ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2015年08月

2015年8月25日
 
モーツァルト「ドンジョバンニ」、METライブビューイング(2011年10月29日上演)
指揮:ファビオ・ルイージ
演出:マイケル・グランデージ
 
ドン・ジョバンニ:マリウシュ・クヴィエチェン
レポレッロ:ルカ・ピザローニ
ドンナ・アンナ:マリーナ・レベッカ
ドンナ・エルヴィーラバルバラ・フリットリ
ドン・オッターヴィオ:ラモン・ヴァルガス
ツェルリーナ:モイツァ・エルドマン
マゼット:ジョシュァ・ブルーム
騎士長:ステファン・コツァン
 
今、銀座の東劇でMETライブビューイングのアンコール上演を行っている。今日見たのは2011年の公演だから随分古いものだ。ただ音響的には最新の例えば2014年のマクベスなどよりも自然に聴こえるのはどういうわけだろうか?
 さて、このドン・ジョバンニはその当時聴きそこなったものだ。演奏は実に素晴らしいものだ。特に2幕はとても良い。1幕だって決して悪くはないがルイージの作る音楽が良く云えば少々元気すぎる、悪く云えば乱暴に聴こえる。しかし2幕でそれが適度のレベルにおさまっているので音楽全体が良く流れスムースに感じるのである。
 歌手たちは皆素晴らしいがなんと云ってもクヴィエチェンのタイトルロールがよい。彼はこの公演の後2012年に来日して新国立劇場で同役を歌っている。これも素晴らしく、おそらくライブで聴いたドン・ジョバンニでは随一にあげられる歌手だろうと思う。ルイージも云っていたがクヴィエチェンの良さはまるで無頼漢の様なドンジョバンニに品位を与えていることだろう。要するに悪の面だけでなく優しさに通じる面も歌で表現できると云うことである。ザルツブルグのセックスマシーンのようなダルカンジェロや新国立での最新公演でのチンピラヤクザ風のエレートのドン・ジョバンニと聴き比べればすぐわかるだろう。
 フリットリのドンナ・エルヴィーラも素敵だ。あるブログに峠を越えたと悪口を書かれていたが、私は決してそうは思わない。彼女の解釈はこうだ。エルヴィーラは既婚者か×イチである。そんな彼女にとってドンジョバンニは最後の人。ドンジョバンニにとってもエルヴィーラは決して嫌いではない。しかしあまりにもドンジョバンニにとって理想の女性に近いということで反発している。まあこんなことをフリットリはインタビューで答えていた。2幕の21b,レチタティーボ・アコンパニャートとアリアはそんなエルヴィーラの心境を歌い上げ実に感動的である。フリットリの歌には常にハートがある。それがこのエルヴィーラにも感じられるのだ。
 ドンナ・アンナのレベッカも良い。声だけから云ったらフリットリより上かもしれない。しかし彼女の歌にはなぜか聴き手に感情移入させるようにはさせないものがあるような気がする。例えば1幕の第10曲のアリアや2幕第23曲のロンドなど心に迫らない。これも2102年の新国立でのアガ・ミコライの歌唱と聴き比べれば良くわかるだろう。
 レポレッロは適役だ。軽妙さもあり小悪いところもあり、しかし卑しさがないのが良い。クヴィエチェンはインタビューで将来はドンジョバンニを歌う歌手になるだろうと云っていたが、押し出しの良さからも歌唱力からも十分あり得ると思った。
 その他もみなよかったが、騎士長の声が今一つ低音が弱く甲高く聴こえたのが気になった。
なお、ルイージはレチタティーボでの通奏低音も担当していた。演奏時間168分。
 演出は全くオーソドックスなものでいかにもMETらしく安心して音楽に浸れる舞台だった。歌い手の動きも適度にとどまっており歌に集中できているのが良い。最近のへんてこりんな舞台が多い趨勢に対して希少価値のある公演だった。

