ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2015年09月

2015年9月29日
於:サントリーホール(1階17列中央ブロック)

東京都交響楽団、第794回定期演奏会Bシリーズ
指揮:オリヴァー・ナッセン
ピアノ:ピーター・ゼルキン

ナッセン:フローリッシュ・ウィズ・ファイアーワークス
シェーンベルク:映画の一場面への伴奏音楽
武満 徹:精霊の庭

ブラームス:ピアノ協奏曲第二番

前半の3曲は現代音楽。ナッセンの花火は自作自演、ストラヴィンスキーの花火へのオマージュ、シェーンベルクは映画音楽とあるが特定の映画に付けたものではなく、無声映画を想定した曲を依頼されたそうだ。武満は岐阜県の古川町から委嘱された作品である。いずれでも初めて聴く曲で、何とも云えないが、武満の曲は12音階の曲ながら、何か郷愁を誘う雰囲気が印象に残った。

ピーター・ゼルキンとは懐かしい、昔現代音楽を随分レコーディングしていたと思ったが、こういう古典ものを聴くとは思いがけないことである。そういう印象があるせいか、もちろんブラームスのこの大曲を聴くのに過不足のない演奏だとは思いつつも、最後までしっくりとこなかった。
 1楽章のホルンソロの導入のあと、短いピアノのイントロがある。これがなんともぎくしゃくして、スムースに音楽が進行しない。わざとこういう弾き方をしているとしか思えないが、この様な短い部分でも音が明瞭になったり、ぼけたりする落差が甚だしいように
感じる。こうやってもたもたしている間にオーケストラの全奏が待ちきれないように入って来る。オーケストラとの連携もあまりうまくいっていないのではないか?こうやって聴き始めたが、全体の印象としては、素晴らしく音楽が輝く部分と、そうでない部分との落差が大きいように思った。例えば3楽章などは全体にとても美しいが、さりとてとりたててあげつらうほどの美しさはあまり感じないのである。しかし冒頭のチェロのソロがもう一度戻ってくる直前のピアノの輝きは、それまでがガラス玉としたら、まるで磨き抜かれたダイヤモンドのごとき輝きでどきっとさせられる。それは一瞬で消え失せてしまうのであるが。
 1楽章に次いで2楽章もぎくしゃくして音楽が進む。アレグロは情熱的で、馬力もあるが、その燃焼がひと段落すると、ピアノの音が急に色あせてしまうのである。これはいかなることなのだろう。なんとも不可解な演奏であった。ただ盛大なブラボーがあったので私の耳がおかしかったのかもしれないし、昨夜のハイティンク/ペライアの素晴らしいモーツァルトの後だったからかもしれない。演奏時間は49分。
 都響のサポートは素晴らしいがオーケストラとピアノが別物のように聴こえて居心地が悪い。それと都響の演奏をこれだけ聴くと何の過不足もないが、昨夜のロンドン響と比べるとオーディオ装置の音圧が1ノッチ強違うように感じる。特に木管と金管はそうである。例えばオーボエだが、両者とも美しいが、ロンドンの場合はホール全体に音が拡がる印象、都響の場合はあくまでもステージ上にとどまっている印象なのである。座席は2列違いなので大差あるまい。こういうところに彼我の差を感じる。

2015年9月28日
於:サントリーホール(1階15列左ブロック)

ロンドン交響楽団、来日公演
指揮:ベルナルト・ハイティンク
ピアノ:マレイ・ペライア

モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番
マーラー:交響曲第四番(ソプラノ:アンナ・ルチア・リヒター)

今日は忙しい一日だった。午後一番14時から新国立で「ラインの黄金」の新演出のゲネプロを聴いて、その足でサントリーに回り19時から本公演というスケジュールで流石に2曲目のマーラーは少しくたびれた。こういう馬鹿な事をしてはいけないなと、反省している。

 ハイティンクもぺライアもライブは初めて、ぺライアはCDも聴いたことがないが、いずれももう大家という年になったようだ。登場する姿は爺さんふたりがのそのそ登場といった感じだった。ペライアは写真だけだと万年青年のようだけれど、実物はそうでもなかった。まああまり音楽とは関係ありません。

