ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2014年12月

2014年12月13日
於:東京オペラシティ、コンサートホール(1階18列右ブロック)

パーヴォ・ヤルヴィ指揮
ドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団来日公演
ブラームス・シンフォニック・クロノロジー(第3夜)

ブラームス:大学祝典序曲
      ピアノ協奏曲第二番
      交響曲第三番

この連続演奏会も3夜めになった。今夜が私にはいままでで最も共感できた。
大学祝典序曲は全く音楽が自然に流れてとにかく聴いていて心地よい。もちろん小編成のヴィブラートの少ない弦だから、滑らかな音には程遠いが、しかしその反面アジリティに飛んだ俊敏な音が耳を惹く。その俊敏さに今夜はほとんど不自然さがなかったのが何より良い。

 ピアノ協奏曲もよかった。1番では若々しい情熱のほとばしりを感じたフォークトのピアノだが、この2番でも基本的には変わっていない。ただ1番と2番との間の20年近い隔たりは同じ若さでも、こちらは青春への懐古的に聴こえる演奏だった。特に3楽章はそうで木管のかなり濃厚な表情付けは時には情緒過多的に聴こえるが、反面私の様な年老いた聴き手の青春を思い起こさせるような音楽に聴こえた。チェロとピアノの呼吸の合った響きもそれを助長する。この曲を初めて聴いたのはまだ20歳頃だったと思う。バイトに明け暮れ、やっとの思いでそろえた今で云えば貧弱なオーディオ装置で、慈しむように聴いた、ベーム/バックハウス/ウイーンフィルの演奏。あのころが夢の様に思いだされる演奏だった。2楽章の情熱的な音楽は1番と同様、まぶしさを感じる演奏だが心地よい。オーケストラも特に両端楽章では大変魅力的である。1曲目と同様俊敏な音楽だが、そこには全く不自然ではなく、自然な流れで出てきた音たちに必然を感じさせるものだ。4楽章も時には誇張的に聞こえるがこれはこのオーケストラと指揮者の志向するところなのだろう。慣れたせいか違和感は感じなかった。演奏時間は46分。アンコールはショパンのノクターン第20番。

 三番の交響曲は全体にむんむんしたロマンの香りと云うよりももう少し張り詰めた緊張感を感じさせるもの。特に両端楽章がそうだ。緩急つけや強弱の振幅は相変わらず大きいが、唐突にはならないのがとてもよく、唐突にしなくても実に音の変化や立ち上がり、回転、などが俊敏に感じられ、伝統的なブラームスと一線を画した演奏の様に感じられた。一歩では、一番の交響曲で感じられた伝統的な誇張の様なものもここではあらわれるが、この演奏の基本線との接合に違和感が少なく感じられた。2楽章は寂寥感はあまりなく、きりりとした表情がヤルヴィの新しいブラームス像なのだろう。大甘に演奏されやすい3楽章も薄手の弦がすっきりした響きになり、上品な、極上の音楽になっていた。この演奏は最近聴いたシャイーのCD同様注目すべき演奏だと思った。演奏時間は36分弱。なお前の2つの交響曲と同様2楽章以降はアタッカで演奏された。

 アンコールはハンガリー舞曲10番と6番。ただし私は18時から東響の定期がサントリーホールであるため、脱兎のごとく会場を後にしたため、アンコールは聴けなかった。私と御同類の方が何人かおられて駆け足で初台駅に向かっていた。

2014年12月12日
於:NHKホール(1階18列中央ブロック)

NHK交響楽団、1797回定期公演
指揮:シャルル・デュトワ
ヴァイオリン:アラベラ・美歩・シュタインバッハー

武満 徹:弦楽のためのレクイエム
ベルク:ヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出の為に」
ドヴォルザーク:交響曲第九番「新世界より」

