ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2015年02月

2015年2月27日
於:すみだトリフォニーホール(1階17列右ブロック)

新日本フィルハーモニー交響楽団、トリフォニーシリーズ
第536回定期演奏会

指揮:ラルフ・ワイケルト

ウェーバー:歌劇「魔弾の射手」序曲
ヒンデミット:ウェーバーの主題による交響的変容

ブラームス:交響曲第一番

新日本フィルから重厚な音を引き出して、独墺系の音楽をたっぷりと楽しませてもらった公演だった。
 ヒンデミットはとても懐かしい。たしか学生の頃か、なぜこの曲を聴くようになったかさだかではないが、一時嵌まってしまって、本当によく聴いた。誰の指揮だったのだろうか、それすら覚えていない。しかし一時の熱が冷めてしまうと全く聴かなくなってしまって、その後ブルックナーだのマーラーだの、はたまたオペラの世界に首を突っ込むようになり、私の頭からはこの曲は消え去っていたのである。しかし今夜聴いて夢中になっていたあのころを思い出した。この曲はウェーバーのいくつかの主題を元にしているが、まあ原曲はほとんど知らないので、ヒンデミットの加工した後を聴くしかないのであるが、とにかく現代音楽にしては実に聴きやすい、しかも音響的にも大変魅力的で、オーケストラを聴く醍醐味を味あわせてくれる。今夜の演奏は昔聴いた印象からすると少し上品の様な気もするが、もうあれから半世紀近く経っているのだからなんともいえない。とにかく音楽を聴きながらずっとあのころを思い出していた。

 ブラームスは伝統的なスタイルでの演奏である。ただこの指揮者のてだれたところは、けれんみを感じさせないところである。音楽は重厚に進むが、その間の進め方に停滞とか誇張はほとんど感じさせない。4楽章の終結の前などは普通は速度を速めたり大見えを切る演奏が多いだが、ほとんどそういう作為は感じさせないのだ。また同じことの繰り返しになるが、音楽の加減速に唐突感がなく、まるでオートマチックの車の様にギアチェンジがスムースでいつの間にか、定速になっているのに気付かされるのである。4楽章の序奏から主題の提示までの音楽の変化がその例である。従って至極流麗に音楽が進むはずなのだが、オーケストラの重厚な響きがそういう単細胞的な感想を打ち消してしまうのである。2楽章が今夜の演奏を特徴づけているように思った。重厚な響きの中にぽっかり浮かぶ木管のなんともいえない美しさ。むせかえるようなロマンの香り。3楽章は少々さっぱりと終わってしまったかなと云う印象だった。ティーレマンの伝統型、ワインガルトナー風のシャイーなど人気指揮者のブラームス演奏が人気を呼んでいるが、どっこいこういう職人芸的(失礼)な指揮者もなかなか捨てがたいなあと思った。外は大風で寒かったが、満足な一夜だった。演奏時間は46分弱。提示の反復はカット。

 新日本フィルはウェーバーでは全体に音が硬かったが、ブラームスではちょうど良かった。低弦の分厚さには驚かされた。高弦は適度に煌めきがあって、至極気持ちの良い音だ。木管は極上の響き、金管は突き刺す鋭さの一歩手前の音でこれも気持ち良い。いつもこうならいいね。

2015年2月26日
於:サントリーホール(1階17列中央ブロック)

東京交響楽団、第627回定期演奏会
指揮:秋山和慶
ヴァイオリン:大谷康子
ピアノ:キット・アームストロング

ヴォーン・ウィリアムス:グリーンスリーヴスの主題による幻想曲
サラサーテ:スコットランドの歌(ヴァイオリン:大谷康子)
ブリテン:ピアノ協奏曲(ピアノ:キット・アームストロング)

エルガー:交響曲第一番

イギリスにゆかりの曲ばかりのプログラム。そのせいか会場はいささかさびしい。私たちはどうしても独墺系の音楽が好きだから仕方がないかもしれない。それにしても前半のプログラムの盛りだくさんなこと。もうこの年になると一晩で集中できる時間には限りがあって、こういろいろと並べられるとちょっと嫌気がさしてくる。大体わずか9分ばかりのサラサーテなどなぜ演奏する必要があるのかよくわからない。大谷も可哀想に9分のためにブルーのドレスまで着て演奏していた。ここは世界的に売れっ子になっているキットを集中して聴くべきではなかったかと思う。グリーンスリーヴスもとってつけたような印象である。夜店ではあるまいし、客寄せにこれだけ並べたのだろうか?そうだったとしても残念ながら結果はでなかったということである。

