ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2014年12月

2014年12月27日

2014年のブログを数えたら、本日のものを入れて96本の新作を見たことになる。映画館に行って見たのはそのうちの約一割くらいだろう。足を運んでみたい映画が徐徐に減ってきているのが寂しい。むしろ自宅で自堕落に、DVDレンタルや自分のコレクションを見るほうが圧倒的に多くなってきている。旧作を含めればゆうに200本の映画を見ているだろう。

 映画館に行く気が起きないのはいろいろ理由があるが、大きくは2つだ。一つは足を運んで、特定の時間を拘束されるだけの面白い映画が、私にはあまりないということだ。今月これから書くブログでもほとんどB級と云っても差し支えない映画ばかりだ。要するに何かが足りない映画ばかりなのだ。娯楽性に富んだ作品には骨がないし、逆に骨のあるメッセージ性の強い映画は眠くなるほどつまらないものが多い。
 そんな中で今年感銘を受けた作品が2つある。ひとつは「ゼロ・グラヴィティ」、もう一つは「ダラス・バイヤーズ・クラブ」である。この2作品は私の今年のベスト映画だ。その他印象に残ったのは、「25年目の弦楽四重奏」、「ウルフ・オブ・ウォール・ストリート」、「アメリカン・ハッスル」(ジェニファー・ローレンスの演技に)、「鑑定人と顔のない依頼人」、「清須会議」、「ネブラスカ」などである。

 さて、ちょっと横にそれたが映画館に行かないもう一つの理由は映画館のありかただ。
今年私の愛するミラノ1がクローズになる。1000人以上収容できる、いまでは珍しい映画館。しかも全席自由だ。大音響も十分吸収できる空間がうれしい。そこがなくなる。もうこういう映画館は東京には一館もない。あるのはシネマ・コンプレックスと称する、昔で云えば場末の映画館に毛の生えたような、100人~200人ほどの劇場ばかり。東京ではわずかに日劇跡のビルの中のコンプレックスは収容力が大きいがその他は皆そのようなもの。大音響になると外に出ていきたいくらい不快な音になる、閉所恐怖症の私には耐えられない。こういうところではよほどのことがなければ見たくない。ちょっと待てばDVDレンタルで見られるのだ。ひどい劇場になると出入り口が一か所しかなくて、いざと云う時にそこへ人が殺到するかと思うとおちおち映画なんぞ見てられない。しかも全席指定だ。そして毎回入れ替え。昔の様にすいていればどこに座っても良いし、途中で座席を変えてもかまわないし、途中から入場して、好きな時に出て行けた時代が懐かしい。むんむんした立ち見なんぞはありやしないのだ。こどものころ学校に内緒で「駅馬車」と「シェーン」の2本立てがあり、それを3サイクル見たことがある。朝から晩までその映画館に食事も忘れて(お金がないから買えなかった)9時間近く見続けたのだ。いまではこの様な見方は不可能なのだ。ということでいまではツタヤ・ディスカスさまさまの毎日である。なんといっても新作の予約もできるし、郵便で返却すると2日後には新しい作品が送られてくるのだから。まあ便利な世の中になったものです。

 さて、最近見た映画の寸評です。

「ハンナ・アーレント」
日本が70年前の歴史を引きずっていると同様に、ドイツもやはりナチの姿をいまもって引きずっているのだ。
 1960年、アイヒマンがモサドににより逮捕。そしてイスラエルで裁判が開かれることになった。ハンナはユダヤ人、ハイデカーの愛弟子でパリのユダヤ人収容所から脱出し、アメリカへ亡命。そこで哲学者、教育者そして著述家として成功する。雑誌社の委嘱によりアイヒマン裁判の傍聴記を書くことになる。しかしその記事が大反響を呼ぶ。アイヒマン擁護ととられる記述があったのだ。
 この映画は単にナチスの悪行のみならず、人がなぜ悪い行いをするのか、その根源にせまるハンナの戦いを描いた至極真面目な映画だ。ただ見ていて、ハンナ以外の人物の姿がよく見えないので、ちょっといらいらする。映画の作り方だろう。この後にみた「ハンガー」や「ベツレヘム」と云う映画もそういうところがある。要は主人公以外の人物はただの存在でしかないということかもしれない。