 最初のモーツァルトは実に腰の据わった素晴らしいもので、特にハイティンクの作る音楽の枠組みが、どっしりとしており、この曲をこんなスタイルで演奏してよいのかと思わせるくらい堂々とした音楽だった。1楽章の冒頭の悠然としたオーケストラの響きは、次第に聴いていて、胸が熱くなる、一杯になる、悲しみで胸が締め付けられる、そういった気分が充溢してくる。だからといって(昨年読響のコンサートで聴いたような)決して大げさな立ち回りがあるわけでもないのだ。例えば1楽章のカデンツァの前の見得を切るような音楽もむしろ呆気にとられるくらい淡々としているがそれだからこそ、奈落の底に落とされるようなこの曲のこの部分のすごさがあらわになった様な気がした。カデンツァが終わってから最後までの音楽は少し熱くなり、ここも十分共感を呼ぶものだった。2楽章はペライアのピアノの美しさとロンドン響の木管群の美しさを楽しむ楽章だ。中間の陰りのある部分は決して感傷的になり過ぎず、むしろ冷静さがこの曲を楽しむのにありがたい。3楽章は又冒頭の楽章のような雰囲気に戻り大きく音楽を締めくくる。これは誠に素晴らしいモーツァルトだった。
 ペライアのピアノは透明で、それはあたかも小川の浅瀬に冷たい水がさらさら流れるように音楽が進む。どの楽章のどの部分もそうなのだ。決してむやみに熱くなったり、走りだしたりなどしないのである。さすがに1楽章のカデンツァは熱くなったけれど。カデンツァははペライア自身と思われる。演奏時間31分強。アンコールなし。このようなモーツァルトを聴いた後どのようなアンコールを聴けばよいのだろう。
 余談ながら、この24番はずっと内田/ジェフリー・テイト盤がお気に入りである。というよりモーツァルトの全曲のどの演奏を聴こうかという時にまず手がでるのはこの盤なのである。クリーブランドとの弾き振りもあり、これはライブも聴き、CDも聴いて、流石に年輪を重ねて演奏は大きくなったと思うが、旧盤の新鮮さ、若々しさ、親密さは忘れがたく、最近はまた旧盤に戻ってしまった。どうも弾き振りというのが流行っているが、今日の様なハイティンク/ペライアのカップルでの素晴らしい演奏を聴いてしまうと、指揮者がいた方が音楽の充実度が高いような気がする。バレンボイム弾き振りのCDでもそれを感じてしまう。

 ハイティンクのマーラーは初めてだ。曲のせいもあるのだろうけれども随分とさらりとした印象である。淡白と云っては語弊があろうが、この耳には極上の響きが届く。特に3楽章が誠に感動的である。木管と弦がからみ美しさの極み。ただコーダで大きく盛り上がるところはもう少しはったりをかまして、もっと盛り上げても良いのではなかったろうか?私には少々大人しく聴こえた。4楽章も素晴らしい。やはりこの楽章はしっかりとしたソプラノのほうが良い。バースタインの新盤ではボーイソプラノを使っていたが、今夜の公演を聴くと断然この演奏のほうがよい。リヒターと云う人はよく知らないが、若い人で、実に透明感があふれる声が印象である。目をつぶるとボーイソプラノかと思わせるような部分、例えば1節目の最後の「天のペテロ様が見ていらっしゃる」などがそうだが、もあり印象的だ。この楽章もとても感動的だった。1楽章は4回鈴がなるが、どうもあの音が苦手である。この楽章は木管が美しいことばかり耳に残った。演奏時間61分。

2015年9月23日

「死屍累々の夜」前川 裕著(光文社)
この本はフェイク・ノンフィクションノヴェルとプロローグにあり、なおかつ巻末にはフィクションであるとのことわりがある。実話をもとにした小説ということだろう。そもそもこの小説の中心になった木裏事件というのが本当にあったか、グーグルで検索してもこの前川氏の著作しか出て来ないのでさだかではない。
 それはさておき、大変面白い小説として読んだ。ノンフィクションかフィクションかがわからなくなるほどリアルであり、人物の造形も深い。それはひとつには五十嵐というジャーナリストの取材と主人公である木裏の行った犯罪の進行とが前後したり、交差したりしてゆく手法がきいていると思った。
 1985年、鹿児島県城山で木裏と7人の女性との心中事件が発生。木裏は妻殺しで12年の刑をうけていた。話は木裏が刑務所を出てから始まる。旅館の乗っ取り事件なのだがその経過の1年間の陰惨な犯罪がこれでもかとばかり描写される。一気読み必至かと思っていたが次第に読むペースが遅くなってしまった。それほど話は悲惨で陰惨だ。
 木裏は理性と狂気の両面をもつ人物だ。彼を見ていると「復讐するは我にあり」の榎津を思い出す。木裏の番頭役など脇の描写も精緻を極めており、第1級の犯罪小説となっている。

