ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2015年06月

2015年6月28日
於:新国立劇場(1階8列中央ブロック)

新国立劇場公演
    松村禎三「沈黙」

指揮:下野竜也
演出:宮田慶子

ロドリゴ:小原啓楼
フェレイラ:小森輝彦
ヴァリニャーノ:大沼 徹
キチジロウ:桝 貴志
モキチ:鈴木 准
オハル:石橋栄実
おまつ:増田弥生
少年:小林由佳
じさま:大久保 真
井上筑後の守:三戸大久
通辞:町 英和

管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
合唱:新国立劇場合唱団、世田谷ジュニア合唱団

2012年2月の宮田演出の再演である。あの時は中劇場の公演だったが今回はオペラパレスでの公演であった。このホールがオペラパレスに代わった効果は実に大きい。中劇場では味わえなかった大編成のオーケストラのの魅力を感じることができるのである。オペラ全体がスケールアップし劇的な効果が増したような印象である。中劇場の舞台は凝縮されたようだったが、同じ装置でも印象は変わって、随分とスケールの大きな装置という印象である。装置はシンプルで大きな十字架が一つ斜めに立っている。それに板きれで覆ったような5mほどの演台、これは傾斜のあるのもの。そして舞台は2-30cmの厚さの台を組み合わせたものが占めている。それがぐるぐる回って、例えばある時は十字架は左奥にあったかと思うと、ある時は中央近くにあると云う按配である。中劇場と同じ装置というが、今回久しぶりに接して、繰り返しになるが、随分印象が違ったのに驚かされた。

 そういう舞台効果もあってか、またオーケストラの大編成の効果か、今回の印象は随分と劇的であり、特に2幕はその様に感じた。この幕はオハルの死、4人の信徒の筵巻きの刑の場面、フェレイラとロドリゴの対面、フェレイラのロドリゴの説得、そして第16場のロドリゴの転びの場面など劇的な場面が多いせいもあるので相乗効果もあるだろうが、誠に聴きごたえがあり、感動を誘う幕だった。
 歌手たちはダブルキャストで第1セットは2012年とほぼ同じ、私は今回はそのせっとではなく、上記の第2セットの歌手達の歌を聴いた。
 ロドリゴは1幕の終わりの丘の上でのアリアや2幕のフェレイラとの対決場面、転びの場面が印象的である。声がどうこうというよりも、ロドリゴの神の存在に対する疑念、棄教か殉教の迷いなど、人間としての苦悩が十分感じられた歌唱であり、演技であった。一方フェレイラはすでに棄教した司祭として最初は淡々と歌うが、棄教に至る苦悩を思い出し、熱してくるさまが痛々しかった。そういう歌唱である。
 キチジロウは前回の星野と同様少々物足りない。彼はこのオペラのもう一人の主人公ではないか?なぜなら誠に弱い人間としてわたしたちに最も近い存在だからである。しかし今日の公演では、彼を卑しい単なる裏切り者として描いているような気がする。そうではなく何度も転びながら懺悔を求める、弱い弱い人間がキチジロウなのではないか?ロドリゴ以上に彼も苦悩している様がもう少し感じ取れる歌が聴きたかった。
 オハルは遠藤周作の原作にはないキャラクターだが、信徒の悲しみを感じさせると云う意味でそれが非常に生きている。オハルの歌唱はそれを強く感じさせるものである。1幕での2曲、そして2幕の10場のオハルの死の場面の歌唱がそうである。石橋の透明で可憐な声が悲しみを誘う。その他皆それぞれの役どころを十分歌に託しており、十分なリハーサルを積んだと云うことが感じられる公演だった。
 合唱は相変わらず素晴らしく、松村の付けた比較的平易な合唱パートが見事に再現された。何度も出てくる「参ろうやな~」は場面場面でニュアンスも変わり特に印象的だった。
 下野の指揮はこの松村の大編成の音楽の魅力を前回以上に味あわせてくれた。私は個人的には西洋音楽に日本語はどうも合わないイメージを強く持っているが、本作はそのなかでも私には最も抵抗のないもので、オペラとして十分楽しむことができた。