「ダイバージェント」
近未来映画、「ハンガーゲーム」や「スノーピアサー」のジャンルだが、相当出来が悪い。
 100年前の戦争で人類は壊滅的なダメージを受ける。生き残った人々は5つの階層に分類され、基本的には世襲である。博学、高潔、勇気、無欲、勤勉である。ただある年齢に達するとテストがありそこで振り分けも可能である。ダイバージェントとはどこの階層にも入れない人間を云う。階層間の闘争と階層の中での少年・少女の成長の物語だが、どっちつかずで、どっちも面白くない。生き残り・成長物語はハンガーゲームのほうが面白く、階級闘争はスノーピアサーのほうが面白い。主人公の男女は彼らしかいないような存在で、すべて彼らの都合の良いようにドラマが動く、随分とアバウトな映画だ。アメリカ人は自虐趣味があるのか、こういう類の映画は多い。

「MI5」、レイチェルワイズ他
原題は「PAGE EIGHT」こういうB級スパイ映画にレイチェルワイズの様な大物がでるとはちょっと驚き。
 ル・カレの小説を思わす渋いスパイ映画だ。主人公はMI5のテロ対策分析官。友人である上司は主人公らに英国の恥部を暴いた資料を公開する。その資料の8ページがカギだ。その資料を軸に、主人公の隣室の謎の女性(レイチェルワイズ)とそれにからむ、国際謀略も加わりなかなか面白い。ただ終わりがル・カレ風ではなくちょっときれいすぎる。

「オール・ユー・ニーズ・イズ・トゥー・キル」、トムクルーズ、エミリーブラント主演
これはまるでテレビゲーム感覚の映画だ。主人公は何度も生き返り、その都度成長し兵士としての技術を向上させる。トムクルーズは全く弱虫の広報担当将校。これがどうしたわけか最前線に送り込まれる。しかし戦って死ぬたびに生き返り、強くなってリセットされる。エミリーブラントは英雄だが、クルーズと同じ経歴の持ち主だ。彼らは欧州を征服した異星人と戦う。この戦闘シーンはまるでゲームだ。
 イギリスから欧州大陸に連合軍が攻め込む姿はまるでノルマンディー上陸作戦ののようだ。とにかく話の作りがかくのごとく安易なのだ。これを人間の成長物語と捉えたらおお間違えだろう。「人」はリセットなんかされないのだから!大俳優がよくもこんな映画に出たものだと呆れる。

「ラスト・ミッション」、ケヴィンコスナー、コニーニールセン主演
リュックベッソンのシナリオ。原題は「3DAYS TO KILL」
 CIAの殺し専門の要員、コスナーは悪性腫瘍で余命3カ月を宣告され、足を洗うことを決意する。別れた妻(ニールセン)と娘と一緒に死ぬまでの数カ月暮らそうとする。ところがCIAの上級捜査官は余命をのばす試薬を提供するという条件で国際武器商人グループ
のボスの殺しをコスナーに依頼する。これが本線だ。これに別れた家族との関係修復が横線だが、問題はこの横線がだらだらと長いことだ。もう一つはベッソンらしく相変わらずドンパチシーンは凄いがちょっとこれはコスナーが強すぎはしないだろうか?女上級捜査官の描き方も嘘っぽい。もっと本物らしいウソをついて欲しい。

「オープン・グレイブ(感染)」
一種のパンデミックものだろうが、作りがいやらしくできていてドラマに入りきれない。要はだんだん話の本筋を御開帳してゆくのだが、そのテクが私には少々稚拙に感じられた。
 主人公が目を覚ますと、死体の山の中。記憶もない。何ものかに助けられて、野中の一軒家にたどりつくと、そこには5人の男女がいた。徐々に記憶が戻ってきて話が見えてくる。ゾンビものかと思ったらパンデミックものだったという寸法。話を逆回しにした「メメント」のように両バージョンを作って欲しい。

