ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2015年04月

2015年4月24日


2014年ザルツブルグ音楽祭(BS NHKにて放映のもの)
指揮:ダニエレ・ガッティ
演出:アルヴィス・ヘルマニス

マンリーコ:フランチェスコ・メーリ
レオノーラ:アンナ・ネトレプコ
ルナ伯爵:プラシド・ドミンゴ
アズチェーナ:マリー・ニコル・ルミュー

管弦楽:ウィーンフィルハーモニー管弦楽団
合唱:ウィーン国立歌劇場管弦楽団

ネトレプコとドミンゴ、なんともビッグネームをそろえたものだ。指揮はガッティで演奏はウィーンフィルときたらまあ凡演はありえないだろう。事実映像で見ても当日の観客席の熱気が伝わってくるようである。
 トロヴァトーレというオペラは私にとってヴェルディの中で最も好きなオペラと云ってよい。美しい旋律もさることながら、音楽は灼熱と化し、絶えず前進するそのエネルギの凄まじさ。これはヴェルディの中でも稀有な作品と云うべきだと思う。しかしそういう曲だからこそ演奏の難しさも随一だ。CDではシッパース盤に敵う物はないと思っている。かなり古い録音だがコレルリのマンリーコは唯一無二である。アズチェーナがジュリエッタ・シミオナートというのも凄い。ただこのオペラはマンリーコだけではなく上記の4役に優れた歌手をそろえなくてはいけないところが大変なところだ。残念ながらライブでいまもってこのCDを凌駕する演奏を聴いたことはない。
 このザルツブルグの公演は冒頭にも書いたように凄いメンバーを集めたものだ。しかしこの演奏も私のトロヴァトーレ観を覆すものになっていない。
 マンリーコのメーリはムーティ/ローマ来日の際のシモン・ボッカネグラのガブリエレ・アドルノを歌っていたが、このマンリーコも素晴らしい。コレルリの様に火を噴く様な歌唱とは云い難いが、そのノーブルな歌いくちには十分魅了するものがある。きかせどころの「恐ろしい火あぶりの火が~」も十分声が伸びていて大いに観衆を沸かせていた。この公演のキャストでは最も成功していたと云えよう。
 ネトレプコは私の感じではレオノーラには合っていないと思う。だんだん声が重くなってきているような気がして、1幕や4幕のカバレッタの部分は良いのだが、アリアの部分が、なにか声がすっきりと伸びきらないというか、野太い声にちょっとついて行けない。メーリやルミューのすっと伸びた素直な発声と比べると相当違和感があった。
 ドミンゴは目をつぶって聴いていればよいのだろうが、メーリのマンリーコと比べると親子以上の年の差があって、兄弟とは思えないのがマイナス点だ。しかも声に、気のせいかもたもた感があって、はらはらして落ち着いて聴いてられない
 ルミューのアズチェーナは随分若々しい。セラフィン盤のコッソットの様な感じ。こちらはマンリーコの母親というより姉の様だ。2幕の「炎が燃えて~」は少々声が上ずった様な気がしたが、「あしかせをつけられ」はなかなか説得力があった。

 ガッティの緩急をつけた指揮ぶりは悪くはないのだが、全体に歌い手に合わせ過ぎの様に思う。例えばネトレプコの歌う1幕「夜は穏やかで物音がなく~」と4幕の「ばら色の愛の翼に乗って~」はあまりにもムード一杯で緊張感を欠くような印象を受けた。ガッティは若山富三郎の様な顔をしている割には案外とやさしく演奏をするようで、CDと比べては悪いがシッパース盤、ムーティ盤の熱気を帯びた演奏の前にはちょっと印象は弱い。なお、ムーティと同様、慣習的な歌わせ方を歌手にさせていないので、「恐ろしい火あぶりの火が~」など物足りない部分もある。ライブではこのほうが無難だろう。