 キットは天才である。世の中にはこのような天才がいるのだ。パリ音楽院では音楽の学位を、パリ大学から数学の学位をすでに(22歳)受けているのである。そのうえ作曲まですると云う。ブリテンの曲はまだ若い時に書かれたもので、非常に華やかで、オーケストラもピアノもにぎやかな曲である。4楽章からなり各楽章にそれぞれ、トッカータ、ワルツ、アンプロンプチュ、マーチという名称がつけられている。楽章の中での音楽の変化は相当大きくて1と4楽章は前半と後半とはまるで違う印象。両端楽章はキットの花火の様なピアノを楽しむ部分である。ぽんぽんぽんぽん打ち上がる音に驚くばかり。しかし1楽章の後半のドビュッシー風のカデンツァの部分などは繊細な煌めきも聴けて楽しめた。アンコールはウィリアム・バードの「森は壊れている」。

 エルガーは疲れ果てた耳にも素晴らしさは十分伝わった。秋山の演奏は非常に端正なたたずまいが印象的。音楽のどの部分をとっても無理な部分がない。全てあるがままに自然に流れるのである。エルガーのこの曲にもそういう要素があるかもしれないが、そうはいっても1楽章の終結部分とか2楽章、4楽章の終結部分などはちょっと力こぶを入れて見ようと思っても当然というところであるが、そこでも音楽は野放図に拡散しないで、むしろ抑制的に聴こえる。従って、全体にこじんまりと聴こえて、そこに物足りなさは感じられるが、しかしこれはこれで立派な演奏だと思った。3楽章は美しさの極みだが、そこも思い切り歌わせることはしないで、あたかも青磁の焼き物のごとく、穏やかな輝きを聴かせてくれた。これはおそらく秋山でしか演奏できない独特のエルガーという印象だった。演奏時間は53分。

2015年2月23日
於:サントリーホール(1階19列中央ブロック)

ドレスデン歌劇場管弦楽団/クリスティアン・ティーレマン来日公演

シュトラウス:メタモルフォーゼン(23の独奏楽器のための習作)

ブルックナー:交響曲第九番

今年の来日指揮者/団体の中でも期待の公演だ。前回の公演ではブルックナーの七番を聴いたが随分それ以前に聴いた五番や八番と変わってきたように感じたが、果たして今夜はどうだったろうか?

 最初のシュトラウスの曲で実は失敗をしてしまった。「死と変容」と思って事前予習をしたのだった。会場でプログラムを見たらなんとメタモルフォーゼンのほうだった。実はこの曲全くの初めてである。まあ仕方がない、と気を取り直して集中した。この曲はドイツ敗北直前に書かれたものらしく、悲壮感が漂うもの。ベートーベンの英雄の葬送行進曲やら、聴いたことがあるようなないような、曲が織り交ぜられている。弦楽器だけの曲である。ドレスデンの弦パートの美しさを十分堪能できたが作品は初めてなので延々と続くうねるような弦の波に漂うばかりの30分だった。ただこの曲をブルックナーの九番とセットしたティーレマンの意図はわかった様な気がした。

 さて、ブルックナーだが、これはティーレマンしか演奏できない全く独自性をもったブルックナーだと思った。そういう意味では今まで聴いてきたティーレマンのブルックナーも同じである。ただ今夜聴いていて、何か空虚と云うか弛緩と云っては言い過ぎかもしれないが、心の底まで揺さぶられるような演奏になっていないような気がしたのである。この組み合わせで何度この曲を演奏したかは不明だが、いささか緊張感を欠いた部分もあった様な気がした。その最大の理由は音楽は至極巨大なのだが、凝集というより拡散に走っているように聴こえたからではないかと思えたからである。音の盛り上がりは凄く、音の渦にのみ込まれるばかりであるが、聴いている自分は案外と熱狂しないのである。巨大な渦の中に何かぽっかりとあいた空間をむしろ感じてしまって、それが気になって仕方がなかった。過去のCDの話をしても仕方がないのだが、シューリヒト/ウィーンのすこぶる凝集力の高い演奏を聴いていると対極も演奏の様に思えた。もちろんこういうブルックナーは否定はしないが、ティーレマンの成長があまり感じられないのがちょっぴり残念だった。私にとっては何年か前に聴いた五番の演奏が彼のブルックナーというか、私のブルックナー体験の最高の一つであり、それ以降私にとって、ティーレマンはそれを超えていないような気がしたからである。