「オールドボーイ」、ジョッシュ・ブローリン主演
韓国映画のリメイク。スパイク・リー監督作品。大筋は原作と同じ。最後が少し違うようだ。自堕落な男(ブローリン)が20年間何ものかに監禁されてしまう。理由は不明。そして妻をレイプして殺してしまう犯人にされてしまう。20年後なぜが開放されてしまう。非常にうまくリメイクされている。「デパーテッド」にしろ、本作にしろハリウッドの技術は大したものだ。両方見ているが、韓国の少々陰惨さのきつい作りに対して、ブローリンのキャラなのか、リメイクは少々ユーモラスな雰囲気も漂わせていて、このあたりがお国柄と云っては怒られるかな?面白く見た。

「ザ・ベイ」
これは実話だろうか?ドキュメンタリータッチに作られた、環境ものである。
 アメリカ、メリーランド州、クラリッジ、チェサピーク湾、に面した観光地。人口6200人。2004年7月4日独立記念日の日に大惨事が起きる。湾の汚染で大発生した寄生虫に町の人々は襲われる。リアルな映像も凄いが、米政府や州政府、CDCの官僚主義も相当なものだ。これは環境に対する警鐘と事なかれ主義に徹する官僚たちへの批判が充溢した作品だ。

「マンデラ・自由への長い道」
マンデラの自伝に基づく映画だ。マンデラものでは「インヴィクタス」とか「マンデラの名もなき看守」など面白い映画があるが、いずれもマンデラの人生の一部を切り取った様な映画だ。この映画は子供のころから、人生を全て描いたものである。彼が信念の人であることが当然のことながら主題になっているが、同時に彼の妻が過激な闘士だったということにも焦点を当てている。面白く見た。
 個人の人生を犠牲にしてでも、南ア黒人の自由を目指したその不屈の闘志はどこからきたのだろう。古今の英雄は皆こうだったのだろうが、凡人にはまぶしい人生ではある。

「トランセンダンス」、ジョニーデップ他
原題は「超越」と云う意味。AI学者のデップ、妻のレベッカ・ホールは人間を超越したAI(PINNと云うシステム)を開発する。デップは反テクノロジストのテロに倒れるが、彼の脳はPINNにアップロードされる。その結果何が起こったか?何とも奇想天外な話だが、怖ろしくもあり、実現可能性を感じさせもして、そのリアルさが不気味である。結末も凄いが、これもゲーム感覚なのがちょっと安易で残念だ。まあこの様な終わり方しか私にも思い浮かばないけど!映画の作りは別として、発想の秀逸さには圧倒される。

「ナイトスリーパーズ」、ジェシーアイゼンバーグ主演
これも環境ものだ。原題は「ナイトムーブズ(犯行に使ったボートの名前で夜遊び号とい
 う)。環境破壊に反対する3人の若者が硝酸アンモニウムを使って、ダムを爆破する。なぜそのダムを爆破するのか、そしてこの3人の詳しい素性はよくわからない。最後までおぼろげであるので、気の短い私などは見ていていらつく。爆破作業はかなり素人的で、犯行の後もおたおたして本物風である。ただ全体が陰気で見ていて面白くないのが残念だ、もう少しドラマとして膨らましようがあったのではと思われた。

「ハンガー」、スティーブ・マックイーン監督
アイルランド映画の様だ。この映画は誰のために作られたのだろう。見ていてずっとそれを感じた。
 1981年、北アイルランドの紛争で逮捕された政治犯は英政府から政治犯として扱われず囚人として扱われる。不服従の囚人(政治犯)たちはサンズというリーダーの指導のもと、毛布作戦、糞尿作戦、そして最後はハンガー作戦を繰り広げる。それをリアルに描いているのは良いが、誰が誰やらよくわからないし、無駄な映像が多くて、なかなか話が進まないのが残念だ。決してつまらなくはないが、もう少しグローバルな観客を意識して欲しかった。

「ベツレヘム」
イスラエル映画と思われる。パレスチナ自治区に住むイサウは、テロ集団アルカサルのリーダーイブラヒムの弟で、ある事件の後イスラエル情報部のラジの情報屋になっている。
この映画はイサウとラジの奇妙な交流が本線になっている。アルカサルとハマスの関係なども絡んでなかなか面白い映画だ。ただパレスティナ人、イスラエル人が入り乱れ、誰が誰やらわからないというきらいがある。もう少し整理されるともっと面白かっただろう。最後は悲しいが、この二人のデリケートな交流は、イスラエルとパレスティナの2国間のデリケートな関係の縮図の様に感じられた。面白いと云うよりも興味深い映画だ。