2015年8月21日
 
「流」 東山彰良著(講談社)
直木賞受賞作品である。台湾を舞台にした青春小説。このジャンルはほとんど読みたいと思わないが、なかなか面白かったのは事実。直木賞候補になった作品では澤田氏の「若冲」が本命と思ったのだが、残念ながら本作に敗れてしまった。そういうこともあってこの作品を読んで見ようと思い立った次第。
 舞台の中心は台湾である。蒋介石が亡くなった年に主人公秋生の愛する祖父が惨殺される。祖父は国民党軍で大陸では相当なことをやったらしい。祖父のルーツをたどり犯人探しが主題と思いきや、そのあと秋生の高校時代の無軌道ぶり、ちんぴらまがいの少年との交流、幼馴染との恋、軍隊時代などが延々と描かれるが、これが滅法面白く本を置けない。犯人探しは読んでのお楽しみだ。
 本作の面白さはもちろんストーリーの面白さ、時代設定のユニークさにあることは間違いないが、私はそれに加えて東山氏の文章の力にあろうかと思う。文章は歯切れがよく、言葉が宙を舞い飛ぶがごとくポンポンと目に入って来るのである。この生き生きした文章は本当に魅力的である。
 その他、台湾の戒厳令下の社会~中国との交流の歴史の流れの中の社会の動き、また秋生が日本では働く場面もあって、日本の社会史も散りばめられていて、別の意味で印象的である。ただ「セカンドラブ」がでてくるのにはちょっと参った。いずれにしろ立派な受賞作であることは間違いない。
 
「武士の碑」 伊藤 潤著
多作の伊藤だがどれをとっても面白いのは大したものだと思う。その要因は歴史の中の人物への焦点の当て方である。直近で読んだ「負けてたまるか」は大鳥圭介が主人公である。そして本作では村田新八を主人公にしている。西南戦争を舞台にした小説だが、西郷を主人公にはしていないのである。村田というどちらかという西郷の脇役と云うべき人物に光を当てている点が
彼の小説の面白さの原点の様な気がする。大鳥だって決して幕臣では主役ではないはずだ。
 さて、すでに述べたように本作は桐野とともに西郷の側近として最後まで西郷の供をした村田新八の半生を描いている。桐野と異なり村田は文官として維新政府ではスタートしている。そのこともあってアメリカやフランスに外遊をしている。そういう意味では視野の広い人間のはずがなぜ西南戦争という大義の見えない戦争に参加したのだろう。小説はそういう村田の苦悩が描かれている。またところどころフランスでのあるエピソードが挿入されていて、村田の人物像を膨らませている。これはまた司馬遼太郎の描く西南戦争/西郷とも随分と違う世界を描いた小説でもある。本作を読んでいると西南戦争とは何か?西郷とはいかなる人物か?を村田を通して問い直しているような気がする。面白い歴史小説である。なお本書でも添付の地図が丁寧なのが実にありがたい。
 
「グラ―グ57」 トム・ロブ・スミス著(新潮文庫)
「チャイルド44」の続編である。ただ前作を読まなくても本作を読むのにそれほど支障はない。前作はスターリン政権下のソ連を舞台にした警察小説の傑作だった。本作は時代そのころから7年ほどたったフルシチョフ政権下。フルシチョフによるスターリン批判がキーワードになる。スターリン政権下で政治犯をシベリアに送った保安隊のメンバーが次々と殺される。それを捜査するのが前作では保安隊の捜査員、本作では殺人課の責任者として登場するレオ・デミドフ。しかし小説はこの捜査による犯人探しというよりももう少し政治色の濃い作品になっている。レオがとらえた政治犯が収容されている北の果ての収容所「グラーグ」(これが本作のタイトルになっている)やハンガリー動乱の模様などがくわしく描かれているからだ。だからといって前作よりつまらないと云う事はない。一気読み必至の作品だ。
 
