ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2015年03月

2015年3月18日
於:サントリーホール(1階19列右ブロック)

ベルリン放送交響楽団/マレクヤノフスキ来日公演

ブルックナー:交響曲第八番・ノヴァーク版第2稿

解説によるとベルリン放響は2つあってこれは旧東独側のほうである。正式名称は
「Rundfunk-Sinfonieorchester Berlin」である。

今夜の演奏を聴いて感じたことを率直に云えば、ヤノフスキーについて過小評価をしていたなあということである。自分のブログを開設してから約6年だがその間ライブでブルックナーの八番を8回聴いている(ただし2010/3のインバルは初稿であるので比較の対象にはならない)。CDも今数えただけでも10枚はある。その中でも今夜のヤノフスキの演奏は傑出していると思う。これは何度も書いているが過去聴いた中でも最も感銘を受けたのはカラヤン/ベルリン/74年のライブ演奏である。それから今日までその演奏を凌駕したものは皆無である。ただそれに肉薄したものは2010/11のスダーン/東響と2011/3のライプチヒ・ゲヴァントハウス/シャイーである。CDではヴァント、カラヤン(75年、88年)、クナッパーツブッシュの3枚が本命である。そういった数々の演奏を聴いてきたわけだがこのヤノフスキの演奏は勝るとも劣らない。

 まずそのゆるぎないテンポに感動してしまう。まるで自分で書いた道からは一歩もはずさないぞという厳しい自制が素晴らしい。古くはフルトヴェングラー(49年)、新しくは2010のティーレマン/ミュンヘンのように感興の趣くままに音楽が進行する演奏は一つの型の様である。これは伝統的なブルックナー演奏のスタイルらしいが、ヤノフスキはそういうスタイルはとらない。その様な観点からするとヤノフスキは現代のブルックナー演奏の一つの典型だろうかと思う。カラヤンの75年やヴァント盤もその仲間かもしれない。2010年の東響スダーンも同じ仲間だろう。まあそれはどうでもよい。
 ヤノフスキはブルックナー独特の長い休止もさっと切り上げる。1楽章や3楽章のコーダの部分も幾分あっさり系だ。2楽章のトリオも幽玄さはあまりなく、あいまいさのない見通しの良い音楽になっている。こう云う演奏はブルックナーではないと云う人もおられるかもしれないが、私はむしろこう云う演奏こそブルックナーの音楽の自然な流れを感じさせるものだと思うのだ。
 さて、こう云う演奏ならさぞ無味乾燥とした殺風景なものを想像される方もおられるかもしれない。しかしオーケストラの響きに乗って出てきた音楽にそういうことを感じさせるものは何もない。これは例えて云えばギリシャ彫刻のような、明晰で高貴な音楽のように聴こえるのだ。そういう意味ではオーストリアの片田舎で生まれたブルックナーの野人的面は薄い
 そしてこの演奏を支えるのはオーケストラだ。1楽章の低弦~主題を聴いているうちにこれは日本のオーケストラではなかなか出せないなあと思った。日本のオーケストラも録音すれはちゃんと低音は出ているのだろうが、今日のベルリンや先日のドレスデンのように腹に響かないのである。こういうところに残念ながら彼我の差を感じてしまう。ただこのオーケストラの私が最も気に入ったのはトゥッティの部分である。1楽章の再現部~コーダ、2楽章のスケルツォ、3楽章の再現部からクライマックス、4楽章の第1主題、コーダなど音楽は盛大に盛り上がり、サントリーホールに音が響き渡るが、先日のドレスデンで聴いた九番の3楽章の第1主題の第2楽句のように威圧的にはならない。このベルリンの音はどんなに大きな音になっても、金管の音が鋭くなっても、なにかしら気持ちをななごませる、ヒューマンなものをもっているような気がする。

