ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2015年05月

2015年5月30日
於:新国立劇場(1階9列中央ブロック)

リヒャルト・シュトラウス、「ばらの騎士」
指揮:シュテファン・ショルテス
演出:ジョナサン・ミラー

元帥夫人:アンネ・シュヴァー・ネヴィルムス
オックス:ユルゲン・リン
オクタヴィアン:ステファニー・アタナソフ
ファーニナル:クレメンス・ウンターライナー
ゾフィー:アンケ・リーゲル
マリアンネ:田中美佐代
ヴァルツァッキ:大野光彦
アンニーナ:加納悦子
警部:妻屋秀和
テノール歌手:水口 聡
元帥夫人の執事:加茂下 稔
料理屋の主人:加茂下 稔
公証人:晴 雅彦

合唱:新国立劇場合唱団、TOKYO FM少年合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

2011年の震災の時以来の新国立の「ばらの騎士」である。あの時は震災の為、指揮者のアルミンクも、元帥夫人のカミラ・ニールントもキャンセルになりずたずたの公演だったが、しかし出演者のリカバリーもあり、私の聴いた公演ではスタンディングオベイションもあったほどで、なかなか聴きごたえのあるものだった。
 今回はその時に比べると、歌手陣は更に強力なキャストとなり、聴きごたえのある公演になった。新国立のこのプロダクションはこれで3度目の公演だが、おそらくベストだろう。

 主役級の5人の歌手は超ド級の声の持ち主はいないものの、それぞれの役作りがうまくいっており、それぞれが皆聴きごたえがあった。
 元帥夫人は決してノーブルな貴族という雰囲気ではなく、もう少し砕けた、ブルジョワの奥様といった雰囲気。特に1幕がそうだ。ジョナサン・ミラーの演出が1912年を舞台設定にしているそうだから、貴族よりむしろ相応しい様に思った。まあファーニナルとちょっとかぶるような気もするが!オックスとのやりとりもそれゆえか丁丁発止といった雰囲気。長大なモノローグは少々淡白ながら、説得力のあるもの。声は伸びやかで、しかもここぞと云うところでの力もある。特に3幕の3重唱ではそれを感じた。舞台姿も美しく、特に1幕の最後でたばこをくわえながら物思いにふけるシーンは印象に残った。
 オクタヴィアンのいかにも若き貴公子然とした声と立ち居振る舞いは今日一番の聴きもの/見ものかもしれない。マルシャリンに甘える1幕も可愛らしいし、2幕の登場シーンとゾフィーとの2重唱もぞくぞくする美しさ。ただ2人の衣裳が地味なのでせっかく歌がよいのにもったいない。3幕の3重唱も匂い立つような素晴らししい歌唱だった。
 オックスはもういまでは定番の下品で、助べえな役どころを気持ちよく演じていたが、貴族にしてはいまひとつ品がないように思った。まあ衣裳から云って田舎者まるだしの雰囲気がでていた。2幕は独壇場で歌も演技も立派なもの。
 ゾフィーは見た目も可憐で、声も繊細。しかし3幕の3重唱ではしっかりとした存在感のある女性を歌い上げていた。ファーニナルが雰囲気としては若すぎるような気もしたが、歌唱は不満なし。
 日本人歌手もそれぞれ聴かせたがなかでも加納のアンニーナは声も演技もなかなか立派なもので、2幕最後のオックスとのからみもうまく演じていた。水口の歌手役はもう3回目だが、他にいないのだろうか?ここぞと云うところで声が硬くなるのは、いつものことながらだが、はらはらする。安心して聴きたいものだ。

 ショルティスの指揮は若干淡白な印象である。たとえば1幕の「イタリア歌手」の歌は少々忙しい。2幕のオックスのワルツももう少しウインナ風なこぶしを利かせても良いのではないかと思った。しかしけっして慌ただしさはなく、きちんとした、シュトラウスの音楽を聴かせてもらった。演奏時間は180分。