 演出は相変わらずの読み替えだ。舞台はどこかの美術館で、音楽に合わせて舞台上の絵の大きなパネルがスライドして出たり入ったりする。例えば1幕ではレオノーラの肖像画や吟遊詩人の肖像などが登場する。舞台は過去の話の説明的な場面や願望や想像の場面はは現代の衣裳。物語が実際に進行する場面では中世の衣裳になる。1幕ではレオノーラは美術館のガードの衣裳を着てトロヴァトーレとのなれそめを歌う。2幕のアズチェーナの「炎が燃えて~」は美術館のガイド役で自分の母親の火あぶりの話を歌う。その後マンリーコの2重唱ではロマの女の衣裳で歌う。何とも忙しい。ドミンゴが1幕でガードの衣裳から騎士の衣裳に着替えるのも慌ただしく気の毒だ。このオペラはかなりの部分は実際に舞台では進行していない過去のことや想像のことが歌われる構造になっているので演出コンセプトとしてはまあわかりやすい。ただ舞台上は床と大きな絵のパネルと絵の見学者用の椅子があるだけの殺風景なものなので、ト書きの様な中世のコスチュームプレイとはほど遠い世界である。まあ金は掛かっていないようだ。歌手で予算を使い果たしてしまったのだろう。

2015年4月19日
於:サントリーホール(1階17列中央ブロック)

東京交響楽団、第629回定期演奏会
指揮:飯森範規

ショパン:ピアノ協奏曲第二番(ピアノ:ニコライ・ホジャイノフ)

カンチェリ:ステュクス~ヴィオラ、混声合唱と管弦楽のための
      (ヴィオラ:青木篤子、合唱:東響コーラス)
ドビュッシー:交響詩・海

どのような脈絡でこのプログラムを聴いたらよいのか、戸惑うほどの、ごった煮感がある。ショパンはホジャイノフという若い人のピアノによるものだ。見た目は10代に見える若々しさであるが実際は23歳。繊細で柔らかなピアノが持ち味の様で、2楽章の演奏は触れれば壊れるようでとても印象的だった。しかしそれだけでなく、アンコールのローゼンタールのヨハン・シュトラウスの主題による謝肉祭の様に豪快さもある。ショパンの演奏時間は32分強。

 カンチェリはジョージア(この間まではグルジアと呼ばれていた)の作曲家でこの曲は1999年に書かれたもの。ステュクスとは古代ギリシャの「生者と死者の世界の間に流れる川」を意味する。歌詞はジョージア語であるので、見てもさっぱり読めない。内容からすると宗教的で一種のレクイエムの様だ。事実この曲はシュニトケとアルメニアの作曲家のアヴェット・テルテリャーンの追悼の曲だそうだ。初めて聴く曲だが、現代音楽の割には聴きやすい。強弱の対比が大きいのは先日のヴァレーズと同様だが、こちらのほうがジョージアの民族音楽が混ざっているためだろうか、随分と入りやすい。特にヴィオラのソロの部分は親しみのあるメロディとヴィオラのちょっと渋いけれど艶のある音がマッチしてとても楽しめた。青木の好演が光る。東響コーラスも透明感のあるハーモニーを聴かせてくれた。

 ドビュッシーは随分またユニークな演奏になった。全体に重くねっとりとした演奏である。良く云えば丁寧なのだが、音楽の世界の印象派のドビュッシーの代表作という音楽の一面しか聴かせてもらえないもどかしさを感じた。特に第1楽章は重苦しく夜明けから正午までという描写には思えなくて、陰鬱な暗闇にいるように聴こえた。2楽章も特に前半がねっとりしている。後半の波の戯れも、丁寧にやっているにもかかわらず、繊細な波の様子が浮かんでこない。3楽章はもう少し若々しく音楽をぶつけても良いのではないかと思った。全体に足りないのは色彩感ではなかろうか?ミュンシュ(ボストン56年)の繊細かつ豪快な演奏が懐かしい。演奏時間は25分強。

2015年4月17日
於:すみだトリフォニーホール(1階18列右ブロック)