 1楽章の提示部は何かもたもたして聴いていていらいらする。少し勿体ぶっているように感じた。ここはもう少し直進的に進んで欲しいものだ。しかし展開部から再現部までは、今日最大の聴きものである。緩急/強弱のめりはりがきいていていかにも良質のブルックナーサウンドが聴ける。再現部の終わりからコーダのスケールの大きさは現代の指揮者のなかでも最高の部類に入るだろう。
 2楽章はティーレマンの真骨頂だ。そこには荒々しい、野人が野をかけるかのごとく、音楽が進行する。相変わらず妙な間があるが、それほど気にならない。
 3楽章は私にはいささか大げさに聴こえる。第1主題の第2楽句のスケールは凄まじいものがあるが、盛り上がれば上がるほど、私には空虚に聴こえる。第3楽句の生への決別につながらないのである。展開部/再現部でも同様である。なぜあすこまでいきりたつようにオーケストラをドライブするのかがよくわからない。途中の無暗に長い休止もしらける。全体に自然な心の底からわき起こる音楽の様には聴こえなくて、何か作りものの様に感じてしまった。演奏時間は64分。会場は満席とは云い難く、特に私の周りは空席が目立った、この値段ではティーレマンは高すぎると云うことか?

 ドレスデンの演奏は幾分緊張感を欠いたようなミスもあったが、日ごろ在京のオーケストラを聴いている耳にはやはり素晴らしいものだと改めて感じた。先日の日フィルの演奏には云うことがないと思ったが、この音を聴いてしまうと彼我の差を感じてしまう。たまにはこういう演奏を聴いて耳をリフレッシュしなければいけないと思った。ドレスデンの魅力はまず弦だろう。高弦のみずみずしさ、中低弦の厚みはもう快感としか言いようがないだろう。金管の分厚い響きも魅力だ。このオーケストラで新国立の「パルジファル」や「さまよえるオランダ人」を聴いてみたいものである。

2015年2月23日
於:銀座東劇

METライブビューイング2014-2015
レハール「メリー・ウィドウ」(2015年1月17日上演のもの)

指揮:アンドリュー・デイヴィス
演出・振り付け:スーザン・ストローマン

ハンナ・クラヴァリ:ルネ・フレミング
ダニロ・ダニロヴィッチ伯爵:ネイサン・ガン
ヴァランシエンヌ:ケリー・オハラ
ロシヨン:アレック・シュナイダー
ツェータ男爵:トーマス・アレン
ニェグシュ:カーソン・エルロッド

実はこの曲聴くのも見るのも初めてである。筋もウィキペディアでチェックした程度。それなのになぜ聴きに行ったのかと云うと、来年のウィーン・フォルクス・オパー来日の公演の演目に入っているため(チケットはほぼ確保すみ)その予習が目的である。だから公演ににうんぬんかんのん云うすべは全くありません。
 でも、そんな不謹慎な私でも結構楽しめたのだから、METの舞台の出来は相当良いのだろう。舞台も美しく、衣裳もベルエポックのパリ風だし、全てゴージャス。踊りも歌も芝居も皆うまい。ただし歌も台詞も全て英語である。まあもともと何語のオペレッタかわからないで聴いているのだから、あまり関係なかった。演出はブロードウエイの演出家。歌手もヴァランシエンヌを代表にブロードウエイの出身者がでていた。だから舞台はパリでも印象はブロードウエイのミュージカルの様に感じられた。もっとも欧州などの劇場でどのような演出で演じられているのかわからないので何とも言えない。

 歌手たちは皆うまいが、やはりルネ・フレミングがお年を召したとはいえ、舞台姿も美しく、声を他を圧する美しさである。その他ではトーマス・アレンが健在なのがうれしい。依然見事な歌唱である。ブロードウエイ出身のケリー・オハラの歌と踊り、そして演技も楽しく、METとブロードウエイの合作公演の成果を示していた。

 ライブビューイングは何度も聴きに行っているが、おそらく私の経験だけで云うと、今日が今までで一番混んでいたように思った。ご婦人比率はとても高かった。

2015年2月22日
於:オーチャードホール

山田和樹マーラーチクルス第二回
管弦楽:日本フィルハーモニー交響楽団
合唱:東京混声合唱団
   武蔵野合唱団
ソプラノ:林 正子
ァルト:清水華澄

武満 徹:混声合唱のための「うた」より
     小さな部屋で
     まるとさんかくのうた
     恋のかくれんぼ
     死んだ男の残したもの
     小さな空