2014年12月24日

             2014年の音楽会を振り返って

2014年も昨年並みのおよそ90回の音楽会に臨み、それぞれ、忘れがたい音楽体験をした。今年の音楽会を振り返ってようやく以下の20本の心に残った音楽会を選んだ。残りの音楽会もそれぞれ記憶に残るものばかりだが、ここであげた20本は特に印象が強かった。感動的なもの、ユニークなもの、歴史的にエポックになるようなもの、いろいろ切り口があるにしろ、強く心に残ったものばかりだ。ベスト3は一応順位を付けたが、残りの17本には結局順位は付けられなかった。

今年の音楽会ベスト3
1.ワーグナー「パルジファル」 10/6、10/9
  飯守/トムリンソン/ヘルリツィウス/フランツ/シリンス/新国立劇場
2.ヴェルディ「シモン・ボッカネグラ」 5/31
  ムーティ/ペティアン/プラット/ベロセルスキー/ローマ歌劇場
3.インバル/都響によるマーラーチクルス
  3/9 交響曲第八番
  3/16、3/17 交響曲第九番
  7/20 交響曲第十番

 この3つの音楽会は私にとって今年のベスト3というよりも、この前後の年の音楽会の中でも忘れがたいものになるであろう。
 「パルジファル」は日本でこのような水準の演奏が聴けるというだけで記念碑的な演奏だろう。飯守の指揮はすでに二期会でこの曲を聴いていて、今回の新国立でも大きく変わっていない。滔々と流れる大河の様な音楽だ。いま、世界でこのようなワーグナーを指揮できる指揮者は何人いるだろう。歌手たちもみな世界的な第一人者で素晴らしいが、なかでもヘルリツィウスのクンドリーは、ティーレマンのライブCDでのマイヤーに勝るとも劣らぬ歌唱。これほどの苦悩と絶望感を背負った女性はいないだろう、ということを強く感じさせた。
 「シモン・ボッカネグラ」は魅力的な音楽の充満した曲だが、凡庸な指揮と演出に当たると、これほど退屈なオペラはないだろう。ムーティの「潮の香り」を感じさせる誠にデリケートな指揮に感動した。例えば2幕冒頭、3幕冒頭の音楽の素晴らしさ、かつて聴いたアバド/スカラ座の来日公演に勝るとも劣らぬ演奏だった。
 インバル/都響によるマーラーチクルスは日本ではこれで2サイクル目だと思うが、今回のほうが私は素晴らしいと思う。今年聴いた3曲もそれぞれ心に残る名演奏である。特に九番の再生を感じさせる4楽章や、十番の五楽章は忘れがたい。

