィリップ・シーモア・ホフマン主演
画面が随分薄くて見にくい。わざとこう云う色にしたのだろうか?アメリカのどこにでもある小さな町、ゴッド・ポケット、人々はここで生まれ、育ち、外に出ることもなく死んでゆく。ミッキー(ホフマン)とジーニー夫妻、ジーニーの連れ子のレオンが職場で事故で死んでしまう。死因に疑問をもったジーニーはミッキーや雑誌のコラムニストらに調査を依頼する。この調査が縦糸だが、横糸のこの閉鎖的な街の人々の人間模様がみそのようだ。アメリカの細胞の様な町の描写が本当の様に思える。

「トゥモロー・ランド」ジョージ・クルーニー主演
これは全くついて行けなかった。スタートは1964年のニューヨーク博覧会、フランク・ウォーカーはアテナという謎の美少女からピンバッジをもらう。それをつけた途端いつの時代だか不明だが、トゥモローランドに入りこんでしまう。そして時代は飛んで2003年、ケーシー・ニュートンはそのバッジを手に入れる、そしてそれに触れるとトゥモローランドに入れるのである。そしてまたまたアテナが登場。クルーニーは2003年のウォーカー役。この映画の面妖なのはトゥモローランドは異星なのか地球上なのかさだかでないことで、どうも地球上の様だが、だれがどうやって作ったのか、それらしきことは台詞にあるが、明示されていないのでさっぱりわからない。ディズニー映画らしいが、子供たちは理解できるのだろうか?私にはついて行けない映画だった。

2015年10月23日
於:NHKホール(1階18列中央ブロック)

NHK交響楽団、第1819回定期演奏会、Cプログラム
指揮:パーヴォ・ヤルヴィ
ヴァイオリン:五嶋みどり

トゥール:アディトゥス
ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第一番

バルトーク:管弦楽のための協奏曲

Cプロにもやっとヤルヴィが登場。今月のN響の機関誌「フィルハーモニー」もヤルヴィ一色である。しかし評論家の対談でわざわざ日本に来てくださったなどという物言いは、まるでヤルヴィが神様のような取り扱いで少々鼻白む。
 それはさておき、1曲目のトゥールの曲はヤルヴィの出身のエストニアの作曲家で、演奏会序曲風の華やかな音楽である。その後の現代の名曲中の名曲の2曲に比べるとおまけ風で、まあオーケストラの小手調べだろう。

 ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲を初めて聴いたのはレコードである。五嶋のヴァイオリン、アバド/ベルリンのライブ録音(1995年)である。この曲は1・3と2・4がそれぞれ静と動、暗と明になっている。私が特に好きなのは3楽章のパッサカリアの静寂感である。今夜の演奏でも3~4楽章に圧倒された。世界のみどりとして大家となった彼女の3楽章の響きの澄明感は何ともたとえようのないものだ。時には悲痛な叫びになり、悲しみに胸ふさがる思いになり、そしてわずかな光明に希望をもつ、そういう音楽が例えて云うと聴こえてくるのである。この楽章には長大なカデンツァが付いている。これはまさに五嶋の超絶技巧的なヴァイオリンの妙技が味わうことができる部分で、そのまま4楽章に突入。4楽章は3楽章の静謐さとはうって変わった華やかな音楽で一気にコーダに向かう。ここでの五嶋のヴァイオリンの妙技はただただ唖然とするばかり。さらにその熱気にこちらがあてられて手に汗を握る演奏だった。ヤルヴィも小手先に走らず、一気呵成に駆け抜けてオーケストラともども素晴らしい演奏だったと思う。演奏時間は1995年のライブ録音より数分遅くなっていたのは20年近い時の流れによる成熟と見るべきだろう。演奏時間は38分弱。

 バルトークは決して悪い演奏とは思えないのだが、私にはしっくりこない演奏に聴こえた。ヤルヴィの作る音楽は緩急・強弱の幅を大きくとった、非常にダイナミックな演奏である。だから一聴とても立派で、説得力のあるような音楽に聴こえるのである。1楽章は民謡風の静かな音楽、そして第一主題に入ると音楽はきびきびと運動し始めるが、ヤルヴィのこの部分の対比は鮮やかである。こういう対比はこの曲の中の至る所にあるのだが、ヤルヴィは全て、程度は別にして同じパターンに強弱・緩急をつける。従ってこの曲を聴き終えた後の印象は、この曲を随分とこねくり回して演奏するんだなあという印象しか残らない。5楽章の運動量は半端ではないのだが、ヤルヴィがこねくり回すので音楽が停滞しているように聴こえ、更にはコーダもあまり盛り上がらないように感じた。おそらく専門家の演奏評では高評価になるのだろうけれど、私の様なライナーやショルティの一直線に駆け進む演奏でこの曲を知ったものにはちょっともの足りなさが残った。演奏時間は40分。私が聴いたこの音楽の中では最も演奏時間が長い。