 1楽章の前半は少しエンジンが冷えているのか、3つの主題の提示はまるで白木の建材の様に簡素に聴こえる。しかし提示としての役目を十分感じさせるものだ。さらに素晴らしく音楽が動き出したのは展開部の後半からである。再現部のコーダまでの盛り上がりは、今夜の演奏の素晴らしさの予兆とも云うべきものだ。ブルックナーが「臨終の時計」と呼んだコーダの部分は、そういう要素はあまり感じられず幾分さらりと終える。
 2楽章のスケルツオ部分の音楽の勢いは形容しがたい。敢えて云えば驀進だろう。驀進と云うとちょっと語弊があるが、決して重戦車が駆け巡るような音楽ではない。むしろアポロのように晴朗な印象をあたえるのである。展開部のせわしない部分は音楽が雪崩を起こしているように走る。そして戻ってきたスケルツオはさらに迫力を増し、トリオに入る。トリオもスケルツオのムードが残っており、幽玄な趣は少ない。この楽章全体を聴き終えた時の印象はギリシャ彫刻を鑑賞したような気分と云えようか!
 3楽章はヤノフスキの真骨頂である。幾分早いテンポを終始持続させて、それが揺るがない。伝統的な演奏では、再現部からクライマックスへの道はどんどんテンポをあげてゆくケースが散見されるが、ヤノススキはここでもテンポを速めないのである。従って音楽はふらふらと揺らがなくて、まるで強固な建造物を眺めているような気分にさせられる。
 4楽章はそうはいってもライブのためか、再現部以降は幾分緩急の差を付けている。しかしそれはそれまでが動きが少ないゆえに気がつく程度であり、些細なことである。3つの主題の提示は1楽章と違い最初からエンジン全開で、すこぶる迫力のあるもの。休止を短めにしているせいか、プツプツ切れる印象のあるこの楽章は流れるがごとくコーダに突入する。演奏時間77分弱の大熱演であった

 2009年/11/4のチェコフィル/ブロシュテットの演奏の後のブログに過去聴いたCDについての遍歴を記載しているがそれに付け加えて最近聴いた中で印象に残ったのは、フルトヴェングラー(49年放送録音)である。これは今日の演奏とはま逆で、テンポの変動の誠に激しいものであるがこの様な演奏をライブで聴いたらどういうものだろうか、聴きたくもあり、聴きたくなくもありと云う印象である。もう1枚はカラヤンの88年に録音したウイーンフィルとの八番の最後の録音である。個人的には75年盤が好きであるが、この演奏も特に3,4楽章はインパクトが大きい。それともう一枚はこれは昔から聴いてきたものだけれど、リマスターして音が見違えるほどよくなった。クナッパーツブッシュ/ミュンヘンの演奏である。響きが随分豊かになった。まあこれらのCDにヴァント盤を加えれば今のところ全く不満はない。

2015年3月15日
於:新国立劇場(1階8列中央ブロック)

プッチーニ「マノン・レスコー」、新国立劇場公演
指揮:ピエール・ジョルジョ・モランディ
演出:ジルベール・デフロ

マノン・レスコー:スヴェトラ・ヴァッシレヴァ
デ・グリュー:グスターヴォ・ポルタ
レスコー:ダリボール・イェニス
ジェロント:妻屋秀和
エドモンド:望月哲也
合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:東京交響楽団

新制作だが、2012年に震災の影響で公演されるはずだったもの。今回やっとひのめを見たと云うことだ。ただしこれは演出家によると2004年のベルリンの公演の舞台と衣裳を使っていると云うことである。舞台は簡素で1幕は背の低い壁で舞台が覆われている。中央に切れ目があり人が出入りできる。舞台右手には長椅子が2脚あってそこでは学生や群衆が酒を飲んだり賭博をしている。だから馬車とか宿屋などはでてこない。ああくまでも群衆が中心だと云う。2幕はジェロントの屋敷だが、中央にベッド、その横に椅子と鏡だけのこれも簡素なもの。1,2幕とも色彩は白が中心で、どちらかというとちょっとひんやりした舞台である。
 3幕のルアーブルの港は正面の背景下半分が黒く、後は白に近い。舞台上方に渡り廊下の様なものがあり、その上にマノンがいて、舞台上のデ・グリューとのやりとりがある。渡り廊下は牢獄を表わしているようだ。舟にのりこむときは舞台前面に登場人物が並ぶ。舟ははしけのようなもので、アメリカへ行くような船ではない。
 4幕になってやっと赤色がでてくる。ここはニューオリンズの郊外の荒野の灼熱地獄のイメージである。
 かくのごとき装置であるので主人公はあくまでも歌手たちであり、これは正攻法であろうかと思う。歌手たちの動きに不自然さはなく、歌中心のイタリアオペラが堪能できた。