「信長の大戦略・桶狭間の戦いと想定外の創出」小林正信(里文出版)
1560年の桶狭間の奇襲作戦の本質をえぐった歴史本である。以前に読んだ「明智光秀の乱」と同様、1次資料を丹念に読み込み、大胆な推量を加えた力作である。
 この戦いの背景には関東公方の足利義氏を盟主とする今川・北条・武田の関東三国同盟により、今川義元は武力によって将軍義輝が命じてもいないのに上洛を図り、室町幕府の管轄領域に侵入し、京都において関東の意向にそって、専横を働こうとした謀反という事実があるということ認識しなければならないと云う。従って桶狭間の戦いは単に信長が尾張を通過する義元軍にぶつかるのでなく、信長はあくまでも関東三国同盟対幕府の戦いの先鋒としての位置づけであり、戦いは尾張防衛から京都防衛に変貌しているのだと云う。従って京都周辺の六角、北伊勢、浅井などの大名は信長の後方支援についたと云う。そして戦いの本質は奇襲ではなくて、織田本体により今川本体を撃滅、手薄になった義元周辺を信長の馬廻り衆など2000が攻め入ったというのだ。こういった戦いの実像が歴史の表にでなかったのは情報統制の為だと云う。疑問はないわけではないが、この著者の持つ大胆な推理力には、裏付けを常に用意しているだけに驚かされる。ただリデル・ハートや孫子などの引用や戦略論などの話がしつこいのが煩わしい。

「永田鉄山・昭和陸軍:運命の男」早坂 隆(文春新書)
1935年相沢中佐により白昼刺殺された永田鉄山中将の生涯、ノンフィクションである。知っているようでよく知らない人物の一人だが、この本によりすっきりした。また統制派と皇道派の確執についても永田を通してくわしく述べられており、この永田の生きた時代の流れを把握するのにも良い著作だと思った。
 歴史に「もし」はないが、もし殺害されていなければ、陸軍大臣になり日本は無謀な戦いに突入しなかったかもしれないと云われている。しかしこれには少々疑問が残った。彼はあの満州事変すら抑えられなかったのである。なしくずしのまま満洲国も認めてしまった。彼の処世は「要は世と抗拮せざるにあり」ということであり、彼が陸軍大臣になっても流れはとめられなかったのではないかと思われた。

「エージェント6」トム・ロブ・スミス著(新潮文庫)
レオ・デミドフ3部作の完結編である。このシリーズ最初の「チャイルド44」の面白さは傑出しているが、本作も負けずとも劣らない。特に話の構想の大きさは相当なものだ。なにせ話の舞台は、1950年代のソ連、1965年のアメリカ、1980年のアフガニスタン、1981年のアメリカ、そして締めくくりはソ連というようにめまぐるしい。ストーリーは読んでのお楽しみだが、この作品もレオの妻に対する愛が通奏低音のように鳴り響いている。

 

2015年9月20日
於:NHKホール(17列中央ブロック)

英国ロイヤルオペラ日本公演
モーツァルト「ドンジョバンニ」

指揮:アントニオ・パッパーノ
演出:カスパー・ホルステン

ドンジョバンニ:イルデブランド・ダルカンジェロ
レポレッロ:アレックス・エスポージト
ドンナアンナ:アルビナ・ジャギムラトヴァ
ドンナエルヴィーラ:ジョイス・ディドナート
ツェルリーナ:ユリア・レージネヴァ
マゼット:マシュー・ローズ
ドンオッターヴィオ:ローランド・ヴィラゾン
騎士長:ライモンド・アチェット

フォルテ・ピアノ:アントニオ・パッパーノ
ロイヤルオペラ合唱団/ロイヤルオペラハウス管弦楽団

マクベスと同様、音楽・演出・歌手のバランスが非常に良い公演だった。素晴らしい音楽つきのお芝居を見ているようだった。
 まず演出から入ろう。ここでのドンジョバンニは女性は入れ食いだし、お金はたっぷりもっているしまず人間として何も不満がないはずの人物だだ。しかしダルカンジェロのドンジョバンニはそれでも何かに追われている、焦燥感にかられている、人物に思える。これはおそらく演出によるものだと思う。2014年のザルツブルグでもダルカンジェロがこの役を歌っている映像で見たが、ライブとは違うということを割り引いても随分印象が違う。ザルツブルグのドンジョバンニはまさにセックスマシンで無頼の男である。しかしこのロヤルオペラの公演では、同じダルカンジェロでもそのようには単純には聴こえなくて、もう少し屈折した複雑な人物の様に思える。最後の地獄落ちがこの演出ではないのもそういうドンジョバンニにふさわしいのだろう。つまりここでは左右の舞台袖にドンジョバンニ以外の歌い手が全員で歌うが、ドンジョバンニは地獄に落ちないで舞台に一人絶望にかられて取り残される。現代人において孤独ほど恐ろしいものはないがそれを体現しているのである。