2日間ドイツ・カンマーフィルの小編成でヴィブラートの少ない、切れ味鋭くピュアな弦を聴いてきた耳には、武満の弦楽合奏の音がなんとも柔らかく心地よい。これほどの違いとは思わなかった。
 続くベルクも1楽章は静かで柔らかい、2楽章は動的な音楽になるが、決して音は鋭くならず豊かに響く。大編成(のN響)と(小編成)のカンマーフィル、どちらがということではなく、それぞれの個性を選択し楽しめば良いということだろう。
 武満もベルクも私には入り込めない世界にある音楽だなあと云う印象だ。シュタインバッハーのヴァイオリンはCDではブラームスのソナタ集をよく聴くが、柔らかくしなやかな音が魅力。昨今は女流ヴァイオリニストが幅を聴かせているが、彼女やヴァティアシヴィリ、ヒラリー・ハーン、イザベル・ファウストなど枚挙のいとまがない。ヴァティアシヴィリは私のお気に入りだが、音色がシュタインバッハーに似ていると思ったら、チュマチェンコ先生のお弟子さんだそうで、要は姉妹弟子だったということだ。余談だがCDの写真を見ると外人の顔だが、今日初めて生の顔を見たら、随分と日本人顔でちょっと驚いた。
 アンコールはなんと昨夜のテツラフと同じ、バッハの無伴奏ソナタ3番からラルゴだった。テツラフの澄明なちょっとクールな演奏とは異なり、彼女の演奏は優しく慈愛に満ちた演奏で心が温かくなる。

 さて、前半2曲ではかなりの人がお辞儀をして聴いていたが、ドヴォルザークが始まると皆姿勢が良くなる。なんといっても誰もが知っているこの名曲だからだろうか?
 デュトワの演奏は誇張のない全く自然なもの。聴いていて「おやっ」とか「えッ」というシーンは全くない。両端楽章は思い切りオーケストラを鳴らすが、鋭さは皆無、全て見事なピラミッド型の音場におさまっている。しかしこの演奏の聴きどころは音楽の「緩」の部分だろう。2楽章の有名な最初の主題、そしてその後のなんとも郷愁を掻きたてるようなオーボエと弦による主題、3楽章のトリオの部分、4楽章の第2主題のどれもが、一色ではなく細かくニュアンスがつけられていて耳を惹きつける。しかもこの「緩」から「急」への変化も一瞬ながら微妙なグラデーションが付けられているためか唐突にならない。実に洗練された高級な音楽に聴こえた。反面ドヴォルザークののもつボヘミアの土臭さの様なものは薄れるのはやむを得ないだろう。
 2楽章は合唱曲にもなっている超有名曲だが、実は初めてクラシック音楽に接したのは中学生の時の音楽教室でのこの曲であった。今日久しぶりにこの曲を聴きながら、その頃の自分を思い出し、懐かしさに胸が一杯になってしまった。それにしても今夜のイングリッシュ・ホルンの演奏の素晴らしさは何とも言いようがない。演奏時間は43分強。

2014年12月11日
於:東京オペラシティコンサートホール(1階18列右ブロック)

パーヴォ・ヤルヴィ/ドイツカンマーフィルハーモニー管弦楽団来日公演
ブラームス・シンフォニック・クロノロジー第二夜

ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲
ブラームス:ヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン:クリスティアン・テツラフ)
ブラームス:交響曲第二番

昨夜に引き続いてのブラームスである。今夜で合計5曲聴いたことになるが、不思議なことにヤルヴィの演奏には、体を突き上げるような名状しがたい何ものかをを感じることがほとんどない。わずかに昨夜の1番の協奏曲くらいだろう。今年の後半のいくつか演奏会でそういう衝動を感じた。たとえばカンブルランの指揮したシューマンとベートーベン、ヤンソンス/ツィメルマンのブラームスのピアノ協奏曲一番、ジョナサン・ノットの指揮したマーラーの八番がその代表である。しかしなぜそうなったかは楽理的には私には説明できない、まさに名状しがたい何ものかなのである。