2015年6月24日

NHKのBSで昨年のザルツブルグ音楽祭8月の「ドン・ジョバンニ」の公演が放映された。場所は祝祭大劇場ではなくモーツァルトの家での公演である。同年の「イルトロヴァトーレ」が歌も演出もがっかりだったが、このドン・ジョバンニはなかなか面白かった。

ザルツブルグ音楽祭2014、モーツァルト、歌劇「ドン・ジョバンニ」
指揮:クリストフ・エッシェンバッハ
演出:スヴェン・エリック・ベヒトルフ

ドン・ジョバンニ:イルデブランド・ダルカンジェロ
騎士長:トマシュ・コニチュニ
ドンナ・アンナ:レネケ・ルイテン
ドン・オッターヴィオ:アンドルー・ステープルズ
ドンナ・エルヴィーラ:アネット・フリッチェ
レポレルロ:ルカ・ピサローニ
ツェルリーナ:ヴァレンティナ・ナフォルニツァ
マゼット:アレッツオ・アルドウィーニ
管弦楽・合唱:ウィーフィルハーモニー管弦楽団、合唱団

まず演出から。これはまるで芝居を見ているかのような演出である。細部まで出演者の動きが作り込まれている。そしてそれは通常の読み替えのように不自然なところがほとんど感じられない。そういう意味ではこのドラマ・ジョコーゾを見事に視覚化しているように思った。ただそういう行き方に隙がないということは、逆に音楽の入る余地はどこにあるのだろうかと思わざるを得ないのである。ト書きや歌詞に込められたものが、それが音楽と一緒にあらわれると同時に、芝居で演じられてしまうということに、なにか二重にこのオペラを表現しているようなしつこさを感じてしまうのである。というよりも視覚が聴覚を奪ってしまうと云う印象なのである。
 例えばマゼットがドン・ジョバンニにぼこぼこにされてしまった後、ツェルリーナがマゼットを慰めるシーン。それは言葉や気持ちでの慰めではなく、肉体での慰め。つまりツェルリーナは下着だけになりマゼットを慰める。大変不謹慎ながら、ツェルリーナが美しいだけについ見とれてしまって、あれ音楽はどうだったっけという始末なのだ。これは私だけの印象かもしれないが、あまりにも分かりやすい表現だけに、オペラの聴き手の想像力を奪うという結果にもなりやしないかと思わざるを得ない。その他ドンナ・エルヴィーラが2幕で性懲りもなくドン・ジョバンニにだまされるシーンも同様、枚挙のいとまがないくらいだ。演出があまりにも理路整然としているだけに余計そういう印象をもったのかもしれない。
 舞台の設定はホテルの様だ。正面には左右に上がる階段があり2階の客室につながっている。1階つまりステージの右側にはバーカウンターがあり、左手はラウンジの様になっている。マゼットやツェルリーナはホテルの従業員である。だから農民は全く出て来ない。舞台転換は全くなく1幕2幕ともこれで通してしまうのだからなかなか凄い。しかも歌い手の動きは実に細やかで、片時もじっとしていない。歌い手は大変だろうが、そういう演出に見事にこたえていた。

 さて、歌手について一言。ダルカンジェロ初め、皆若く生きが良い。歌もうまいが、舞台映えがする。特に女声陣は美しく、実際に舞台を見たらもっとそういう印象をもつかもしれない。こう云う演出だと声は良いけれど容姿は今一つという歌い手は難しいだろうなあと思ってしまう。
 ダルカンジェロのドン・ジョバンニは当たり役らしい。今年のロイヤルオペラでも歌う予定だ。このドン・ジョバンニは完全にセックスマシンのようだ。絶えず女性を追い求めて接していないとだめなのである。貴族としてのノーブルさは皆無、頭が空っぽの行動派のマッチョのようだ。これは演出なのかダルカンジェロの工夫なのかはわからない。好みからすると声はちょっと重すぎるような気がする。
 レポレルロはこんなドン・ジョバンニと対照的に知性派である。眼鏡をかけいかにもそれらしく、あたかもドン・ジョバンニの知恵袋の様な印象。ドン・ジョバンニもレポレルロを頼ってる。そういう役どころだから今まで聴いたことのないようなレポレルロだった。
 ドンナ・アンナをはじめ女声陣は皆素晴らしい。特にドンナ・エルヴィーラは哀れなくらい簡単にだまされる役どころをそのとおりに演じ歌っていた。舞台姿が美しいだけに余計哀れさが募る。ドンナ・アンナはもう少し強い女であっても良かったのではないかと思ったが、これも演出かもしれない。ツェルリーナは声も姿も可愛く、コケットの権化の様。その他ではマゼットが良かった。