 ドンナアンナは幕開けからドンジョバンニの女なのである。舞台前面の部屋の扉の2階の部屋からドンジョバンニとドンナアンナがべたべたしながら登場するのだ。しかしこれはト書き(字幕)をみていてあまり矛盾を感じさせないから不思議だ。ドンナアンナは「つきまとってやる」と歌うがこれは自分を暴行した犯人としてドンジョバンニを追うと云う意味と自分を捨てないでという意味と両方にとれるのである。しかしそれならドンナアンナはなぜドンジョバンニの正体をばらしたのだろう。それには伏線があって、1幕の第9曲4重唱でのドンナエルヴィーラの歌がドンジョバンニの正体をばらしているのである。したがってドンナアンナはドンジョバンニに裏切られたと思い、ドンジョバンニを愛していつつも、ドンオッターヴィオにドンジョバンニが父殺しの犯人だと云うのである。同じト書きでも見方によってはどうとでも取れる。ホルステンはそれを逆手にとって見事に芝居に組み込んでいる。

 ドンナエルヴィーラは人間の強い面と弱い面をすべてさらけ出した誠に共感を呼ぶ人物像となっている。これは演出もあるだろうが、ディドナードの歌唱によるものが大きいかもしれない。ある時は強くドンジョバンニを糾弾し、あるときはメロメロになってしまうのだ。なんと矛盾の多い女性だろう。しかしだからこそ人間としての魅力を大いに感じさせるである。ツェルリーナもコケットさ丸出し、ある時は可愛いマゼットの妻、ある時はドンジョバンニにメロメロ。男はそういう女にすぐ騙される。レポレッロは愛すべき人物だ。ドンジョバンニにどれほどひどいことをされても彼が好きなのである。そういう人物のように感じた。要するにこれらの人物は何かかにかドンジョバンニを愛しているのである。それが舞台から強く感じられるからこそ、最後のドンジョバンニの舞台に取り残される様は哀れである。ただ個人的には地獄落ちが見たかった。

 装置について触れよう。舞台正面には前面に建物がある。2階建てである。中央の2/3位が切り離され周り舞台になってぐるぐる回って場面転換が行われる。この正面の回り舞台の2階屋はよくできていて、中央に階段があったり無数にドアがあったりして本物の様に見える。2幕ではこの2階屋のみになり、最後はまた全面建物になる。従って騎士長が登場する2幕の墓場はでてこないし、ドンジョバンニが食事をする場面はこの建物の一部で行うので食事のテーブルも出て来ないので、ト書きをよく読んでいない人は何が何だか分からないだろう。なお、プロジェクションを使った映像の投射を多用している。たとえばカタログの歌ではドンジョバンニに誘惑された女性の名前が建物に次々に投射される。その他CG風のイメージ映像もふんだんに取り入れてあった。衣裳はヴィクトリア朝時代ということで違和感がなかった。

 パッパーノの音楽もこの演出にふさわしくドラマを感じさせるものだ。序曲は随分重々しく、ちょっともったいをつけているのではないかと思われたが、場面が進むにつれ、それぞれの歌手の人物像にあった的確な音付けが見事である。近年の古楽風のぴょんぴょん跳ねるようなモーツァルトとは縁遠いものだが、基本はきびきびした、これは実に素晴らしいドラマ・ジョコーゾの音楽化であるように思った。最後の場面がトゥッティで始まるなど若干のカットがあった様だ。パッパーノは通奏低音(フォルテピアノ)の弾き振りである。これは2011年のメトロポリタンでのファビオルイージと同じである。器用なものである。演奏時間は164分弱。マクベスに比べて音が薄いように感じられたがこれは編成が少ないのと、NHKホールのせいだろう。大体ここでオペラをやるべきではないと思うのだが?終演後原宿に向かったが、代々木公園でイベントがあってごった返しておりオペラを反芻するどころではない。渋谷に向かえば又凄い喧騒。困った場所にホールを作ったものだ。立て直す時は引っ越しをしてほしい。