 一方ヤルヴィでそれを感じないのも私には説明できない。相性か?まあそういった要素もあるだろう、でも相性と云うのも、なぜ相性が悪いかは説明が難しいだろう!ただ云えるのは、今夜聴いていて一番感じたのは、ヤルヴィの作る音楽には緩と急、強と弱しかないのではないかということである。たとえば最初のハイドンでは主題は実にふんわりした音で気持ちが良い、第1変奏もその延長、ピュアな弦は魅力である。しかし第3変奏ははどうしたことか急に猛々しくなる。この対比は当然のことではあるが、私にはあまりにもこの強弱/緩急の対比の幅が大きすぎて、自然の流れでそうなったとは思えないのである。フィナーレも静かに入ってくるが、クライマックスで急におどろおどろしくなったのでびっくりしてしまう。ようするに緩と急、強と弱へ移行する中間の部分がすっ飛んでいるように感じるのである。だからフルトヴェングラーなどがこのクライマックスで現出させるゴシックの大伽藍のような様相はこの演奏からは全く感じられない。

 ヴァイオリン協奏曲は今年の6月に聴いた、どうしてもイザベル・ファウスト/ダニエル・ハーディング/新日本フィルの素晴らしい演奏と比べてしまう。あの時の2楽章にはまさに名状しがたい何ものかがあった。ヴァイオリンとオーケストラの対話の様な、ヴァイオリンとオーケストラがいかに親密か、十分感じられる演奏だった。しかし今夜のテツラフとヤルヴィの間にそういう交流があったのだろうか?テツラフのヴァイオリンは美しいしオーケストラも透明な魅力的な音を出す。しかし音楽は淡々と流れて、ほとんど心に引っかからない。オーケストラはヴァイオリンに付けているだけで双方向の交流が感じられないというのは云い過ぎだろうか? 両端楽章はファウストの時もそうだが主題の対比が明確でこれはこれでよくわかるが、それにしても1楽章の最初の主題は激しすぎやしないだろうか?ただ2楽章ほど違和感はなくそれなりに楽しんだ。演奏時間は35分強。アンコールはバッハの無伴奏ソナタ3番からラルゴ。

 交響曲二番は私には難物でいまもって決定盤はない。まあもともとあまり好きではない曲だからかもしれない。ただヤルヴィとカンマーフィルとのコンビではこの曲が最も合っているのではないかと思った。しかしながら一方では1楽章の二つの主題の対比や、3楽章のスケルツォの荒々しさは自然の流れとは思えず、わざとらしさを感じた。終楽章も緩急、強弱を大きくとって1聴スケールの大きい音楽に聴こえるが、私にはそのいちいちの変化が煩わしく、音楽の自然の流れを阻害しているように感じ、いつもは大いなる喜びを感じるコーダの部分も今一つ共感できなかった。演奏時間は42分強。アンコールはハンガリー舞曲第3番と5番。

2014年12月10日
於:東京オペラシティコンサートホール(1階18列右ブロック)

ブラームス・シンフォニック・クロノロジー第一夜
パーヴォ・ヤルヴィ指揮
ドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団
ピアノ:ラルス・フォークト