 ジョナサン・ミラーの演出は最初の印象をまだ引きずっている。18世紀末を1912年にもってきた意味が今一つ理解できない。ミラーは2007年のインタビューでこう云っている「このオペラの創り手の2人と、劇中の登場人物たちが、迫りくる時代の大変動をうすうす感じている人々であるからである」。しかし私たちは歴史を知っているかろ、ミラーの言うことはわかるが、1912年の人々が後に起こるような大変動を感じ取っていたのかは疑問である。この演出の様に、このオペラをそういう歴史の一こまに当てはめると面白みがなくなってしまうのではないかと、見るたびに思う。このオペラは人類が長年演じている、恋愛劇、そして誰もが感じる「時の移ろい」を、それぞれが、それぞれに感じるオペラではないだろうか?ミラーはその感じる自由は私たちから奪っているように思う。決して凡庸な演出とは思わないけれど!ただ今回見て装置と衣裳は、演出に合わせているためだろうけれど、少しさびしい印象をもった。3幕の料理屋の1室も薄汚く感じられた。3幕の元帥夫人が着ている喪服の様なものは、演出の為だとは思うが、あまりにもみえみえの演出ではないだろうか?2幕のオクタヴィアンも1960年のザルツブルグの純白の衣裳に包まれたユリナッチにくらべると、なにかみすぼらしい。

 ばらの騎士は私には1960年のザルツブルグ音楽祭を超えるものない。もちろん実際に聴いたわけではなく、映像で見たものでの印象だが。カラヤンの指揮の見事さ、シュワルツコップ、ユリナッチ、ローテンベルガー、エーデルマン、クンツどれもそれ以上のものは考えられないくらい素晴らしい。どの公演に接してもつい比べてしまう。カラヤンはそのあとセッティング録音をEMIとしているが、そのCDとこのザルツブルグのブルーレイにおさまったライブ映像があればそれで十分である。今日の舞台を見ていて、もしこれがザルツブルグのテオ・オットーの舞台だったらもっと素晴らしいのではないかと何度も思ってしまった。何度も見たり聴いたりしているこのカラヤンの映像と音楽は最近ではシュワルコップが少々やりすぎではないかと思うようになってきたが、それでも聴き始めると止まらなくなる。そういう意味では、振り返ってみると今の自分には今日の元帥夫人はなかなかフィットしているなあと強く感じられた。

2015年5月29日
於:サントリーホール(1階17列中央ブロック)

東京都交響楽団、第789回定期演奏会Bシリーズ
指揮:トーマス・ダウスゴー

サーリアホ:クラリネット協奏曲(D'OM LE VRAI SENS)
      クラリネット(カリ・クリーク)

ニールセン:交響曲第三番(広がりの交響曲)
      ソプラノ(半田美和子)
      バリトン(加耒 徹)

私にとってなじみのない曲ばかりの演奏会。初めてダウスゴーを聴くのだから、もう少しポピュラーな曲を聴いてみたかったが、今シーズンのBシリーズはどちらかというと渋い曲が多く、まあ仕方がない。
 ニールセンは一度聴いてみたかったからちょうどいい。考えてみたらニールセンのこの三番やシベリウスの五番、マーラーの九番、エルガーの一番の交響曲はとほぼ同時代の作曲であり、私の耳には同じ仲間の音楽の様に聴こえる。1楽章アレグロ2楽章アンダンテ、3楽章スケルツオ、4楽章アレグロの表記は古典的な構成、旋律も聴きやすく、初めて聴いた曲だったけれどもなかなか立派な曲だと思った。途中2楽章に声が入るが、歌詞はなく母音でアーと発声するだけである。ダウスゴーの指揮ぶりは豪快なもので、自分の国の音楽をたっぷりと鳴らしていた。

 ニールセンに比べるとサーリアホの曲は100年も後の音楽だけに一筋縄では聴けない。100年の時間の長さを痛切に感じる音楽体験だった。当日作曲者のプレトークがあって、曲の解説もあったがあまり良く意味がわからなかった。曲は5部に分かれていてそれぞれ、聴覚、視覚、嗅覚、触角、味覚、最後が我が唯一の望みに。原題は「人の真なる感覚/意味」である。音楽全体が感覚的にできていて、音楽というより音である。特にクラリネットの前半の部分がそうで、これがクラリネットから出たとは信じられない音を出す。
 クラリネットは最初は聴衆から見えないところで奏される。1階のドアの外の様だ。会場はオペラの様に照明を落とし、舞台も楽譜を読むための照明のみだ。2楽章になるとクラリネットは姿を表わす。最初は1階の正面に向かって右前方の扉前で吹いて、歩きながら吹いて、舞台に近づく。最前列の前の通路を通って、左階段からステージに上がる。そしてオーケストラの後ろに回り、最高部でしばらく吹いた後、オーケストラの各パートと掛け合いをしながら、前方に降りてきて、指揮者の左の席に落ち着く。しかし第6部ではまたクラリネットは立ち上がり、客席に降りてくる、すると同時にヴァイオリン奏者たちも(約20人)演奏をしながら客席に降りてきて、各通路にに散らばり、クラリネットと相和しながら静かに終わる。ちょっとしんどい曲でした。こう云う曲を楽しめる方がうらやましい。盛大なブラボーと拍手でした。