                忘れがたい名演奏

以下順位ではなく日付順にワンポイントの感想を記して見よう。

1. ベートーベン「交響曲第三番・英雄」 2/26
   山田和樹/読響
   若い指揮者による「英雄」はさぞや力こぶの入ったものだろうと想定したが当てが
   外れた。今までに聴いたことのない繊細な、女性的とも云うべき「英雄」だった。
   ずっとこのままと云うことはないだろうが、このユニークネスは捨てがたい。将来
   の指揮者だ。来年からのマーラーチクルスを期待したい。
2. マーラー「交響曲第七番」 3/23
   シャイー/ライプチッヒ・ゲヴァントハウス
   どこかふらふらと飛んでゆきそうなこの交響曲だが、シャイーはしっかりと埒を
   あかせているところが素晴らしい。音色の素晴らしさは云うまでもないだろう。
3. コルンゴルト「死の都」 4/23
   ギズリング/ケール/ミラー/新国立劇場(フィンランド歌劇場制作)
   美しい歌がちりばめられたこのオペラの楽しさを余すところなく伝えた名公演だ。
   フィンランドの舞台をそのまま移植した演出だが、すでに発売されているDVD
   とほぼ同じ舞台を見られるというのもうれしい。DVDではフォークトが主人公を
   歌っていたが、この公演のキールも負けていない。
4. プッチーニ「蝶々夫人」
   4/24 二期会公演
   6/28 藤原歌劇団公演
   いずれも純国産に近い公演である。演出が両公演とも日本人で、舞台装置を含めて
   所作や動きに不自然さがなく、誠に安心して見ていられる公演だった。歌手たちの
   水準の高さも立派だ。先日聴いたキエフオペラの「トゥーランドット」の歌手たち
   より数段うまい。この上はさらに突き抜けた、私たち聴き手のハンカチをびしょ
   びしょにするくらいの歌唱を期待したい。
5. レオン・カヴァルロ「パリアッチ」 5/17
   パルンボ/グスターボ・ポルタ/新国立劇場
   久しぶりに素晴らしいカニオだった。ポルタは初めての歌手だが、おそらく新国立
   歌ったカニオのなかでは最高だろう。
6. ブラームス「ヴァイオリン協奏曲」 6/21
   ハーディング/ファウスト/新日本フィル
   2楽章の対話の様な音楽の素晴らしさ。両端楽章の生き生きとした音楽。この曲の
   素晴らしさを改めて教えてくれた演奏だ。
7. マーラー「交響曲第一番・巨人」 6/23
   ヤニク・ネゼ・セガン/フィラデルフィア
   セガンのマーラーは今まで聴いたことのない、悪く云えばはちゃめちゃな演奏だが
   これだけ聴いていて面白い「一番」はあまりないだろう。まさにやりたい放題だ。
   同じ日に演奏したモーツァルトもモダンオーケストラの良さを十分感じられるもの
   だ。4楽章の荒れ狂う様もすごい。しかしこの極上の響きは忘れがたい。
8. アファナシエフによるシューベルトプログラム 6/25
   ピアノソナタ第21番、3つの小品(D946)
   アファナシエフの茫洋としたシューベルトはいつも聴いている内田、最近聴いた
   ポリーニやバレンボイムとは全く違う世界だ。3つの小品の2曲目の流れの悪い
   演奏は不思議なことに大きな感動を私にもたらした。
9. オッフェンバック「ホフマン物語」 7/7
   大野/チョーフィ/カバルボ/アルバロ/リヨン国立歌劇場
   オペレッタ作曲家の作品と馬鹿にしていたが、カ―セン演出のパリオペラの公演
   を映像で見てから変わった。最後のアポテオーズはいつも感動する。リヨンの公演
   はカ―センほど面白い演出ではないがそれなりに説得力があった。チョーフィーの
   4役の熱演が錦上花を添えた。
10.モーツァルト「フィガロの結婚」 8/31
   ヴィッラ・ディ・ムジカ公演
   オール日本人による公演。第一生命ホールという小さなホールでのセミ演奏会形式
   による。眼前で飛び跳ねながら歌う歌手たちの生き生きとした姿が印象的。決して
   超一流の歌唱とは思わないが、これがオペラの楽しさの原点ではないかと思わせる