ブラームス:ピアノ協奏曲第一番
ブラームス:交響曲第一番

今夜から4夜、金曜日をのぞいて連続でブラームスの交響曲全曲、協奏曲全曲そして主要な管弦楽曲が演奏される。こういう機会は滅多にないので聴きに行くことにした。

 まず協奏曲。先日のツィメルマン/ヤンソンスに勝るとも劣らない素晴らしい演奏だった。この曲は今グリモーのCDがとても気に入っていて、2番ともども我が家で聴くときは彼女のCDにまず手を出してしまう。彼女がインタビューで面白いことを云っている。「この曲の1楽章は苦悩に満ちたロベルト・シューマンの人生の描写、2楽章はクララ・シューマンへのかなわぬ恋、3楽章はリズムと活力、そして再生に満ち溢れた音楽」、なかなかうまいいいかたであると思った。この言を正とすると先日のツィメルマン、そして今日のフォークトの演奏もしっくりと耳に入ってくる。
 1楽章のヤルヴィの序奏は活気のあるもので実に力強い。そして主題の静と動の対比が実に機敏に切り替わり、それが音楽に更に躍動感を与えている。この静と動の対比はグリモーのいうシューマンの苦悩に満ちた人生の明暗を表わしているように感じた。それほどギャップが激しい。フォークトのピアノが入ってくる。最初はまるでフォルテ・ピアノのように柔らかく、静かである。しかし中間の展開になると音楽にがぜん活力がわいてくる。ヤルヴィのオーケストラに呼応して静と動の対比が鮮やかである。演奏時間の半分~終わりまでの約10分間は息もつかせぬ演奏で手に汗握るとはこのことであろう。実に感動的だった。2楽章はツィメルマンのように(かなわぬ恋に)身もだえし、やがて夢の様に昇華してゆくようにはなっていなくて、不可能な恋にも情熱的な、能動的な思いを、ピアノに託しているようで、私には少々まぶしく感じた。ツィメルマンのほうがしっくりくるのは年のせいだろう。
 3楽章はグリモーのいうリズムと活力の音楽である。ここは精神的なものよりも音楽そのものの持つ活力を楽しんだ。特にオーケストラともども弾むような、律動的な音楽は素晴らしい。演奏時間は46分強、アンコールはワルツ39-15。ツィメルマンの時はアンコールなしだった。このような大曲のあと無理なサービスは無用。
 グリモーの演奏はどうだったかって、まあCDを買って聴いてください。

 交響曲は私には感動的と云うよりむしろ面白いというか興味深い演奏だった。
この曲は私には2枚のお気に入りがある。ミュンシュ/パリ管とシャイー/ライプチッヒである。前者はレコ芸などでもいつもベスト10のトップにあがる超名演と云われているものである。以前はカラヤン/ウイーンなども聴いていたが、いまはこの2枚で十分である。この2つの演奏は対極的なものである。ミュンシュは音楽の起伏が大きくテンポの変動も激しい。時には誇張したようにも聴こえる部分がある。しかし出てきた音楽はいつも大きな感動と興奮をもたらす。一方シャイーは1930年代のワインガルトナーの演奏の録音を規範としているという。それはシャイーに云わせると誇張のないピュアーな演奏だという。ワインガルトナーが1896年にベルリンフィルとの公演で二番を振った時に、ブラームスがえらく気に入ったという話が残っているくらいだ。シャイーはライプチッヒと組んでそういうアプローチで録音している。ライブではなくセッション録音の様だ。出てきた音楽は全体にピュアで、誇張がない。一見山谷がないようにも聴こえるが、しかし音楽の流れによどみがなく、ミュンシュの演奏にうざったさを感じる時にはシャイーを聴くことにしている。

 閑話休題、さて、ヤルヴィの演奏だが、正直云って協奏曲ほど心が動かされなかった。全体の音楽の作りはシャイー風である。テンポは速く、軽快である。しかしところどころ誇張と云っては語弊があるが、私には流れを阻害するような部分があって、そこで私の気持ちも阻害されてしまう。そこから気を取り直してまた新たな気持ちでこの曲を聴かなくてはいけないという、心の中での作業が正直煩わしかった。例えば一楽章の提示部での最初の主題の弦の部分でのなんともわざとらしい強調や4楽章の後半の盛り上げ方は、ミュンシュの様だが、私には自然の流れの中で出てきた音楽とは思えず、気持ちが乗りきれない。コーダも立派なものだけれども、私の耳は冷めた聴き方しかできなかった。演奏時間は45分弱。アンコールはブラームスのハンガリー舞曲第10番と1番。サービス満点だったが私には蛇足だと感じた。

 ヤルヴィも近年の意欲的な中堅指揮者(下記)と同様、曲の原点回帰に取り組んでいる指揮者の一人と思うが、ただそれに20世紀になって、フルトヴェングラーやミュンシュがやっているような仕掛けを加えようとしているように思える。そういう意味ではこの2つのスタイルの接合を模索しているのではないかと感じた。彼のベートーヴェンでもその様に感じる。おそらく10年後にはその接合の部分の(あたかもジークフリートがノートゥンクの断片を大胆に接合してしまうがごとく)異和感が溶解しているのではないかと思う。いろいろなやり方でヤルヴィの様な模索をしている指揮者が他にもいるが、私が目を離せないのは、シャイー、ティーレマン、ラトルである。彼らのCDは出てくるものすべてINTERESTINGである。最近のラトルのシューマンやシャイーのブラームスがその例である。