 ヤルヴィのこのような演奏スタイル、緻密に考えられた即興風の演奏らしいが、は彼のその他の曲の演奏でも聴くことができる。過去レコードやライブで聴いてきたが今一つそのスタイルになじめない。特にベートーベン、ブラームスなどの古典がそうだ。彼のスタイルはいわゆるフルトヴェングラーに代表される伝統的な様式とピリオド楽派や原典回帰派のミックスだと思う。彼のベートーベンの七番やブラームスの一番、二番を聴いていると、即興的に音楽を動かす部分と厳格に進める部分の接合がうまくいっていないのではないかと思うのである。これのうまくいっている例はラトル/ウイーンのベートーベン交響曲全曲のライブ録音である。彼も折衷派だけれどもそうは感じさせない。話はそれるがシャイーやティーレマンのベートーベンやブラームスのスタイルの統一感はヤルヴィからは感じられないのである。まだ50歳を少し超えた若さだから、これから更に熟成を重ねて自分のスタイルを身につけてゆくのではなかろうか?彼の演奏で唯一感動できたのは来日公演でベートーベンの「フィデリオ」を演奏会形式で聴いたときであった(2013年11月ドイツカンマーフィル)。彼のオペラというのはあまりレコーディングなどないようだが、案外そういう適性はあるのではないかと思った。

 こう云う演奏スタイルで最近強く感じたのはベルナルド・ハイティンクである。彼が若くしてコンセルトヘボウの音楽監督になったころから熱心ではないにしろレコードで聴いてきたが、何時も淡白面白くない演奏で、買っては売ってしまっていて、いまでは一枚ももっていなかった。しかし今年ロンドン響との来日でモーツァルトとマーラーを聴いてなんとまあ自然にやっているのにこんなに一音一音心に響いてくるのかと驚嘆してしまったのである。モーツァルトは24番のピアノ協奏曲だったが(2015年9月28日ブログ参照)、1楽章のカデンツァの前の奈落の底に落ちるような音楽はオーケストラとしては聴かせどころで、見得を切りたいところ、大きく盛り上げる演奏を散見するが、ハイティンクはほとんど力まないのに同じ効果を出すのである。これがハイティンクの芸術なのだろう。
 この公演を機会にブルックナーの交響曲四番、五番、八番の3曲とマーラーの交響曲一番から七番を聴いた。前者はウイーンフィル後者はベルリンフィルの演奏である。いかなる理由かわからないが全集の完成にはいたっていないそうである。
 全10曲を聴いた印象は、全て基本はゆったりとした自然なテンポであると云うことである。音楽を妙にあおったり、感情過多になったりはしないのである。例えば有名なマーラーの五番のアダージェット、こんなに遅いテンポでこの楽章を聴いたのは初めてである。しかも音楽は至極淡々と進む。決して情感には溺れないのである。しかしこの演奏からじわじわとにじみ出てくるものは何なんだ、思わず問い返してしまいたくなる。マーラーの三番の終楽章も同じ。バーンスタインやショルティに比べるとおそらく何もやっていないように聴こえるのだが、終わった後の充実感はたとえようがない。唯一物足りなかったのは六番のアンダンテ、ここはもう少し溺れたかった。その他はもう云うことがないくらい素晴らしいもので、バーンスタインやショルティがうっとうしいと思うかたにはお勧めだし、マーラーの入門CDとしても絶好であると思う。
 ブルックナーでは八番が素晴らしい。これもマーラーと同じ、緩急や強弱に唐突感がない。すべて自然な流れ。しかも響きが実に男声的である。特に両端楽章の巨大さは比類がない。
 このレコードの録音の素晴らしさは強調しておきたい。いずれも1980年後半から90年後半の録音である。今は滅多にないコンサートホールでのセッティング録音である。音の充実、拡がり、輝きすべて満足のゆくものである。SACDでなくともこれだけ自然な音をスピーカーで聴けるとは何とも嬉しいことだ。もうひとついずれも安く入手できるのも魅力である。マーラーはタワーレコードがヴィンテージシリーズとして選集にまとめているのもうれしい。まあ話は大幅にそれてほとんどOBであるが、ディアベッリ変奏曲を聴いたと思ってお許しください。

2015年10月16日
於:サントリーホール(1階17列中央ブロック)

東京都交響楽団、第796回定期演奏会Bシリーズ
指揮:ペーター・ダイクストラ
ソプラノ:クリスティーナ・ハンソン
アルト:クリスティーナ・ハマーストレム
テノール:コニー・ティマンダー
バス:ヨハン・シンクラー
合唱:スウェーデン放送合唱団