 エッシェンバッハは緩急の付け方が伝統的なスタイルを感じる。これはこれで悪くはないが、舞台の歌い手の運動量が半端でないので、音楽もそれに合わせて、古楽風の小気味の良い演奏スタイルのほうがフィットしたのかもしれない。

2015年6月24日
於:東京芸術劇場(1階S列左ブロック)

読売日本交響楽団、第17回メトロポリタンシリーズ
指揮:フランソワ=グザヴィェ・ロト
ヴァイオリン:神尾真由子

ベルリオーズ:歌劇「ベンベヌート・チェリーニ」序曲
サンサーンス:ヴァイオリン協奏曲第三番

ベルリオーズ:幻想交響曲

ロトの指揮がこの様に早く聴けるとは思わなかった。以前より雑誌で注目されていて一度聴きたいと思っていた。しかも神尾とのペアだから贅沢なことだ。
 ロトはその時代の楽器を使った演奏をする指揮者というイメージがあるが、彼が読響と今夜のフランスを代表する作曲家の音楽をどうさばくか大変楽しみな公演だった。もっとも彼はケルン市の音楽監督に就任するということだから案外ノリントンの様な道を歩むような気もする。
 最初のベルリオーズは久しぶりに聴いたのではっきりとは云えないが、いままで聴いたこの曲とは随分印象が違う。それは一つは指定通りの3台のティンパニの威力だろう。また金管の鳴り方もいままで聴いてきた音楽と違うような気がする。すべて音楽は鋭角的で、切れ味が鋭く、ポンポンと宙を舞いながら、耳に入って来る。これは純粋に音の面白さを楽しませてくれる演奏の様に思った。終わり方の痛快さも比類がない。

 サンサーンスは神尾のもともと鋭利な刃物の様なヴァイオリンとロトの音楽とがぴったりとあった、ぞくぞくするような美しさと、スリリングさをもつ演奏である。1楽章の再現部から終わりまでと3楽章はスリリングな部分である。音は極限まで磨き抜かれ、ホールの中に舞い散るように拡がる素晴らしさ。2楽章の美しさは艶めかしさというよりも、中性的な魅力である。肌に粟を覚える美しさとはこのことだろう。

 幻想は最近あまり聴かなくなった。CDで聴いても騒々しいだけでどうもあまり面白くない。しかし今夜の演奏は無類の面白さである。1楽章の冒頭の吐息の様な音楽は何と形容しようか?しかし主部に入って音楽が突っ走ると、標題的な面白さは脇に置かれ、1曲目の様に、音がポンポンと舞台からホールに拡散する。各楽節に何か表情があるようで、どの一音も無視できないのだ。それは標題的というよりも音そのものに面白さをもたせているように感じた。2楽章のワルツは猛烈なスピードだがこれは想定内。緩急の付け方もわざとらしさの極限まで追い込んでいて、これ以上やったらちょっという印象だった。3楽章は丁寧な音楽作り。4-5楽章は予想通りの凄まじさである。4楽章の打楽器の生々しさは、この楽章全体を支配しているようだ。オーケストラは金管だけでなく、弦楽部もますます輝かしくなり、鋭角的に鋭く切れ込んでくる。ここでも音離れの良さが印象的だ。音はステージにべたべたとくっついていないのである。5楽章は更に凄く、その渦巻く音の奔流に流されんばかり。まるで主人公と共体験しているようだった。久しぶりに幻想の素晴らしい演奏にお目にかかった。演奏時間は54分弱。今後注目の指揮者である。
 読響の演奏も立派。特に弦が艶やかであり、輝かしいが、うるささは皆無。カンブルランとのシューマンを思わせる充実ぶりだった。