 カンマーフィルの音は魅力的なものである。弦の編成は2/3ほど、ピリオド奏法かどうかさだかではないが、音はピュアで繊細である。響きが薄くなる部分もあるが、決して嫌な音ではない。ただ大オーケストラのもつ雄大な響きは味わえない。オペラシティを選んだのは誰かわからないが、良い選択だったと思う。ティンパニの乾いた音や金管の鋭い音もこのオーケストラの全体の響きに相応しく心地よい。ライブならではの傷はないでもない。

 それにしても私はなんと座席運が悪いのだろう。今日の1曲目のほとんどをお眠りになっているかたが同じ列の中央ブロックにおられた。寝るのは勝手だが終始盛大ないびきが聞こえるのは困ったものだ。私のように離れた席のものにもよく聞こえたのだから、お隣は大変だったろう。


 

2014年12月9日
於:サントリーホール(1階17列中央ブロック)

東京都交響楽団、第781回定期演奏会Bシリーズ
指揮:大野和士

バルトーク:弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽
フランツ・シュミット:交響曲第四番

来年4月に都響の音楽監督になる大野の指揮。1930年代の音楽によるプログラムだ。
バルトークは管弦楽のための協奏曲くらいしか聴かないが、つい最近この曲のCDにカップリングされている曲がほとんどの場合今夜の曲だと云う事を発見した。私が聴いたのはフリッツ・ライナー/シカゴによる58年の録音。この演奏を聴いて初めてなまえはよく聴くが、実際に聴いたことのない~チェレスタの音楽がなかなか素晴らしいということがよくわかった。特にこのライナーの指揮はきびきびして小気味よくその他ショルティ盤やらカラヤン盤などをもっているが他の演奏は聴く気にならない。

 さて今夜の大野の演奏はそういったライナーの演奏とは少し趣が異なり、少々微温的というか大人しい。それもそうだろうこの曲が初演されてすでに80年、ライナーのレコーディングから60年近く経っているのだから、この曲の立ち位置もおのずと変わってきているのだと思う。もう現代曲と云うよりも古典と云うべき領域に入っているのだと思う。そういう切り口で今夜の演奏を聴くともう過激さがなく至極聴きやすい。もともとこの曲はわかりやすくできているのだけれども、それにしてもこれだけリラックスして聴ける曲とは思っていなかった。私は全体にもっとエッジを聴かせた演奏が好きだが、今夜の演奏でも十分楽しめた。

 シュミットの曲は全くの初めてだから、四の五のと云う資格はないので、差し控えるが、正直40数分耐えるのがつらかった。まあ初見でこの曲を楽しもうなんて思う方が無理だろう。結構ブラボーがでていたが、相当勉強された方だろう。正直いまさらシュミットを勉強する余裕はないので、私は二度と聞かないだろう。印象だけ云えばブルックナーのアダージョやらマーラー風の旋律とコルンゴルトの甘い旋律のごちゃまぜの様な曲である。冒頭のモットー主題はトランペットで奏されるがそれが音を外したのではないかと思うくらいの音楽でびっくり。しかし主部に入ると途端にコルンゴルト風の甘い旋律が流れてこのギャップについて行けない。3楽章をのぞいてすべてモットー主題の変奏の様な印象を受けたので、聴いているうちに飽きてくる。私の後ろの席からはすやすやと寝息がしてきた。
 こう云う音楽を紹介したいという大野の姿勢はわかるが、古今の名曲をいろいろな指揮者で聴きたいという私の様な聴き手にはちょっと困るのである。ただ都響の演奏自体は立派なもの、後期ロマン風のうねるようなオーケストラの響きは美しく、それだけ聴いていても、名演だとわかるが、同工異曲のような旋律が続くとその響きもだんだんうざったくなるから、人間と云うのは天の邪鬼だ!反省の夜でした。

↑このページのトップヘ