   様な演奏だ。
11.ヴェルディ「マクベス」 10/1
   METライブビューイング/ルイージ/ネトレプコ/ルチッチ/パーペ
   ネトレプコのマクベス夫人は今まで聴いたことのない新しい夫人像を作り上げた
   ように感じた。是非はあろうが私は大変興味深く聴いたし、感動的でもあった。
   ルイージの棒も素晴らしい。
12.ベートーベン「ミサ・ソレムニス」 10/3
   メッツマッハー/新日本フィル
   このコンビの成熟を感じさせる演奏。速いテンポでぐいぐい迫る音楽は圧倒的
   であった。
13.モンテヴェルディ「ポッペーアの戴冠」 10/16
   カヴィーナ/マメリ/ロトンディ/マイアー/ヴィターレ/ラ・ヴェクシアーナ
   歌手たちの素晴らしさは云うまでもないが、カヴィーナのチェンバロの統率のもと
   、ラ・ヴェクシアーナと歌手たちのハーモニーが素晴らしい。この団体による
   CDを聴いているが、ライブではCDより小編成なのに実にふんわりとした魅力的
   な音を出す。オペラシティの音の響きの素晴らしさを改めて感じた。日ごろ滅多に
   聴かないモンテヴェルディだが深い感銘を受けた。
14.ロジャー・ノリントン/N響によるシューベルトプログラム 10/25
   交響曲第七番「未完成」、交響曲第八番「グレイト」
   いずれの演奏もN響とノリントンとのコンビの成熟を感じさせるものだ。
   ヴィブラートを排した弦の響きもピュアで美しい。ノリントンの指揮も円熟と
   云ったら怒られるだろうが、ベートーベンで感じさせる、よく云えば破壊的な、
   悪く云えばちょっとやんちゃな音楽とは違い、部分的には伝統的な演奏の響きを
   感じさせた。青白く燃え上がったシューベルトのように思った。
15.ブラームス「ピアノ協奏曲第一番」 11/25
   ヤンソンス/ツィメルマン/バイエルン
   この演奏の2楽章の音の移ろいの素晴らしさは忘れがたい。身悶えするような前半
   から、夢を見るような音楽に変わってゆく様は深い感動を呼ぶ。これは今から
   思ってみると、若者の感情でもあるが、一方ではその様な感情を懐かしく、
   うらやましく思う、私の気持ちを大きく揺さぶる。
16.シューマン「交響曲第三番・ライン」 11/28
   カンブルラン/読響
   このコンビの最高の演奏。伝統的な重量感あふれるシューマンとは異なるが、
   速いテンポでぐいぐい迫るこの迫力には何ものも抗しえないだろう。ラトル/
   ベルリンのCDと同様、21世紀に生きる切れば血のでる、実にフレッシュな
   シューマンだ。同時に演奏された英雄も伝統的なベートーベンとは異なる
   新鮮な姿を聴かせてくれた。
17.ヤルヴィ/ドイツ・カンマーフィル・ブレーメンによるブラームスクロノロジー
   交響曲全曲、協奏曲全曲、悲劇的序曲、大学祝典序曲、
   ハイドンの主題による変奏曲
   12/10,11,13,14
   13,14両日の交響曲第三番、四番が特に素晴らしい。
   ヤルヴィと云う指揮者は私にはまだどういう指揮者かつかめない。原典主義とも
   思えるところは多々あるが、時には手あかにまみれたけれんみを感じさせる部分
   もあるから一筋縄ではいかない。この両面をうまく接合させた曲は成功している
   ように感じたが、そうでない一番や二番の交響曲は私には違和感があった。最近
   シャイーとティーレマンの全く対照的なブラームスの交響曲全曲をCDで聴いたが
   両者のスタンスの明確なこと、私の様な素人でもよくわかる。この2つのセットを
   聴いた後ヤルヴィを聴くとどうも彼の演奏のスタンスが私にはどっちつかずの
   よいとこどりの様に感じる部分もあって、この指揮者の素性が掴めないのである。
   そういう意味では過渡的な演奏ではないかと思う。しかし4日間で上記のブラーム
   スの管弦楽のからむ曲を一人の指揮者で聴いた体験は貴重なものであった。
   なお、協奏曲ではフォークトによるピアノ協奏曲2曲とテツラフ兄妹による
   ダブルコンチェルトは大いに楽しめた演奏だった。