新日本フィルハーモニー管弦楽団・第540回定期演奏会トリフォニーシリーズ
指揮:インゴ・メッツマッハー

リヒャルト・シュトラウス:交響詩・ティルオイレンシュピーゲルの愉快ないたずら
エドガー・ヴァレーズ:アメリカ

エドガー・ヴァレーズ:アルカナ
リヒャルト・シュトラウス:交響詩・死と変容

メッツマッハーの音楽監督としての最後の公演である(私が聴く)。2013年就任してからだからわずか2年であったが「ワルキューレ1幕演奏会形式」や「ベートーベンのミサソレミニス」など良い演奏を聴かせてもらった。今夜の死と変容もその中で忘れられない演奏になるだろう。
 この曲をこのようにじっくりと聴いたのは初めてに近い。CDでは何度も聴いているが他のシュトラウスの交響詩と同様どうしても好きになれなくて、聴いていて途中で飽きてしまう。この曲もそうで標題を読めば読むほどそうかいという感じだった。しかし今夜の演奏は目から鱗とはこのことで、死との闘いの部分や最後の浄化の部分など今まで鼻についていた部分が実に感動的に耳に入ってくるのである。演奏はもちろん大編成の魅力をたっぷり堪能させてくれるわけだけれどもどうもそれだけではない何ものかをこの演奏ははらんでいると云う事を深く感じた。音のゴージャスさに目くらましになってはいけないと思った。
 ティルも合わせて素晴らしい。ティルは音楽の性格から、オーケストラ更に一層機動的に動き、その小気味よさに、爽快感すら感じる。誠に印象に残った演奏だった。

 ヴァレーズは両曲とも初めて聴く曲である。アメリカは1918年にアメリカに渡ったのを機に作曲されたもの、初演は26年。アルカナはアメリカに帰化した後の27年に完成されたもの。いずれもシュトラウス以上に大編成で、そのけたたましさには正直疲れ果てた。コントラバスはなんと10丁で舞台左手奥に位置取るが2丁はみ出してしまい、聴衆から見えないくらいだ。その他楽器の使用も多彩でアメリカにはサイレンなども使われる。ヴァレーズはアメリカ人と思っていたが、フランス人でアメリカに帰化したそうだ。
聴いた印象はストラヴィンスキーの春の祭典風の部分もあり、案外と聴きやすい。ただ2曲合わせて約40分静寂より大音響ばかり印象に残った音楽だった。
 アルカナが終わった後、死と変容の冒頭の静かな音楽がでた時はさすがにほっとした気分だった。

2015年4月15日
於:サントリーホール(1階20列中央ブロック)

読売日本交響楽団第581回サントリーホール名曲シリーズ
指揮:小林研一郎
チェロ:宮田 大

チャイコフスキー:歌劇「エフゲニー・オネーギン」からポロネーズ
チャイコフスキー:ロココ風の主題による変奏曲

チャイコフスキー:交響曲第五番

読響の新シリーズの最初のコンサート。まずまずの入りである。小林得意のチャイコフスキーの曲ばかり並べた、名曲コンサートに相応しいプログラムである。
 前半の2曲はほとんど日ごろ聴かない曲だ。エフゲニー・オネーギンは一度オペラを見た時にかなり勉強したのでなじみの曲。このごろあまり取り上げられないのはなぜだろう。やはりロシア語は難しいからだろうか?プログラム最初のポロネーズは明るく輝かしくこの曲に相応しい演奏だが、私の好みからするとあと数ミリ輝かしさを抑えてもらいたかった。2曲目の変奏曲はまともに全曲を聴いたのが今日が初めてかもしれない。宮田の軽やかなチェロが印象的。アンコールはパラディスの「シチリアーノ」

 五番の交響曲は小林の得意中の得意らしい。レコーディングも何種かしているようだ。評判の演奏らしいから今夜聴くのが楽しみだった。結論から言うと評判通りの名演奏だと思った。起伏を大きくとった、スケールの大きな演奏と云うべきだろう。ただ名演奏だから私が気に入ったかどうかは別の話である。
 1楽章の序奏は予想通り非常に重々しく、悪く云えば勿体ぶっている。主部に入ると急速にテンポをあげ、第2主題になるとテンポを落とす、この繰り返しだけれども、手の内に入った演奏だけに聴きごたえがある。ただだんだん次にやることが分かってくるようなあざとさが一杯の演奏なので飽きがくる。
 2楽章は素晴らしい。これこそ名演奏というべきだろう。大きく歌いあげた主題は感動的だ。あまり陰鬱な感じはしなく、美感を強調したような演奏の様に感じたが、中間ではうって変わって重苦しく、モットー主題の導入に相応しい。3楽章はまったくけれんみのない自然の流れのワルツ。小林はここでは何もしていないようだが、それが逆に4楽章の引き金になっているような気がした。
 4楽章は冒頭の主題は遅いのでまた緩急つけが激しいかと思ったが、その後は一気呵成に音楽は突き進む、悪く云えば一本調子で、私にはちょっと性急感が感じられたが、ライブのせいかそれほど嫌ではなかった。コーダの前で少しテンポをいじるが、フィニッシュは堂々としたもので、この名曲を十分楽しませてもらった。
 この曲で印象に残っているのは、20011/9/16、2014/9/19のブロムシュッテト/N響の演奏だ。これは小林の演奏の対極のようなもので、特に2011年の演奏はそうだった。甘さはこれっぱかしもない、厳しいチャイコフスキーだった。昔は小林の様な演奏が好きだったが、今ではちょっとこってりしすぎで、むしろブロムシュテットの演奏のほうに魅かれる。カラヤンのCD(1984)を聴いてみたが小林ほどではないが、ねっとり感があって昔ほど良いと思わなかった。
 小林の指揮は久しぶりだ。相変わらずパフォーマンスが好きな人だ。もう年なのに小走りで登場する。4楽章では手を高く上げて指揮をやめてオーケストラに任せてしまう。終演後も相変わらずで大切なのは団員で弦パートの人と握手をしてからおもむろに聴衆にお辞儀をする。逆ではないだろうか?先輩がこう云う事をするから山田の様な若い指揮者も真似をする。古臭いだろうが私は指揮者は団員にぺこぺこしないで、カリスマであって欲しい。
 なお演奏時間は49分弱。