2015年6月19日
於:すみだトリフォニーホール(1階18列右ブロック)

新日本フィルハーモニー交響楽団、第543回定期演奏会、トリフォニーシリーズ
指揮:秋山和慶

ストラヴィンスキー
 バレエ組曲「火の鳥」1919年版
 バレエ音楽「ペトルーシュカ」1947年版

 バレエ音楽「春の祭典」

一夜でストラヴィンスキーの初期のバレエ音楽の名作3曲を演奏してしまうと云う意欲的なプログラムである。しかし本当に意欲的なのであろうか?それとも単なるサービス精神なのだろうか?個人的に申せば、3曲を一度に聴くのは、ベートーベンの交響曲を一日で聴くほどではないにしても、勘弁してもらいたい。これだけの刺激的な音楽を3曲も集中し続けるのは無理である。
 そうは云いながら、今夜最も良かったのは3曲目の春の祭典だった。特に第一部の音楽の多彩な音の響き、きびきびしたテンポで、小気味よく進む音楽が素晴らしい。秋山の選択したテンポはバレエなしでこの音楽を聴くのに実に相応しいテンポ設定ではなかったろうか?今年73歳とは思えないきびきびとした指揮は衰えなど全く感じられない、大変聴きごたえのある音楽だった。第二部も同じ印象だが、一部より音響の多彩さが減じたような気がした。悪く云えば少々一本調子で、モノクロームの映像を見ているような印象だった。奏者に疲れでも出たのだろうか?

 前半の2曲はストラヴィンスキーがオーケストラ用に編曲したもので、初演のバレエ音楽とは編成も含めて若干異なるようだ。
 このごろ「火の鳥」は全曲を聴くケースが多いのだが久しぶりに組曲を聴いた。今夜は組曲でよかったかもしれない。なぜなら今夜の演奏はカスチェイ王の魔の踊りや終曲の様にオーケストラが盛大に盛り上がる部分は良いが、それ以外のソロ楽器が活躍する静かな部分は色あせたような響きで、ちょっと退屈になるからである。これを全曲版で聴かされてはちょっと辛いかもしれない。
 「ペトルーシュカ」はきびきびしたテンポで無難な演奏だろうが、それ以上ではないように思った。その要因は金管を中心とした楽器の安定感に今一つ物足りなさを感じたからである。各楽器の妙技を聴かせる場面が、はらはらして、落ち着いて聴いてられなかった。今夜は春の祭典に集中したのだろうか?

2015年6月17日

「蒙古襲来」、服部英雄著(山川出版社)
元帝国、フビライの日本侵略については映画や小説で接してきたが、この本は随分肌合いが違う。古くからの通説を丁寧な検証にによって覆し、歴史を復元しているからである。例えば有名な神風については、嵐が来たにしても、一夜で元軍が全滅したかのような伝説はあり得ないとし、また元軍の陣容についても数万もの大群ということはないなどいずれも細かなデータ解析によって論破している。そういう意味では目から鱗ではある。
 しかしこの本はなかなか読むのに骨である。私の様に高校の古文の成績の悪いものにとっては、原文で出てくる引用の漢文が全く読み下せないのがつらい。せめて返り点でも付けてくれると良かったと思う。全体に論文集の趣で、内容も竹崎季長の活躍をこまごま書いたり、蒙古襲来絵詞についての詳細な解説をつけたりと、研究者以外はあまり興味をもたない重箱の隅的テーマに拘泥しすぎているように感じた。また1章の唐房についての論文も蒙古襲来とどういう関係にあるのか、浅学非才の私の様なものには理解できなかった。
 なお、カラーや白黒の挿絵がみにくく文章と照合しても何を言っているのかよくわからない部分が散見された。ルーペで見てもよくわからない挿絵など意味がないのではないだろうか?力作ではあろうが、蒙古襲来の研究者には歓迎されても、一般受けしないように思った。