2015年5月26日
於:銀座東劇

METライブビューイング2014-15
マスカーニ「カヴァレリア・ルスティカーナ」
レオンカヴァッロ「道化師」
2015年4月25日メトロポリタン歌劇場にて上演

アルヴァレスによる二本立て公演である。最近では分業が多いようであるが、今回は一人の歌手のチャレンジが聴ける。
 指揮者は両曲ともファビオ・ルイージ、演出も両曲ともデイヴィッド・マクヴィカーである。MET今シーズンの最後の演目である。

「カヴァレリア・ルスティカーナ」
トリッドゥ:マルセロ・アルヴァレス
サントッツァ:エヴァ=マリア・ウエストブルック
アルフィオ:ジョージ・ギャグニッザ

主役の2人の歌唱が素晴らしい。ウエストブルックは「あなたはこのことを知っていますよね、お母さん~」では少々声が鋭く、わたしの好みからするともう少し柔らかい方が良いと思ったが、第7景のトリッドゥとサントッツアの2重唱では逆にそれが生きて、サントッツアの心の中で渦巻く思いが伝わる歌唱だった。
 アルヴァレスは若々しく、明るいトリッドゥである。最も素晴らしかったのは第11景「母さん、あのぶどう酒は強いね~」とその前の第10景「アルフィオさん、悪いのは俺のほうだ~」の2つの歌唱だ。まさに田舎の騎士道を歌い上げていて、この曲を聴いてこれだけ心を揺さぶられたことはない。感動的な歌唱だった。
 演出のマクヴィカーは実にシンプルなものだ。舞台には大きな四角い台(舞台の8割くらいを占める)があって、その上に大きなテーブルがあるだけだ。舞台には椅子が多数あって、それが四角い台を取り囲んでいる。椅子には村人たちが座るが、サントゥッツアが歌わないときはこの椅子に座っている。歌い手は台の上で歌う。この四角い台は場面によってゆっくり回転する。歌い手の動きは不自然なものはほとんどない。マクヴィカーの演出にしては珍しく実に自然である。おやっと思うのは、サントッツアが歌わない場面でも、ほとんど舞台に出ずっぱりであったことぐらいである。なお時代設定は1900年ごろだそうである。演奏時間は71分。

「道化師」
カニオ:マルセロ・アルヴァレス
ネッダ:パトリシア・ラセット
トニオ:ジョージ・ギャグニッザ
シルヴィオ:ルーカス・ミーチャム

これも主役の2人が素晴らしい。カニオの「へえ!あんたにはそう見える~」でカニオのネッダへの気持ちが痛いほどわかる見事な歌唱である。もちろん「衣裳をつけろ~」もよかったが、この歌を「笑え、パリアッチョ~」あたりから幕が降りて、幕の前に移動して歌う演出になっていたためか、歌唱に少々乱れを感じてしまったのは私だけだろうか?ここはずっと舞台で歌わせた方が集中できてよかったのではなかっただろうか?ちょっともったいない。
 ネッダは第3景のシルヴィオとの2重唱が素晴らしい。彼女の迷いが肉欲によって断ち切られる様が歌で演じられている。劇中劇の場面はラセットのコミカルの演技と歌唱から、カニオとの切羽詰まった歌唱の歌い分けが素晴らしく、聴きごたえがあった。
 トニオの前口上は聴きどころで声が二弾発射になってしまい、流れを止めてしまったのが残念である。
 演出はカヴァレリアが「静」だとしたら、道化師は「動」である。舞台の作りも、歌い手の動きもダイナミックである。時代設定は1950年ごろである。舞台には大きなトラック、後ろには舞台の装飾などが満載で溢れそうである。舞台奥手は居酒屋になっていて、村人やカニオが酒を飲む場所になる。ネッダはロバ(もしかしたらラバかもしれない)に乗って登場。芝居に出る道化役者たちのコミカルな演技がのっけから登場する。ネッダとシルヴィオの濡れ場はトラックの陰で行われる。劇中劇は場面転換の後行われるが、舞台上には1950年らしく冷蔵庫なども設置してある。まあ読み替えは不自然ではないが、マクヴィカーならもっとやれるような気がする。METのお客にあわせているのだろうか?なお、喜劇は終わりましたの台詞はトニオが行っている。何度も書いているが、これはカニオがやる演出のほうが好きだ。
 閑話休題、マクヴィカーと云えば2005年のグラインドボーン音楽祭の「ジュリオ・チェーザレ」の演出が最近見たものでは印象に残っている。これはローマ時代の設定を19世紀後半の大英帝国がエジプトに進駐した時代に読み替えている。読み替えが素晴らしいだけでなく、演技や踊りに大いに工夫が感じられ、彼の天才ぶりを味わうことができる。