追記:この後カラヤンの65年録音盤を聴いたが、これは84年盤に輪をかけたようなねっとり感があって、特に2楽章のわざとらしい演奏は、今聴くとちょっと辛い。でもあの当時はなんと素晴らしい演奏かと思っていたのだが、年とともに嗜好が変わってゆくのだなあと改めて感じさせられた演奏だった。

2015年4月14日

「柘榴坂の仇討」と「誰よりも狙われた男」をなぜセットにしたか?かたや浅田次郎原作の、日本の時代劇、かたやジョン・ル・カレ原作のイギリス映画だ。この2本の映画を見て感じたことは人間はなぜこのようにしてまで生きてゆかなくてはならないか?いや生きてゆけるのかということである。両方とも見ていて苦しくなるほどであるが、しかし自分の生きる意味を考えるには格好の題材だろう。

「柘榴坂の仇討」中井貴一、阿部 寛他
桜田門外で井伊大老が暗殺された事件を題材にした作品。井伊大老の警護役に抜擢された志村金吾(中井)は雪の中の登城のため上司の命で合羽を着て、なおかつ刀にカバーをかけて、護衛をしたために人数としては彦根藩の護衛が多かったにもかかわらず、大老の暗殺という事態を迎えてしまう。志村一人生き残る。家老からは腹を切ることも許されず、下手人の一人でも良いから首をもって来いと云う命を受ける。それから10数年経た明治五年が舞台である。その間下手人は死亡したりして生き残りは佐橋十兵衛(阿部)のみ。
 すでに明治維新を迎え彦根藩などとうになくなっているのに、なぜ志村は下手人を追い求めるのか?志村は妻帯(広末涼子)しており妻の働きで生計を立てているのだ。一方の佐橋はなぜ逃げ続けるのだろうか?この二人が柘榴坂で対峙する。仇討はどうなったか?
時代の流れに翻弄されながら自らの信念を貫く二人の元武士のがうまく描かれている。特に中井は役どころにあっている。阿部と広末はところどころ時代感を離れたような云い回しがちょっと不満。結末がきれいすぎるけれど、最近の時代劇では面白く見た。

「誰よりも狙われた男」、フィリップ・シーモア・ホフマン主演
原題は「THE MOST WANTED MAN」でジョン・ル・カレ原作だから面白くないわけがない。ただし数年前の「裏切りのサーカス」に比べると地味でスケールも小さい。
 主人公ギュンター・バッハマン(ホフマン)はドイツの情報部員、ベイルートで作戦に失敗して今はハンブルグの対テロ対策班の責任者をしている。チェチェン人のイッサ・カルポフがトルコから密入国してくる。彼は亡命を求め弁護士のアナベル・リヒターに接触。カルポフは驚くべきことを要求する。現地の大手銀行の頭取トマス・ブルー(ウィレム・デフォー)と会いたいと云う。カルポフの真意はどこか?カルポフに目を付けたバッハマンの行動は?話はCIAや情報部の他の部門、テロリストの支援者なども登場し複雑な様相を示し始める。
 静かだが緊迫感をたたえた映像には最後まで釘づけになる。この映画の底に流れるのは人への信頼ではなかろうか?人は裏切られても裏切られても人を信じる。そうやって生きてゆく、のではなかろうか?
 シーモア・ホフマンの最後の映画だそうだ。

↑このページのトップヘ