「長宗我部盛親・最後の戦い」、近衛龍春著(講談社文庫)
これはなかなか面白い小説である。四国の英雄、元親の4男盛親の物語である。4男にもかかわらず、はからずも長宗我部家の当主となってしまった。小説の中での盛親の心の葛藤の独白が面白い。肝心かなめなところでの優柔不断な心の動きが事細かく描かれている。例えば石田×徳川東西対決に際してどちらにつくか揺れ動く。当座は東軍につくことに決めても、妻子が人質にとられるとなんかかんか理由をつけて西軍に与する。関ヶ原の合戦では不運にも戦場から一番遠いところに布陣したために参戦できず、四国に帰る。しかしそこでも徳川軍に抵抗するかと思っていたら、結局家康にだまされお家は断絶となる。まあこんな話が延々と続くのである。しかしだからといって、盛親を非難できるだろうか?決して凡庸な人間でないにしても、戦国第一世代の元親、家康、信長、秀吉らと比べてしまうのは酷であろう。盛親の独白はむしろ人間的であり、自分に身近な戦国の1武将という印象を受ける。結局彼の行動体系は、図らずも長宗我部家の当主にならざるを得なかったことに自体に起因する。一歩間違えればどう転ぶかわからないそういう時代の意思決定の重みは現代にも通じるだろう。

「袁世凱」、岡本隆司著(岩波新書)
中国清末の英雄、しかし毀誉褒貶相半ばする人物の「私」よりも「公」に焦点を当てた評伝である。最近ユンチアンの書いた「西太后」で彼女の人物像を一新して見せたが、この本の狙いもそこにあるようだ。読後感だが、依然袁世凱は謎の人物だなあという印象は払しょくできなかった。ただ感じたのは、彼は皇帝とはなったが、中国の過去の王朝をうちたてた人物と比べると随分小さいと云う印象である。決して凡庸ではないが、悪く云えば場当たり的な、要領の良さで、のし上がった様な印象さえ受ける。海外から分割されつつある、危機的な中国を救うための信念などは彼の行動体系には見当たらない。そういう意味では、彼も盛親同様、我ら凡人よりもすぐれてはいようが、我ら凡人が共感しうる人物であるのだろう。

「東アジア近・現代史」、岩波現代全書(上下2巻)
この本は元の本がある。それは岩波講座「東アジア近・現代史」全11巻からなる大部の本である。
和田春樹、後藤乾一、木畑洋一、山室信一、趙 景達、中野 聡、川島 真
の7人によって書き分けられている。11巻を2冊の新書版にまとめてあるからダイジェスト版という印象は否めない。しかしこの東アジア全体を俯瞰して19世紀末から今日までを通しで見てゆけたのは大変おもろい体験であった。東アジアの範囲は中国、朝鮮、日本、モンゴル、アセアン諸国、そしてインドにも若干ふれている。ただし欠点は話の羅列に近いので深さに物足りなさを感じる。これは自らが他の文献で補完せよと云うことだろう。すらすら読める本ではないが勉強になった。

「ビッグデータコネクト」、藤井大洋著(文春文庫)
これは変わり種の警察小説だ。京都市警のサイバー犯罪課の警部補が主人公である。近未来の2019年が舞台である。大津市の複合施設のソフトを開発している責任者が誘拐されてしまう。その裏にはサイバー犯罪が潜んでいるのだった。
 この本は警察小説とは云え飛ばし読みはできない。なぜならIT関連のワードがつぎからつぎへと登場するからである。最近の年金基金の情報流出やマイナンバー制度問題を先取りしたような新感覚のサスペンスである。

「ゼロの迎撃」、安生 正著(宝島社文庫)
前作の「生存者ゼロ」も面白いパニック小説だったが、本作も優るとも劣らない。
舞台は近未来の日本である。東京が北朝鮮軍のゲリラ攻撃を受けるのだ。主人公は自衛隊の真下情報担当少佐、北朝鮮軍はハン大佐率いる一個中隊である。突然の襲撃に、警察も自衛隊もそして政府も大混乱に陥る。ハン大佐の狙いは最後までわからない。サスペンスとしても面白いし、パニック小説としても面白かった。

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