「なにわ万華鏡・堂島商人控え書」 近藤五郎著(富士見新時代小説文庫)
堂島の米問屋「栄屋」で働く佐助の出世物語?とも言い切れないが、彼が手代から番頭になってゆく姿が描かれている。?をつけたのはむしろ彼個人の人物像よりも彼を取り巻く時代の流れを感じさせる人物との交流に重点が置かれているように感じたからだ。大鳥圭介、福沢諭吉、勝海舟、高杉新作、極めつけは森の石松まで飛び出してくる。時代はそういうことで明治維新まであと20年余りというところからスタートする。ペリーの来航や、和宮降嫁、井伊大老暗殺なども作品の中に描かれる。一方そういう時代の流れに負けない大阪商人が佐助を通して見ることができる。設定の面白さは買うが私はもう少し佐助に焦点を当て彼が商売で成功するような話を柱にしたほうが良かったような気がする。時代の流れや多くの登場人物に詳しく触れたことで話が拡散した様に感じられたからだ。

2015年8月15日
 
「ビッグアイズ」、ティム・バートン監督、クリストフ・ヴァルツ、エイミー・アダムス主演
名監督+名優の組み合わせで何とも面白く、不気味な映画に仕上がった。特にヴァルツの演技は相変わらずというべき怪演。
 
 1958年、マーガレット(アダムス)はDV夫から逃れてサンフランシスコへ。彼女は眼の大きな子供の絵を描く素人画家。同じく素人画家のウォルター(ヴァルツ)と意気投合し結婚。ウォルターは絵の才能はないが詐欺師まがいのセールス能力でマーガレットの絵を売り込み、成功する。しかしマーガレットの名前でなくウォルターの名前で売りこんだことから話はややこしくなる。58年当時のアメリカはまだ男性社会ということがこの奇妙な話をもたらしたようだが、やはりヴァルツ演じるウォルターの詐欺師能力によるものなのだろう。ウォルターに押し流されるマーガレット役のアダムスのなんとも意志薄弱な女性ぶりが可哀想だが、妙におかしかった。これはとても面白い映画だった。
 
「6歳の僕が大人になるまで」、イーサン・ホーク主演
原題は「BOYHOOD」、6歳のメイソンJRが18歳になるまでを同一人物を12年間カメラで追い続けたという力作だ。少年の成長物語でもあるが、一方ではアメリカの社会・世相史でもあり両面からみて見ごたえのある映画だった。
 それにしてもアメリカの家庭というのは実に柔軟にできていると云う事を改めて感じた。メイソンJRの母親はシングルマザー、元夫はイーサン・ホークだ。こういうなんとも頼りなげな男の役はイーサン・ホークは実にうまい。元夫とは云え子供(つまりメイソンと姉のサマンサ)達とちょくちょく会っている。母親は学歴の為に大学に通うが、そこの教授とできてしまって結婚。しかしこれがアル中のDV男で、すぐに別れる。その後イラク・ボスニア帰りの復員兵とできてしまう。しかしそうはなってもイーサン父さんとは(イーサンも結婚する)家族くるみであったりするのである(例えばメイスンの卒業式)。家庭というのは固定的でなく軟体動物みたいに柔軟なのである。見ていてそれがとても印象的だった。面白い映画だったが大した物語もなく3時間近い長尺は少々長く感じた。
 
「KANO、1931 海の向こうの甲子園」、永瀬正敏主演
台湾製の野球映画。舞台は日本領の台湾である。1931年台湾の嘉義農林中(KANO)が台湾代表になって甲子園に出場、中京商業と感動の優勝争いをするという実話に基づく物語。
  
 KANOは台南の嘉義にある農業高校、野球部はあるが一度も勝ったことがない駄目チームだ。そこへ松山商の監督をしたいわくありげの男、近藤(永瀬)が監督をひき受ける。物語の大半はこの駄目チームの選手たちの成長、それは野球選手としてもあるが人間としての成長物語である。特に主題とも云うべき台湾の3民族が野球という一つの目的を通して融和してゆくさまを描いて、普遍化してゆくところが感動を誘う。高砂族などの番人は足が速く、漢人は打撃がうまく、日本人は守備がうまい。このミックスがこのチーム原動力なのだ。3時間の長尺だったが全く飽きさせない。
 作品中大沢たかお演じる八田先生の位置づけが今一つ明確でないことと、甲子園球場の群衆シーンなどの映像が少々冴えない点がやや不満。

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