 さて、肝心の歌手が最後になってしまった。演出の項でも随分触れているので簡単にしよう。
 ダルカンジェロのドンジョバンニは実に素晴らしい役作りだ。現代のドンジョバンニだろう。ザルツブルグのライブ映像では少々重々しく感じたが、今回の公演では軽快とは云わないまでも、重厚さは免れている。ホールのせいもあるのだろう。力づくで歌う部分がほとんどないのでいかにも上質のモーツァルトを聴いた気分である。第11曲のアリアは力みの感じられる歌唱が多いが、彼の場合は実に軽快であり聴いていて快感である。
(追記:1959年のジュリーニ版を久しぶりに復習に意味で聴いてみたがやはりヴェヒターとダルカンジェロでは随分違う。ダルカンジェロは重めのドンジョバンニということがCDからでもよくわかる)
レポレッロ、最初は作り声が嫌だなあと思ったが、カタログの歌あたりから非常に気持ちの良い滑らかな歌唱になってきた。コミカルな面よりもレポレッロの実直な面のにじみ出た歌唱だと思った。ヴィリャソンのドンオッターヴィオは拍手を一杯もらっていたが、私には声に少々むらがあるように聴こえ、マゼットと同様安全運転の歌唱の様に感じた。

 女声は3人とも素晴らしいの一語。特にディドナードのドンナエルヴィーラは素晴らしい。1幕の登場シーン3番のアリアからして好い女を感じさせる歌唱である。しかしこのきりりとしまった声はドンナエルヴィーラの強い女としての意思も十分感じさせる。とにかく彼女が歌いだすと空気が変わるような印象だ。最も素晴らしいのは21bのアリア「あの恩知らず~」である。この部分はだれが歌っても心が動くが、今日はまたひとしお見事なものだった。評判は聴いていたがこれほどとは思わなかった。多数レコーディングされている理由がよくわかった。ツェルリーナは12番アリア「ぶってぶって~」が素晴らしい。この透明感あふれる声は何と形容しよう。どちらかというと色気よりも中性的な妖しげな魅力のある声である。こんな声で迫られたらマゼットでなくても許してしまうだろう。もっとも7曲の小2重唱では、声がにじんであまり透明感が高くなかったが、しり上がりにエンジンがかかった様だ。ドンナアンナは強い女には感じられず、どちらかというと保守的で穏健な女性の様に感じられた。この演出でなければディドナードと入れ替わった方がよかったかもしれない。23曲のロンド「おっしゃらないで~」はとても良いが、オッターヴィオの対する後ろめたさがでているように感じたのは気のせいだったろうか?
 歌手陣はいずれも穴がなく流石で、ロイヤルオペラの水準を感じさせるものだった。なお本公演は今年の6月のロイヤルオペラでの公演の再演である。ただ歌手は随分入れ替わっていて、6月と同じなのはレポレッロ、ドンナアンナ、ツェルリーナの3人である。





 

2015年9月15日
於:東京文化会館(1階15列左ブロック)

英国ロイヤルオペラ来日公演
 ヴェルディ「マクベス}

指揮:アントニオ・パッパーノ
演出:フィリダ・ロイド

マクベス:サイモン・キーンリサイド
マクベス夫人:リュドミラ・モナスティルスカ
バンクォー:ライモンド・アチェト
マクダフ:テオドール・イリンカイ
マルコム:サミュエル・サッカー
ロイヤルオペラ合唱団/ロイヤルオペラハウス管弦楽団

本年期待の公演である。プログラムで配役表をチェックするとイタリア人が一人もいない。(指揮者を除いてだけど)引っ越し公演でヴェルディときたら一人や二人イタリア人がいるのは当たり前だろうが、もうこういうことがおかしくもなんともない時代。今日の公演は2011年のロイヤルオペラの配役とほぼ同じ。
 イタリア人がいないこととは関係ないだろうけれども、今日のオペラはヴェルディの初期のオペラの勢いのある音楽、美しい旋律を楽しむというよりもシェークスピア×ヴェルディが創造した音楽ドラマを堪能した思いである。これはひとえにパッパーノの作る音楽、ロイドの演出、そしてマクベスとマクベス夫人をはじめとした歌い手が三位一体になったたまものだと思う。