 2015年は海外の公演も多くあるが、国内のオーケストラも指揮者の充実を期待できる。カンブルラン/読響、ノット/東響、大野/都響、メッツマッハー/新日本フィル、
そして、ヤルヴィ/N響である。特にノットは年末に指揮したマーラーやブルックナーに新鮮さを感じた。大いに期待したい。
                                     〆

2014年12月22日
於:サントリーホール(1階20列中央ブロック)

読売日本交響楽団、第577回サントリーホール名曲シリーズ
指揮:レオポルド・ハーガー
ソプラノ:アガ・ミコライ
メゾ・ソプラノ:林 美智子
テノール:村上敏明
バス:妻屋秀和
合唱:新国立劇場合唱団

本年最後のコンサートが第九と云うのも何か出来過ぎているか!以前は12/31に東京文化会館の小ホールでベートーベンの中期~後期の弦楽四重奏曲を聴いて、年を越すのだが、流石に9曲を続けて聴くのは、このごろはちょっとしんどくなったので、止めている。3日くらいに分割して演奏していただけると良いのだけれど!
 さて、流石に第九の集客力は凄い。私の席から見渡すとP席にわずかに空席が目立ったが、満席に近い。
 1年ぶりにこの曲を聴いて、やはりこれは凄い曲だなあと改めて感じた。1楽章~2楽章の男性的な、闘争心一杯の音楽にはいつも圧倒されるし、3楽章の慰めの、癒しの音楽にほろりとさせられ、4楽章の迫力に熱くさせられる。これだけの曲はそうざらにない。こうなるとわかっていて、こうなってしまうのだから、大した曲だ。
 ハーガーの指揮は一見何の変哲もないような音楽作りのようだ。1楽章の提示部は実に自然だ。余計なことは何もしていない。展開部も同様だが展開部~再現部への移行部分が唯一あらぶる音楽となっている。展開部のフーガも整然としている。
 2楽章はモルト・ヴィヴァーチェの指示だがあまり速くない。ここはメトロノーム重視派になったかのような演奏だ。中間のトリオの部分は超快速だ。
 3楽章は伝統型のように、繊細で美しく、まさに天上の音楽の様だ。4楽章も実に安定している。導入の部分は腰が座っている。合唱が入ると幾分テンポが上がるが、妙な小細工は全くないから全て安心して聴けるのが何よりである。ソロは皆素晴らしいが、男声二人の歌唱は邦人としては最高の部類だろう。アガ・ミコライはもう少しやれそうにも思ったがここぞというところでの瞬発力が凄い。コーダもフルトヴェングラーのようにはならず、よく云えば堂々と終わる。ここはもう少しプレスティッシモを強調しても良かったのでは、と思った。演奏時間63分は速い方だ。

 全曲聴いた印象は伝統的なスタイルをベースとした折衷型の様に感じた。伝統型でもフルトヴェングラーではなく、カラヤン風である。ただ先日のカンブルランの指揮したラインや英雄のように何か名状しがたいものに突き上げられるようなシーンには残念ながら遭遇しなかった。しかしこの名曲コンサートのもつ、安定した、上質の音楽を提供するという役割は、十分果たしたのではなかろうか?

2014年12月14日
於:東京オペラシティコンサートホール(1階18列中央ブロック)

ドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団・来日公演
指揮:パーヴォ・ヤルヴィ
ブラームス・シンフォニック・クロノロジー

ブラームス:悲劇的序曲
     :ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲
      (ヴァイオリン:クリスティアン・テツラフ
       チェロ:ターニャ・テツラフ)
     :交響曲第四番

このチクルスも最後になった。しり上がりに共感度が高くなってきたこのシリーズ。今日も昨日に引き続き芯の通った素晴らしい演奏会になった。こちらの耳も慣れてきたこともあるが、ヤルヴィの作る音楽が、私には次第に無理なく自然になってきたような気がする。時折顔をだす、表情付けや、音の変化の唐突さが後半の演奏会ではほとんど出て来ないか、わずかに出てきても気にならない。

 悲劇的序曲はきりりとしまった、非常にダイナミックレンジの広い演奏だ。レンジを広げる時に無理がないので、音の強弱や緩急の変化が実にスムーズに聴こえる。大げさな「悲劇的」な音楽でなくもう少し男性的な力強さすら感じる力演だった。演奏時間は13分弱。

 ヴァイオリンとチェロの二重協奏曲はブラームスの中でも私にとっては苦手の曲だが今日はなんでだろうか、非常にしっくりと耳に入ってくる。一つはテツラフ兄妹の呼吸の素晴らしさだろう。特にチェロのターニャ(カンマーフィルの首席チェロ奏者)は昨夜の二番のピアノ協奏曲の3楽章でも素晴らしい演奏を聴かせてくれたが、今日もそれに勝るとも劣らぬ見事な響きで大いに共感のできる演奏だった。ヴァイオリンも協奏曲よりもチェロのサポートのせいか幾分温かく聴こえた。2楽章の美しさは今日の演奏で初めて味わうことができた。ヤルヴィのサポートも非常にきめ細かくて、心配りの感じられる演奏だった。演奏時間は30分強。
 アンコールはコダーイのヴァイオリンとチェロのための二重奏曲、第3楽章。これも熱演だった。