 ルイージの音楽作りは両曲ともいつもながら情感豊かであり、またヴェリズモオペラに相応しく、激しく音楽が燃え上がる。なお「道化師」の演奏時間は75分。

2015年5月23日
於:新国立劇場中劇場(1階18列中央ブロック)

二期会ニューウェーブ・オペラ劇場
ヘンデル「ジューリオ・チェーザレ」

指揮:鈴木秀美
演出:菅尾 友

ジューリオ・チェーザレ:杉山由紀
クレオパトラ:田崎美香
セスト:今野絵里香
コルネリア:池端 歩
トロメーオ:福間章子
アキッラ:勝村大誠
クーリオ:杉浦隆大
ニレーノ:西谷衣代
合唱:二期会合唱団
管弦楽:ニューウェーブ・バロック・オーケストラ・トウキョウ

1724年初演のこのオペラ、ヘンデルのオペラの中でも一二を争う大成功だったらしい。オペラがシーズンごとに使い捨てにされる時代に何度も再演されたそうだ。私にとってこのようないわゆるバロックオペラはなじみのないもので、昨年のラ・ヴェクシアーナの来日公演の「ポッペイアの戴冠」が初体験で、今日が2度目である。二期会の公演はほとんどみな聴きに行っているので、この公演も自動的に申し込んだようなもので、誰が歌うのかも確認もせず、当日劇場に入った。多分鈴木のことだから主役級は外国から呼んでいるのかと思いきや、配役表を見るとほとんどが、若い歌手たちばかり。一瞬不安がよぎったがまあ仕方がない。
 1幕のシンフォニアが鳴ったとたん、あれ響きが悪いなあというのが率直な印象。まあ中劇場はオペラ仕様にはできて居ないのでやむを得ないが、それにしても随分貧弱な音である。ピリオド楽器による演奏ってこんなものだろうか?でもオペラシティのコンサートホールで聴いたラ・ヴェクシアーナの音はふんわりしてこんなものではなかったのだが!
やはりホールのせいだろうか?
 さて、チェーザレが登場して歌うが緊張しているのか演出なのかは分からないが、声が伸びやかに聴こえない。1幕はこんなそんなで歌もオーケストラもそれほど楽しめなかった。
 しかし、2幕になると演奏者たちも気持ちがほぐれたのだろうか、歌や演技に余裕というか伸びやかさがでて随分雰囲気が違う。3幕も同様で、このオペラの面白さを味わうことができた。
 歌手たちはほとんど若い人ばかりで、1幕などはちょっと恥ずかしい様な歌唱もあったが、次第に落ち着いて、クレオパトラ、コルネリア、セストなどなかなか立派な歌唱だった。
 クレオパトラはエロスの権化のような役回りだが演技や歌唱ではなかなかそこまでは伝わらなかった。コルネリアはもう少し深い悲しみが歌に出ると更によい。セストは少年でありながら父の仇を討とうとするけなげな、強い意思をもつ役どころだが、これも歌ではそこまでは感じられなかった。チェーザレはもう少し男性的であってほしいがこれは演出のせいでもあるだろう。声は決して広域には出ていないので物足りなさもあった。トロメロは歌い方がちょっと乱暴の様な気がした、これも演出のせいかもしれない。ただ途中で息が上がったようにも感じて、むらを感じた。全体にしっかり歌えてはいるが、それが役どころにつながらないもどかしさを感じた。
 彼らの歌唱聴いていて、ヴィッラ・デ・ムジカが第一生命ホールで行ったフィガロなどのいくつかの公演を思い出した。あれも若い人中心で若いエネルギーを感じた。チェーザレのこの公演も同様で、言っちゃ悪いが学芸会的な雰囲気が抜けない公演ではあるが、歌手たちのひたむきな熱気あふれる、歌いっぷりは聴くに値するように思う。ただこれが世界的に一流の歌唱かと云えばそうはならないと云うことは認めねばならないだろう。でも世界の多くの劇場でいつも大名演が行われているわけでもなし、こういう若い人たちのチャレンジは大いに称えたい。そういう意味では次に述べるオーケストラともども終わってみれば、楽しい公演であったことは強調しておきたい。
 オーケストラは鈴木の指揮のもと、特に2幕以降はピリオド楽器による、きりっとした、時には荒々しい響きが魅力的だった。ライブならではのミスもあったが、若い人たちばかりなので仕方がないだろう。このオーケストラはピリオド楽器の専門家や芸大、桐朋の器楽専攻生で構成されていて、この公演を機に新たに結成されたらしい。通常の弦(おそらくピリオド楽器)に加えてヴィオラ・ダ・ガンバ、フラウト・タラヴェルソ、テオルボ、チェンバロなど、更には木管やホルンもピリオド楽器で徹底したピリオドスタイルの管弦楽団の様に思った。1幕の15曲のチェーザレのアリアに付けられた舞曲風の音楽は片手で持ったホルンで演奏されていたが古楽の雰囲気がでていて面白かった。3幕の最終場のシンフォニアも力強くて聴きどころだ。演奏の精度が上がれば更に楽しいだろう。こういう楽団が定着して、バロック音楽を発掘して欲しいものだ。