リゲティ:ルクス・エテルナ
シェーンベルク:地には平和を

モーツァルト:レクイエム

ダイクストラはオランダの指揮者だが、現在はスウェーデン放送合唱団の首席指揮者をつとめている。又ソリストも皆スウェーデン人のようで、オーケストラが日本のオーケストラでユニークな組み合わせのコンサートとなった。

 前半の現代曲は初めて聴く曲だが、興味深かった。1曲目のリゲティは無伴奏で合唱団32名で歌われる。ステージ後方に2列に並ぶ、前列は女声、後列は男声である。しかしこの曲は聴いたことがあるような、電子音の様な音楽だった。あとでプログラムを見たら「2001年宇宙の旅」に挿入されているそうだ。各パートの透明感が生きた合唱だった。2曲目のシェーンベルクはまだ12音になる前の様で聴きやすく楽しめた、特に最後の部分は後期ロマン派を思わせる盛り上げで感動的だった。ここでは合唱は女性は中央左に男声は右に分かれた。

 とはいっても今夜のお目当てはやはりモーツァルトだろう。久しぶりに(2013年東響定期以来)聴いたがいつ聴いても良い音楽は良い。今夜の演奏もとても素晴らしく、立派なレクイエムだった。今夜の演奏は合唱が32人、そして管弦楽もそれに合わせてか随分コンパクトであった。印象としてそういう小編成ということや古楽スタイルを意識したこともあってか、実に透明度が高く、音楽が軽快、というより機敏に動く。そうはいっても決してせわしいことはない。しかしモダンオーケストラによるものであるからそこは古楽の楽団のようなティンパニをぱんぱん叩いたり、金管を強調したりするようなことはなく、音楽はいささかもとんがったりはしないのである。また重々しさはないから、大編成で聴く昔ながらの演奏スタイルとは随分違っていて、この曲の持つイメージ(映画アマデウスにあるような)は薄いような気がした。
 音楽の透明度の源の一つは合唱だろう、特に女声パートが素晴らしい。どの部分を取り上げても良いが、やはり「ラクリモーザ」が良かった。ここには悲愴さはなく、むしろ慰めに近い、救いを感じる。その他「レクス・トレメンダ」のサルバ・メの部分や、「コンフィターティス」の部分のヴォーカメの部分などいずれも合唱の透明感が生きている。ソロも全体の音楽作りに力を貸している。わずかにテノールが非力に感じられたが、曲想から云って許容範囲だろう。都響の弦楽部も同様、薄い響きが痩せた響きとはならず、透明感につながって、音楽全体を支えていた。好みからいうともう少しティンパニは強調しても良いのではないかと思った。ソフトタッチであったがこれはダイクストラの意思だろう。しかしこういう立派な演奏を聴かせてもらうと「ラクリモーザ」の後と前の音楽では感銘度が異なるような気がしたのだが気のせいだろうか?演奏時間は47分弱。

 なお、今回の演奏はジュスマイヤー版である。一時はバイヤー版などの版に押されていたが、最近はまた見直されているそうだ。この曲のCDは何枚か持っているがやはり一番印象的なのはアーノンクールの1981年版だろう(バイヤー版)。初めてこの演奏を聴いた時はまるで別の曲のように、激しく、音楽が荒れ狂うように、聴こえたのでびっくりした。それ以来これが愛聴盤である。他の演奏はなぜか物足りなく聴こえるのである。2003年にアーノンクールはライブで入れなおしているが、私には随分大人しく聴こえて物足りない。ユニークな演奏としては最近モーツァルトのオペラで評判のクルレンティスと云う人の演奏がある。これはギリシャ正教風だそうで、途中に小さな鈴の音が聴こえたりする。ただ時々カラヤンの演奏を引っ張り出して聴くが、こういう雄大な奴もいいなあと思う。

追記
久しぶりにアーノンクール盤(1981年)を取り出して聴いてみた。これは実に昨夜聴いたダイクストラの演奏とは違う。バイヤー版とジュスマイヤー版との違いはあるといっても印象は相当違う。一言でいえばアーノンクール盤は激しく、劇的である。金管やティンパニの強調も印象的だし、音楽の起伏が激しいのである。ソロイストも随分表現が劇的である。この二つの演奏を並べて聴くとダイクストラの演奏は幾分平板に聴こえるかもしれない。しかし最近はアーノンクールの亜流の様な演奏が散見される中、(例えば2013年の東響/スダーンの演奏などはかなりめりはりもきかせテンポもかなり速く古楽風の演奏だった)、ダイクストラのようなアプローチは希少ではないだろうか?私は気に入った。

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