 歌手たちはいずれも見事なもの。今シーズンの新国立劇場の公演の好調さを物語っている。まずポルタのデ・グリューが素晴らしい。彼は2014年の新国立の「道化師」の公演でカニオを好演しており、又今年も彼の声が聴けることを喜びたい。今回のデ・グリューも期待通り。声は良く伸びて天井が高い。まだまだ余裕があるような感じがするくらいである。カニオの時もそうだったが、歌唱に感情が十分こもっているので、声を聴いている以上に聴き手を感動させる。特に3幕のアリア「僕はくるっている!~」は思わずほろりとさせられるくらい感動的な歌唱である。一方、1幕の「僕はいままで、この様な美しい乙女を見たことがない~」では、一途な青年の一目ぼれの心情を歌い上げた。これも共感ができる歌唱だった。わずかに一本調子になる部分はないとは云えないが、全体の中では些細なことでまずは満足ゆくデ・グリューであった。
 マノンはデ・グリューに比べると声は細身になるが、これも立派な歌唱。ただ私にとって、プッチーニの他の作品のミミや蝶々さんへの強い共感を、マノンに対してはちょっともてないためか聴いていて良い歌だなあとは思いつつ、少々醒めた聴き方しかできなかった。わずかに2幕の「このカーテンの柔らかい襞の後の~」や4幕「ただ一人迷って~私は死にたくない~」の歌唱は強く共感ができた。彼女も美貌を呪う一人の女だった。
 レスコーのイェニスも素晴らしい。軽妙さもあり、やくざっぽい雰囲気もあるが、男気もあると云う、なかなか魅力的なレスコーだった。いままでレスコーはマノンをジェロントに売った卑しい男の様な印象をもっていたが、こういう人物像と云うのも面白かった。見事な演出だと思う。
 その他ジェロント役、エドモンド役他の邦人もそれぞれ達者な演技と歌唱で舞台を盛り上げていた。ただ2幕のバレエは少々グロテスクで気持ちが悪いが、ジェロントの趣味の悪さを表現しているのだろう。

 指揮のモランディも好演。なんといってもテンポが良い。1幕の短い前奏からしてもう私たちを舞台に引き込む。全体に速めのテンポで音楽をぐいぐい進める。歌の部分でも例えば、上記のポルタの3幕のアリアでの雄弁なオーケストラは、より一層デ・グリューの心情を聴き手に印象付けたように思った。東響も昨夜のパルジファル同様安定した演奏を聴かせてくれた。演奏時間は117分はかなり速い。

2015年3月15日
於:サントリーホール(1階17列中央ブロック)

東京交響楽団、第628回定期演奏会
指揮:ジョナサン・ノット
ソプラノ:アレックス・ペンダ(クンドリ)
テノール:クリスティアン・エルスナー(パルジファル)

ベルク:抒情組曲より(弦楽合奏) 
    1.愛のこもったアンダンテ
    2.神秘的なアレグロ
    3.情熱のアダージョ

ワーグナー「パルジファル」から
    第一幕前奏曲
    第二幕抜粋
    第三幕聖金曜日の音楽

ベルクは初めて聴く曲である。彼の作品では「ヴォツェック」は比較的なじみやすいが(私には)その他の作品は苦手である。今日の作品ではわずかに3曲目が耳に優しいが最初の2曲は眠気を誘う。どうもこの手の音楽は拒否反応が先に来てしまう。