マーラー:交響曲第二番「復活」

第一回に続いて大変素晴らしい演奏だった。先日のバッティストーニもそうだが、若い指揮者の生き生きとした演奏は聴いていて実に新鮮である。山田はこの復活を振るのは初めてというから、一層そう感じたのかもしれない。
 最初の武満の「うた」は半世紀ほど前の彼の歌を80年代に合唱曲に編曲したもので、いずれも映画やラジオの音楽で聴きやすい。特に武満の作詞した「小さな空」は子供のころをを思い出させる、とても懐かしい音楽だった。東京混声合唱団は合唱を聞く楽しみを十分味あわせてくれた。人間の声の魅力とは底知れぬものがあるということを改めて感じた。
 武満のあとになぜマーラーかというのはどうしても理解できないが、この歌集を聞いていて少しわかった様な気がする。ただ2曲合わせて100分の演奏は耳には過重である。マーラー1曲でも重たいのに、いくらポピュラーな歌とはいえ初めて聴く曲は少々集中するには辛いことだ。2ndステージでは是非見直して欲しいものだ。

 さて、復活だが大変感動した。特に後半の3つの楽章は最近聴いた演奏の中ではインバル/都響に勝るとも劣らない素晴らしいもの。日フィルの完成度の高い演奏も特筆すべきだろう。山田のマーラーは決しておどろおどろしくならない。だから聴いていて心をわしつかみにするような演奏ではない。どちらかというとさっぱり系だろう。いや、それは正しくないかもしれない。音楽を慈しむような優しい心で包み込む演奏と云うべきか!しかし日ごろ欧米のオーケストラのどちらかというと大げさな演奏を聞きなれていると、山田の音楽は実にフレッシュに聴こえるのである。あとで触れるが3楽章などは全く音楽は自然に流れて力こぶは一つも入っていない。それでいてなぜか胸にジーンとくる音楽を聞かせてくれるのである。

 1~2楽章は初めて振るせいか少し力こぶを感じた。1楽章の再現部の前後の大きな盛り上がりは、自然の発露とは感じられず、力技の様に思った。2楽章は少しいじりすぎの様に思った。この楽章は各楽想への思い入れが強いのか、表情が濃すぎて後半の3つの楽章のようにスムースに流れない。

 3楽章は実に素晴らしい。ここにあるのはマーラーの歌である。それを山田はひと筆書きの様に実に自然に歌い上げるのである。諧謔的な楽想だがそうは感じさせず、素直に天国的な美しさを聴かせてくれる。それだからこそ、最後の5楽章の主題の予告の盛り上げ方は、最終楽章への期待を大いに高めるものであった。4楽章の「原光」も素晴らしい。清水の「くれないのばらよ!」の歌いだしの自然なこと、思わず胸が熱くなるほどだ。その後のトランペットが何と優しい歌を奏するのだろう。清水はオペラでは時々金切り声になるが、今日の様な音量で歌うと、その透明感は群を抜いていると思う。日本で聴いたインバル/フェルミリオンに匹敵する歌唱だと思った。ただ後半の「私は神のものだから~」最後までは少々感情過多になったように感じた。ここでも山田は何もしていないかの如く音楽が流れるのが凄い。
 最終楽章は正直よほど凡庸な指揮者が指揮したとしてもそこそこの感動は得られる部分だけれども、山田の作りだす音楽はそういう水準をはるかに超えたものである。ここでも山田は緩急・強弱の幅を大きくはとらない。決して音楽の流れを阻止するような、いたずらに煽りたてるような指揮はしないのである。それを物足りないと思うか思わないかは好みの問題だろうと思うが、私は山田のアプローチを支持するものである。
 通して聴いて改めて感じたのは、この曲は歌曲交響曲(3~4楽章は子供の不思議な角笛からとられている)ということだ。それを山田は見事に体現している。歌の詰まった素晴らしい演奏だった。28日は3回目で三番だが、三番はさらに山田に合っているような気がするので大いに期待したい。
 なお最終楽章の合唱はとても充実していた。ソロの清水は3楽章同様良かった。木下は出だしが少々固くなったかスムースさに欠けたが、徐々にエンジンがかかってきたように感じた。
 日フィルの演奏にも触れなければならない。特にトランペットとトロンボーンは在京オーケストラでも上位にあると思った。大変充実した演奏だった。弦は潤いが感じられるほど魅力的だった。5楽章の盛大な盛り上がりも特筆ものである。ただオーチャードはオルガンが見当たらないのでどうやったのだろうと思った。音響的に少々オルガンの力が物足りなかった。演奏時間は83分。

 

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