 マクベスは一見大胆な勇者の様だが実は小心で正直な男として描かれている。1幕の魔女から未来の予言を聴いても、かえってとまどい、おどおどして歌う。同じく1幕の「剣がわしの眼の前に~」やマクベス夫人とのやりとりも虚勢は張っていても実は弱気がでている歌いっぷりである。2幕のバンクォーの亡霊のシーンもそうだ。3幕の幕切れの2重唱などまるで地獄落ちの様に聴こえる。4幕の「裏切り者め~」はほろりとさせられる。

 一方マクベス夫人は1幕のマクベスからの手紙を読むシーンから声に凄みがある、しゃがれた様な声はまさにマクベス夫人に相応しい。その後の「早く急いでいらっしゃい~」も素晴らしい歌唱。大姐御の様な声はまさにマクベスを操る女である。ところどころ巻き舌の様になるのが残念。マクベスとの2重唱は急に猫撫で声になり、気味が悪いが、マクベスはもう魔女とマクベス夫人の魔力にとらわれているのだ。2幕の「光が衰え~」は更に素晴らしいが最後で一呼吸置いたのは演出のせいだろうか?ちょっと気が殺がれる。2幕の乾杯の歌も何か喜びの歌と云うよりも魔女の手先の様な歌いっぷりがユニークである。3幕の最後の2重唱は上記のとおり。最終幕の「どうしても汚れが一つ残るは~」はこれはもうまったく夢遊にただよう歌である。ここではもう正気でないマクベス夫人、哀れにさえ感じる歌唱である。とにかくこのマクベス夫人は千変万化、複雑な女性像を作り出している、まことに見事な演技と歌唱である。

 正直その他の歌手はこの二人の引き立て役である。みなそれぞれうまいが歌手では、主役の二人の歌唱と演技が今日の公演のすべてと云って差し支えない。パッパーノの作る音楽もこの二人の心理ドラマを十分サポートしている。音楽はきびきびしてはいるが、決して性急にはならず、どの場面でも常に安定している。しかし一方ではヴェルディの初期のオペラが持つエネルギーが若干減殺されていたかもしれない。それは仕方がないことだ、パッパーノの狙いも、この二人の悲劇の主人公の心の中を暴くことを主眼としているのだから!ただときおり、シノーポリの逸走するような演奏が懐かしくなる時があったことも事実だ。なお改訂パリ版でカットされた「マクベスの死」が復活している。また3幕の亡霊2と3はボーイソプラノが歌っている(NHK、東京児童合唱団・野沢晴美、鈴木一瑳)。3幕でマクベスが失神したあとのバレエもカットされずに演奏された。演奏時間は146分。

 演出は奇をてらった読み替え手法はとっていない。ト書きに近いと云っても良いだろう。最近は政治劇というか権力闘争風に仕立てた現代への読み替え演出が散見されるが今日の演出はあくまでも弱い男が、魔女の予言と妻に誘導されて悪の道に入り滅亡すると云うまっとうな作りになっていて、その中の二人のこころの揺らめきを演出の柱にしているように思った。
 気のついた点を思いつくままに。魔女は赤いターバンに黒衣をきてどこぞの地域を想像させる。いたるところで出現する。1幕の冒頭は当然だが、その後マクベス夫人に手紙を渡すのも魔女だし、1幕最後にダンカン王の王冠をマクベスに渡すのも魔女だ。2幕でバンクォーが殺され、息子が逃げるがそれをかくまうのも魔女である。バンクォーが殺害されるシーンも変わっている。ダンカン王の棺の前で暗殺されるのである。バンクォーの亡霊は血みどろになっているわけではないのであまり気味が悪くはない。やはりイギリスだから上品です。3幕の亡霊シーンも奇をてらわず鎧を着た亡霊、馬に乗ったバンクォーの子孫達などごくまともである。
マクベスが失神した後、魔女たちが踊る中マクベス夫人が寝ているベッドが登場する。そこにマクベスも横たわると、魔女が子供たちを連れて登場する。これはバンクォーの子供か、それともマクベス夫婦がもてなかった家族を夢想してかは不明。最後に子供が二人マクベスに刺されて3幕は幕。まあそんな具合で書いて云ったらきりがありません。

 装置はシンプル。舞台は大きな箱になっていて、ステージ奥の辺は上下にスライドして場面転換をスムースに行っていた。その他の装置としてはベッド程度。ただボクシングのリングの様な檻がときおり舞台上に登場する。これは前後に動く。マクベスとマクダフとの戦いはこの中で行われる。衣裳は中世とはちょっと違うがまあト書きとそれほど違和感はない。2幕のマクベス夫妻は全て金の衣裳だったのでこれはびっくり。

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