 パルジファル抜粋とプログラムにあったがどのように演ずるのか楽しみにしていた。非常にうまい構成で約65分大変楽しめた。
 最初は1幕の前奏曲でスタートし、ついでそのまま2幕の花園の場面で、花の妖精たちが去ってゆくところから始まる、歌はクンドリーの「パルジファル~」と呼びかけるところから始まる。2幕は最後まで歌われる。ただしクリングゾルは登場しない。ついでそのまま聖金曜日の音楽に入り終わると云う流れである。

 ノットの音楽が素晴らしい。1幕の前奏曲の聖杯の動機や救済の動機がなんと透明に響くのだろう。これほど明晰で見通しのよいワーグナーはそうないだろう。従ってワーグナーの音楽の持つ重厚感はやや薄れるのはやむをえまい。しかしこのスタイルのワーグナーだって十分感動を呼ぶのである。最初の2つの動機の提示を聴いただけでもう胸が一杯になる素晴らしさ。そしてなんといってもテンポが実に良い。私の聴きたいテンポで音楽が流れるのである。速すぎず、そして決して停滞しない。
 2幕は2人の歌手によるパルジファル覚醒を山場にした場面である。このごろパルジファルの主人公はクンドリとアンフォルタスではないかと思うようになってきた。ともに人間の弱さがもとで大きな苦悩を与えられる。まるで私たち人間を代表しているようなものではないか?救済者としてのパルジファルや聖騎士のグルネマンツはそういう意味では私にはちょっとまぶしいのである。まあそれは余談として、今日のクンドリは単に苦悩を歌うのではなく、大いなる悔恨と云うべきものを声にあらわしていたように感じた。手練手管でパルジファルを籠絡しようとするがその過程で自らの苦悩を吐露する、がその大本の悔恨を今日のペンダは「私はあの人を笑ってやったの~」の場面で声にする。それはもう歌ではなく悲鳴に近い絶叫と云うべきものである。これはクンドリの心の叫びとも云えよう。ペンダの力量のなさと云ってしまえばおしまいだろうが、気持ちは私には通じた。
 エルスナーのパルジファルも熱演ではあるが、声が少々重いように感じた。もう少し素軽いほうがパルジファルにあっているように思った。
 ノットはここでも非常に透明感のある音楽を作る。テンポは少々速めだが性急感はない。全体にオーケストラを大きく鳴らすよりも、室内楽的と云っても良いくらいの繊細な音作りが印象的だった。それが生きたのは最後の聖金曜日の音楽で、しなやかな弦のなかに浮かび上がる木管の美しさ、まるで室内楽を聴いているような緻密な音楽の連続だった。
シーズン最後の演奏だったが最後で素晴らしいものを残してくれた。マーラーなどでは少々物足りない面もあった今シーズンのノットだけれど、2年目の来シーズンを大いに期待させる今夜の公演だった。

2015年3月11日

「アメリカンスナイパー」、クリント・イーストウッド監督
評判が良いので劇場まで見に行った。サラウンド7.1チャンネルの音響はすさまじく映画館に行って見るのもいいなあと思う瞬間である。
 イラク戦争の英雄、レジェンドと呼ばれ、敵からは18万ドルの賞金までかけられた、実在のクリス・カイルの物語である。かなりの部分は実話の様だ。スナイパーとしてのすごさは映像を通して見ることができ、そのような英雄物語のようでもあり、実は「ハートロッカー」のような戦争により心を病む人々の物語でもある。カイルはイラク戦争に2003-9まで実に4回も参加している、その間に殺したイラク人は160人という。その4回の参加で帰国するごとにカイルの精神が病んでゆく様を、彼の妻を鏡の様にして丁寧に描いている。おそらくそれが主題ではあろうかと云うことはわかるが、問題はカイル役のブラッドリー・クーパーの演技ではあまりそれが感じられないことだ。まあ露骨にさせるとかえって不自然だと云うことだろうと思ったが!心の底が深く蝕まれているのは間接的にわかるような気がする。もうひとつこの映画が釈然としないのは、「グリーンゾーン」でイラク戦争は批判的に描かれていたような、このイラク戦争の大義についてなんら触れられていないことだろう。あくまでもアメリカは正しくて、イラク人はテロリストという前提で作られた映画のように感じた。イラクの人はこの様な映画はまず見ないだろうが、もし見たらどう思うだろう?戦争の虚しさを描きたいと云うことはわかるが、この題材が相応しいかどうか私には最後まで疑問に残った。
 