 演出はとても若い人で、スピーディな場面転換が効果的だった。中劇場の周り舞台を生かして円形をおそらく3つほどに区切り、舞台がぐるぐる回ると、その区画が次々と聴衆の前にあらわれてくる。セットはその区画のエジプト風の建造物だけで、あとはベッドや机などが場面によっては置いてあるだけだ。3幕などはめまぐるしく変わるのでついて行けないほどである。なお、2幕冒頭はバンダが7人ほど舞台の最前列で演奏。チェーザレは客席で歌う様な場面もあった。このような演出はヴィッラ・デ・ムジカでも行われていたが、小劇場の公演の機動性を生かしたものだろう。
 このオペラはもちろん有名なシーザー(チェーザレ)とクレオパトラの愛の物語が本線だろうが、それにシーザーの政敵ポンペイウスの妻コルネリアと息子のセスト、クレオパトラの弟のトロメロとその腹心のアキッラなどがからみ、愛憎劇、政争劇、仇討、裏切り、などの要素が満載なオペラだ。演出家が手を出したくなるオペラというのはよくわかる。
 菅尾の演出はそういうドロドロとした人間のドラマをじっくり描くと云うよりも、あたかも対戦ゲームやアニメのキャラクターたちが次々と登場しスピーディーに動き回る、劇画風に仕立てている。キャラクターたちはおそらく若い人が見れば何なのかはわかるのだろうが、私にはなんだかわからない。ただアキッラが朝青竜に似た顔とモンゴル風の衣裳を着ていたのは笑った。アキッラとクーリオはブッファの役回りに仕立てている。
 装置はエジプト風ではあるが、衣裳は時代も国も架空の世界の様だ。歌手たちの耳が「スタートレック」のスポックのように長いのは、現実の世界ではなく架空空間の世界であることを表わしているのだろう。舞台上にはエジプトのトロメロの兵士やその他クレオパトラの侍女など黙役は全て鰐の仮面をかぶって、タキシードをきた人々が演じていた。この意味は奈辺にあるかは不明。ところどころコミカルな演出も散見されるが、演じる人たち(特に歌手)が青臭い芝居をするので、あまり笑えない。まあ歌うのに精いっぱいだったのだから仕方あるまい。

 今日劇場についてびっくりしたのは、客層の違いだ。二期会公演と云うと、私の様な、じいさんばあさんばかりだが、今日はおそらく半分近くは若い人だったのではないか?学生も多かったから演奏者の友人やグループもいたのだろう。チケットは完売だと云うからすごいことだ。それにしてもこの公演がダブルキャストでそれぞれ1公演だけというのはもったいない。