 最後の交響曲も素晴らしい。これはヤルヴィの個性が充実した演奏だろう。ヤルヴィのやりたいことがよくわかる演奏だった。要するに伝統と新しいスタイルの融合がうまくはまったように感じた。特に両端楽章で強くそれを感じた。悲劇的序曲と同様、きりりとしまった、ダイナミックレンジの広い演奏で、実に男性的である。4楽章の変奏の後半の部分の熱気をもちながら徐々にテンポあげてゆく、その上げ方にまったく無理がない。しかしながらところどころ、表情が濃くなったり、オーケストラを煽るようなところがあるが、それは全て自然の発露であるように感じられた。
 ただ中間の2楽章は両端楽章のようにうまくいっていないように感じた。2楽章は特に徐々に音楽が沈潜してくるが、その沈潜の仕方が、アナログでなくデジタルに聴こえた。つまり段階的に音を落としてゆくその落とし方のグラデーションににわざとらしさが感じられた。3楽章は素晴らしい前進力は良いが、終盤でテンポをわざとらしく落とすのは、私には気になった。この部分は接合がうまくいってないのだろうか?演奏時間は39分。
 アンコールはブラームスのハンガリー舞曲第3番、第10番、シベリウスの悲しきワルツ。ただしこの3曲は次の予定の時間が迫っていたためパスした。


 この4日間非常に良い体験をさせていただいた。それはブラームスの管弦楽に絡む曲をほとんど聴くことができたことで、これからいろいろな演奏を聴く上で一つの指針的な演奏シリーズだったように思った。また最近聴いたシャイーの演奏のインパクトが強くて、ヤルヴィの演奏がどのような立ち位置にあるかが、前半2日ではよくつかめなかったが後半になって徐々にそれがわかるようになり、共感度が高まってきたのも良い鑑賞体験だった。
 ただこのヤルヴィ/カンマーフィルでのブラームスはベートーベンなどよりもしっくりきていないように感じた(ベートーベンはCDでの体験)。やはりブラームスのロマンの香りの濃厚な曲はウイーンフィルなどのもう少し大型の編成の、モダンオーケストラスタイルのほうが合うのではないかと云うことである。逆にこのコンビでモーツァルトやハイドンを演奏させたらどんなに素晴らしい演奏になるのか想像するだけでも楽しい。是非聴いてみたいと思う。ヤルヴィはN響の指揮者に就任するそうだが、N響の何も引かない、何も足さない式の音からいかなる演奏をひきだすのか大いに期待したいし、メッツマッハーが新日本フィルを鍛えなおしたように、N響に活を入れて欲しいものだ。

2014年12月13日
於:サントリーホール(1階17列中央ブロック)

東京交響楽団、第626回定期公演
指揮:ジョナサン・ノット

ワーグナー:ジークフリート牧歌
ブルックナー:交響曲第三番「ワーグナー」

サントリーホールについたのが開演5分前。初台と六本木とはけっこう離れているんだと再認識。
 ほぼ座ったとたんにジークフリート牧歌が鳴りだす。ドイツカンマーフィルの細身で薄手の音とは違った柔らかく滑らか音。これはこれで又実に良い。この心地よい響きにひたすら浸る。

 ブルックナーは1873年の初稿版(ノーヴァク版)。日ごろ聴いているカラヤン盤は1888/9年の第3稿なのでなんとなく違うが、まあこの曲はあまり聴きこんでいないので、細かくはわからない。
 2楽章が後年のブルックナーの名曲の緩徐楽章に勝るとも劣らない美しい音楽だと改めて感じた。2つのセットの主題がどれも美しく、3度現れるがそのたびにぞくぞくする美しさである。1楽章のスケールの大きな音楽も魅力だ。ただ屹立するゴシック建築のようには聴こえず、雪をかぶったアルプスの様な清楚な趣。超重量級のブルックナーではなく、明快かつ明晰でこれがノット流なのだろう。時には冷たくクールに感じるが今夜の演奏はこのスタイルで成功していると思った。終楽章はブルックナー休止の連発で信号の多い道路を走っている趣。ここは苦手な楽章だ。最後に1楽章の第1主題が帰ってきた時はほっとする。東響は先日のマーラーに引き続いて絶好調である。4楽章のコーダの凝集力に富んだ音には圧倒された。演奏時間は65分。

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