「ナポレオンに勝ち続けた男・皇帝と公爵」英・仏・葡合作のようだ。
いやあ、この邦題にだまされた。てっきりナポレオンとウエリントンとの戦いが中心かと思ったら、ナポレオンなどでてきやしない。ウエリントン(ジョン・マルコヴィッチ)もちょっと出るだけ。戦闘シーンはほとんどなし。
 仏ナポレオン軍はマッセナ将軍に率いられて、ポルトガルに侵入する。それを待ち受けるウエリントン将軍は英・葡連合軍の司令官で、リスボン郊外のトレスと云う場所に巨大な防衛線を作り仏軍を引き込む。話は英・仏・葡軍の兵士やポルトガルの難民たちが主人公で、それぞれの人間模様を描いたものである。戦争の虚しさを描いたものであることはわかるが、作りが少々雑である。

「バトル・フロント」、ジェイソン・ステイサム主演
潜入捜査官のステイサムは大物麻薬王をとらえる最後のところで、ばれてしまう。麻薬王は逮捕されてしまうが、身元が明らかになったステイサムは辞職してルイジアナ州ルイビルに娘と一緒に隠れ住む。しかし地元のチンピラとの絡みで思わぬ展開になると云う話。相変わらずのステイサム節は面白いが、こういう親娘のわざとらしいべたべた関係を餌にするような姑息な話から脱却できないものだろうか?とはいえ面白く見たから文句は云えまい。

「ケルベロスの肖像」
海堂 尊の原作の映画化。有名俳優がたくさん出てまあにぎやかんこと。愚痴外来の田口医師と厚生省の白鳥のコンビもの。本作が何作めかさだかではないが、確か1作目は田口医師を竹内結子がやり、白鳥が阿部寛がやったと思う。あれはけっこう面白かった。それに比べると本作の伊藤淳二の田口と仲村トオルの白鳥は軽妙さに欠けて、あまり面白くない。今回は死因をAiという一種のCTで究明すると云うその装置の導入を巡って、原因不明の死因で亡くなった9名の事件や薬害訴訟などがからんで、話としてはなかなか面白いのだが、その面白さが生きない。生瀬のAi推進の大学教授、桐谷のジャーナリスト役が少々歯が浮くような演技で話を盛り下げている。

「サボタージュ」、シュワルツネッガー主演
これはなかなか面白かった。シュワちゃんが決して出張ってマッチョ役をやっていないからだろう。あくまでも彼は麻薬捜査局の特殊捜査班のボスの役に徹している。麻薬戦争の英雄である。話は彼がメキシコの麻薬組織から狙われて妻子が惨殺されてしまうところから始まる。実は彼の捜査の過程で1000万ドルが不明になり、現場にあったはずの2億ドルを焼いてしまったことで捜査班のメンバーに疑いがかかる。やがて仲間が一人一人消されてしまう。この殺され方が残酷でいかがなものかと思うがまあこの謎解きのプロセスは、アトランタ警察の女刑事も絡んで面白い。最後が少々かっこよすぎるがこれはおまけだろう。

アメリカンスナイパー以外はすべてレンタルDVDである。

2015年3月10日
於:東銀座 東劇

METライブビューイング、ニューヨークメトロポリタン歌劇場公演
上演日2015年1月31日

オッフェンバック「ホフマン物語」

指揮:イーヴ・アベル
演出:バートレット・シャー

ホフマン:ヴィットーリオ・グリゴーロ
ミューズ/ニクラウス:ケイト・リンジー
リンドルフ/コッペリウス/ミラクル/ダベルドット:トーマス・ハンプソン
アントニア/ステラ:ヒブラ・ゲルツマーヴァ
オランピア:エリン・モーリー
ジュリエッタ:クリスティン・ライス