 「ジューリオ・チェーザレ」に初めて接したのは、DVDで2005年のグラインドボーン音楽祭の模様を収録したものだ。クリスティ/マクヴィカーのコンビである。クリスティーは古楽の大家であるから当然ピリオド楽器のオーケストラでの演奏だった。マクヴィカーの演出は歌に踊りに演技に対して過酷なまでのレベルを要求するが、歌手たちは十分それに応えていた。特にダニエラ・ド・ニースのクレオパトラはまさにセックスシンボルで歌も演技も踊りも素晴らしい。彼女がまだ25歳の時の舞台と云うから世界には凄い人がいるものだと思った。またこの演奏はトロメロとニレーノはカウンターテナーが歌っている。チェーザレは今回の公演同様メゾ・ソプラノが歌っている。
 参考までに初演の構成は以下の通りだ。
  チェーザレ:アルト・カストラート
  クレオパトラ:ソプラノ
  セスト:ソプラノ
  コルネリア:コントラルト
  トロメオ:アルト・カストラート
  ニレーノ:アルト・カストラート
  アキッラ:バス

 なお本日の演奏時間は189分で、いくつかのカットが行われた模様、グラインドボーン盤は226分であった。

2015年5月23日
於:すみだトリフォニーホール(1階18列右ブロック)

新日本フィルハーモニー交響楽団
第541回定期演奏会、トリフォニーシリーズ

指揮:尾高忠明

ヴォーン・ウィリアムス:タリスの主題による幻想曲
ディーリアス:楽園の道(村のロミオとジュリエットより間奏曲
ブリテン:ピーター・グライムズより「4つの海の間奏曲」

エルガー:交響曲第一番

尾高得意のイギリスものを並べた興味深い演奏会だった。得意なだけにとても充実した音楽を聴かせてくれた。特にエルガーは自家薬籠中の曲だけに聴きごたえがあった。
 ヴォーン・ウィリアムスの幻想曲は弦楽5部のみによる演奏である。2組の弦楽だが1組はかなり大きな編成だが、もうひと組は2・2・2・2・1と小さい編成。舞台の後方に並んで演奏していた。とても美しい音楽だが初めて聴いたせいか途中から少々退屈になった。ディーリアスは金管なども加わった少し大きな編成で、流石にイギリスの作曲家らしく優美な曲だ。うねるような音楽はなかなか魅力的。両曲ともオーケストラも美しく演奏していて楽しめた。

 しかし、どういういうことだろう、大編成になったブリテンはしっくりとしなかった。特に日曜日の朝と嵐の2曲は喧しいくらい音楽がうるさく聴こえた。オーケストラピットに入ったオーケストラではこの様には聴こえないと思うのだが?それと最も好きな月光がまったく幻想的でなく、夢を見るような音楽になっていないのが残念だった。弦にぽつぽつと木管が絡むのだが、その木管が煌めくようにはならないで、なぜかべたべたと聴こえた。オペラの間奏曲というより、オペラより大編成にしてよりシンフォニックに演奏したと云うことなのだろうか?ブリテンの最高の傑作オペラの雰囲気があまり感じられなかったのは残念である。

 エルガーはブリテンの不満を吹き飛ばす見事な演奏だ。これだけ彫りが深く、立体的に聴こえるエルガーはそうお目にかかれないだろう。
 1楽章のモットー主題の提示の後のアレグロは英雄的な音楽で、素晴らしい推進力をもたらしてくれた。音楽は大きく膨れ上がり、盛大になるがうるささは皆無で、しかも各パートは明快に聴こえて、実に音楽が立体的である。緩やかな主題は対照的に実に優美に聴かせてくれる。2楽章は軍隊の行進の様な音楽から始まるが、ここも充実している。その後の緩やかな部分との対比が鮮やかである。3楽章の美しさはたとえようがない。指揮者の自信と共感が音楽になったというべきだろう。
 白眉は4楽章で、全ての主題が循環して戻ってきて、最後にモットー主題で締めくくられるが、全ての主題が鳴り響いても全く混濁せず、明快に存在感を示しており、誠に充実した音楽だった。こう云う演奏をを聴いているとイギリスの最後の栄光、輝きを音楽で表わしているような気がしてしまう。ゴードン将軍にインスパイアされての作曲だそうだから私の印象も外れではないだろう。〆

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