グリゴーロのホフマン、期待の公演だ。グリゴーロは期待通りの熱唱。ただ私のイチオシの2002年パリオペラ座公演のニール・シコフの歌唱から比べると、愛を重ねて、成長し、涙とともに歩み、やがて芸術の道を見出し歩みだすと云う、ホフマンの人生を描き切ったかと云うと、その点は少し物足りない。反面若さがあふれる歌唱と演技は魅力で、これはシコフもかなわない。
 グリゴーロ以上に素晴らしかったのは女声3人である。もともとはアントニアを歌ったゲルツマーヴァが4役を歌う予定だったらしいが、理由は不明だが、上記の配役になったそうだ。3人の中でも特に2幕のアントニアがやはり音楽的にも優れている幕と云うこともあろうが聴きごたえがあった。最初の「きじばとが飛んで行った」のアントニアの軽やかな声がまず魅力である。しかしそれだけでなく幕切れのミラクル、アントニアの母、アントニアを交えた重唱での劇的な歌唱もとても素晴らしかった。
 オランピアのモーリーはメトロポリタンオペラ研修所の卒業メンバーらしい。まだ若いが素晴らしいコロラトゥーラを聴かせてくれた。定番の機械人形の動きもいやらしくなく自然な動きで楽しかった。デボラ・ボイトがインタビューで今日はどこまで出したのと聴いたら、Aフラットだそうで、本人は金切り声だったと謙遜していたが、役になりきったからこそ出た声だろう。ジュリエッタはこの2人に比べると、少々華に欠けるが、それでも幕切れ前のホフマンの鏡像を奪う場面などの歌唱は迫力があり熱唱を聴かせてくれた。
 ハンプソンの4役はそれぞれ個性を出し、善人顔のハンプソンにしては悪役が似合っていた。
 しかしもっとも感心したのはケイト・リンジーの二クラウス/ミューズである。2幕や3幕の短いクープレなども見事であるし、4幕の舟歌の場面の歌唱も美しい。メゾだけれども非常に音域が広く感じられてとても魅力的な声である。エピローグのアポテオーズの落ち着いた声はミューズの声を思わせるもので、感動的であった。

 イーヴ・アベルの指揮は非常にきびきびしたテンポが心地よかった。演奏時間は156分強。演出は2009年の再演だそうだ。時代設定は1920-30年で、大戦の狭間の頽廃したウィーンを想定したそうだ。カフカ的幻想の世界を表わしているとのことだ。カフカ的というのは良くわからないが、幻想的かつ色彩も重厚な感じで違和感はなかった。ただ2002年のロバート・カーセンの独創的な舞台に比べると物足りないのも事実。反面安心して見て/聴いていられるのが何よりありがたい。舞台はシンプルでほとんど装置と云うものはない。プロローグとエピローグの酒場の場面は椅子が並べられているだけ、1幕と4幕は舞台右手にホフマンの机があるだけ。2幕はアントニアのピアノがあるだけで、後は書き割りの様なスクリーンが何枚も降りたり上がったりして、背景を変化させているというものである。
 メトロポリタンの充実ぶりは脇役や合唱、バレエなどにも出ており。昨年聴いたリヨンオペラ以上の出来栄えの様に思った。ライブで聴いたらどれだけ良かったことだろう!
 (追記)
 書きもらしたが今回の演奏は「ケイ版」だと思う。ケント・ナガノのリヨンオペラのCDははっきりケイ版と書いてあるがそれとほとんど違わないように思った。わずかにナガノ盤はオペラコミック風の台詞が多いようだった。メットの公演では台詞はホフマンとシュレミルの決闘の前だけである。

 

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